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藝術という物語をどう考えるか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は祝日で診療所は休診です。

今日は雑談です。

Sさんという、
耳のご不自由な20代でロックバンドを結成していた方が、
全くの独学でクラシックの作曲を始め、
ゲーム音楽を手始めに本格的な交響曲を作曲して、
各界の絶賛を浴び、
多くの方がその曲に感動を覚え、
現代のベートーベンともてはやされました。

テレビ局はスペシャル番組を作成し、
それによるとSさんはテレビのスピーカーに手を当てたり、
バイオリンの絃に触るだけでその音色を感じ取り、
全く音を聞くことが出来ないのにも関わらず、
純粋に頭の中だけで五線譜に音楽を組立て、
それを一種の秘儀のように、
1人だけの秘密の時間に譜面化するのだそうです。

こうしたことが本当にあるのであれば、
奇跡のような素晴らしい物語ですが、
その後発覚したことによれば、
Sさんの作品は殆どが現代音楽の作曲家の代作で、
聴力の低下についても、
少なくとも完全に聞こえないという状態では、
ない可能性が高いということのようです。

この話題は多くの有識者の方が、
その方なりのコメントを発表していますし、
暴露のきっかけとなった週刊文春の取材を行なった、
神山さんというジャーナリストの方は、
僕の大学の先輩で以前一緒に演劇の舞台に立ったこともあるのですが、
大変きっちりとした取材をされる方なので、
おそらくは本も出るのだと思いますし、
今はまだ情報が錯綜していますが、
周辺の取材なども緻密にされているのだと思います。

つまり、真相はかなりの部分まで、
今後明らかになる可能性が高いと思います。

ですから、僕が何かを言ったところで、
別にさしたる意味はないのですが、
非常に興味深い話なので、
僕なりの感想をまとめておきたいと思います。

まずこの問題の医療的な側面についてですが、
代理人の如何にもなお顔をされた弁護士の方が、
障害者手帳を持っているので難聴は間違いがない、
というお話をされていましたが、
難聴には心因性の難聴も結構あるのですから、
ある程度は器質的な障害がないかどうかを、
検査する方法はあるものの、
基本的には本人が聞こえないと強く一貫して主張をされれば、
手帳が交付されるケースは実際にはあるように思います。

ご本人の映像を見ると、
非常にスムースにお話をされていて、
完全に聴力を喪失して時間が経っている状態で、
あれだけ自信を持ってよどみなく話すということは、
困難ではないかと感じました。
人間は常に自分で発した声を自分で聴き、
それを再度インプットしながら声を出しているので、
自分の発した声が全く聞こえない状況では、
話は出来ても、
よどみなく会話する、ということは、
困難であるように思えるからです。

次にこの問題の藝術的な側面についてです。

Sさんが作曲したとされた交響曲を多くの専門家が絶賛され、
日本のクラシックの金字塔のように語られました。
一般の方の多くもこの曲に感動して涙を流し、
被ばく体験というテーマ性にも感銘を受けました。

しかし実際には、
その交響曲は現代音楽の作曲家で音楽大学の先生の手になるもので、
昔の交響曲のある種パロディ的なものとして創作され、
そこに大仰なテーマが、
プロデューサーたるSさんの手で付け加えられたものでした。

このことが発覚してから、
多くの方が「騙された」と感じ、
絶賛した専門家は口をつぐみ、
それまでSさんに関心のなかった方は、
こんな詐欺に引っ掛かった奴は馬鹿だと、
ここぞとばかりに発言しています。

しかし、この資本主義社会における藝術というのは、
こうしたものではないでしょうか?

感動というのは、要するに物語から生まれるものです。
純粋の音楽という音の配列のみで、
感動したり泣いたりすることが、
勿論ない訳ではありませんが、
それは概ねパーソナルなもので、
普遍性を持つものではありません。

藝術はそれ自体では感動を生まないのです。

感動というのはある種の集団催眠のようなもので、
今回の事例で言えば、
被ばく者としての苦悩と、耳が聞こえず、
常に耳鳴りなどの症状に苦しめられながら、
神の啓示のようなものを受けて、
音楽と格闘する、という物語を、
マーラーのパロディの音楽の中に、
皆が感じたからこそ生まれたものです。

僕は個人的にはこうした物語が大嫌いで、
ですからSさんのことには今回のことがあるまで、
全く興味はありませんでした。
集団で感動する、という感覚自体に興味がないからです。

ただ、現代の藝術というのはそうしたものであることは事実で、
内容よりもその提示する物語の方に、
より大きな「売り物」としての意味があるのです。

藝術を商品として扱うクリエーターや音楽家の多くが、
何となくSさんに擁護的になるのは、
そのせいではないかと思います。

マスメディアの方の追及も何となく及び腰になるのは、
自分達が常にしていることを、
Sさんが代わりにやっているだけだということに、
無自覚ではいられないからだと思います。

つまり、
お金を生んだのは、
被ばく者で聴力を失った主人公が、
耳鳴りなどの症状に苦悩しながら、
独学でクラシックの大作を完成させる、
という物語の方にあるのです。

そして、この資本主義の社会では、
全ての価値はお金で換算されるものなのですから、
この交響曲と言うものの価値は、
その多くがSさんの構築した物語の持つ感動性にあるのであって、
マーラーのパロディ交響曲にあるのではないのです。

問題は一点のみ、
皆が集団催眠に掛かって、
それが事実であると信じなければ成立しない物語が、
実際には虚構であったことにありました。

冷静に考えれば、
何の音楽的素養もなく、
ロック歌手を志望していた若者が、
独学で専門家も驚嘆するような交響曲を作曲し、
独力で完璧に譜面に残す、
と言うこと自体が、
まともに信じられるような物語ではありません。

しかし、それを簡単に信じてしまうのが、
常に感動したいと願う、
人間の業のようなものなのかも知れません。

人間の本質とは何でしょうか?

昔のSFに、異星でエイリアンに捕えられた地球人が、
自分達が知的生命体であることを、
証明しようと苦労する、と言う物語がありました。

言葉は勿論通じませんから、
何かの行為で自分達が知的な存在であることを表現しないとならないのです。

その物語のオチは、
捕えられた地球人が別の小生物を檻に入れて飼い始めると、
それでエイリアンに解放される、というものでした。

要するに、他の動物をペットにするのが、
知的生命体の特徴だ、と言うのです。

その考え方でいくと、
人間の特徴は他の人間を騙すことにある、
というように僕は思います。

嘘を吐き騙すことこそ人間の本性で、
それは悪事であると同時に、
社会を円滑に廻すための知恵でもあり、
人間が生きるために必要な、
物語を形成する源泉でもあるのです。

人間は物語という虚構を信じなければ、
生きている意味という虚構を信じることも出来ず、
生きることが困難となる生き物だからです。

Sさんの行為が何となく胸騒ぎのようなものを、
僕達の心に湧き起こすのは、
人間の本質がそうした騙しにあり、
それを表面的には否定しながらも、
詐欺師の物語によってしか、
心底感動することが出来ない僕達の限界を、
思い知らされるからかも知れません。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

看護師さんとお茶の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。
体調が悪いので駒沢公園には今日は行かず、
何となくダラダラして今PCに向かっています。

今日は雑談です。

ある企業の産業医をしていますが、
最初は人事の社員の方が担当をしてくれていました。

その時には、
面談や職場巡視で会社を訪れると、
お茶かコーヒーを出してくれました。

それが会社に健康管理室が出来、
看護師さんが所属して担当となると、
パタリとお茶やコーヒーが出て来ることはなくなりました。

ご機嫌を取り結ぶ、ということでもないのですが、
時々もらいもののお菓子などを、
看護師さんに持って行くのですが、
ちょっと意外そうに手に取って、
それでお終いです。

こうした時くらい、
そのお菓子を1つ、お茶と一緒に出してくれてもいいのにな、
とチラと思いますが、
そうしたことは絶対にありません。

医者にお茶を出すような行為は、
自分が医者の子分であるような気持ちにさせられて、
耐えられないのかしら、
と思ったりもします。

勿論お茶など出しても出さなくてもどちらでも良いのです。
ただ、こうしたこと1つにも、
医者と看護師という関係の微妙さと、
ある種の屈折した感じは、
見て取ることが出来るように思います。

今思うと微笑ましい感じがするのですが、
まだ僕が大学病院にいた20年くらい前に、
病棟にアメリカで最新の看護を学んで来た、
という看護婦さんがやって来て、
それまでの看護婦の仕事を見直して、
医者の下働きのような作業は、
「いたしません」というような宣言をしたことがありました。
その代わりに看護研究を朝から晩までやっていて、
医局は大騒ぎになりました。

ただ、元々大学病院の病棟では、
殆どの雑務は研修医や下っ端の医者の仕事ですから、
あまり看護婦さんの業務はありません。
採血も点滴も全部医者の仕事です。
それでも、点滴の準備をしたりする仕事があって、
それも「先生やって下さい」という感じになったので、
医局からも不満が出たのです。

僕は特に看護婦さんの考え方が変化することは、
おかしなこととは感じませんでしたが、
昔からずっとその病棟にいて、
医局の医者のやり方の全てを心得ていて、
歴代の教授の信頼も厚かった看護婦さんが、
医者に従順なのがけしからんとか、
准看護婦なのが気にいらんとか、
新しい教育も知識も身につけていないのがけしからんとか、
色々と理由があったのでしょうが、
主任格であったのが降格のような格好になり、
露骨な苛めを受けて辞めてしまったことに、
非常に腹が立ちました。

こうした改革で看護師さんの社会的地位が上がり、
看護師さんの専門的な技量が評価され、
より患者さんのためにもなる高度の医療が実現するなら、
それに越したことはありません。

しかし、どうも医者と看護師との関係がギスギスしただけで、
それ以上の変化はなかったように思いました。

そんな最中に、離婚したばかりの医局の先輩が、
病棟の看護婦さんと電撃結婚したのでビックリしました。
とても笑顔の素敵な看護婦さんで、
朝その笑顔を見せられると、
別に付き合っている訳ではないのですが、
「今日一日頑張ろう」
という気分にさせられたのです。
しかし、いつも「いたしません」の看護婦さんが、
ある時からその先輩の先生のためだと、
甲斐甲斐しく点滴の準備などするようになったのです。

こんな不公平があって良いのでしょうか?

意味もなく「畜生」と思いました。

勿論怒る方が馬鹿で、
世の中というのはそうしたものなのです。

医療は医者を頂点とするピラミッド構造で、
それなりに機能していたのですが、
最近は専門職の数も増えましたし、
介護の占める役割も大きくなりましたから、
そうした構造は成立し難くなり、
あちこちで軋轢が生じているのが昨今だと思います。

医者と他の職種とのトラブルも勿論あるのですが、
それ以上にこじれ易いのが、
医者以外の専門職種同士の関係のようです。

老人ホームでは看護師さんとヘルパーさんとの関係は、
あまり良くないことが多く、
お互いに相手がまっとうな仕事をしていない、
と感じていることが多く、
待遇面においても多くの不満を抱えていることがしばしばあります。

施設の経営者は医師や看護師ではないことが殆どなので、
概ね専門職としての看護師の仕事への理解が乏しく、
採用の際の判断も甘いことが多いので、
仕事の出来ない看護師を採用してしまって、
こんな仕事ならヘルパーでも充分、
と考えて給料を減らし、
待遇が悪いので更に良い看護師が集まらない、
という悪循環に陥ります。

看護師さんは医者を相手に待遇改善や自分達の職種の有用性を、
戦って来たという側面が大きいので、
他の介護職や医療職との関係における、
自分達の専門性や有用性の主張には、
慣れていないという側面もあるのではないかと思います。

医者は所詮馬鹿な世間知らずのお人よしですから、
看護師さんにワーワー言われればシュンとしてそれでお終いですが、
他の職種の方にその勢いで交渉しても、
思うような結果にならないばかりか、
職種間の軋轢が生じるだけの結果になるのかも知れません。

医者を頂点にした秩序など、
過去の遺物で論じること自体無意味ですが、
医療や介護はある対象者に、
統合的に提供される性質のものなので、
各職種間の連携は色々な意味で重要なことです。

ただ、その時に人間同士の関係以上に、
個々の職種の待遇面や専門職としての評価が、
確立されていることが重要だと思うのですが、
その辺りの不確定性が、
職種間の軋轢などの、
1つの大きな要因となっているように思われるのです。

行政はそうした混乱を知っていながら、
これを機に全ての専門職の待遇を下げ、
社会保障の人件費を削減しようと企んでいるので、
そうしたもめごとをむしろ煽っているのだと思いますから、
問題の解決はなかなか難しいことなのではないかと思います。

念のため補足しますが、
今日の文章に少しでも看護師さんへの悪意が感じられたら、
それは全くの誤解です。
看護師さん抜きで僕の仕事は何も廻りませんし、
本当に毎日感謝しています。

いつも本当にありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

京都駅のホームで4時間待った話 [身辺雑記]

こんばんは。

六号通り診療所の石原です。

今日は奈良から戻って来たのですが、
京都駅で4時間近く待ちました。

年末から風邪を引いてしまったらしく、
身体がだるくて、ただでさえ調子が悪かったのですが、
すっかり止めを刺された、という感じです。

朝有楽町駅のそばで火事があり、
その影響で東海道新幹線が止まっている、
という情報は近鉄奈良駅であったのですが、
まあ朝の6時の話ですし、
取り敢えず京都まで行ってみようと思いました。

それが丁度お昼の頃です。
0時53分発の東京行きに乗るつもりでした。

京都駅に着くと、
物凄い人で改札口まで行くこともままなりません。
アナウンスらしいアナウンスもなく、
改札を入ろうとする人と出ようとする人が、
そのままぶつかり合って止まっている感じです。

どうにか押し合いへしあいホームに出ると、
0時53分発ののぞみが、
掲示板には一応クレジットはされています。

ただ、広いホームに1人も駅員さんの姿はなく、
ホームは人であふれているのですが、
10分くらいが経ってもホームに入って来る新幹線はありません。

そのうちに、
0時53分発ののぞみの掲示が2番目に入れ替わり、
13時7分くらいののぞみが一番上にクレジットされてしまいます。

録音されたアナウンスが、
「13時7分ののぞみは遅れています」
という内容を繰り返しますが、
0時53分発は何処に行ったのか、
全く言及がありません。

すると、
反対側のホームに来る列車のアナウンスが唐突に流れ、
僕の待っている側ではなく、
反対側のホームに、
ようやくひかりが到着します。

これが物凄い人です。
ドアの周りの通路にも人が溢れているのですが、
一旦外に出ようなどという余裕はなく、
1つのドアからせいぜい数人しか入ることが出来ません。
その列車の指定券を持っている人も、
中に入ることが出来ずに弾き出されてしまう、
という酷い有様です。

そんな感じで満員の列車が次々と到着はしますが、
0時53分はそのたびにどんどん掲示が下にずれ、
追い抜かされてしまって駅には着きません。

ようやく駅員さんに状況を聞くことが出来ましたが、
到着の順序は都合でめまぐるしく変わっているので、
いつ着くかは分かりません、
という何の解決にもならないような返事です。

結局その後もどんどん僕の乗る筈ののぞみは、
後続の列車に抜かされて、
到着したのは予定より3時間50分くらい後のことでした。

身体は凍りつき、足は棒です。
本当はもっと早い新幹線に乗ってしまっても良かったですし、
どうせ何時間も待つことになるのなら、
何処かで時間をつぶしても良かったのですが、
如何にもすぐに0時53分発が来そうな雰囲気が最初にあったので、
違う列車に乗るよりも…
と思ってそのまま待ってしまい、
1時間が過ぎると今度は意地になってしまい、
4時間近くホームで立ち続けることになってしまったのです。

そんな訳で今日はもう寝ます。

石原がお送りしました。

島倉千代子さんと守秘義務の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。

ちょっと福井の方まで行って、
一泊して帰る予定です。

雪が心配です…

今日は雑談です。

12月20日のフジテレビで、
先日亡くなった島倉千代子さんのドキュメントがあって、
妻が見たいと言うので一緒に見たのですが、
色々な意味でちょっと驚きました。

まず、医学用語のテロップに間違いが多いのにビックリしました。

一番凄かったのは、
肝臓癌の治療に手術を勧められた島倉さんが、
手術は舞台に立てなくなる可能性があるので困ると、
別の治療を行なったというくだりで、
その治療の名称が、
「冠動脈塞栓術」とはっきりテロップで出ていました。

勿論冠動脈と言うのは、
心臓を栄養している血管ですから、
肝臓癌とは何の関係もなく、
冠動脈が詰まるのは心筋梗塞ですから、
心筋梗塞を起こすような治療がある訳はなく、
「肝動脈塞栓術」の間違いです。

これは確かスポーツ新聞か何かの記事で、
既に同じ誤りがあって指摘されていたと思うのですが、
それでも堂々と誤りを繰り返していたので、
驚きました。

それから、1993年に乳癌の温存手術を受けた時の、
当時のテレビのドキュメントが流れたのですが、
そこでの字幕では、
リンパ腺が「リンパ線」と記載され、
放射線科が「放線科」と記載されていました。
登場した主治医の先生は、
「放射線科」と言っているのですが、
何となく聞いた印象としては、
「放線科」と聞こえるので、
そのまま文字起こしをしてしまったようです。

最近のこうした医療用語は、
ほぼ正確なことが多いので、
ゴールデンタイムの番組で堂々とこうしたミスが流れるのは、
かなり珍しいことだと思いました。

もう1つ引っ掛かったのは、
主治医とされる先生が実名で登場して、
島倉さんがその先生宛てに送った病状についてのファックスが、
病院に送られた着信側のものを、
そのまま公開されていたことです。

ファックスの内容は、
今日は具合が悪いので、
9時までには病院に行かせて下さい、
のようなもので、
それから病状への不安や、
将来への不安が綴られています。
紅白の出場が決まった際に、
その先生に宛てた私信の内容も公開されていて、
自分の余命はこれこれなので、
といったような話も書かれています。

亡くなったばかりの患者さんからの、
このような診療についての私的なやり取りを、
主治医の判断で公開しても良いものでしょうか?

僕にはどうも疑問に思えてなりません。

こうした私信が公開されても良いのは、
敢くまでご本人がそれを、
生前に希望していた場合に限ると思います。

しかし、番組の流れを見る限り、
そうしたことは考え難く、
そもそもファックスは送り手の原文がある筈で、
島倉さん自身がそれを公開する意向であれば、
原文の方を紹介すれば良いのですから、
主治医が自分の判断で公開したのにほぼ間違いはなく、
臨床医の基本的な態度として、
問題が大きいように僕には思えました。

僕のブログなどでの診療の守秘義務についてのスタンスは、
患者さんの特定に繋がる情報、
実名などは勿論ですが、
特に時系列でいつこういうことがあった、
というような点に関しては、
原則として記載はしない、というものです。

要するに、今日の外来でこんなことがあった、
というような記載は原則としてしない、ということです。

僕も以前はかなり際どい記載があったのですが、
最近は間違いなく、
このルールは守っているつもりです。

ただ、ツィッターをされているような先生は、
匿名の方は勿論、
実名の方やほぼ実名と同様(医療機関がリンクされている等)の方を含めて、
多くの方が、
「今日こうした患者さんが来てこれこれの目に遭った」
と言うような話を時系列でつぶやかれています。

匿名の記載であっても、
患者さんご本人がお読みになれば、
間違いなく自分のことだと分かる訳ですから、
ご本人の承諾なくこうした記載をするのは、
矢張り大きな問題があるように僕には思えます。

しかし、どうしても時系列のこうした発信媒体では、
そうした誘惑に抗い難いことは確かで、
安易にそうした誘惑に流されないように、
自分の中のルールを常に確認しながら、
拙い発信を続けたいとは思っています。

それではそろそろ出掛けます。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

薬剤師さん、ごめんなさい [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は産業医の面談に廻る予定です。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

診療所は院外処方なので、
診察の後で処方箋を発行し、
それを調剤薬局でお薬に変えてもらうことになります。

その処方箋に不備があったり、
薬の組み合わせや量などについて、
薬剤師さんの目から見て疑問の点があると、
診療所に問い合わせの電話が入ることになります。

処方医の立場としては、
完璧な処方でなければなりませんし、
そう心掛けてはいるのですが、
実際には頻繁に電話が掛かって来ます。

その多くは、申し訳ありません、凡ミスやうっかりミスです。

この点で僕のような底辺の医者は、
薬のプロである薬剤師の皆さんには頭が上がりません。

ミスにも色々なものがあり、
ちょっと気を付ければ防げるものもあれば、
防ぐことが難しいものも中にはあります。

先日こんなことがありました。

30代の女性の方が初診で診療所を受診され、
1年前の受診歴は残っていたのですが、
そこでは特にご病気はありませんでした。

風邪症状の後で咳が止まり難いという訴えで、
これは今しばしば見られるものです。
熱はなく全身状態は特に問題はありません。
咳は咽喉がむず痒い感じで始まり、
一旦出てしまうとなかなか止まりません。
咽喉を見ても腫れはなく、
聴診器で呼吸音を聞いても特に異常はありません。

数日前に他の医療機関を受診して、
その時の処方はニューキノロン系の抗生物質であるクラビットと、
痰切れの薬であるムコダインの2種類でした。

咳の風邪に検査をしないですぐクラビットというのは、
比較的よく出される処方ですが、
ネットなどで著明な某先生などからは、
目を吊り上げて、バカ医者と、
吊るし上げに遭うこと必至の処方です。

処方した理屈は、
咳風邪にはマイコプラズマやクラミジアの感染の事例があり、
その場合第一選択のマクロライド系の抗生物質には、
現在は耐性菌が多いので、
耐性菌の少ないニューキノロンを使用しよう、
という考え方です。

ただ、
マイコプラズマの肺炎では、
病初期から発熱は必発で、
本来は肺炎の有無をレントゲンなどで確認するべきですし、
軽症の事例で本当に抗生物質の使用が、
予後の改善に結び付くという根拠はありません。
また、特に結核の流行地域においては、
ニューキノロンの使用により、
結核が見落とされたり、
その予後が悪化する、という、
海外の報告もあります。

従って、咳の風邪と思われる患者さんに対してのニューキノロンの使用は、
あくまで慎重でないといけないのです。

余談でした。
話を元に戻します。

クラビットの処方は4日間だったので、
僕はその使用はそのまま続けてもらい、
それに加えて喘息にも使用する抗アレルギー剤と、
シロップの咳止めを処方しました。

患者さんが診療所を出てしばらくしてから、
調剤薬局から電話が入りました。

その患者さんは緑内障で点眼薬の処方を受けているので、
シロップの咳止めは禁忌で使えない、
と言うのです。

こうしたことは結構あります。

風邪薬や咳止めなどに含まれている、
抗ヒスタミン剤は、
抗コリン作用を持っているので、
緑内障には禁忌です。

精神科や心療内科で使用される薬剤の大多数には、
矢張り抗コリン作用があるので緑内障には禁忌です。

腹痛や結石の痛みに使用されるブスコパンも、
抗コリン剤なので緑内障には禁忌です。

ただ、実際には一口に緑内障と言っても、
その程度は様々で、
その病態も異なりますから、
その全てにおいて、
同じように悪化のリスクがあるとは言い切れません。

実際に心療内科の患者さんのケースなどでは、
緑内障の点眼をしているからと言って、
処方を中止するのは現実的ではないので、
眼科の先生に問い合わせをすると、
問題ないので使って下さい、と言われることが殆どです。

抗ヒスタミン剤やそれを含む処方を出す時には、
従って緑内障と男性では前立腺肥大の有無の問診が、
必須なのですが、
せわしないとうっかりすることがあります。

今回は以前の初診時に既往症なしであったことと、
30代の女性であったことから、
あまりその可能性を考えずに、
特に聞くことなくそのまま処方してしまいました。

僕のミスです。

ただ、多くの緑内障の点眼の処方は、
問題のないケースが臨床上は多いので、
僕は薬剤師さんからお電話で指摘を受けた時に、
そんなことをちょっと言い訳めいた感じで話しました。

すると、ちょっと木で鼻を括ったような感じで、
「でも、全ての緑内障は禁忌になっていますから」
と言われたので、
いけないことなのですが、
ちょっとカチンときてしまい、
やや攻撃的な感じの受け答えになってしまいました。

電話を切ってすぐ反省しましたが、
こういうのは後の祭りです。

患者さんには申し訳なかったのですが、
もう一度診療所まで戻って来て頂き、
お詫びをして悩んだ末に麦門冬湯を出しました。
これも馬鹿の何とか…みたいな漢方の使い方で、
本当はしたくなかったのですが、
考える時間もなく、
何となくお茶を濁す感じになりました。

こういうことが一度あると、
もう絶対にないようにしよう、
と心に誓うのですが、
それでも忙しさに紛れて、
つい凡ミスをしてしまうことがあり、
それを指摘されると、
つい大人げない態度を取り、
大人げない言葉を発してしまうことがあります。

僕は性質として、
そうしたことが1つあると、
2日くらいはウジウジと悩んでしまうので、
そんなダメージを食らうくらいなら、
気を付ければ良いのに、と思うのですが、
なかなか難しいところです。

今日の話は端的に言えば、
「薬剤師さん、ごめんなさい」
ということです。

いつも教えて頂いてばかりなのに、
つい卑小などうでもよいプライドもどきが頭を出して、
腹を立ててしまう心の貧しさをお許し下さい。

今日もよろしくお願いします。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

「老婆心ながら…」その他 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は胃カメラの日なので、
カルテの整理をして、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日は言葉にまつわる雑談です。

「老婆心ながら…」という言い方があります。

辞書を引くと、
世話焼きの老婆のように、
しなくても良いおせっかいを焼くこと、
のような説明になっています。
転じて概ねこの言葉を使う人は、
相手のことをお馬鹿さんだと思ったり、
相手の言っていることが、
誤りや誤解であると思ったりした時に、
ちょっとした謙遜の意味合いを含めて、
「老婆心ながら、
こうした発言をされる際には、
せめて専門書の1冊くらいは読破してから、
されることをお勧めします」
のように、使われていることが多いように思います。

こうした使い方をする人は、
相手がどういう立場の人であっても、
同じ表現を使っています。
相手が年長者であれ、年下であれ、区別はありません。
一方で、この言い方は、
あくまで明らかな年長者や上の立場の人が、
年下や目下の人に向かって使用する時のみ、
使うべきだ、という見解があります。
その通りだ、という意見がある反面、
そうした人間関係には関わりはない、
という意見もあります。

皆さんはどうお考えになりますか?

これはあくまで僕の私見ですが、
「老婆心ながら」という特殊な言葉は、
明らかな年長者が、遥かに年下の相手に対する時のみ、
使用が可能な言葉だと思います。
辞書にはそうした記載はありませんが、
老婆のように、という表現自体が、
既にそうした意味合いなのです。

この言葉は20~30年前くらいに、
文筆業の特に若手の方が、
相手を批判したりする時に、
おそらくはあえて厭味の意味を含めて使用したので、
それがその後の世代に伝わって、
相手をへこませる議論の際の1つのレトリックとなり、
そうした方を中心に普及したものだと思います。

通常の会話などに使うのは不適切で、
語感も悪く、僕は大嫌いです。
こうした言葉を濫用する方は、
そうした品性をお持ちの方であることが多いので、
僕は絶対に近付かないようにしています。

これは僕の尊敬する年長者から、
「老婆心ながら…」と教わりました。

それから…

「檄(げき)を飛ばす」という言い方があります。
これは辞書を引くと、
自分の考えをひろく世間に伝えること、
のように、書かれていて、
「後援会の席上、後援会長は絶対勝利を勝ち取ると、檄を飛ばした」
のように、使われることがよくあります。
作家の有川浩さんは、
自衛隊ものの作品などで、
この表現を盛んに用いています。
訓練の際に、「上官が檄を飛ばした」のような使い方です。

しかし、檄というのは、
元々は言葉を書いた木札のようなもののことで、
それを遠くにいる自分の味方に、
自分に呼応して戦うように促す中国の故事です。
転じて自分の考えを知らしめるために、
多くの人に文書を送り付けたりすることを意味しています。
 
つまり、その場にいない人に伝える意味なので、
会議や講演会などで、
その場にいる人に伝える時には、
使わない言葉なのです。
有川さんの使い方は、その意味では明確に誤用です。

これはどうもスポーツ新聞などで、
野球部の監督が選手を前にして発破を掛けるために、
「今日は死ぬ気でやれ!」
などと怒鳴ることを、
「監督は檄を飛ばした」
のように、誤用したことが始まりと考えられています。

「檄」という言葉が、
「激」に似ているので、
何となく複数の相手に向けて怒鳴ることを、
「檄を飛ばす」と錯覚したのです。

現在ではたとえばツィッターで拡散を呼び掛けたり、
メールを不特定多数に送りつけたりする行為は、
「檄を飛ばす」の正しい使用事例であるように思います。

これは高島俊男先生の、
「お言葉ですが…」の第3集に記載があります。

先日駒場アゴラ劇場で、
鈴木忠志さんの最近のエッセイ集を読みましたが、
矢張り「檄を飛ばす」を誤用していて、
「これこそ檄というべきものである」
というように、確か三島由紀夫をおちょくる文脈だったと思いますが、
死を覚悟したような文章のことを、
「檄」として理解しているようだったので、
非常に滑稽に感じました。
それも、物凄く偉そうに書いているので、
微苦笑を誘うのです。

それから…

「乖離」と言う言葉と、
「解離」という言葉があります。
いずれも読み方は「かいり」です。

これは両方とも「離れること」ですが、
乖離の方は「理想と現実の乖離」のように使い、
解離の方は「家族が解離する」のように使います。

何が違うのかと言うと、
解離というのはある1つのものが2つに割れることで、
乖離というのは元々別個のものに、
同一の関連性や同一の方向への傾向があり、
それが失われることを示しています。

1つであった家族が2つに割かれたり、
1つの人格が2つに分かれて多重人格になるのは、
従って解離ですが、
理想と現実というのは、
その物の持つ傾向のようなものが一致していて、
それがバラバラになるので、
乖離なのです。
乖離はまた「袂を分かつ」のような意味でも、
使用されることがあります。

宮部みゆきさんの「誰か」には、
家族の関係性がバラバラになることを、
乖離と表現していて、
さすがに現代口語文のお手本なので正確なのですが、
同じ作者ばかり出して失礼ですが、
有川浩さんの「県庁おもてなし課」では、
1つであった家族がバラバラになることを、
「乖離」と表現していて、
これは間違いなのです。

これも「乖離」という字が何となく格好良く見えるのと、
広辞苑などの説明が、
「そむきはなれること。はなればなれになること。」
と意味不明なので、
よく誤用されるようです。

これは大学の研究室時代の論文のタイトルに、
乖離という字を使って、
その時の指導医の先生から教わりました。

今日は言葉についてのあれこれでした。

それでは今日はこれくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

現代の「死の本」の謎を考える [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

明日から8月15日まで、
診療所は夏季の休診になります。
ご迷惑をお掛けしますがご了承下さい。

その間はメールのご返事も出来ませんので、
その点もご了承下さい。

今日は雑談です。

世の中には色々な人がいて、
色々な意見を発信したり、
作品にしたりしています。

そのこと自体は勿論、
何ら問題はないことだと思います。

ただ、
特に人間の生死に関わるような情報に関しては、
それを安易に多くの人の目に触れる場所に、
晒すようにして発信した場合、
そのことがそれを無防備に受け取る個人に、
どのような影響を与えるかという点についての、
想像力を持つことが、
発信者の義務である、
という言い方は出来るように思います。

勿論この点については、
僕自身も他人事ではありません。

1冊の本が、
それを読む人間に、
どのような影響を与えるでしょうか?

僕は読書は嫌いではありませんが、
本というもの、活字というものが、
勿論現在ですから電子メディアも含めてのことですが、
それを読む人間に与える影響については、
それほど大きなものであるとは、
考えてはいませんでした。

昔のミステリーに、
「死の本」というようなテーマがありました。

ある謎の本があり、
その本を読んだ人間には、
必ずほどなく死が訪れるのです。

一体その本には何が書かれていたのだろうか、
というような謎です。

本が人を殺す、
そんなことが本当にあるのでしょうか?

僕はこれまで、
そんなことはないと信じていました。

しかし、
そんな僕の信念を覆すような事実に遭遇したのです。

それが近藤誠医師(以下敬称略)によって書かれた、
「医者に殺されない47の心得」
という1冊の本です。

実際の事例をご紹介させて頂きます。

基本的に事実ですが、
その深刻さと守秘義務及び個人の特定を避ける観点から、
細部は敢えて変えて記載している部分のあることを、
予めお断りしておきます。

Aさんは60代の男性で、
肺癌が見付かり手術を受けました。
術後に内服の抗癌剤を使用しましたが、
生活が制限されるような副作用はなく、
その後4年間は趣味のスポーツも問題なく出来るまでに、
生活の質は改善していました。
ところが、4年目の定期検診で、
肺癌の再発が見付かりました。
慎重に検査を重ねたところ、
肝臓や脳にも転移が見付かり、
肺の転移巣を切除した後、
脳に放射線治療を行ない、
それから体力の回復を待って、
抗癌剤治療の方針となりました。

一旦退院して自宅に戻り、
歩行が困難となっていることにショックを受けると、
吐き気にも負けずに食事を摂り、
少しでも早く抗癌剤治療がスタート出来るようにと、
自宅でリハビリを続けました。

ある日、親戚がその家を訪れ、
今一番売れている本で、
とっても面白いから是非読んでみなさい、
と一冊の本を手渡されました。

その本が「医者に殺されないための47の心得」です。

奥さんはその親戚を駅まで送りに行き、
1人家に残されたAさんは、
その本を何の気なしに読み始めました。

1時間ほどして、
奥さんが家に戻って見ると、
Aさんはベッドの隅に枯れ枝のように蹲っていて、
その顔は蒼白で苦悶に満ちていました。
先刻の笑顔が嘘のような変わりようです。
全身の痛みを強く訴え、
モルヒネの屯服の錠剤を続けて飲みましたが、
あまり楽になったようには見えません。

Aさんの口からは、
自分の治療が無駄であったことを悔やむ言葉だけが、
あたかも奥さんへの非難のように、
ある種の呪詛のように溢れ出ました。
それまであれだけ前向きで、
病気と闘う決意を持ち、
自宅でリハビリに励んでいたAさんが、
別人のように変貌してしまったのです。

その2日後の早朝、
Aさんは全身の疼痛を訴え、
呼吸困難に陥ると、
苦悶の中で亡くなりました。
進行癌による死亡として、
解剖はされませんでしたが、
主治医の予想より、
遥かに早い急変でした。

また、こんな事例もあります。

Bさんは70代の女性で、
矢張り肺癌で手術を受けました。
名医の出るテレビ番組を見て、
ここなら大丈夫と確信し、
そこで説明を受け、
納得の上手術を受けたのです。

手術のリスクやその後の再発の可能性などについても、
その時点では納得の行く説明を受けました。

手術後1か月は良好でしたが、
3ヶ月後の検査で、
肺内の再発と肝臓の転移が見付かりました。

その時点で主治医の説明は、
リスクはあるけれども、
この段階では抗癌剤による治療しか、
残された道はない、
という話でした。

Bさんもご家族も、
その時点では主治医の説明に納得し、
リスクも高いという説明には不安を抱きながらも、
少しでも前向きに癌と闘いたい、
という希望を持つことを心に決めました。

ところが…

その日例の本を片手に、
日頃は疎遠にしていた親戚がやって来て、
これを読んでみろ、さあ読めと、
体調の悪いBさんに迫り、
絶対に抗癌剤の治療などするべきではない、
と口角泡を飛ばして言い募ります。

その本に書かれていることによれば、
そもそも進行癌の可能性が高いのに、
最初に癌の手術をしたのが、
取り返しのつかない誤りで、
そのために全身に転移して、
癌の進行が早くなってしまったのだから、
その上に死期を早めるだけと書かれている抗癌剤を、
使用するなどもっての外だ、
と言うのです。

その場で主治医との交渉で中心となっていた家族と、
普段は疎遠にしていた家族とが、
Bさんを挟んで口論となり、
お前が悪い、いやお前が…
と収拾のつかない有様です。

Bさんは自分の治療方針を、
どちらとも決めることが出来ず、
気持ちが折れるように体調を崩し、
衰弱と脱水のために近隣の病院に運ばれ、
数日後に亡くなりました。
点滴のみで経過観察中に、
意識レベルが低下して、
そのまま心肺停止となったのです。

この2つの事例に共通することは、
患者さん自身はその「死の本」を、
読もうという気はなかったのに、
親戚や友達などが良い本だからと無理に勧め、
そこに書かれている事項によって、
自分が癌と闘っている、というイメージ、
闘いに生きる希望を持つ、というイメージが、
無残に打ち砕かれ、
自分が命懸けで選択しやっていたことが、
無駄であるばかりか逆効果であったことを突き付けられ、
更に第2の事例においては、
誤った道を選択することを促したのも、
それを手遅れになってから誤りだと指摘したのも、
どちらも同じ自分の近しい人で、
その近しい人同士が、
そのことで罵り合う様を目にすることで、
全ての希望を失い、
絶望の中で体調を崩した、
ということです。

この本は同じ作者のこれまでの同種の本と比較すると、
意外にその主張は穏当なもので、
「医療などに執着して時間を割かれることなく、
これも運命と受け入れて平穏に死ぬことが一番ではないか」
という、ある程度の年齢の方なら、
誰でも一度は考えそうで、
多くの著名な方がエッセイなどでも書かれているような、
ある意味凡庸な思想が展開されています。

医療は勿論万能ではなく、
無理な治療のために却って命を縮めることもあり、
また適切な治療により助かる方もいます。

問題はこの資本主義の世の中においては、
医療は決して公平ではなく、
特定の恵まれた人だけが、
医療の恩恵を受け、
それ以外の多くの人は、
医療にすがっても、
無残に裏切られることがしばしばだということです。

従って、
やや不穏当な表現をお許し頂ければ、
この資本主義の世界において、
ある命に関わる病気から、
生還出来るかどうかは、
それ自体が一種の戦いであって、
他人を押しのけ自分だけが助かるために、
情報を集めコネを頼り、お金に頼って、
「生の闘争」を続けなければなりません。

しかし、
病気と闘う多くの人にとって、
この状態は非常に辛く消耗することです。
治療そのものの苦痛もさることながら、
ある種のエゴイズムが必要となるので、
人間性を喪失するという危機に、
心が揺らぐのです。

そんな時に、
「何もしないのが一番」
という甘い囁きは、
患者さんの心に強く響きます。

従って、
ある種の達観を求めている人にとって、
こうした本があることは一定の意義があると思いますし、
こうした本を読んで人生の選択を考えることは、
僕は個人的にはもっと別の人の本を読んだ方が良いと思いますが、
誤りとも思いません。

しかし…

一旦は癌と闘うことを人生の目標として定め、
ご家族のサポートと共に、
医療を信じて戦っている患者さんにとっては、
上記の事例でお分かりのように、
この本は非常に強い負のインパクトを持ち、
その人の人生を終わりにしかねない危険を孕んでいるように、
僕には思えます。

その危険は特に、
半ば他人事としてその患者さんに接している、
「遠い親戚」のような方から強制された場合に、
より大きな影響を持ちます。

世の中には多くの本があり、
似たようなことが書かれている本も少なくはありません。

しかし、
この本が別格的なインパクトを持っているのは、
幾つかの理由があるからです。

まず著者の慶應病院放射線科講師、
という権威の効果です。

著者はこれまでの文筆活動により、
非常に著明な方ですし、
慶應病院も日本の医療の最先端というイメージがあります。

医療に詳しくない方が、
「癌は放置するのが一番」と言っても、
専門家ではないから…
と思いますが、
慶應病院講師と言えば、
その大先生がこうしたことを言われているのだから、
という権威により、
その浸透の仕方が大きく違います。

次にこの本の構成ですが、
これまでの同じ著者の本と明確に違う点は、
読者に内容を考えさせるのではなく、
考えさせないように書かれている、
という点にあります。

これは新興宗教の書籍や自己啓発本と同じ趣向で、
「考えるな、信じろ、私に従え」
というメッセージを植え付けるように、
内容が巧みに仕組まれているのです。

そう思ってこの本を読み直してみると、
新興宗教の本に瓜二つで、
「医者に行くと殺される」というアジテーションは、
「○○をすると地獄に堕ちる」というような表現とまるで同じで、
そうならないためには、
「我を信じよ」という主張に繋がるのです。
宗教本では有名人の体験談や、
過去の出来事に対する薀蓄などが、
説得力を増すための仕掛けとして、
間に挟まれますが、
この本ではその代わりに、
「ランセットの論文にこんなのがあった」
という話や、
「癌の有名人は手術したために命を縮めた」
というような話があるのです。

医療従事者がこの本を読むと、
表現は扇情的で下品だけれど、
意外に間違ったことは書かれていない、
というように思います。

全ての癌は手術で治らない、
と言っているのではなく、
その項目に書かれているのは、
あくまで「スキルス胃癌」の話なので、
スキルス胃癌に限定すれば、
その表現は決して誤りとは言い切れません。

しかし、
その合間合間に、
「癌などは切らない方が長生きする」
というような、
全ての癌を一括りにしたとしか思えない、
放言めいたセンテンスが挟み込まれるので、
知識のない方が読めば、
これは全ての癌についての話だ、
と読めてしまいます。

上記の2人の患者さんも肺癌で、
実際にはこの本には肺癌の話など、
殆ど出て来ないのですが、
それでも自分や家族の病気に、
結び付けて読んでしまうのです。

おそらくはかなり意図的な、
文章のトリックが使われているのです。

治る癌は勿論沢山あるのです。

本来は本を読む全ての方のことを考えれば、
治らない癌の話だけではなく、
治る癌の話も一緒に書くべきです。

しかし、
それではインパクトが弱く、
「全ての日本の医療の権威め、地に堕ちろ!」
というようなこの本に籠められた、
作者の裏の意図である呪詛のようなものが、
希薄になってしまうので、
敢えてそうはしていないのです。

知識のない方が読めば当然誤読するように、
全ては仕組まれているのです。

僕が言いたいことは、
どのような本をどのように書き、
どのように売ることも自由ですが、
人間は「希望」がなければ生きていけない生き物なので、
極少数ではあれ、
癌と闘っている方の、
希望を根こそぎ奪うような表現は、
慎むべきではないかと思いますし、
少なくとも実現可能な選択肢を、
提示するような表現に留め、
真実を伝えたい、という作者の気持ちは分かりますが、
今の医療に対しても、
何らかの希望を残すような書き方をするべきではないか、
ということです。

上記のような患者さんがこの本を読むこともあるのですから、
そうした患者さんにとって、
全ての希望を奪うような書き方だけは避けて頂きたいのです。

また、仮にこの本に共感を持ち、
他人に薦めようと思う方は、
どうかこの本の記載が、
その薦める方の人生の希望を奪うことがないかどうか、
今一度思案してから、
それでも有益だと思う時のみ、
他人に薦めて頂きたいと思うのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

永遠に降り続く雨と絶対に来ない電車の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今週はかなり疲れました。

今日は雑談です。

高校の時にクラス1の秀才がいて、
彼(男子校です)は東大が嫌いだと言って、
東工大に入ったのですが、
天気予報について、
ある時こんなことを言っていました。

「昨日の雨の確率は50%だったけど、
雨が降らなかったじゃん。
今日の予報も50%だから、
今日雨が降る確率は、
100%ということだよね」

すぐには意味が分かりませんでした。

ただ、
後になって、
なるほどな、
というように思いました。

彼は天才過ぎたのかも知れませんが、
ある種の特殊な数学的世界に、
生きていたように思います。

確か星新一のショートショートにもあったと思いますし、
「世にも奇妙な物語」にも、
よくあるネタですが、
毎日同じ1日を繰り返す男、
という話があります。

朝起きてある人生の1日を生き、
夜になって眠りに落ちるのですが、
次の日の朝目が覚めてみると、
全く前の日と同じ1日が始まるのです。
その不毛な円環から、
彼は脱出しようとして足掻きます。

これは全くのフィクションですが、
人間は常に毎日を、
その前後の1日と、
基本的には同じ蓋然性を持つ現象であり実体と、
信じて生活をしている場合と、
落ち葉が積み重なって層を成すように、
1日1日がある1日の上に積み重なり、
ある1日の結果として、
次の1日が生じるように、
信じて生活している場合が、
あるように思います。

毎日起る現象が、
独立したものなのか、
それともある種の因果律に沿って、
前日の現象に引き摺られて起る現象なのか、
その捉え方の違い、
と言い換えても良いかも知れません。

ちょっと分かり難いでしょうか?

毎日1回サイコロを振るとします。

どの面が出る確率も、
正確に6分の1であるとします。

この確率論的な意味合いは、
ある「架空の」全く同じ1日に、
振ったサイコロの話です。

しかし、実際には多くの人は、
現実の出来事をそのようには考えません。
考えることに抵抗があるのです。

統計の問題や数学の問題を、
完璧に解く頭脳があっても、
自分の身の回りの事象を、
そのように考えることはしないのは、
どうもよくあることのようです。

ある人は毎日を独立して考えますから、
ある日にサイコロの目が1で、
次の日も1で、
その次の日も1であったとしても、
格別不思議とは思いません。
これが60000回サイコロを振れば、
その時には10000回の1が、
積算としては出ると理解しているからです。

それが、
毎日を連続的に捉えて生きていると、
サイコロの目がある日1に出て、
次の日も1が出て、
その次の日も1が出たら、
そんなことは有り得ないと思うのです。
サイコロの目が出る確率が6分の1であるのなら、
1が出た次の日に出る目は、
1であってはならないからです。

ある薬の副作用が、
1万人に1人発症するとします。

しかし、
実際にはこの薬はまだ、
1000人しか使ってはいません。

この時に、
たとえば1001人目にその副作用が出たとします。

ある考え方を持つ人は、
「それは有り得ない」と言います。
1万人でようやく1人出る副作用が、
1001人に1人出る訳がない、
それは数学的に誤りだと思うのです。

従って、
それは副作用のように見えるけれど、
実際にはそうではなく、
他に何らかの原因がある筈だ、
と主張します。

しかし、
勿論そうではないのです。

1人目の人でも、
1万分の1の確率で、
その副作用が出る可能性があるからです。

仮にそうであれば、
その後の9999人は、
副作用が出ないかも知れません。

しかし、
出るかも知れません。

2人目も副作用が出るとすれば、
その後の19998人には、
副作用は出ないかも知れないからです。

要するに、1人目とか2人目というのは、
人間が勝手に想定した世界の話で、
確率論の世界では、
1人目が実は1万人目でも同じことなのです。

言い換えれば、
確率論の世界というのは、
常に永遠の中途にあるのです。

しかし、
人間がサイコロを振る時には、
往々にしてそうではありません。
人間は自分が行動の主体であると信じているので、
自分にとっての「1回目」から、
数を数えて現象を見ているからです。

被曝した人口は30万人で、
癌になる確率が100万人に1人であれば、
体が3分の1のペラペラの人間でない限り、
癌になる人は増えない、
という考えを、
意外に平然と口にされる方もいます。

そうした発言をする人を見ると、
僕はあまりそばには行かないようにしよう、
と思います。

その人にとっての世界はそうした世界なのであって、
その世界ではある条件の下には、
永遠に雨が降り続き、
時刻表があっても、
絶対に電車はホームには停まらないのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

人生は物語である、ということ [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は祝日で診療所は休診ですが、
横浜の方で糖尿病の勉強会があるので、
そこに出掛ける予定です。

今日は雑談です。

山口猛さんが、
唐先生の状況劇場に入団した当時のことを書いた、
「紅テント青春録」は、
僕が折に触れて再読する愛読書ですが、
その中にこんな件があります。

唐先生は1975年に、
「任侠外伝・玄界灘」という映画を監督したのですが、
その時に主役の安藤昇が、
ショー用の背広を、
その時安藤さんの運転手をしていた、
若手の唐先生の劇団員が、
忘れてしまったと誤解して激怒し、
その劇団員を叱責しました。

安藤さんの叱責というのは、
それはそれは怖ろしいもので、
その劇団員は飛び降り自殺を考えるほどに落ち込んだのですが、
実はそれはその劇団員のミスではなく、
安藤さんのマネージャーのミスであったので、
安藤さんはすぐに自分の非を恥じ、
高級な洋酒2本に「さっきは怒ってごめんなさい」
という手紙を添えて送ったというのです。

劇団員は安藤さんの男気に感動しました。

僕はこの話がとても好きです。

この話のポイントは、
安藤さんが、
劇団員が主人公の物語に、
ハッピーエンドをプレゼントした、
ということにあります。

安藤さんくらいになると、
自分が主人公の物語で、
自分が活躍するのは当然のことで、
自分が関わった人物に対しては、
その人物が主人公の物語に、
脇役として登場することを厭わず、
そこにその物語なりの、
ハッピーエンドを用意しているのです。

凡人は自分の物語の主人公になることには、
概ね非常に熱心ですが、
他人の物語の脇役に廻ることには、
あまり興味を示さないもののように思います。

こんな話がありました。

僕が非常に尊敬している、
在宅医療の先生がいたのですが、
ある時僕が外来で診ていた患者さんが、
総合病院で癌と診断され、
治療が困難という判断になり、
病院の主治医は、
その在宅医療の先生に患者さんを紹介しました。

僕はその先生に在宅で診て頂けるのなら、
それに勝るものはないと思いながら、
これまでの経緯もあり、
自分も何らかの形で、
患者さんに関わらして頂きたい、
という思いがありました。

勿論病院にご紹介した時点で、
進行癌であったのなら、
こちらの落ち度でもあり、
そうしたことは考えないのですが、
その患者さんは最初の検査値の異常があった段階で、
癌の可能性を疑ってご紹介をしたのですが、
それから診断が確定しないまま、
ただ様子を見るだけで2年余が過ぎ、
最終的に転移の兆候があってから初めて、
診断が確定した、
という正直納得のいかない経緯があったのです。

それでその旨を、
尊敬する在宅医療の先生にメールでお伝えすると、
すぐにご返事が来て、
これは先生(僕のことです)が主治医で担当するのが最善で、
そのように病院側にも話をしますし、
私も全面的にバックアップします、
という内容でした。

僕はその先生の男気に本当に感動しました。

ところが…

何の連絡もなく2週間ほどが過ぎ、
それから診療所に1枚のファックスが送られて来ました。

そこには、
その在宅医療の先生のクリニックの他のドクターの名前で、
当該の患者さんの在宅診療を開始した、
という趣旨のことが書かれていました。

勿論僕が主治医になる、
というような話は何処にもありませんでした。

僕は患者さんご本人とご家族の意向も聞いた上で、
僕自身も患者さんのお宅に定期的に伺い、
その経過を見守りました。

患者さんの最後は、
僕が午後の診療中のことでしたが、
診察室に電話が入り、
その先生の声で、
今亡くなったと、
これも素っ気なく連絡が入りました。

僕がその後で先生のクリニックに研修に伺いたいと、
メールを出しましたが、
ご返事は来ませんでした。

その先生は最初はそのメールの通りに、
僕をサポートするおつもりでいたのだと思いますが、
病院との話し合いの中で、
何か事情が変わり、
お考えを変えて、
僕との約束はないものとしたのだと思います。

僕は一言の説明が欲しかったのです。

先生が変節に至った経緯を、
先生の言葉で、
別に二言三言でもいいのです。

しかし、
先生はそうする代わりに、
その後の僕からのアプローチを、
一切無視し、
最初のメールの内容が実際には存在しなかったかのように、
抹消してしまわれたのです。

僕は先生の「在宅医療一代記」の、
ごく小さな1つの挿話に登場する脇役でしたが、
その挿話は先生の物語からは、
なかったものとして削除されたのです。

また、こんなこともありました。

医師の属する団体があり、
その会合である時近隣の先生から、
団体の役職をやって欲しい、
という話がありました。

その先生自身が、
その時その役職に就いていたのですが、
途中で降りたいという意向があり、
その後任を僕にやれ、
という半ば命令に近いお話でした。

僕は別に役職に就きたいという気持ちはありませんでしたし、
時間的にもきついので気は進みませんでしたが、
どうしてもということなら、
止むを得ないことかな、
と思いました。

その数日後に近隣の先生が集まる会合があり、
その席で正式に議題としてその話が上がり、
僕が役職に就くことが決まりました。

ところが…

それから2カ月ほどが経ち、
役職の候補者が推薦されたという文書が届くと、
そこに僕の名前はありませんでした。

これもまた何か事情があって、
僕が役職に就く話が立ち消えになったのだと思いますが、
非常に強圧的に僕に「お前がやれ」と言われた、
その近隣の先生からは、
たった1本の電話も、
1行の手紙も、
何もありませんでした。

あたかも、
そんな話は最初から存在しなかったかのように、
その先生の「地域の社会派ドクターここにあり」
の物語の1つの挿話からも、
僕という脇役の存在は、
抹消されたのです。

僕の人生は思い返すといつもそんな感じで、
起承転結の結を欠く未完の物語が、
積み重なって構成されているような気がします。

同じようなことが何度もあるのは、
多分僕の方にも原因があって、
それに気付くことが出来ないだけなのかも知れません。

最初の安藤昇さんの挿話が素晴らしいのは、
劇団員に襲い掛かる理不尽な危機、
という短編小説に、
その危機が終結したタイミングに合わせて、
安藤さんの心遣いがあるのがポイントなのです。

僕が同じように謝ってお酒を送ったって、
とても感動は呼びませんが、
安藤さんがすれば感動を呼ぶのです。

これが人徳というか、
人間の格とでも言うべきもので、
映画やドラマのキャスティングと同じように、
現実の世界にも、
矢張り適切な立場と役割というのはあるものです。

僕は物語を愛していて、
今は殆ど時間がありませんが、
小説を書いている時が、
人生で一番楽しい、
というタイプの人間なので、
そう思うのかも知れませんが、
人間は人生を「物語」として生きていて、
それが人間の特性のような気がします。

それは長編小説でもありますが、
その人の感覚の中では、
短編小説の繋がりのようなものでもあり、
その自分が主人公の物語が、
1つ1つ結末を迎えていれば、
その人の人生は幸せですが、
それが宙ぶらりんのままで、
ハッピーエンドでもアンハッピーエンドでもなく、
他者によって放置されると、
それは本人にとっては非常にしんどいことで、
それが要するに人生のつらさや生き難さの、
本質のような気がします。

結婚式に意味があるのは、
それが2人にとって、
その出逢いから幾つかの危機を経て、
結婚という1つの結末を迎えるという意味で、
物語のハッピーエンドとして機能しているからです。

結婚する2人は、
その場で互いに自分が主人公であり、
それが自分が主人公の短編小説のハッピーエンドであることを、
意識していますし、
そこに列席している全ての人にとっては、
自分はこの物語の脇役であることを認識し、
結婚する2人が主役の物語を、
盛り立てる役割を果たすことに、
何の疑問も持ってはいません。

結婚式が素晴らしいのは、
つまりはそのように、
人間にとって理想的な物語空間が、
実現する場であるからなのです。

僕が今思うことは、
僕自身の物語は、
まあこの程度のもので、
結末の付かないモヤモヤした物語の連鎖なのですが、
こんな僕でも、
日々触れ合う他人の物語の中に、
脇役として登場しているので、
そうした他人の物語を、
ハッピーエンドにするために、
自分の分をわきまえながら、
ささやかな貢献が出来るように、
少しでも努力をしたい、
ということなのです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

医療状況を改善するにはどうすれば良いのか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日で診療は午前中で終わり、
午後は終日レセプト作業があり、
夜は医師会でのBCGの研修会に廻る予定です。

東京も雪が降り出しました。
あまり積もらないと良いのですが…

今日は雑談です。

先日の認知症の講習会で、
興味深い遣り取りがありました。

認知症の進行したお年寄りで、
深刻な問題になることの1つは、
肺炎や骨折などで入院が必要となるような時に、
受け入れてくれる病院がなかなか見付からず、
見付かると今度は受け入れた病院が、
非常に苦労して、
多大な労力を要する、
というような事例です。

認知症の患者さんを積極的に受け入れる医療機関が、
色々な形で指定はされているのですが、
そうした医療機関の多くは精神科の病院なので、
骨折や肺炎などの身体疾患では、
内科や整形外科の患者さんは原則として受け入れが困難なので、
実際には認知症の専門ではない、
通常の総合病院や救急指定病院などの、
医療機関が受け入れることになるのです。

問題はそうした医療機関においては、
通常の患者さんの数倍の労力が掛かるにも関わらず、
病院に入るお金である、
健康保険の診療報酬には、
何らそのための加算などはない、
というところにあります。

行政の認知症に関する立場の説明の後で、
講師の先生にフロアの先生が、
「重度の認知症の患者さんを受け入れた場合の、
診療報酬の加算点数が認められるような動きはないのか?」
という趣旨の質問をしたところ、
講師の先生は、
その質問には直接は答えず、
「要するに個々の病院の位置づけをどのようにして、
どのように連携してゆくかが一番の課題なのだ」
というコメントでお茶を濁しました。

これでは何の答えにもなっていないのですが、
勿論質問の内容は理解していて、
鬱陶しい質問には、
敢えてとぼけて別の答えにすり替えるのが、
この講師の先生のテクニックのように思いました。

その後で登場した、
老年医学の旗振り的な立場の先生が、
後でその話題に触れ、
加算を要求するためには、
看護師の研修の実績が必要で、
その研究の実現のための予算を、
まず認めさせるように、
折衝しているところだ、
という趣旨のご発言をされていました。

その話を聞いて、
なるほどと、
膝を打つ思いがしました。

認知症の患者さんを一般病院で受け入れると、
治療やケアが大変なので、
診療報酬を増やして欲しい、
と素朴な主張をしても、
社会保障の財政も逼迫している折ですから、
行政は首を縦に振ることはないのです。

そこでちょっと視点を変えます。

一般病院で認知症の患者さんを受け入れると、
何故大変なのかと言えば、
一般病院は重度の認知症の患者さんの対応に、
特化している訳ではないので、
多くの人員と時間とが、
その患者さんのケアのために必要になり、
他の業務がおろそかになるという点にあります。

勿論それだけではありませんが、
ここは問題を単純化します。

それを人員を増やすことなく解決するとすれば、
個々のスタッフが、
より認知症の患者さんのケアに、
習熟することが必要だ、
ということになります。

老年医学の旗振り役の先生は、
そうしたことが分かっているので、
まず看護師の研修に予算を付け、
それを利用して全国的に看護師の認知症研修を施行。
認知症サポート看護師、
のような簡単な研修で取得可能な資格を作り、
資格を取った看護師が一定数に達したタイミングで、
今度はそうした看護師がいることを条件に、
加算点数を要求する、
という段取りになっている訳です。

この話を看護師の知り合いにしたところ、
認知症認定看護師という資格があるのだから、
それを活用すれば良いのに、
という感想でした。

しかし、
それは違うのです。

認定看護師というのは、
医者の専門医のような資格ですが、
その人数は少ないので、
診療報酬の取引材料にはならないのです。

行政にとっては、
皆保険という建前上、
全国津々浦々の医療機関で、
同じレベルの診療が行なわれるというのが、
診療報酬に加算を付ける上での、
1つの条件になるからです。

資格は行政との取引の材料にはなりますが、
少数の専門職しか持っていない資格では、
そうした目的には使えないのです。

従って、
形だけでも研修をして、
資格を持ったスタッフを一定数養成し、
その上でその資格者のいることを条件にして、
加算点数が実現するのです。

遠廻りのようで、
これが正解なのです。

ポイントはまず税金で、
資格養成の予算を付けていることです。
これにより、
行政の側でもその責任が生じるので、
将来の加算が認められる下地になっている訳です。

なかなか巧妙ですよね。

このように行政に働きかけて医療状況を改善するには、
常に駆け引きと段取りとが必要で、
ちょっとした要求を通すためにも、
数年後から場合によっては10年後くらいを見据えた、
粘り強い交渉が必要になるのだと思います。

こうしたある種の腹黒さが、
僕はあまり好きではありませんが、
清濁併せ呑むようなところがないと、
大きな状況というのは、
変わっていかないということも、
また事実なのではないかと思います。

今日は医療状況を変えるにはどうすれば良いのか、
というちょっと硬い話でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。