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「季節のない街」あれこれ [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は祝日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
季節のない街.jpg
山本周五郎氏の連絡短編の傑作「季節のない街」が、
現代版の配信ドラマとして、
ディズニープラスで配信されています。
宮藤官九郎さんの脚本と演出です。

この原作は黒澤明監督が、
「どですかでん」として映画化していて、
今回のクドカンのドラマ版も、
映画版をかなり意識している部分があります。

原作は架空の街に住む個性的な住民の生活スケッチを、
ある時はほのぼのと、
ある時は冷酷無比な残酷さで、
人生そのものを切り取るように描いた作品ですが、
個人的には「親おもい」と「がんもどき」が全編の白眉で、
クドカンの今回のドラマはその両方を映像化していますが、
「どですかでん」は「がんもどき」は描いていますが、
「親おもい」はカットしています。
一方で「どですかでん」で印象的な「枯れた木」は、
クドカンのドラマからは除外されています。

「どですかでん」は黒澤監督としては失敗作で、
原作の陰々滅滅とした部分だけが強調され、
わざわざ有名な喜劇人を複数起用しているにも関わらず、
軽快さや笑いの要素は殆どありません。
結果として監督の遺作となった「まあだだよ」に、
かなり似通った感じの雰囲気で、
稚拙な現代絵画のような色彩と美術も、
人間ドラマのリアルさを、
台無しにしているような感じがします。

クドカンの作劇は、
かつての「池袋ウエストゲートパーク」と同じように、
元の短編のテーマを、
主要なキャストに割り振り、
その内容を再現しながら、
人間ドラマとしては原作には描かれていない、
その続きを創作する、
という手法を取っています。

原作の「親おもい」と「がんもどき」は、
矢張り非常に重きが置かれていて、
「親おもい」は仲野太賀さんの物語として、
「がんもどき」は渡辺大知さんの物語として、
再構築された上で、
いずれもその後の経過までがドラマ化されています。
それが単なる蛇足にはなっていないのが、
クドカンのドラマの魅力です。

ただ、全体のドラマの構成としては、
仮設住宅からの立ち退き問題がクローズアップされると、
そのギリギリでのひと暴れがあり、
結局何も変わらないまま終わってしまうというのは、
如何にも予定調和的で、
安易に流れた感じは否めません。
ラストにはもう一工夫欲しかったな、
というのが正直な感想でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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遠ざかって見る、ということ [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は8月15日でクリニックはお盆の休診です。

明日16日からは通常通りの診療に戻ります。

今日は雑談的な話です。

①夕日観音
夕日観音は奈良の柳生街道滝坂道という古道にある石仏です。

僕はこの石仏を偏愛していて、
定期的に訪問してはお逢いしていたのですが、
一度転んで手首を骨折してから少し遠ざかり、
少しして再会はしたのですが、
ここ数年はコロナでまた行く機会は減り、
その後大雨で柳生街道の一部が崩れたりもして、
果たしていつまで石仏がそのままの姿で残っているのだろうかと、
不安にも感じながら、
時々夢に登場するその姿を、
懐かしく思いつつ日々を過ごしていました。

かなり前に撮ったものですが、
そのお姿がこちらです。
夕日観音.jpg

通称仏像岩と呼ばれる岩盤が街道に面していまして、
そのかなり上の方にいらっしゃるのですね。
遠くに目を凝らすと街道からは幽かに見えると言う感じで、
この写真を撮るには、
かなり岩盤をよじ登らないといけないのです。

それが最近では、
大雨などの影響で落石注意のシートが掛けられ、
もう近づけない状態となっています。

先日久しぶりに柳生街道をここまで登りまして、
そのお姿を遠くに見上げました。

以前でしたら、
無理矢理でも岩盤をよじ登って、
仏様の前まで行かないと納得出来ない、
そうしないとお会いしたことにはならない、
という気分であったのですが、
その時は体力的にもきついということもあったのですが、
ああ、こうして遠くから眺めやるのが、
おそらく本来の姿なのだな、
という思いが強くて、
そのまま「遠見」のみでその場を後にしました。

何度も遠ざかりながら、
背後に目をやると、
すぐに仏様の姿は視界から消えるのですが、
その刹那に、
「あれっ?」と思うような瞬間、
何か大切なものを見落としたような思いに、
後ろ髪をひかれるようなところもあるのです。

②遠見ということ
昔は近くで見たかったんですね。
何でも近くで見ることが重要であるように感じていました。

コンサートや演劇もかぶりつきで観たい、聴きたい、
という思いが強くで、
それでないと納得が行かなかったのです。

小学生の時に「ファーブル昆虫記」を買ってもらって、
当時の子供の常で一時期は昆虫に夢中になりました。
土の上や岩の下に目を凝らして、
小さな蟻やその他の虫の姿を、
ともかく近くで近くで見ることが意味のあることのように、
何かをクローズアップして、
そこに焦点を合わせることが重要であるように感じていました。

でもそれが可能なのは若いからですよね。

年を取ると矢張り最初に駄目になるのは目で、
目を凝らしても近くは見えず、
虫の世界を見ることは難しくなりました。

ああ、この世界にはもう入れないのだと、
人生の大切な能力をもう失ってしまったんだと、
気が付いた時には愕然としました。

演劇もコンサートも、
かぶりつきで観ても今は遠いという感じなんですね。
もっと近づきたいのだけれど近づけない感じ、
視力が落ちるとともに視野が狭くなってくるんですね。
前はもっと世界は広がりを持って見えていた筈なのに、
いつの間にか、
世界はシュルシュルと縮んてしまっていたのです。

そうなると、
もう近くを見ることを捨てないといけないのかも知れません。

最近ふとそんなことを考えるようになりました。

石仏や仏像も、
以前ならなるべく近づいて見なければ納得がいかなかったのですが、
今は輪郭が少しぼやけるくらいの距離感の方が、
今の僕にとっては相応しいのではないか、
そうした時期に来ているのではないかと感じるようになったのです。

そうしてみると、
また世界は別の見え方をして来るような気がします。

何処までも近く深くクリアなものを求める世界から、
もっと曖昧で俯瞰的で静かな世界へ。

③時間を遠ざかるということ
年を取るにつれ、
近付くことより遠ざかることの方が自然に思えるのは、
それが一方向性の時の流れに、
合致しているからかも知れません。

そう、遠ざかる距離というのは空間的なものであると同時に、
時間的なものでもあるのです。

僕達は常に、
誰かから遠ざかり続けています。

それに気が付くのは、
矢張り年齢を重ねたからかも知れません。

僕は今あなたの目の前にいて、
そこからゆっくりと遠ざかって行く。
少しずつ少しずつ遠ざかって行くと、
いずれはもう彼方にいるあなたを、
僕の視力は捉えることが出来なくなる。

その瞬間、
僕の視野からはあなたは消えることになるのだけれど、
勿論その瞬間からあなたは存在しなくなる訳ではなくて、
僕の現実を捉える感覚が、
そこで限界を超えたということなのです。

この瞬間を僕は大事にしようと思うようになりました。

視覚という感覚の限界があなたを見失う瞬間、
あなたの存在を確認するのは、
「あなたはそこにいる」という思いだけになります。

見えないものを見ようとする、それが遠見なのです。

④遠くへもっと遠くへ
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は、
形が朧にしか見えない闇の中に、
真の美を見出すという話で、
これは寺山修司の完全暗転にも繋がっているのですが、
視覚を奪う要素は闇以外にもあって、
それが距離なのです。
距離は闇と同じように視覚の限界を示し、
その彼方に見えないものを見せようとするのです。

時間が一方向にしか流れて行かない限り、
人生は全てを彼方に去らせて行くのですが、
それに抗う訳ではなく、
彼方に去るものに目を凝らして、
それが消え去る刹那に、
見えない何かを見たいと思います。

今日は雑談でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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感染症と差別についての一考察 [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は事務作業などの予定です。
夜は勿論RT-PCR検査の結果説明が待っています。

今週かなりつらいことがありました。

クリニックでは現在1階で通常診療を、
2階でトリアージの上発熱外来と、
RT-PCR検査など、
感染リスクのある検査を、
防護衣などで感染防御の上行なっています。

両者の患者さんが一緒になることがないように、
入り口のところでトリアージを行ない、
発熱以外にも頭痛や咽頭痛など、
感染症を疑わせる症状があった場合には、
取り敢えず外で待って頂き、
2階にご案内するような方針をとっています。

基本的には感染を疑わせる症状のある場合には、
いきなりクリニックに受診するのではなく、
まず電話で連絡をして頂き、
お時間を決めて2階にご案内するようにしています。
2階は原則は完全予約制としているのです。

ただ、実際には風邪症状で予約なく、
クリニックを訪れる患者さんは後を絶たないのが実際です。

オミクロン株の流行以前であれば、
37.5度以上の発熱というのを、
トリアージの1つの指標としてそう間違いのないところでしたが、
最近の傾向としては、
昨日急に熱が出たけれど今は症状がなくて平熱、
というような人が、
意外に感染しているというケースが多く、
そうした人は「今日は無症状だから大丈夫」
というような言い方で、
スルリと1階に入って来てしまうことがあるから大変です。

今週のある日の午後5時過ぎですが、
以前からクリニックを利用している、
外国人の一家(父親と子供2人)が、
クリニックを訪れました。

そのお父さんは以前から結構短気な性格の方なのですが、
自動ドアが開いた瞬間に、
看護師が「どうされましたか?」とお聞きすると、
「ちょっと頭痛がして身体がだるい」という返答でした。
日本での滞在は長く、
基本的に日本語は堪能な一家です。

それで看護師は、
「それじゃ入っては駄目です。外でお待ちください」
とそのお父さんを(言葉で)外に押し返しました。

するとお父さんはムッとして、
「おかしいじゃないか、他に何人も何も言わずに中に入ってるだろ」
と言い返しました。

確かにお父さんの目の前を1人の患者さんが、
すり抜けるようにしてクリニックの中に入りました。
ただ、その人は数日前にした血液検査の結果説明での受診で、
そのことは受付の事務も看護師も、
予め把握していたので通したのでした。

しかし、お父さんの怒りは収まりません。
「俺だけを外で待たせるのか、それは俺が外国人だからか!」
と言い募ります。
「そんなことはありません。
勿論すぐに拝見しますが、
風邪症状の疑われる方は少し外で待って頂いているだけなのです」
と説明しましたが、駄目でした。
押し問答の末、
最後には一緒に来ていた小学生の娘さんが、
「帰ろうよ、差別されてるんだからしょうがないよ」
と言って、
一家は診察は受けずに去って行きました。

「差別」
これが差別!?

その言葉は、
クリニックのスタッフ全員に、
とても強いショックを与えました。

クリニックには毎日外国人の方が受診をされています。
出身も国籍も様々で、
個人的には僕自身もスタッフも、
日本人であるかないかなどということには、
全く何の隔てもなく診療をしていたつもりでした。
少なくとも意図的にそうした選別をしたことなど、
それはもう一度もないと断言出来ます。

それなのに、
ちょっとした誤解から、
その家族は僕達を、
外国人であることから差別をしている、
というように理解したのでした。

ここから、僕達は幾つかのことを考えました。

まず、第一に考えたことは、
「差別」は簡単になくなることはないな、
という肌で感じた絶望のようなものです。

その家族との付き合いはかなり長く、
5年以上はあったのです。
その間そうしたトラブルは一度たりともありませんでした。
それで僕達としては、
自分達が決して差別意識などは持っていない、
ということを、
相手も理解しているだろうと、
ちょっと牧歌的な考えを心に持っていました。
しかし、実際にはそうではなくて、
その家族は僕達にも差別意識はあって、
それを隠しながら、表面的にはそれがないかのように、
振舞っているだけだと感じていたのです。
いや、今もそう思っているとは考えたくないのですが、
そのトリアージの瞬間には、
看護師がお父さんを(言葉で)押し返したその瞬間には、
家族はそのように直感的に感じたのだと思うのです。

つまり、差別は、
差別的な行為が実際に行われた時にも感じられるけれど、
実際にはそうでなくても、
受け止めた側にそうした意識が生まれた瞬間にも、
感じられてしまうことがある、
という厄介な代物なのです。

それでは何故そうした気持ちを、
その外国人の家族は持ったのでしょうか?

それはおそらく、
トリアージの行為の中には、
外国人に対する差別ではなく、
感染者に対する差別の意識が、
存在はしていたからだと思います。

これが僕達の考えたことの2点目です。

すなわち、新型コロナウイルス感染症の流行期における、
感染者の差別、という問題です。

トリアージは差別なのです。
ただ、感染流行期には社会的に止むを得ない差別です。

クリニックに来た患者さんを選別し、
感染というその時点では推測に過ぎない状態を疑い、
それに沿って疑った患者さんの、
自由を奪うような行為に至るからです。

昔大学の時にイリイチという学者にかぶれている人がいて、
そうした思想に近づきになったこともありました。
学校と病院と監獄は同じ構造を持っている、
中にいる人は必ず監視され選別され、
自由を奪われる、というような考え方です。

それは一理あるのですが、
勿論そうせざるを得ない理由というものもある訳です。

医療機関の場合は、
こうした感染症流行の時期においては、
患者さんへの感染拡大を抑えることが、
全てに優先される事項となる訳です。
そのためには、
少しでも疑いのある患者さんを選別する、
言い換えれば差別する必要が生じるのです。

それは仕方のないことですが、
差別された当人にとっては、
時に理不尽で自分という存在を傷つけられたように、
感じることもまた当然ではあると思います。

僕達にはそのことに対する理解が不足していました。

当日は予約をして来院される感染疑いの患者さんも多く、
その合間に、
発熱しているのにクリニックにそのまま入ろうとするような、
フリーの患者さんも多く来院されました。

中には90代のおばあちゃんが、
激しい咳込みをして車椅子で家族と一緒に、
予約なしに受診をされ、
外で待ってもらうのは寒くて無理だし、
車椅子でクリニックのビルにはエレベーターがないので、
2階に上がることも無理、
かと言って帰ってもらうことも忍びないし、
家が遠いので出直してもらうことも出来ない、
というような不可能と思えるような事案もありました。
結局、処置室に一旦隔離して、
窓を開け放って迅速に検査を行ない、
待合室を最短時間で通り抜けて帰って頂きましたが、
そんなことが続けばスタッフも疲弊しますし、
「人を見れば何とやら」と言うのか、
誰でも感染者のように見えてしまい、
外へと押し返す言葉にも、
ややエキセントリックな感じ、
差別的な感じが強くなっていることは否めませんでした。

つまり、僕達は知らず知らずに、
少し冷静さを失っていて、
その感情が相手にも伝わったので、
それが「差別」として認識されたのではないか、
というように理解したのです。

多分同じようなことをスタッフの皆が感じたのだと思います。
特別ミーティングなどはしなかったのですが、
翌日の患者さん対応は、
少しだけそうした刺々しさが、
減っていたように僕には感じられました。
外で待ってもらって申し訳ない、
不自由な思いをさせて申し訳ない、
というような思いが、
言外に感じられるだけでも、
手前味噌かも知れませんが、
患者さんのイライラも、
少しは軽減されたように感じました。

その外国人の一家は、
多分もう二度とクリニックを受診することはないと思いますが、
こうしたことを繰り返さないように、
まずは気を引き締めて、
患者さん1人1人の対応には当たろうとは思っています。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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劇場の規制退場あれこれ [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診ですが、
新型コロナワクチン集団接種のお手伝いで都内を廻る予定です。

今日は雑談です。

最近の演劇では終演後に規制退場と言って、
出口などが密な状態にならないように、
主に後方からブロックを決めて、
段階的に退場して頂くような方法をとっています。

新型コロナの感染対策の一環ですね。

これはコンサート会場や大規模なイベント会場、
概ね収容人数5000人以上のところでは、
退場時の混乱を避けるような意味合いで、
以前から行われていました。
そうした大規模会場で自由に退場を認めると、
出口に群衆が殺到して、
大混乱になったり、
圧し潰されて事故に繋がる危険があるからです。

ただ、特に収容人数が1000人以下のような、
所謂「中劇場」クラスでは、
これまでは自由退場が原則でしたし、
3000人クラスの演劇などとしては大規模な劇場でも、
規制退場をすることは稀でした。

ただ、勿論1人1人には個々の事情がありますし、
早く帰りたい、この場所から早く出たい、というのも、
ある種本能的な気分でもありますから、
規制退場と言われても、
「そんなの知ったことか、俺様は急いでいるのだ!」
という感じで場内のアナウンスを無視して、
出て行く人がいるのもいつもの風景です。

それでも最近は、かなり規制退場が浸透して来ましたし、
観客の多くもそれを当然と感じるようになって来たので、
我先にと飛び出すような行為は、
「ちょっとみっともないな」というような印象になり、
大多数の観客はそれに従うようになりました。

ただ、そうでないこともあります。

最近とても驚いたのは、
NODA・MAPを上演していた東京芸術劇場中劇場のケースで、
昨日お話しましたように、
お芝居は大変に素晴らしくて、
全ての演劇ファン必見と言って、
言い過ぎではないものでした。
最後にスタンディングオベーションになって、
それも無理矢理感のない、
「これはそうだよね、スタンディングしたいよね」
と素直に思えるようなものであったので、
とても良い気分で退場しよう、という感じであったのですが、
規制退場を行ないます、というアナウンスがあったにも関わらず、
1階の主に中央部の観客がそれを無視して一斉に出口に殺到し、
ぐちょぐちょでごちゃごちゃな、
所謂「密」の状態が発生したのです。
僕と妻はサイドの席にいて、
そこは当初の規制退場のプランであれば、
最初に退場するエリアであったのですが、
そのまま呆然としばらく状況を見ているしかありませんでした。

会場の係員の皆さんも、
最初は抵抗する素振りもありましたが、
おそらくこれは「いつものこと」であったのでしょう。
すぐにあきらめてしまって、
おとなしく座っている僕達に対しても、
「自由にご退席して下さい」
と頭を下げられたのです。

規制退場が崩壊した瞬間でした。

その時は規制退場を守らない人達のことを、
じっくりと観察することが出来たのですが、
比較的無表情のおじさん、おばさんが多くて、
若い方はあまりいませんでした。

その表情の感じは、
こちらが右折を待っていて、
もう向こうは赤信号で右折マークが点灯したのに、
直進して来る車の運転手の顔に瓜二つで、
ある自己中心的な決断、もしくは衝動によって、
規則を意図的に無視した行動をしたのだけれど、
もう自分はこの道を行くしかなく、
周囲の視線や自分の行為によって迷惑を蒙る他人の視線は、
無視するしかない、という決意のようなものを、
漲らせているのでした。

その一方でそうした自覚のある無表情の周囲には、
「なんだか分からないけれど、
周りの人が退場しているので、
これは自分も同じ行動をとる方が良さそうだ」
という程度の感じであったり、
殆ど行為に繋がる意識的な脳の働きもなく、
無意識的な行為として、
それに従うように行動している一連の人々の姿もありました。

こうした現象が起こった裏には、
スタンディングオベーションもおそらくは影響していて、
立ち上がって拍手をすると、
もう一度座って退場を待つよりも、
そのまま歩いて退場する方が、
無駄のない自然な動きになりますから、
特に無意識的な群衆とも言える人々にとっては、
それがこうした行動の後押しになった、
というようにも感じました。

確かに規制退場を無視した方が、
すぐに家に帰れて得をするように思えるのですが、
僕も何度も規制退場の現場に遭遇して思うことは、
それは確かにあなた1人だけがそう思っていて、
100人のうち、あなた1人だけが賢くて、
最初に劇場から出て行けるというシミュレーションであれば、
成立するのですが、
通常そうしたことはなくて、
100人のうち既に20人くらいはそうした行動をしようと待ち構えていて、
その20人が動くと、
50人くらいは無意識的にそれに反応して同じ動きをしますから、
少ない出口に結果として、
70人が殺到することになり、
それは結果としてあなたの退場が、
より遅くなるという危険を孕んでいることは間違いがないのです。

こういう光景を見ていると、
人間が群衆になる瞬間というのか、
無意識に動く1つの大きな生き物になって、
個々の人間であることを捨て去る瞬間というものを、
体感してちょっと慄然とする気分になります。

だからこそ人間は集団でリンチもするし、
いじめもするし、
レミングよろしく、後先も考えず、
ひたすら海に向かって行進して、
死ぬ気もなくむしろ生きようとする気満々なのに、
揃って海に入って溺れてしまう生物なのだな、
ということを実感するのです。

僕がこの光景を印象的に感じたのは、
それまで舞台で演じられていたお芝居が、
非常に感動的に命の尊さや人間の心の美しさを、
謳い上げるようなものであったからで、
それを観て、多くの人が泣いて、
スタンディングオベーションをして、
それから次の瞬間にスタッフの抑止を無視して、
出口に殺到するという行為に至るという、
人間というものの奇怪さに、
そのコントラストに、
とてもショックを受けたからなのです。

最後に規制退場をする側の、
以前出会ったちょっとユニークな試みをご紹介しておきます。

お芝居が終わってアナウンスが流れたのですが、
「これから規制退場をお願いします」と言った後で、
「特別お急ぎの事情のない方は、そのまましばらくお席でお待ちください」
と言ったのです。

その後の規制退場はとてもスムースでしたし、
「特別急いでいて」
無視するような人はいませんでした。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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「くすりの始め方・やめ方」と「薬の上手な出し方&やめ方」 [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は午前午後ともいつも通りの診療になります。

昨日新型コロナのワクチンの1回目接種だったのですが、
結構痛いですね。
それから昨日の夜から具合は悪いです。
熱はないのですが、
だるさがひどくて、
一回横になると、
とても起き上がるのが辛い、という感じ、
まあこんなものなのかも知れません。

今日は身辺雑記なのですが、
最近酷いな、と思ったことをお話します。

2016年に医学関連の本を出したんです。
こちらです。
くすりのはじめ方.jpg
これね、ライフワークの1つと思って、
結構頑張って書いた本なんですね。

当初の僕の企画は、
「くすりの止め方」だったのですが、
出版社の方で「止め方」だけではバランスが悪いということで、
はじめ方とやめ方をセットにして、
それぞれの病気について2つの項目を記述する、
という形式にしたんですね。

この企画の時点で、
「薬の使い方」みたいな本は山のようにありましたが、
「薬の止め方」についてのまとまった本は、
1つもなかったんですね。

それは当時検索もしましたし、
「この薬を飲んだらいけない」というような、
煽るような本はあっても、
「始めた薬をどのように止めるか」
という理論と技術も含めた科学的な本というのは、
殆どなかったことは間違いがありません。

その意味ではパイオニア的著作という自負はあるのです。
結構良い本だとは今でも思うのですが、
あまり売れませんでした。

この本、別に自費出版ではないのですが、
印税は一切もらっていないんですね。
1円も振り込まれたことがありません。
ただでいいですよ、と言ったつもりはないのですが、
どうしてなのかしら。

何かの手違いなのかも知れませんが、
正直全く分かりません。
売れない本になってしまったので、
申し訳ないなあ、という気分が強くて、
まあ、お金を払わなかっただけいいかな、
というくらいに思って、
そのままにしてしまっています。
出版後特に連絡の来ることもありません。

それはともかく…

この本が出た後に、
有名な地域医療の先生が、
「薬の上手な止め方」みたいな本を、
何度か出しているんですね。

酷いな、パクリじゃん、と思ったのと、
こうなるならやっぱり「薬の止め方」単独の方が、
インパクトがあったのではないかしら、
とそんな風にも思いました。

そんなこんなで本のことも忘れていたのですが、
Amazonから5月9日にメールが来ていて、
僕にお勧めの本として、
「薬の上手な出し方&やめ方」というものを紹介されました。

その画像がこちらです。
くすりのパクり本.jpg
これは2020年3月31日発売の本なんですね。
医学書院ですから大手の医学系出版社からの発売です。

どう思われますかね。

これ、間違いなく僕の本を見ていますよね。
パクリですよね。
表題のバランスとか同じでしょ。
パクリという自覚があるので、
「上手な」とかわざわざ語呂の悪い修飾語を入れたり、
漢字とひらがなをオリジナルと変えているでしょ。

これだけだと、
ただ似ているだけと思われるかも知れませんので、
本文を見てみます。

まずオリジナルから…
コレステロールの止め方.jpg
これはコレステロール降下薬のやめ方についてのページです。

それではこちらをご覧ください。
点眼薬の辞め時.jpg
これはパクリ本の点眼のやめ方のぺージです。

医学書というのは、
まあ大体パターンは決まっているのですが、
それにしても、
ここまで構成が同じというのは、
ちょっと酷いのではないでしょうか?

でもこれは訴えても多分駄目ですよね。
構成は明らかにパクっていると思うのですが、
パクリ本の方は共同執筆で、
ケースのカンファランスみたいなものもあるので、
全く同じということではないので、
「お前の本など参考にしたつもりはない」
と言われればそれまでなのですが、
出版というのは嫌な部分があるのね、
ということは、
根っからの本好きではあるのですが、
切なく思う今日この頃です。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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極私的新型コロナウイルス感染症情報(2020年7月26日) [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。
雨も降っていますし、
妻は外出しました。
今日は1人でステイホームの予定です。

それでは今日の話題です。

今日は新型コロナウイルス感染症の、
クリニック周辺での状況を踏まえたあれこれです。

このところ唾液のPCRでの振り分けを行なっているので、
今の感染状況の実際が見えてくるという部分があります。

患者さんは矢張り現時点では20代から30代が多く、
症状は初発は急な発熱と関節痛や倦怠感が多いという印象です。
鼻水や咳はあまりありません。咽頭痛もありません。
それから数日して嗅覚障害と味覚障害です。
勿論全例で出ているということではありませんが、
嗅覚障害と味覚障害は矢張りこの病気の大きな特徴で、
鼻閉などがないのに、
ある日急に臭いや味を感じなくなったら、
高い確率でこの病気を疑います。

これは僕だけが言っていることではなく、
症状のみから新型コロナウイルス感染症の診断をしようという、
診断ツールを検証している論文でも、
最も診断オッズ比の高い症候として、
嗅覚障害と味覚障害を挙げています。

これはある日急に感じなくなるということと、
一部の臭いや味だけではなく、
ほぼ全ての臭いや味を感じなくなる、
という点がポイントです。

こうした症状があった場合には、
それだけでPCR検査に進んで良いものと、
個人的には考えます。

これは実際の事例ですが、
最初に発熱が1日のみあって、翌日には平熱になり、
その2日後に嗅覚障害と味覚障害が出現した20代の女性がいました。
近医を受診したところ、
その時点では経過をみてよいと漢方のみが処方されましたが、
症状が改善しないため相談電話を介して、
クリニックに連絡がありました。
結果は陽性で新型コロナウイルス感染症と診断しています。
結果として症状出現後9日が既に経過しており、
唾液のPCRの施行としてはギリギリのタイミングでした。

こうしたケースはもっと早期の検査が望まれると考えます。

一方で今咽頭痛と発熱があって、
同時に鼻水は鼻閉もあり、
その後痰がらみの咳が出るというような経過の、
急性上気道炎症候群に関しては、
ほぼ症状のみで新型コロナウイルス感染症ではないと、
経験的には思われます。
特に咽頭所見において、
扁桃炎の所見が明らかである場合には、
ほぼそれだけで新型コロナウイルス感染症は否定されます。

ただ、これは今の時点で、
流行している上気道炎に限った話で、
また別の時期になれば判断は変わるという可能性があります。

6月に発熱が持続する患者さんで、
扁桃炎の所見があり、
抗菌剤を処方したものの経過が遷延するために、
新型コロナウイルス感染症診療の窓口の1つとなっている病院に、
ご紹介をしたのですが、
病院ではPCR検査はすることなく、
扁桃炎として診療を施行しました。

通常心配なのでPCR検査もして、
新型コロナウイルス感染のないことを確認したいところですが、
その病院の先生は新型コロナの患者を多数診察しているので、
経験的にその必要を認めなかったのだと思います。

僕も今では症状を1つの基準として、
すぐにPCR検査を行なうのか、
その可能性は低いとしてまずは経過をみるのかを、
考えるようにしています。

さて、クリニックでは新型コロナウイルスの診療自体は出来ないので、
PCR検査が陽性と判明した時点で、
患者さんには保健所からの連絡を待ってもらう、
という対応が通常です。

ただ、東京都の感染動向の資料を見て驚いたのですが、
入院患者が1000名強、宿泊療養が150名強(7月25日現在)であるのに対して、
自宅療養が400名強で、
入院療養調整中が1000名を超えています。

基本的には新型コロナウイルス感染症と診断されて、
症状のある患者さんについては、
入院もしくは宿泊療養が通常と理解していたのですが、
実際には入院もしくは医師看護師の観察下にある患者は、
陽性者の半数に満たないという現状であることが分かります。

僕が問題と考えるのは、
軽症の新型コロナウイルス感染症と診断され、
発生届が提出された患者さんが、
軽症と判断された場合には、
結果的に放置に近い状態となってしまい、
主治医もいない状態で自宅待機を強いられてしまう、
ということです。

医療的サポートなく多くの軽症患者さんが、
放置されてしまうような現状は、
好ましいものではないように思います。

今年の4月から5月くらいの時期には、
入院が必要でありながらベッドがなく、
自宅待機を長期強いられるというケースが問題となった訳ですが、
現状はそうではなく、
軽症ではありながら対応が決まらず結果として放置されている、
というような患者さんが多い、
という状況であるようです。

個人的にはもし自宅療養の方針なのであれば、
外来主治医が継続的に、
経過をみてゆくような態勢が望ましいように思いますが、
その線引きのようなものは、
現状は明確ではないようです。

今後はこうしたケースでは患者さんに現状を聞きつつ、
必要あれば連絡をしてもらうような態勢を、
取ってゆこうかと考えています。

今日は今思う新型コロナの現状についてのあれこれをお届けしました。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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小劇場演劇は死ぬのか? [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で午前午後とも須田医師が外来を担当する予定です。

それでは今日の話題です。

今日も身辺雑記的記事になります。

小劇場演劇は僕にとっては、
多くの娯楽の中でも最も愛していた世界で、
もし一度だけタイムスリップが可能であるとすれば、
状況劇場の「ベンガルの虎」の上野不忍池の初演を観る、
と決めているくらいです。
人生での一番の後悔は、
頑張れば行くことの出来た、
第七病棟の「ビニールの城」を東京で観なかったことです。

ただ、現時点でこの数年くらいの期間における、
小劇場演劇の将来については、
悲観的に思わざるを得ません。

小劇場演劇というのは、
狭い場所に観客は閉じ込められたり、
変な場所(野外を含む)に誘導したりして、
汚い恰好で唾を飛ばし合って熱演する役者を、
その唾が降りかかるような状態で、
ドキドキしながら観劇するという娯楽なのです。

それが小劇場演劇の王道であるのです。

勿論そうでない小劇場演劇というものも存在はしていましたし、
今も存在しています。

モニターだけが舞台に並んでいて、
役者が存在しない、という舞台もありました。
地図を片手に野外を散策して、
そこで当時多発的に起こる事件を楽しむ、
というようなタイプの演劇もありました。

ただ、そうしたものは敢くまで「変化球」であって、
小劇場演劇の王道とは言えません。

王道は密閉空間で、
非常に近接した肉体の表現を体験する、
という性質のものなのです。

これは言ってみれば三密の最たるもので、
カラオケボックスに不特定多数の人間を閉じ込めて、
密接した空間で大声で歌を歌う、
というような状況と酷似しています。
つまり、濃厚接触の最たるものであり、
飛沫感染のリスクが非常に高まるような状態です。

演劇の上演時間は、
平均すれば2時間くらい。
長いものは3時間以上ありますし、
短いものでもまあ、時に30分以内という、
意図的に短くしているものもありますが、
少なくとも15分以上同じ閉鎖空間で、
飛沫感染の生じやすいような状態が続くことは事実で、
仮にその中に新型コロナウイルス感染症の、
患者さんが紛れていれば、
感染のリスクが非常に高いものになることは、
ほぼ間違いのないことなのです。

現状様々な感染対策を行って、
小劇場の公演を再開する試みが行われています。

観客やキャスト、スタッフに検温をする、
体調不良かどうかの確認をする、
入場時に手指消毒を行ってもらう、
客席を間引いて1メートル以上の距離を保つ、
定期的な会場の換気を行う、
観客にはマスク着用を義務化する、
などです。

上演される舞台自体も、
パーテーションを置いたり、
役者同士がなるべく距離を取って、
向き合って会話を交わさないようにしたり、
フェイスシールドを使用したりと、
工夫が凝らされています。

これは確かに感染リスクを減らす、
という意味では一定の有効性のある対策です。

しかし、感染をなくすという対策ではありません。

これまでに報告された、
最も信頼のおけるデータにおいても、
マスクや人間同士の距離をとる(Physical distancing)の有効性は、
8割程度のリスク低下とされています。
有効ではあるけれど、
感染自体は起こっておかしくはないのです。

感染していないことを確認するための検査、
というようなものが存在していれば、
それを皆でやればいい、
ということになりますが、
実際にはそんな検査はありません。

PCR検査にしても抗原検査にしても、
感染を疑う状況や症状があった時に、
それを鑑別診断するための検査であって、
陰性であれば大丈夫、
という免罪符のような意味はありません。

今陰性であっても、
1時間後の検査では陽性、
ということが当然あり得る訳ですし、
感染が拡大しているような現状では、
検査をして陰性だから大丈夫、
と考えた人が感染を広げてしまうというリスクが、
充分に想定されるからです。

抗体検査は免疫の有無を鑑別出来るのでは、
と一時期待をされたのですが、
現状測定されている抗体にそこまでの役割はなく、
現行の抗体検査は混乱を招くだけの可能性が高いので、
少なくとも不特定多数に感染予防目的で行うことは、
意味がないというのが現時点での判断です。

つまり、
現状やれば安心、というような検査はないのです。
検査は基本的に新型コロナウイルス感染症の、
リスクが高いと想定されるときにするもので、
その診断を補足する役割を持つものであって、
単独で診断可能という性質のものではないのです。

そうなると、
この病気に感染するリスクの高いような環境には、
極力身を置かないことが適切な判断である、
という帰結になります。

クルーズ船やカラオケボックス、
老人施設や病院、バーやライブハウス、
屋内でのセミナーや集会などは、
そうしたリスクが明らかに高い状況です。

そして実際にそうした状況下では、
感染の広がりが非常に強くなることが、
これまでの事例から確認されています。
1人から10人に感染というような状況も、
出現しておかしくはありません。

そして、小劇場はもちろん、
こうしたリスクの高い環境と言って良いのです。

このうちで病院や老人施設は、
その社会的な必要性が高く、
リスクはあっても運営は継続する必要のある施設です。
そのために通常より厳密な感染予防策を取りながら運営がされ、
1人でも感染者が出た時点で、
その機能の一部もしくは全部を、
一定期間停止するという措置が取られます。
患者の捕捉も行いやすいという性質があります。

それでは、
小劇場で病院と同じような感染予防策が取れるでしょうか?

残念ながらそれは不可能ですし、
仮に可能であるとして、
そこはもう小劇場ではないと思います。

従って、
小劇場ではクラスターは必ず発生します。
今のような感染の広がりにおいては、
それは仕方のないことなのです。
防ぎようのないことなのです。

ここからは僕の独自の見解ですが、
現状小劇場は全て閉めるべきだと思います。

ただ、それは小劇場演劇がなくなる、
ということを意味しているものではありません。

演劇は、
一旦今の王道のありかたを、
捨てる必要があるのです。

三密の空間で楽しむのが小劇場演劇なのですから、
それが一旦なくなるのは仕方のないことなのです。

いつまで、と言うと、
感染がコントロールされるまでです。

有益なワクチンによる集団免疫の賦与は、
その1つのゴールではあります。
ただ、別にワクチンがなくてもスペイン風邪が沈静化したように、
こうした新規の病原体による感染は、
一定期間広がった上で、
徐々には沈静化するのがこれまでの歴史的事実です。
これも1つのゴールでより自然な解決ですが、
おそらく数年は掛かると想定されます。
人間の生活の仕方を抜本的に改め、
人間同士の生身の接触を避けて、
インターネットなどを駆使しつつ、
ある意味個々の小集団がロックダウンしつつ、
経済を回すことが可能であれば、
そうした「新しい生活」に移行するのも、
もう1つの選択肢です。
感染の初期から使用可能で、
感染リスクを著明に軽減しつつ、
病気の快復も促進するような治療薬が開発される、
というのも選択肢ではありますが、
現状その可能性は低いように思います。

冷静にこの状況を見れば、
大人数のカラオケやバー、ライブハウス、
小劇場や屋内のセミナーなどを、
「感染対策を徹底して持続する」という今の方針は、
そう言うしか仕方がないということは分かりますが、
現実的な解決策ではなく、
クラスターを予防出来る方策ではないと考えます。

一旦そうした環境は、
ストップするしかないのです。
現状の認識では、
それは少なくとも年単位になる可能性が高い、
というように思われます。

それでは小劇場演劇に将来はないのでしょうか?

そんなことはないと個人的には思います。

以下はやや夢想に近い僕の考えです。

まず可能性があるのは野外劇です。

そもそも明かりのない昔において、
演劇は戸外でやるものでした。

野外劇こそ演劇の母であり父であるのです。

新型コロナウイルスが野外で集団発生した、
というような事例はこれまでになく、
通常のマスクや手指消毒のような感染対策さえ怠らなければ、
野外劇はいつでも可能です。

無言劇というのも1つの方向性です。

この場合役者のみならず観客も、
劇場に入ったら一切の言葉を発することを許されません。
言葉というコミュニケーション手段が奪われた、
という仮定から始まるフィクションの豊穣さを、
楽しむような芝居はどうでしょうか?

感染リスクを限りなく減らすための、
これは1つの実験的な試みです。

役者を無機物で代用したり、
遠隔の画像の組み合わせで表現することは、
現状でも試みられている1つの解決策で、
リモート演劇というような趣向です。

ただ、演劇というのは生身の肉体がそこにある、
ということが不可欠な要素であると、
個人的にはそう考えているので、
モニター同士が対話するような演劇は、
それはもう映像メディアであって、
劇場や観劇空間とは馴染まないものであるように、
個人的には思います。
それは演劇ではないのです。

反体制的な部分や反社会的な部分は、
それが藝術という意匠を纏っている範囲においては、
小劇場演劇の魅力の1つでもあります。

以下はそのための少し不謹慎なアイデアです。

クラスターの発生した劇場を舞台として、
その原因を時間を遡るようにして検証するような、
そうした「演劇」を創作します。
舞台は全ての扉が開かれ、
ほぼ戸外と化した劇場です。

観客も距離を取ってその様子を見守りますが、
時間が遡るにつれ、
劇場は密閉空間に近づき、
ラストは感染リスクのない短時間のみ、
劇場という密室が再現された瞬間に終わります。

それは最初に色々な可能性が示されながら、
予想外の「最初の感染者」が、
舞台に登場した瞬間でもあるのです。

これは感染という現実の恐怖を、
観客の安全が担保されるギリギリを狙って再現するという、
少し不謹慎な企画です。

今上演するには問題がありますが、
少し感染が収束に向かった段階であれば、
上演の意義があるように夢想します。

その昔アングラの最盛期に、
寺山修司は「疫病流行記」という密室劇を創作して上演しました。

この作品は密室を更にカーテンで仕切るという趣向ですから、
勿論現在上演は不可能です。

ただ、今演劇として最も上演すべきテーマは、
「疫病流行記」であることは間違いがなく、
演劇に関わる全ての方は、
今上演するべき「疫病流行記」の可能性を、
今は夢想にせよ追い求めるべきではないでしょうか?

現実のウイルスが生み出す、
不安や恐怖の連鎖に、
真の意味で対抗出来る人間の武器は、
藝術の夢想の力であり、
それは現実に疫病を防ぐような力は持たないけれど、
その未来の水先案内人になるべきものではないでしょうか?

僕の大好きな演劇の、
今こそ底力を見せて下さい。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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PCR検査の混乱と感染の現在 [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

本日は祝日でクリニックは休診です。

今日は身辺雑記的な記事になります。

新型コロナウイルスの唾液のPCR検査が、
2週間くらい前には検体提出の翌日には結果が出ていたのですが、
ここ数日は遅れに遅れていて、
20日提出分については、
検査会社に何度も連絡を入れ、
お願いにお願いを重ねて、
ようやく22日の午後4時半にファックスが届きました。

詳細は言えませんが、
結果を受けてまた患者さんに来て頂いて説明したり、
あれやこれやがあり、
保健所とも何度も連絡を取って、
昨日午後は休診だったのですが、
事前の予定はほぼ全てつぶれました。

その間に品川区のPCRセンターがパンク状態で、
昨日の時点で次に検査の出来るのが27日ということになり、
依頼がこちらに廻って来て、
25日に数件の検査を受託しました。

25日に検査をしても、
現状の外注検査会社の混乱ぶりを見ると、
検査結果がいつ出るのか定かではありません。

その説明はしたのですが、
それでもまだこちらの方が早そう、
ということで検査は行う方針となりました。

21日に検査をした方が仮に陽性であると、
職場のクラスターになる可能性があり、
早く結果が欲しいのですが、
これもいつ結果が来るのか定かではありません。
これからクリニックに行って確認をする予定です。

埼玉の方に救急専門の有床クリニックがあって、
PCR検査を積極的に受託していて、
メディアでも盛んに登場し宣伝をされています。

勿論意義のある試みではあろうかと思います。
熱意を持った医療機関であろうとも思います。

ただ、最近の宣伝はかなり過剰なもので、
特にPCR検査の無条件の受け入れのような姿勢には、
少なくとも品川区の現状とはかなり乖離した点があって、
正直腹立たしい気分になります。

まず、県外の方の検査も積極的に受け入れているので、
実際に品川区の方も、
その埼玉のクリニックで検査を受けていると、
実際に複数の事例を確認しています。

結果として感染している可能性のある都内の方が、
埼玉に移動することになり、
その往復で感染が拡大するリスクがあります。
それで陽性が判明すると、
結果として品川区の保健所に連絡が入り、
品川区で対処しなくてはいけないことになるのです。

患者数が都内で急増し、
保健所もPCRセンターも検査会社もパンク状態で、
このような対応が妥当でしょうか?

今週の日曜日のテレビであったと思いますが、
そのクリニックの先生は、
少しでも症状のある方は全て公費でPCR検査をします、
と言われていて、
朝に検体を提出すれば、
5時間後には結果が出せるとも言われていました。

それは確かにそのクリニックではそうなのでしょうが、
それは検査会社がそのクリニックの検査を最優先で行っているからで、
前述のように、
少なくとも今週の品川区の現状で言えば、
そのような状況は現実にはないのです。

こうしたテレビを見た方から、
「なんで、検査の出るのが遅いのだ。テレビでは5時間で出るといわれたぞ」
とお叱りを受けるこちらの身にもなって欲しい、
というのが今の正直な気持ちです。

そもそも少しでも疑いのある症状があれば、
無条件で公費のPCR検査を行ないます、
というアナウンスには問題はないのでしょうか?

PCR検査を増やせ、という意見があることは承知していますが、
闇雲の検査をすればそれで良い、
というものではないではないでしょうか?
現状最低でも16000円くらいの税金が、
PCR検査1件当たりで拠出されているのです。
それでも公費の検査をすると、
殆どは検査会社に支払うことになり、
医療機関はむしろ赤字になるのです。
財政は圧迫されますが、
その実誰も儲けてはいないという奇怪な仕組みになっています。

今この状況においては、
検査のパンクを避けつつ、
効率的な検査を行なって、
必要な人の検査結果が、
迅速に出せるということが重要なのです。

今のように無秩序に検査をすると、
全ての検査が遅れることで、
対応にも遅れが生じてしまうのです。

状況は常に変化をしていて、
数日前の正解が今は誤答になっているのです。

そのことを是非理解して頂きたいと思います。

やや混乱した文章になりました。

言わんとすることが伝わっているでしょうか?

それでは今日はこのくらいで。

これからクリニックに向かいます。

石原がお送りしました。
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PCR顛末記(2020年7月22日の現状) [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今とても困っています。

7月の10日から唾液のPCR検査が可能となり、
ある大手の検査会社に検査を依頼しています。

7月11日に施行した検査の結果は、
12日にはファックスでクリニックに送付されました。
その後も概ねそのペースで結果が来たので、
患者さんにも概ね翌日か遅くても2日後には結果が出ます、
という説明をしていました。

ところが…

7月20日に数人の検査を行なって、
検体を3重に封をして提出しました。

翌日の朝に確認しましたがファックスは来ませんでした。

昼にもう一度確認しましたがファックスは来ません。

それで窓口となる検査会社の営業所に連絡をすると、
「正確には言えないが本日の午後5時までには届く予定です」
ということなので、
遅いなあ、と思いながら待っていました。
しかし、午後5時を過ぎても結果は届きません。

それでもう一度営業所に連絡すると、
「今日の夜には届く予定です。24時間体制で検査をしていますから」
というやや不安に感じる曖昧な答えでした。

それで当日は無理と考え、
検査をした患者さんにも、
結果が出次第連絡はするけれど、
今日になるか明日になるかは分からない、
というお話しをしました。

翌日朝クリニックに来ましたが、
まだファックスは届いていませんでした。

検査会社への連絡は午前10時にならないと出来ないので、
外来をしながら10時を待って連絡しました。
すると、「こちらでは確認出来ません」
というすげない返事です。
「何処に聞けばいいのですか?」
と聞くと、
「ラボのPCR受付に聞いて下さい」
と携帯の電話番号を教えられました。

それでラボに連絡すると、
20日1日だけで3000件以上の検体が集まっているとのことで、
検査はまだ半分程度しか済んでいない、ということでした。
「それではいつ結果が出るのですか?」
と聞くと、
「今日の昼の12時までには出すように最大限努力しています」
というやや語尾に不安を感じる返答です。

それで患者さんには、
「申し訳ありません。どうか、今日の昼まで待って下さい」
と個別に連絡し、
外来をしながら午後0時を待ちました。

午前11時55分です。
ファックスは来ません。

午後0時丁度です。
複合機はうんともすんとも言いません。

午後0時5分にファックスが来ましたが、
ただの宣伝でした。

午後0時10分です。
ファックスは来ません。

午後0時30分です。
ファックスは来ません。

幾らなんでも酷いじゃないかと思い、
もう一度営業所に連絡をしました。

すると営業担当の方の話では、
「午後0時に送信する筈のファックスの予定が、
午後2時くらいに遅れるという連絡が入っています」
という脱力するような返事でした。
「それは間違いがないのですか?午後2時には来るんですか?」
と再度尋ねると、
「午後2時から3時には…」という案の定の返事です。

「もし午後3時を過ぎるようなら、
僕の携帯に連絡して下さい」
と言って電話を切ると、
再び検査をした患者さんに連絡を取り、
もう一度説明をして、
午後3時にこちらから電話をすると説明しました。

午後は予定があったのですが、飛びました。

それで今、ファックスを待っているところです。

現状はこんな感じで、
PCR検査はあちこちでパンク状態になっているようです。

品川区のPCRセンターも予約がパンクに近い状態で、
6月には殆ど陽性者はいなかったのですが、
先週1週間の陽性率は12.2%となっています。

これで明日から連休突入ですか…

僕は比較的楽天的な方ですが、
それでもかなりまずい状況であることは、
ひしひしと感じています。

ファックスは…まだ来ません。
(2020年7月22日午後2時5分)
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曜変天目ニ椀 [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。

この間京都と奈良に行って、
丁度公開されていた国宝の曜変天目(ようへんてんもく)
茶碗を2椀鑑賞しました。

完品での現存が3椀のみで全て国宝という、
お茶碗好き以外にも広く知られている作品です。

まず最初に行ったのが、
京都から勢いでレンタカーを飛ばして、
滋賀のミホ・ミュージアムで鑑賞したこちらです。
ようへんてんもく1みほ.jpg
ミホ・ミュージアムは新興宗教の運営する美術館で、
その指導者の方のコレクションが母体となっているのですが、
一般にも公開されて観光地になっています。

山の中にあって、
トンネルを潜り、
巨大な吊り橋のようなものを渡って館内に入ります。
収蔵品そのものより、
その圧倒的な景色の美観が印象的です。

今回は特別展として、
大徳寺の子院に収蔵されている曜変天目が出品されています。

曜変天目のガラスケースまで長い列を並び、
30分ほどで鑑賞出来ました。
係り員の方が1分を測っていて、
その1分間のみは最前列で鑑賞出来るという方法です。
1分が過ぎてまた鑑賞したい方は、
再び列の後ろに並びます。

ストレスが掛かりますが、
仏像と違って茶碗にはそう執着はないので、
物見遊山的には1分で充分な感じです。

正倉院展の時やフェルメール展の時には、
そうした時間制限はないので、
同じ作品の前に、
同じ人が10分でも15分でも陣取って、
そのまま動かないのでいつまで経っても観ることが出来ません。
「こいつめ!」と思わず頭を叩きたくなります。
その人の後頭部を、
「ははあ、この辺りに少し問題がありそうね」
とじっくり鑑賞してため息を吐きます。
「早く去れ!」と念じますが、
どうやら僕にはそうしたスペックはないようです。
それと比べればこの形式の方が、
余程ましかな、と思いました。

茶碗は3椀の中で一番小さく、
外側には文様がありません。
清楚で楚々とした感じでした。

それから奈良に行って、
毎年3回以上は訪問している、
奈良国立博物館に足を運びます。

特別展がこちらです。
ようへんてんもく2なら.jpg
こちらは今リニューアル中で閉館している、
大阪の藤田美術館からの出張展示です。

矢張り曜変天目のみ列の後ろに並びます。
こちらも30分くらいで最前列に着きます。

らせん状の通路の真ん中にガラスケースがあるので、
そこまでの通路で並びながら解説のパネルを読むことが出来ます。

この博物館はライティングが良く、
陳列もセンスがあると思います。
同じ国立でも京都国立博物館はセンスもライティングも最低で、
これはもう人間の問題なのだと思います。

こちらは1分という制限はありませんが、
時計回りにケースの周りを一周し、
それでお終いという方法です。
前後に促されるので、
同じ親父が15分粘る、
ということは出来ないのです。

大徳寺のお椀より大ぶりで、
模様は外側にもありとても華やかです。
仏像と違って守備範囲ではありませんが、
それでも良いな、とは思いました。

肝心の仏像は、今の時期はあまり目玉がありませんでした。

今日は曜変天目の訪問記でした。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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