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岩松了「クランク・イン!」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
クランクイン .jpg
岩松了さんの新作が今下北沢の本多劇場で上演されています。

これは2020年に女優さん2人の朗読劇として上演された、
「そして春になった」という作品を元にしていると解説されています。

ただ、「そして春になった」は、
ある映画監督の妻と愛人の2人芝居でしたが、
今回の作品では設定はほぼそのままであるものの、
監督の妻はキャストとしては登場せず、
前作で語られた若手女優の水死という事件が、
終わって1年後に映画の製作が再開される、
という時点を舞台としています。

これはなかなか良かったですよ。

何が良かったかと言うと、
最近の岩松さんの作品は変貌をしてきていて、
その意味合いの一端が、
かなりクリアに今回の作品で理解出来たという点。
それから今回の作品に関しては、
吉高由里子さんが抜群に良くて、
おそらくこれまで岩松戯曲に登場した多くの女優さんの中でも、
最も自然にその難解な台詞を立体化出来る、
稀有の才能を持っているということが分かった、
という点にあります。

まず岩松戯曲の変貌ということで言うと、
丁度今月に岩松了戯曲集が刊行されて、
その2000年代の作品集に次のような作者の言葉が添付されています。

人は「過去」を言葉でくくり、 意味に昇華して安心しようとする。   言葉以前の、事象とも呼べないものが 散らばっている「現在」を私は描きたい──

戯曲の言葉というのは、
今のそのままを語る言葉と、
過去のことを語る言葉の両方があって、
通常はその2つがないまぜになっているでしょ。

で、歌舞伎で「物語」というのは、
過去の出来事を身振りを入れながら1人語りすることを言うんですね。

つまり、物語というのは常に過去のもので、
現在この瞬間の生の感情とは別物なんですね。
僕の大学時代に記号論というのが流行っていて、
それ流に言えば、
言葉というものが介在した時点で、
事物に名前を付けた時点で、
その生の事物や感情というものは消えてしまうのです。

その言語化され、過去になる前の感情を、
岩松さんは「自分は描きたい」と言っているんですね。

でも、それは可能でしょうか?

普通に考えれば不可能ですよね。

戯曲はそれ自体が言葉のやり取りのみで成立しているものでしょ。
それを書いているのに言葉を否定したら、
一体何が残るのでしょうか?

ただ、良く考えるとこの宣言は、
言葉自体を否定している訳じゃないんですね。
人間が感情を言語化し理解した気になって安心しようとする、
その仕組み自体を批判し、
そこに切り込むということなのです。

それで今回の作品をその目で見ると、
吉高由里子さん演じるジュンという女性が、
その感情の言語化を否定する役割を果たしているんですね。

この作品において、
吉高さん以外の人物は常に過去を語っていて、
今あったことについても、
「これがあった」ということを言語化して、
それを他人と共有することで安心しようとしているのですが、
その行為の1つ1つを、
吉高さんは否定して新たな問題提起を繰り返し、
相手の安心を不安に変えるのです。

最も明確に対比されているのが、
秋山奈津子さん演じる、
監督の愛人でありかつての大女優で、
彼女は常に過去を言語化して、
それを改変することで安心を得ているのですが、
それをいちいち吉高さんにひっくり返されて、
最後は狂気に陥ってしまうのです。

たとえば、
最初に吉高さんは秋山さんのファンであると言い、
それに呼応して秋山さんは、
「わたしの付き人にならない?」と誘うのですが、
その後の場面では一貫して、
吉高さんの方から「付き人になりたい」と言った、
と主張するのです。
それをその都度吉高さんは、
執拗に修正することを繰り返します。

こうした不毛なやり取りというのは、
一般的な戯曲の文法からは外れたかなり奇異なもので、
通常の台詞のリズムや流れを無視するようなことなのですが、
吉高さんの資質とその台詞が今回、
何か奇跡的に合致しているので、
通常ならとても読むことさえ難しいその言い回しと独特の間合いが、
吉高さんの肉体を通して見事なまでに自然な台詞として、
何かその場に必要不可欠な要素として、
舞台上に立ち上がっているのです。
これまで多くの岩松さんの芝居を観ましたが、
ここまで見事にその台詞を、
これ以上はないという精度で体現した女優さんは、
間違いなく吉高さん以外にはなかったと思います。

ただ、岩松さんの芝居は昔からこのスタイルではなかったのですね。
表面的には日常的な会話のみが交わされていて、
その奥に見えざる別個の感情がふつふつと湧き上がって、
それがラストに暴力的や悲劇的な形で噴出する、
というような作劇が多かったのです。

今回登場する秋山さんの台詞の感触は、
かつての岩松芝居に近いもので、
この芝居において秋山さんは、
監督の妻と共犯者的な感情を共有して、
ボートから共通の敵である若い愛人の女優を突き落として、
殺してしまったのですが、
その苦悩は吉高さんの介入によって改変され、
若い女優の苦悩の叫びは、
ラストには喜びの声に変貌してしまうのです。

言ってみれば過去の岩松戯曲の世界を、
否定して乗り越えるというところに、
今回の作品の1つの裏テーマがある訳です。

これだけなら分かり易いのですが、
今回の作品ではもう1人、
石橋穂乃香さん演じる若い愛人の女優が登場し、
何故か途中でその役柄自体を、
吉高さんが乗っ取ってしまった格好になり、
後半で消えてしまった石橋さんの声が、
吉高さんのみに幻聴として聞こえる、
という場面が用意されています。

ここは良く分からないですね。

多分前作の「青空は後悔の証し」と同じように、
ある種の当て書きで、
石橋さんが演じる、
というところに意味を持たせているんですね。
指輪をその前に唐突に吉高さんが湖に捨てるところから考えて、
石橋さんを秋山さんになり替わって、
吉高さんが殺したのだ、
というようにも思えますが、
そのことを含めて、
この作品の戯曲としての通常の流れを、
否定するために登場したのが吉高さんという怪物、
ということなのかも知れません。

そんな訳で話出すと終わらない、
迷宮のような岩松さんの世界ですが、
今後もその演劇的挑戦からは目が離せそうにありません。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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