「2001年宇宙の旅」 [映画]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
1968年に製作されたSF映画の金字塔にして、
鬼才スタンリー・キューブリック監督の最高傑作、
「2001年宇宙の旅」です。
これは1968年の公開当時には、
その映像の当時としては信じられない完成度と高度な技術自体は、
画期的な映像表現として評価されたのですが、
その内容はあまりに難解とされ、
一部のSF作家やマニア以外には、
殆どまともな批評はなされませんでした。
宇宙から飛来したモノリスという謎の黒い物体が、
人間の進化の引き金を弾き、
猿を人間に、そして人間を超人類に進化させる、
という純粋SF的ドラマは、
当時の感覚ではとても一般には理解されなかったのです。
ただ、SF作家アーサー・C・クラークによる原作は、
内容は同じでももっと分かり易く平明なものです。
それをいささか意地の悪いキューブリックは、
徹底して台詞を減らし、
サイレント映画に近い技巧を駆使、
イメージ優先の大胆な省略や抽象化を取り入れて、
意図的に観客を煙に巻く映画作りをしたのです。
一例を挙げると、
この映画は人類誕生前、近未来の月面の出来事、
探査船ディスカバリー号におけるコンピューターの反乱、
宇宙の彼方への旅と新人類の誕生、
というオムニバスの年代記のような構成になっているのですが、
人類誕生前のパートは一切台詞やナレーションはない、
サイレント映画の趣向で、
そこから近未来のパートへの移行は、
猿が放り投げた骨が、
そのまま宇宙を航海する宇宙船に繋がるという、
「ジャンプショット」で処理されています。
これが公開当時には殆ど理解はされず、
「猿の話がどうして急に宇宙船になるの?」
と殆どの観客の煙を巻き、
多くの批評家も理解していなかったので、
内容には触れない意味不明の批評しかありませんでした。
僕はこの映画は高校生の時にリバイバルで観ました。
これは待望のリバイバルであったと思います。
劇場は京橋のテアトル東京です。
この映画は映像の前に「前奏曲」が付くんですね。
その時の上映では、
スクリーンに光りを当てただけで、
音楽のみを流していました。
それからおもむろにスクリーンが開くと、
「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れて、
太陽と月と地球が一直線に並ぶという、
絶妙の圧倒的ファーストカットがあって、
どうなるかと思うと次は原始時代のサイレント劇ですから、
何と言うか壮大な実験映画という趣きです。
その後も骨から宇宙船のジャンプショットに、
クラシックなワルツに乗せて、
宇宙旅行が描かれるという構想。
巨大な月基地のビジュアルと、
圧倒的な映像詩が続きます。
ドラマとして優れているのは、
後半のディスカバリー号の部分ですが、
一番の役者はコンピューターのHALというのも、
この破格な映画にふさわしい趣向です。
そしてクライマックスは宇宙のかなたへのトリップシーンで、
新人類の誕生を多くの記号で綴ったラストも、
その後多くの模倣を生みました。
好き嫌いはともかくとして、
歴史に残る映画であることは間違いがないですね。
キューブリックは天才と言われますが、
大したことのない映画も多いですよね。
何を描いても物凄くドライな描写で、
普通の人間ドラマでそれをやられると、
ちょっと持たないな、という感じになるのですが、
この映画はその徹底してドライな部分が素材にマッチしていて、
唯一無二の作品になったのだと思います。
普通の人間同士の対話やドラマなんて、
殆どないですもんね。
またよくこのクオリティで完成にこぎつけましたよね。
これはもう奇跡的な感じがします。
大作映画というのは勿論沢山ある訳ですが、
こういうオリジナルで完成形の予測が付かないような映画の場合、
往々にして途中で予算がなくなり頓挫したり、
逆に途方もなく予算オーバーして、
それでいて撮り切れていないとか、
現場でもめて何度もスタッフやキャストが交代するなど、
トラブルが続出することが多いからです。
その点この映画は、
お金も勿論掛かったと思いますが、
ほぼ完璧に全ての場面が撮り切れていて、
その点でも映画史に特筆するべき映画だと思います。
この映画は未来を舞台にしていて、
それも2001年と明記してしまっているでしょ。
こういう映画は本当に2001年になったら、
ゴミ箱行きではないかと昔は想像されていたんですよね。
「未来は1つしかない」という感覚が、
常識としてあったからなんですね。
でも、実際に2001年が過去になってしまっても、
この映画は観続けられていますし、
その価値が失われるということもないですよね。
これも映画史において画期的な出来事であったと思います。
今ではこういうことは全然言われないでしょ。
「並行世界」と言ってしまえばそれまでですね。
エヴァンゲリオンだって舞台は2015年とされていますが、
それを過ぎても全然平気ですよね。
何故平気かと言えば、
その始まりはこの映画にあった、
というように思います。
そんな訳で映画史に燦然と輝く、
金字塔のような映画であることは間違いがなく、
気力が充実している時に、
映画館の大画面で御覧頂ける機会があれば、
必見であることは間違いがありません。
これはテレビやモニターの小さい画面では、
ほぼほぼ作り手の意図通りのものは、
感じることの出来ない種類の映画であるからです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
1968年に製作されたSF映画の金字塔にして、
鬼才スタンリー・キューブリック監督の最高傑作、
「2001年宇宙の旅」です。
これは1968年の公開当時には、
その映像の当時としては信じられない完成度と高度な技術自体は、
画期的な映像表現として評価されたのですが、
その内容はあまりに難解とされ、
一部のSF作家やマニア以外には、
殆どまともな批評はなされませんでした。
宇宙から飛来したモノリスという謎の黒い物体が、
人間の進化の引き金を弾き、
猿を人間に、そして人間を超人類に進化させる、
という純粋SF的ドラマは、
当時の感覚ではとても一般には理解されなかったのです。
ただ、SF作家アーサー・C・クラークによる原作は、
内容は同じでももっと分かり易く平明なものです。
それをいささか意地の悪いキューブリックは、
徹底して台詞を減らし、
サイレント映画に近い技巧を駆使、
イメージ優先の大胆な省略や抽象化を取り入れて、
意図的に観客を煙に巻く映画作りをしたのです。
一例を挙げると、
この映画は人類誕生前、近未来の月面の出来事、
探査船ディスカバリー号におけるコンピューターの反乱、
宇宙の彼方への旅と新人類の誕生、
というオムニバスの年代記のような構成になっているのですが、
人類誕生前のパートは一切台詞やナレーションはない、
サイレント映画の趣向で、
そこから近未来のパートへの移行は、
猿が放り投げた骨が、
そのまま宇宙を航海する宇宙船に繋がるという、
「ジャンプショット」で処理されています。
これが公開当時には殆ど理解はされず、
「猿の話がどうして急に宇宙船になるの?」
と殆どの観客の煙を巻き、
多くの批評家も理解していなかったので、
内容には触れない意味不明の批評しかありませんでした。
僕はこの映画は高校生の時にリバイバルで観ました。
これは待望のリバイバルであったと思います。
劇場は京橋のテアトル東京です。
この映画は映像の前に「前奏曲」が付くんですね。
その時の上映では、
スクリーンに光りを当てただけで、
音楽のみを流していました。
それからおもむろにスクリーンが開くと、
「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れて、
太陽と月と地球が一直線に並ぶという、
絶妙の圧倒的ファーストカットがあって、
どうなるかと思うと次は原始時代のサイレント劇ですから、
何と言うか壮大な実験映画という趣きです。
その後も骨から宇宙船のジャンプショットに、
クラシックなワルツに乗せて、
宇宙旅行が描かれるという構想。
巨大な月基地のビジュアルと、
圧倒的な映像詩が続きます。
ドラマとして優れているのは、
後半のディスカバリー号の部分ですが、
一番の役者はコンピューターのHALというのも、
この破格な映画にふさわしい趣向です。
そしてクライマックスは宇宙のかなたへのトリップシーンで、
新人類の誕生を多くの記号で綴ったラストも、
その後多くの模倣を生みました。
好き嫌いはともかくとして、
歴史に残る映画であることは間違いがないですね。
キューブリックは天才と言われますが、
大したことのない映画も多いですよね。
何を描いても物凄くドライな描写で、
普通の人間ドラマでそれをやられると、
ちょっと持たないな、という感じになるのですが、
この映画はその徹底してドライな部分が素材にマッチしていて、
唯一無二の作品になったのだと思います。
普通の人間同士の対話やドラマなんて、
殆どないですもんね。
またよくこのクオリティで完成にこぎつけましたよね。
これはもう奇跡的な感じがします。
大作映画というのは勿論沢山ある訳ですが、
こういうオリジナルで完成形の予測が付かないような映画の場合、
往々にして途中で予算がなくなり頓挫したり、
逆に途方もなく予算オーバーして、
それでいて撮り切れていないとか、
現場でもめて何度もスタッフやキャストが交代するなど、
トラブルが続出することが多いからです。
その点この映画は、
お金も勿論掛かったと思いますが、
ほぼ完璧に全ての場面が撮り切れていて、
その点でも映画史に特筆するべき映画だと思います。
この映画は未来を舞台にしていて、
それも2001年と明記してしまっているでしょ。
こういう映画は本当に2001年になったら、
ゴミ箱行きではないかと昔は想像されていたんですよね。
「未来は1つしかない」という感覚が、
常識としてあったからなんですね。
でも、実際に2001年が過去になってしまっても、
この映画は観続けられていますし、
その価値が失われるということもないですよね。
これも映画史において画期的な出来事であったと思います。
今ではこういうことは全然言われないでしょ。
「並行世界」と言ってしまえばそれまでですね。
エヴァンゲリオンだって舞台は2015年とされていますが、
それを過ぎても全然平気ですよね。
何故平気かと言えば、
その始まりはこの映画にあった、
というように思います。
そんな訳で映画史に燦然と輝く、
金字塔のような映画であることは間違いがなく、
気力が充実している時に、
映画館の大画面で御覧頂ける機会があれば、
必見であることは間違いがありません。
これはテレビやモニターの小さい画面では、
ほぼほぼ作り手の意図通りのものは、
感じることの出来ない種類の映画であるからです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。