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「キャンディード」の「Glitter and be Gay」 [コロラトゥーラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日なので、
診療所は休診です。

雨で外は走れないし、
少し寝坊しました。
色々とやらなければいけないことはあるのですが、
切迫感ばかりがあって、
なかなか腰が重くなります。

それでは今日の話題です。

休みの日は趣味の話題です。

今日はデセイ様の名演のうち、
バーンスタインのオペラスタイルのミュージカル、
「キャンディード」の中にあるコロラトゥーラの難曲、
「Glitter and be Gay」を聴いて頂きます。

「キャンディード」はバーンスタインが、
生涯拘った作品で、
楽曲の難易度が高いので、
有名な割にあまり上演がされません。
今年は帝劇でミュージカル版の上演があり、
また8月にはバーンスタインの教えを受けた、
佐渡裕の指揮で、
マイクは使いましたが、
オペラに近い形の上演も行なわれました。
佐渡裕版は僕も聴きましたが、
気合の入った舞台で、
特にイギリスの俳優の演技が素晴らしく、
非常に感銘を受けました。

このアリアはヒロインのグネコンデが中盤で歌うもので、
明らかにコロラトゥーラの古典的なアリアが、
その下敷きになっています。

彼女は名家の生まれなのですが、
両親を虐殺されて世界を彷徨い、
その後に社交界で成功します。
このアリアはそのグネコンデが、
前半では自分の悲運なこれまでを嘆き、
後半では今の金にあかせた生活を、
心から喜びます。
前半はカバティーナで、
後半がカヴァレッタです。
その落差が聴き物で、
多くのコロラトゥーラソプラノが、
リサイタルなどでの持ち歌にしています。

それでは、こちらをどうぞ。



これはイギリスのグラインドボーンで、
1997年に行なわれた、
レコード会社EMI の100周年記念のコンサートのライブ映像です。

日本発売の「奇跡の声」というDVD にも入っています。

この曲はマイクの歌唱でないと、
サビを盛り上げるのは非常に難しいのです。
デセイ様の絶好調の時期の、
まさにこれも奇跡的な歌唱です。

次に当代の何人かのコロラトゥーラの、
この曲の歌唱を聴いて頂きます。
まず、こちらから。



これは現在乗りに乗っているドイツのコロラトゥーラ、
ディアナ・ダムラウの「Glitter and be Gay」です。
彼女は来年メトロポリタン歌劇場の来日公演で、
初来日で「ルチア」を歌う予定です。
彼女はどちらかと言えば、
一時代前のプリマドンナに近い感じで、
やや過剰な演技で、
「どう、あたしうまいでしょ」
というような歌い方です。
この厚ぼったさが、
僕はあまり好みではありませんが、
その声の伸びはさすがです。

次はテレビ番組の抜粋ですが、
愛らしい変格派を。



フランスのデセイ様より少し若手のコロラトゥーラ、
パトリシア・プティポンです。
目茶苦茶でしょ。
でも楽しい歌唱です。
彼女は2度来日し、
リサイタルを行ないました。
リサイタルも全くこの通りのはじけぶりです。
2度めの来日の時には、
この曲も歌ってくれましたが、
声量が不足しているので、
生で聴くとサビの盛り上がりがなく、
正直今ひとつの歌唱でした。
ただ、アンコールのオランピアは絶品でした。

では最後は大御所に登場いただきます。



コロラトゥーラの代名詞のような東欧出身のソプラノ、
エディッタ・グルベローヴァです。
今も奇跡的に現役ですが、
これは1999年の録画で、
彼女は53歳です。
彼女の画像はあまり良いものがないのですが、
実際に聴くと、
他の歌手とは音の質感がまるで違います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

「ラクメ」のベル・アリア [コロラトゥーラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診ですが、
集団健診の診察があるので、
7時には出掛けます。

今日は休みなので趣味の話題です。

デセイ様の最盛期の歌唱を、
you tube からのよりすぐりの画像でご紹介します。

何と言っても最高なのが、これです。

これはフランスオペラ、ドリヴの「ラクメ」より、
コロラトゥーラのアリアとして、
リサイタルなどでも歌われる、
ベル・アリア、「鐘の歌」です。

これは一時代前のソプラノ、
マリア・カラスやジョーン・サザーランドなども、
歌ってはいますが、
オペラの実演自体は非常に珍しく、
1995年から1997年に掛けて、
デセイ様が何度かフランスで上演し、
非常な話題を集めたものです。
97年に全曲版の録音がCD発売されていますが、
その後はデセイ様自身、このオペラを歌ってはいません。
日本では数年前にスロヴェニアの歌劇場の来日公演として、
上演された以外には、抜粋の上演しかありません。
その舞台は僕も聴きましたが、
あまりレベルの高いものではありませんでした。
タイトルロールはデジレ・ランカトーレです。
まあ、大舞台ではイマイチのソプラノですね。

この画像は1995年のクレジットがありますが、
どうやら海賊版のようです。
ただ、音質も悪くないので、
舞台の記録用の映像なのかも知れません。
ソフト化はされていませんし、
きちんとしたテレビ放映もされたことはないようです。
従って、この画像は非常に貴重なのです。

ラクメは主役の少女の名前で、
同役をデセイ様が演じています。

彼女はインドの古代宗教の巫女で、
彼女の父親がまあ宗教の教祖格の人物です。
ただ、神の言葉は巫女のラクメを通してしか、
語られることはないので、
ラクメの存在は信者にとっては、
神の分身のようなものなのです。

舞台はイギリス統治下のインドで、
そのラクメがたまたま出遭った、
イギリス人士官と恋に落ち、
彼女は恋と神、そして父親との板挟みになります。
結局イギリス人士官は、
イギリス人としての生活を捨てられないので、
それを知ったラクメは毒草を呷って、
自ら命を絶ちます。

このアリアは聖地を汚したイギリス人を、
誘い出すためにラクメが歌うもので、
過去の悲劇の伝説を歌う内容です。

デセイ様が絶好調の時期の画像で、
その歌唱は見事の一語に尽きます。

6分30秒の辺りで、
原譜にない超高音が付加されています。

この作品は僕はもう本当に好きで、
デセイ様の主演で生で聴くことが出来れば、
本当にもう死んでも良い、というくらいなのですが、
現実には絶対に聴くことは出来ないので、
別に死ぬ心配をする必要もないのです。

それでは、デセイ様以外の「鐘の歌」も、
ちょっと聴いて頂きます。
オーストラリア出身の、
一時代前の名ソプラノ、
ジョーン・サザーランドのラクメです。
1976年、母国シドニーオペラの舞台ですが、
彼女が50歳の時の歌唱です。
この画像は何度か日本でも放映され、
僕も録画は持っています。
「ラクメ」の全曲の映像は、
多分これしかないと思います。



これもなかなか見事です。
彼女はご覧の通りの堂々たる体型で、
とても少女には見えませんが、
歌自体を聴いている限り、
そんなことは気になりません。
この悠然たる自己主張の強い歌いっぷりが、
さすが一時代前の名プリマドンナ、という感じです。
年齢から、そんなにもう早いテンポでは歌えなくなっているのですが、
それでも高音がこれだけ出ているのは見事です。
最後にトリルという声の音程を上下に揺らして伸ばす部分があり、
それが妙に長いのがこの時代の特徴で、
マリア・カラスもこうした歌い方をします。
最近はこういうのは、あまり流行りませんし、
正直僕はトリルを伸ばして拍手を強要するような歌い方は、
下品な感じがしてあまり好きではありません。

では最後にちょっとびっくりする画像です。
デセイ様とエリザベス・ヴィダルというコロラトゥーラソプラノが、
2人で「鐘の歌」を競演しています。
凄いですよ。



1996年のテレビの映像のようなので、
デセイ様は人気急上昇中の若手で、
エリザベス・ヴィダルは、
同じくフランス出身のデセイ様よりは、
少しベテランのコロラトゥーラソプラノです。
日本では放映されたことのない、
貴重なものです。

このヴィダルは数年前に来日して、
武蔵野市民文化会館で、
1日だけリサイタルを行ないました。
僕は聴きに行きましたが、
いきなりオープニングで「鐘の歌」を歌う、
というプログラムなので驚きました。

ただ、歌自体は何と言うか、
一流の歌ではないのです。
その点はデセイ様とは違いますし、
彼女は同じようなレパートリーは歌いながら、
一流の歌劇場では殆ど歌っていません。
ただ、その高音は驚異的で、
アンコールはハイA(多分) という超高音を出しました。

その2人が一緒に「鐘の歌」を歌い、
その高音を競うのですから、
これはちょっとびっくりの企画で、
特にヴィダルがデセイ様に、
メラメラとライバル心を燃やしているのが、
画面からも分かるのが、
何か微笑ましい感じです。
3分8秒くらいのところの、
高音合戦が聴き物で、
高音フェチにはたまりません。

それでは今日はこのくらいで。

そろそろ出掛けます。

皆さんは良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

ナタリー・デセイと椿姫 [コロラトゥーラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は診療所は休診で、
午後は上野にデセイ様の「椿姫」を聴きに行きます。

そんな訳でもう落ち着かないので、
今日は雑談的な話です。

ナタリー・デセイ(Natalie Dessay )は、
最初にリサイタルで来日した頃には、
デッセイという表記だったのが、
最近はデセイに変わり、
それも間違った言い方なので、
デュセと呼ぶべきだ、
というようなことを言う人もいます。

デセイ様はフランス人なので、
De を「デ」とは言わないのだよ、
と言われれば、そうかな、とは思います。

数年間にyou tube でフランスのニュースが見られて、
そこでアナウンサーは確かに、
「ナタリー・デゥッセ」のような呼び方を、
注意深く聞くとしていました。
ただ、ぼんやり聞くと、
「デセイ」と言っているようにも聞こえます。

アメリカのメトロポリタン歌劇場の中継で、
アナウンサーがデセイ様を紹介した時には、
「ナタリー・デセイ」とはっきり言っていました。
それに答えるデセイ様も、
別にそれで気分を害した様子はありません。
インタヴューにはちゃんと英語で答えていました。

それから数日前にイタリアのトリノ歌劇場の紹介のサイトで、
デセイ様のインタビューの映像を見たのですが、
イタリア人の聞き手は、
「ナタリー・デッセイ」と呼んでいました。
それで、ああなるほど、
最初のデッセイというのは、
イタリア語読みなのだな、と分かった気がしたのです。
でも、勿論デセイ様は気分を害した様子はなく、
インタビューにはイタリア語で答えていました。

要するに呼び方が多少変わったって、
それで相手に通じない訳でもないし、
それが悪いという訳でもありません。
日本人も呼び易い言い方で呼べば、
それで良いのではないかと思います。

だって、そうですよね。
たとえば、僕が海外に行って、
「ミスター、イシワゥラ」みたいに変なアクセントで呼ばれたとしても、
それを目を吊り上げて怒ることはありません。
何となく分かればそれで問題はないですし、
失礼とも感じないからです。

だから、どんなカタカナ表記をしようと、
その人の自由だと思いますが、
その呼び方を一々訂正して悦に入るような人は、
僕はどんなものなのかな、と思います。

ヴェルディのオペラ「椿姫」の原題は、
「La Traviata 」で、
これは「道を外れた女」と言う意味だそうです。

これも「椿姫」などという言い方は良くない、
「ラ・トラヴィアータ」と言うべきなのだ、
などと目を吊り上げて言う人がいます。

確かのこの作品の底には、
「道を外れた女には神の祝福はなく、
名前すらない墓に孤独のうちに埋葬される」
という逃れられない宿命のようなものが流れていて、
同じ作者の「リゴレット」の呪いのように、
作品の基調音を成しています。

それが「椿姫」という題名に変わると、
何となく社交界の花形の女性が、
病に倒れて死ぬ話、
のようなニュアンスで取られ易いので、
その意味合いは分からなくはありません。

でも、別に「椿姫」という題が悪いとは思わないし、
そもそもの原作の「椿を持つ女」からの連想で、
無関係ではないのですから、
オペラの題名としては古風ではありますが、
実際に古い作品なのだし、
語感の優れた題名だと僕は思います。

「姫」という言葉を持って来る辺りが、
なかなかエレガントで良いでしょ。
「道を外れた女」なんて言うより、
どう考えても日本語の語感からは良い題名です。

こういうのを訳知り顔に否定したりするのも、
僕は何かインチキ臭くて嫌いです。

今日はすいません。
どうでも良いような話でしたね。

それではそろそろ出掛けます。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

ナタリー・デセイの「カルミナ・ブラーナ」 [コロラトゥーラ]


Carl Orff: Carmina Burana

Carl Orff: Carmina Burana

  • アーティスト: Thomas Hampson,Carl Orff,Michel Plasson,Orchestre National du Capitole de Toulouse,Natalie Dessay,Malcolm Stewart
  • 出版社/メーカー: EMI Classics
  • 発売日: 2001/06/07
  • メディア: CD


こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は診療所は休みで、
午後はちょっと出掛ける予定です。

上のリンクはナタリー・デセイがソプラノのパートを歌った、
オルフの「カルミナ・ブラーナ」のCDです。

オルフの「カルミナ・ブラーナ」は、
19世紀に修道院で発見された中世の世俗的詩歌集に、
20世紀になってから、
強烈なリズムに彩られた旋律を乗せたもので、
1937年に作曲されました。

カール・オルフは20世紀ドイツを代表する、
作曲家の1人です。

全体は25曲に分かれ、1曲は数分で、
全体での演奏時間は1時間弱です。

クラシック音楽という区分が適切かどうかは分かりませんが、
クラシックの演奏家以外には演奏出来ないことは事実で、
その点からクラシックに区分すれば、
そのジャンルの中では、
非常に聴き易い作品であることは確かです。

オープニングの「おお、運の女神よ」
の強烈なリズムと旋律が、
非常に印象的なため、
映像や演劇の舞台などでの、
効果音としてよく使われます。

僕も最初にこの曲を耳にしたのは、
演劇の舞台の音効としてでした。

この曲は大編成のオーケストラに加えて、
混声の大合唱に児童合唱、
更にソプラノとテノール(もしくはカウンターテナー)、
バリトンの3人のソリストが加わります。

これだけで相当のスケールですが、
オルフの指示によれば、
更に曲のイメージを具現するような、
舞台俳優やダンサーが、
これに加わります。

つまり、これは「セミオペラ」のような形式として、
発想された作品なのです。

実際にバレーとシンクロさせたような上演も、
行なわれていますが、
僕の印象としては、
却ってダンスが音楽の邪魔をするので、
現在の上演形態としては、
音楽のみで演劇やダンスの要素は排した方が、
よりこの作品の世界に浸れる、
という気がします。

この作品には1人のソプラノのソリストが登場します。

前半には彼女の出番は全くなく、
後半も数分の歌唱があるだけですが、
それでいて、成功すれば最も鮮烈な印象を残し、
音楽という太古から、
人間と切っても切れない関係にある藝術様式において、
類稀で絶対的な瞬間を具現します。

まず21曲でとろけるような持続の長い、
この作品随一のメロディを奏でると、
23曲は不意に全ての音が止み、
舞台上には彼女1人が立っているようです。
そして、短いコロラトゥーラの超高音のパッセージが、
巨大な空間に放たれると、
それが人間の出せる限界まで上り詰めた所で、
天空に消え、一瞬の静寂が大空間を支配します。

そして、神の代理人のような指揮者のタクトが振られると、
24曲の大合唱がオーケストラの地響きのような演奏と共に、
今度は音の圧力で大空間を満たし、
それが途切れずにオープニングのリフレインに続いて、
全編の幕が下ります。

ナタリー・デセイは何度かこのパートを歌っていて、
録音されたCDが上のリンクです。

コロラトゥーラの天才でなければ、
この曲のソプラノは勤まりませんし、
逆に凡百のソプラノが歌えば、
この曲の真価は損なわれます。

この曲はただ、CD向きではないんですね。

異常にダイナミックレンジが大きいので、
生で聴かないとその凄味は伝わりません。

CDでは23曲も彼女はサラッと歌っていて、
それはそれで録音としては悪くないのですが、
実際の上演ではこれではいけませんし、
彼女もライブでは、
場内を圧する歌唱を聴かせてくれたと思います。

僕はまだ生でこの曲を聴いたことは2回しかありませんが、
いずれもソプラノの歌唱は満足のいくものではありませんでした。

いつかは超絶技巧の圧倒的な歌唱で、
23曲が歌われ、
その後の身の毛のよだつような静寂が、
巨大なホールを支配する瞬間に、
立ち会いたいな、と思いますが、
それは夢に終わるのかも知れません。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

エリナ・ガランチャの世界 [コロラトゥーラ]


こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。
なるべく家でのんびりするつもりです。

今日はちょっと趣味の話題です。

上の写真はラトヴィア出身のメゾソプラノ、
エリナ・ガランチャです。

先日メトロポリタンオペラのテレビ放送で、
ロッシーニの「チェネレントラ」を観ましたが、
目の醒めるような見事な歌唱で、
非常に驚きました。

多分今技巧的なメゾでは、
バルトリより上だと思います。

彼女は2003年に一度だけ来日し、
「ホフマン物語」のニクラウスとミューズを歌いました。
ただ、これはあまり聴き所の多い役ではないんですよね。
目茶苦茶上手い人なので、
もっと技巧的な大役を、
聴きたかったな、という気がします。

コロラトゥーラの廻しも的確かつ壮麗で、
高音も普通のソプラノくらいは出ますし、
かなりの低音まで安定して声が前に飛びます。
それでこの美貌で演技も上手いのですから、
言うことはありません。

ただ、放送で観たガランチャは、
2003年の時よりは、
かなり年齢を感じました。
2003年の時は、本当にミューズそのものでしたね。

また日本でも歌って欲しいな、とは思いますが、
多分少しピークを過ぎた頃なのだろうな、
という気はします。
こうしたご時勢なのだから、
仕方がないですね。

今日はこれだけです。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

アンドレア・ロストの世界 [コロラトゥーラ]


こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は休みですが、
ちょっと早く起きてしまいました。

一昨日お子さんとそのお母さんが、
診療所を受診され、
お母さんは下痢が酷く、
点滴などして、
翌日の受診をお願いして、
昨日になったのですが、
結局お見えになりませんでした。

ひょっとして具合が悪くなり、
救急で病院に行ったのかしら、
それともお子さんの方が、
急変したのかしら、
などと考えると、気分が落ち着きません。
まあ、一々そんなことを気にしていては、
仕方がないことは分かっているのですが、
最善を尽くす、というのは難しいことですし、
どうも思うようにはいきません。

今日はちょっと趣味の話題です。

上の写真は、ハンガリー出身のソプラノ、
アンドレア・ロストのお姿です。

これは多分10年くらい前のものだとおもいます。
奇麗な人でしょ。

彼女は多分、現在現役のソプラノの中では、
一番美しい人だと思います。

僕が最初に生で聴いたのは、
2000年で、ミラノスカラ座の来日公演です。

演目はヴェルディの「リゴレット」。

彼女は当時のスカラ座の音楽監督、ムーティに、
その才能を見出されたので、
彼の指揮では最もその実力が発揮されるのです。
歌のフォルムが美しく、
演技も的確で良かったのですが、
自分が一番、と目立つタイプではないので、
ちょっと物足りなく感じたことも事実です。

その後、ムーティの指揮で「オテロ」を聴いて、
後は新国立に出演したり、
東欧の地方の歌劇場のゲストで来たり、
と何度か来日し、何度か生で聴いたのですが、
特にムーティの指揮以外の舞台では、
「歌は今ひとつ」という印象が拭えませんでした。

今年の冬に来日してリサイタルがあり、
僕自身は久しぶりに彼女の歌声を聴きました。

これがね、本当に素晴らしかったんです。

あまり期待をしていなかった、ということもあるのでしょうが、
掛け値なしに、今年一番の歌声でした。

声量もなかなかだし、高音域に膨らみがあって、
コロラトゥーラの一音一音にも、
力があるんです。
装飾歌唱の技術にも、水準以上のものがあります。
そして、なにより感情表現に優れ、
少女の歌は少女として、
成熟した女性の歌は大人の女として、
完璧に表現することが出来るのです。

今年一番の驚きと言って、良かったかも知れません。

ただ、公称1966年生まれというロストは、
その年齢より遥かに上に見えました。

最初に登場した時は、
「えっ、何処のおばさんが入って来たの」
という感じで、表面的な美というものの儚さを、
強く感じましたね。

それが、最初の曲がグノーのジュリエットのアリアで、
初恋に揺れる少女の歌なんですが、
その始まりと共に、
魔法のように1人の少女が目の前に立っているのです。

藝術は不思議ですね。
そして、それに対比されるように、
人間の生は儚く、その表面的な美も儚いのです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

パトリシア・プティポンの世界 [コロラトゥーラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は休みで今起きたところです。
今日は趣味の話です。

これは先日来日して何度かリサイタルをした、
フランスのソプラノ、
パトリシア・プティポンです。

サイン会に並んで、
写真を撮らせてもらいました。

まあでも、滅多にこんなことはしません。

生涯サインをもらったのは3人だけで、
このプティポンとデセイ様、
そして、状況劇場の怪優、大久保鷹です。
でも、大久保鷹のサインは、
引越しの途中で、何処かに失くしてしまいました。

プティポンを初めて聴いたのは去年の3月のリサイタルで、
これはかなり衝撃的でした。
歌は本物でハートに溢れ、
プログラムは志の高い、
ある種マニアックで非常に高度なものです。
悪ふざけに近いノリもありますが、
生音というけじめを守っているため、
ぎりぎりで踏み止まっているのです。

ただ、昨年の不満は歌曲中心で、
オペラアリアが殆ど聴けなかったことです。

今年はそんな訳で非常に楽しみにしていたのですが、
良かったものの、ちょっとがっかりでもありました。
オペラアリアは歌ってくれたものの、
全部きっちり歌うのはしんどいらしく、
かなり誤魔化した歌になっていました。
プログラムは今回も非常に高度なものでしたが、
彼女も人間なので、
高度な音楽性と娯楽性とを一致させるのは、
至難の業のようです。

でも、アンコールで披露した、
オランピアのアリアは、
今回も絶品でした。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

マリエッラ・デヴィーアとベル・カントの話 [コロラトゥーラ]


こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は休みで、
今さっき起きたところです。

今日は久しぶりに趣味の話題です。

上の画像はイタリアのソプラノ、
マリエッラ・デヴィーアが演じる、
ドニゼッティのオペラ「ランメルモールのルチア」の1場面。
彼女はタイトルロールのルチアを演じています。

彼女は1948年生まれのイタリア人で、
30代の初め頃にドリーヴの「ラクメ」や、
この「ルチア」で頭角を現しています。
「ラクメ」はコロラトゥーラのレパートリーですから、
出発点はコロラトゥーラだったのです。
その後ロッシーニの歌唱で絶賛され、
ベッリーニやルチア以外のドニゼッティのオペラに役柄を広げ、
「ベル・カントの女王」的なニュアンスで、
語られることが多くなります。

ベル・カントとは何でしょうか。

何か分かり難い言葉ですね。
しかも、明らかに良い加減な定義をする人や、
適当な使い方をする人も多いので、
尚更分かり難くなっています。

たまたま、僕の手元に、
リードというアメリカの声楽専門家の書いた、
「ベル・カント唱法(その原理と実践)」
という本があるので、
そこからの情報をお届けします。
僕は別に声楽の専門家ではなく、
ただ聴くのが好きなだけなので、
間違った点もあるかも知れませんが、
ご容赦下さい。

その本によれば、
「ベル・カント」というのは、
イタリアの伝統的な声楽の歌唱テクニックです。
ある種「修練の必要な秘儀」的なイメージがあり、
特別な教師の手によって、
そのテクニックは選ばれた歌手だけに伝授されるのです。
要するに日本の伝統芸能の伝承みたいなものと、
同じようなニュアンスですね。
オペラというものが誕生したのが、
1601年と言われていますが、
その当時から「ベル・カント歌唱」は存在したのです。

その後「ベル・カント歌唱」は、
イタリアの伝統的なテクニックとして、
17~18世紀にその頂点に達し、
その後次第に衰退してゆきます。
19世紀の初めにはベッリーニとドニゼッティとロッシーニが現われ、
この3人の作品が「ベル・カントオペラ」のように表現されることがありますが、
別にこの時代が「ベル・カント」の黄金時代であった訳ではなく、
「ベル・カント歌手」が確かに存在したのは、
この時代までだったことを、
示している程度のことなのです。
19世紀後半にはイタリアにはベルディが現われ、
ドイツにはワーグナーが現われて、
歌手の技芸よりも作品の時代になり、
特殊な歌唱の技巧はその意味を失ってゆく訳です。
これは面白いことに歌舞伎でも同様の歴史がありますね。
ストーリーが重視されるにつれ、
それを超えた地点にしか存在し得ない、
個人のテクニックの妙味は観客の興味を失い、
衰退の道を辿るのです。

現代にも「ベル・カント」を歌う歌手は存在しますが、
その歌唱は少なくとも18世紀以前のものとは、
変質しており、現代にはベル・カントは存在しない、
というのが、僕の持っている本の著者の意見です。
多分そうなのだろうな、と僕も思います。
歌舞伎や文楽とは違って、
譜面に残された音楽そのものは再生が可能なのですが、
現在の歌手はたとえば「ルチア」なら「ルチア」を、
その初演の頃とは全然別の歌い方で、
舞台に掛けている訳です。

ええと、長々と書いたここまでが前置きで、
デヴィーアの話に戻ります。

デヴィーアは今年リサイタルで来日して、
僕は生で聴きました。
勿論年齢に伴う衰えはありますが、
それを超えた見事な歌唱で、
非常に感銘を受けました。

彼女の歌は18世紀の「ベル・カント歌唱」とはおそらく別物なのでしょうが、
それでも「ベル・カント」の本質のようなものを、
僕は確かに感じたのです。

音が自由であることが、ベル・カントの本質だと言われます。
低い音も高い音も、弱い音も強い音も、
基本的に1つの声として存在し、
スムースに自由自在に移行して、
心地良い1つの流れを作ります。
ブレスも自然で、気張ったような乱れがありません。
これはただ、修練によって得られたもので、
人工的な高度の構造物なのです。
実際には音の高低によって、
声の出し方は変えているのですが、
それを感じさせないのが技術なのですね。

アンコールでマリア・カラスの代名詞のような、
ベッリーニの「ノルマ」を歌ったのですが、
これなどは本当に音の持続が見事で素晴らしく、
胸が躍りました。
8月にもう一度リサイタルがありますし、
NHKの放送もあります。
ご興味のある方は是非。

今日はちょっと「ベル・カント」の話でした。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

アンナ・ネトレプコの「椿姫」 [コロラトゥーラ]


こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は診療所は休診で、
1日家にいます。

今日は久しぶりにコロラトゥーラの話題です。

上の写真はザルツブルグ音楽祭で椿姫を歌う、
ロシア出身のソプラノ、
アンナ・ネトレプコのお姿です。

ちょっと濃厚な画像ですいません。
これは1幕の例の「乾杯の歌」なのですが、
かなりどぎついムードの演出なのです。

彼女は多分今世界で一番売れている、
ソプラノ歌手ですね。
容姿も美しく、
歌もまずまずで演技も出来るのですから、
言うことはありません。
演目も幅広く、
コロラトゥーラも歌います。

日本には何度か来ていて、
僕は2005年のリサイタルと、
メトロポリタン歌劇場と一緒に来日した、
ドンナ・アンナを聴きました。
リサイタルの評判はあまりよくなかったのですが、
僕は結構感銘を受けました。

非常にバランスの取れた歌唱なのですが、
欲を言えばあまり冒険がなく、
スリリングな部分がないのが物足りません。
常に安全策なんですね。
この椿姫でも、
1幕ラストのアリアの最後の高音を、
歌っていません。

来年は英国ロイヤルオペラで来日の予定で、
「マノン」を歌います。
これは結構楽しみですね。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

プティボンの「後宮からの誘拐」 [コロラトゥーラ]


こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

休みの日は趣味の話題です。

上の画像はモーツァルトの「後宮からの誘拐」の一場面、
歌い演じるパトリシア・プティボンのお姿です。
まあ、こんな感じで茶目っ気たっぷりです。
歌もうまいんですが、
ちょっと雑になり易いのが難点です。
ついこの間、
NHKでリサイタルをインタビュー付きで放送しましたね。
今年も来日が決まっているので、
それまでは頑張って生きていないとな、
という感じです。

全然関係ないですけど、
ユニコーンが再結成されましたね。
ミュージックステーションに出たのを聞いたんですが、
抜群に良かったです。
基本的に今はマイクを通した歌に、
興味はないんですが、
このくらい良ければ話は別です。
ああいうのが本物のバンドの音ですね。
大学で芝居をしていた時、
エンドレスでユニコーンの「大迷惑」が掛かっていたのを、
何となく切なく思い出します。

今日もやるべきことは沢山あるのに、
ぼんやりしているうちにもう昼過ぎです。
仕事の時より休みの日に、
時間が有限であることを強く感じますね。

昨日も「何故生きていないといけないんですか?」
と訊かれました。
トルストイの答えはシンプルで、
「それは他人を幸せにするため」です。
より厳密な言い方をすれば、
「他人の生に貢献することによって、
人間全体の価値を持続させるため」です。
ここ数十年に日本に蔓延ったある種の思想によって、
そうした考えの根が絶たれたのです。
根を持たずに生きることほど、
辛いことはありません。

何かとりとめがなくなりましたので、
今日はこれで終わりにします。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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