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小劇場演劇は死ぬのか? [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で午前午後とも須田医師が外来を担当する予定です。

それでは今日の話題です。

今日も身辺雑記的記事になります。

小劇場演劇は僕にとっては、
多くの娯楽の中でも最も愛していた世界で、
もし一度だけタイムスリップが可能であるとすれば、
状況劇場の「ベンガルの虎」の上野不忍池の初演を観る、
と決めているくらいです。
人生での一番の後悔は、
頑張れば行くことの出来た、
第七病棟の「ビニールの城」を東京で観なかったことです。

ただ、現時点でこの数年くらいの期間における、
小劇場演劇の将来については、
悲観的に思わざるを得ません。

小劇場演劇というのは、
狭い場所に観客は閉じ込められたり、
変な場所(野外を含む)に誘導したりして、
汚い恰好で唾を飛ばし合って熱演する役者を、
その唾が降りかかるような状態で、
ドキドキしながら観劇するという娯楽なのです。

それが小劇場演劇の王道であるのです。

勿論そうでない小劇場演劇というものも存在はしていましたし、
今も存在しています。

モニターだけが舞台に並んでいて、
役者が存在しない、という舞台もありました。
地図を片手に野外を散策して、
そこで当時多発的に起こる事件を楽しむ、
というようなタイプの演劇もありました。

ただ、そうしたものは敢くまで「変化球」であって、
小劇場演劇の王道とは言えません。

王道は密閉空間で、
非常に近接した肉体の表現を体験する、
という性質のものなのです。

これは言ってみれば三密の最たるもので、
カラオケボックスに不特定多数の人間を閉じ込めて、
密接した空間で大声で歌を歌う、
というような状況と酷似しています。
つまり、濃厚接触の最たるものであり、
飛沫感染のリスクが非常に高まるような状態です。

演劇の上演時間は、
平均すれば2時間くらい。
長いものは3時間以上ありますし、
短いものでもまあ、時に30分以内という、
意図的に短くしているものもありますが、
少なくとも15分以上同じ閉鎖空間で、
飛沫感染の生じやすいような状態が続くことは事実で、
仮にその中に新型コロナウイルス感染症の、
患者さんが紛れていれば、
感染のリスクが非常に高いものになることは、
ほぼ間違いのないことなのです。

現状様々な感染対策を行って、
小劇場の公演を再開する試みが行われています。

観客やキャスト、スタッフに検温をする、
体調不良かどうかの確認をする、
入場時に手指消毒を行ってもらう、
客席を間引いて1メートル以上の距離を保つ、
定期的な会場の換気を行う、
観客にはマスク着用を義務化する、
などです。

上演される舞台自体も、
パーテーションを置いたり、
役者同士がなるべく距離を取って、
向き合って会話を交わさないようにしたり、
フェイスシールドを使用したりと、
工夫が凝らされています。

これは確かに感染リスクを減らす、
という意味では一定の有効性のある対策です。

しかし、感染をなくすという対策ではありません。

これまでに報告された、
最も信頼のおけるデータにおいても、
マスクや人間同士の距離をとる(Physical distancing)の有効性は、
8割程度のリスク低下とされています。
有効ではあるけれど、
感染自体は起こっておかしくはないのです。

感染していないことを確認するための検査、
というようなものが存在していれば、
それを皆でやればいい、
ということになりますが、
実際にはそんな検査はありません。

PCR検査にしても抗原検査にしても、
感染を疑う状況や症状があった時に、
それを鑑別診断するための検査であって、
陰性であれば大丈夫、
という免罪符のような意味はありません。

今陰性であっても、
1時間後の検査では陽性、
ということが当然あり得る訳ですし、
感染が拡大しているような現状では、
検査をして陰性だから大丈夫、
と考えた人が感染を広げてしまうというリスクが、
充分に想定されるからです。

抗体検査は免疫の有無を鑑別出来るのでは、
と一時期待をされたのですが、
現状測定されている抗体にそこまでの役割はなく、
現行の抗体検査は混乱を招くだけの可能性が高いので、
少なくとも不特定多数に感染予防目的で行うことは、
意味がないというのが現時点での判断です。

つまり、
現状やれば安心、というような検査はないのです。
検査は基本的に新型コロナウイルス感染症の、
リスクが高いと想定されるときにするもので、
その診断を補足する役割を持つものであって、
単独で診断可能という性質のものではないのです。

そうなると、
この病気に感染するリスクの高いような環境には、
極力身を置かないことが適切な判断である、
という帰結になります。

クルーズ船やカラオケボックス、
老人施設や病院、バーやライブハウス、
屋内でのセミナーや集会などは、
そうしたリスクが明らかに高い状況です。

そして実際にそうした状況下では、
感染の広がりが非常に強くなることが、
これまでの事例から確認されています。
1人から10人に感染というような状況も、
出現しておかしくはありません。

そして、小劇場はもちろん、
こうしたリスクの高い環境と言って良いのです。

このうちで病院や老人施設は、
その社会的な必要性が高く、
リスクはあっても運営は継続する必要のある施設です。
そのために通常より厳密な感染予防策を取りながら運営がされ、
1人でも感染者が出た時点で、
その機能の一部もしくは全部を、
一定期間停止するという措置が取られます。
患者の捕捉も行いやすいという性質があります。

それでは、
小劇場で病院と同じような感染予防策が取れるでしょうか?

残念ながらそれは不可能ですし、
仮に可能であるとして、
そこはもう小劇場ではないと思います。

従って、
小劇場ではクラスターは必ず発生します。
今のような感染の広がりにおいては、
それは仕方のないことなのです。
防ぎようのないことなのです。

ここからは僕の独自の見解ですが、
現状小劇場は全て閉めるべきだと思います。

ただ、それは小劇場演劇がなくなる、
ということを意味しているものではありません。

演劇は、
一旦今の王道のありかたを、
捨てる必要があるのです。

三密の空間で楽しむのが小劇場演劇なのですから、
それが一旦なくなるのは仕方のないことなのです。

いつまで、と言うと、
感染がコントロールされるまでです。

有益なワクチンによる集団免疫の賦与は、
その1つのゴールではあります。
ただ、別にワクチンがなくてもスペイン風邪が沈静化したように、
こうした新規の病原体による感染は、
一定期間広がった上で、
徐々には沈静化するのがこれまでの歴史的事実です。
これも1つのゴールでより自然な解決ですが、
おそらく数年は掛かると想定されます。
人間の生活の仕方を抜本的に改め、
人間同士の生身の接触を避けて、
インターネットなどを駆使しつつ、
ある意味個々の小集団がロックダウンしつつ、
経済を回すことが可能であれば、
そうした「新しい生活」に移行するのも、
もう1つの選択肢です。
感染の初期から使用可能で、
感染リスクを著明に軽減しつつ、
病気の快復も促進するような治療薬が開発される、
というのも選択肢ではありますが、
現状その可能性は低いように思います。

冷静にこの状況を見れば、
大人数のカラオケやバー、ライブハウス、
小劇場や屋内のセミナーなどを、
「感染対策を徹底して持続する」という今の方針は、
そう言うしか仕方がないということは分かりますが、
現実的な解決策ではなく、
クラスターを予防出来る方策ではないと考えます。

一旦そうした環境は、
ストップするしかないのです。
現状の認識では、
それは少なくとも年単位になる可能性が高い、
というように思われます。

それでは小劇場演劇に将来はないのでしょうか?

そんなことはないと個人的には思います。

以下はやや夢想に近い僕の考えです。

まず可能性があるのは野外劇です。

そもそも明かりのない昔において、
演劇は戸外でやるものでした。

野外劇こそ演劇の母であり父であるのです。

新型コロナウイルスが野外で集団発生した、
というような事例はこれまでになく、
通常のマスクや手指消毒のような感染対策さえ怠らなければ、
野外劇はいつでも可能です。

無言劇というのも1つの方向性です。

この場合役者のみならず観客も、
劇場に入ったら一切の言葉を発することを許されません。
言葉というコミュニケーション手段が奪われた、
という仮定から始まるフィクションの豊穣さを、
楽しむような芝居はどうでしょうか?

感染リスクを限りなく減らすための、
これは1つの実験的な試みです。

役者を無機物で代用したり、
遠隔の画像の組み合わせで表現することは、
現状でも試みられている1つの解決策で、
リモート演劇というような趣向です。

ただ、演劇というのは生身の肉体がそこにある、
ということが不可欠な要素であると、
個人的にはそう考えているので、
モニター同士が対話するような演劇は、
それはもう映像メディアであって、
劇場や観劇空間とは馴染まないものであるように、
個人的には思います。
それは演劇ではないのです。

反体制的な部分や反社会的な部分は、
それが藝術という意匠を纏っている範囲においては、
小劇場演劇の魅力の1つでもあります。

以下はそのための少し不謹慎なアイデアです。

クラスターの発生した劇場を舞台として、
その原因を時間を遡るようにして検証するような、
そうした「演劇」を創作します。
舞台は全ての扉が開かれ、
ほぼ戸外と化した劇場です。

観客も距離を取ってその様子を見守りますが、
時間が遡るにつれ、
劇場は密閉空間に近づき、
ラストは感染リスクのない短時間のみ、
劇場という密室が再現された瞬間に終わります。

それは最初に色々な可能性が示されながら、
予想外の「最初の感染者」が、
舞台に登場した瞬間でもあるのです。

これは感染という現実の恐怖を、
観客の安全が担保されるギリギリを狙って再現するという、
少し不謹慎な企画です。

今上演するには問題がありますが、
少し感染が収束に向かった段階であれば、
上演の意義があるように夢想します。

その昔アングラの最盛期に、
寺山修司は「疫病流行記」という密室劇を創作して上演しました。

この作品は密室を更にカーテンで仕切るという趣向ですから、
勿論現在上演は不可能です。

ただ、今演劇として最も上演すべきテーマは、
「疫病流行記」であることは間違いがなく、
演劇に関わる全ての方は、
今上演するべき「疫病流行記」の可能性を、
今は夢想にせよ追い求めるべきではないでしょうか?

現実のウイルスが生み出す、
不安や恐怖の連鎖に、
真の意味で対抗出来る人間の武器は、
藝術の夢想の力であり、
それは現実に疫病を防ぐような力は持たないけれど、
その未来の水先案内人になるべきものではないでしょうか?

僕の大好きな演劇の、
今こそ底力を見せて下さい。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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ヤマ

自分は大道芸鑑賞が趣味ですが、野外でのパントマイムといったものも軒並み中止、もしやるなら室内と同程度の厳しい対策が要求されるようです。(恐怖心にかられた、厳しい外野の目があります)
年単位ですが…対策が見えてきた今、指定感染症から外しても、とも思うこのごろです。
by ヤマ (2020-07-25 15:58) 

juno

幼い頃から劇場に足を運ぶことは、ほんの年に1回程度の頻度ではあったにしろ、大切な日常の一部でした。それが奪われつつあることは、今年の春からゆっくりと身にしみて感じられ、今では、おっしゃるように、全ての劇場を閉めることが唯一の正しい選択肢のように思われます。何より、どんな劇場で、どのような感染対策が取られていたとしても、もはや自分自身が心から楽しむことができそうにありません。ただ、そこに一人役者がいて、一人観客がいれば演劇は成り立つものだし、これからは、古代の野外劇に回帰していくのだなあと、いや、回帰していってほしいと願っています。古代ローマの劇場のような空間で見るお芝居はそれはそれで楽しみかもと、ワクワクすらします。
by juno (2020-07-27 23:19) 

juno

大変失礼しました。読み間違えていました。本文には「小劇場は全て」とあり、「全ての劇場」とはありませんでした。申し訳ありません。ただ、個人的には、2千人規模の劇場で、席の間隔が空いていても、楽しく観劇という気分には現在なれません。
by juno (2020-07-27 23:50) 

hw

はじめまして。
もう10年近く休日はここにきて辛辣な劇評(映画も)を読むのを楽しみにしてきた者なので、この長文(心の叫び)には泣けてしまいます。

私にも青春の宝物がたくさんあります。
ジャンジャン。
別役。イヨネスコ。中村伸郎。
銀座みゆき館。加藤健一。
紀伊國屋ホール。
転位・21。
スズナリの座布団席。
本多柿落とし~その後数々の作品。
TPP。ベニサン・ピット。
(因みに第七病棟は80年「ふたりの女」のみ。テントは全く未見です)

お願いがあります。
昔みた大好きな映画のように、まだ取り上げていないかつてみた演劇についての文章も……
……時々でいいですから読ませていただけませんか?

様々な分野で新しい試みがスタートしていますね。
人間はどんな状況下でも活路を見出せる生物だと信じています。

大変な毎日ですが、ご健康とご活躍をお祈りしております。
by hw (2020-08-01 16:22) 

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