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権力闘争としての実名報道論 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から紹介状など書いて、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

某国のテロ事件での、
実名報道が問題になっています。

まず、犠牲になられた方に、
心から哀悼の意を表します。

先日矢張り中東やアフリカで、
技術指導のお仕事をされている方が患者さんとしてお見えになり、
この事件について少しお話をしました。

亡くなられた方の多くは、
一線を退いた後で、
現地に技術指導に行かれていた技術者の方が多いそうで、
今回の事件はイギリスの企業が目当てで、
日本人は裏交渉で大金を払うので、
恨みではなく資金調達のために、
一緒に狙ったのではないか、
と推測を述べられていました。

その方自身またすぐ現地に行かれるとのことで、
今度ばかりは妻に行くなと言われました、
と言いながら涙ぐんでおられたので、
僕も切なくて胸が熱くなりました。

ただ、
今日の話は事件自体ではなく、
実名報道の話です。

政府もその被害者が勤めていた企業も、
被害者の実名は公表しない、
という方針であったのですが、
大手のメディアの方が被害者の遺族に接触し、
言葉巧みに個人情報を入手。
その遺族の方は政府などの発表があるまでは、
公表はしないで欲しいと言っていたにも関わらず、
スクープとして報道し、
その後に政府も実名を公表の方針に転換した、
という経緯のようです。

マスメディアは実名報道の必要性を、
挙って主張しています。

あるマスメディア関係者の方は、
ご遺族への取材は身を切るように辛いけれど、
匿名のAさんが亡くなったという報道では、
社会に対して影響力が少なく、
真実を明らかにし、
ことの重要さを後世に伝えるには、
批判を受けることがあり、
ご遺族の心が傷付くことがあっても、
実名報道がなされるべきなのだ、
というような趣旨のことを述べられていました。

ただ、
この理由は何となく腑に落ちません。

匿名であろうが実名であろうが、
10人の命が失われた、
という事実には違いはない筈です。

また、
日本人ばかりではなく、
多くの外国人の方もテロの犠牲になっているのですが、
その方々の名前はあまり報道されていません。
つまり、
外国人はAさんBさんの扱いです。

この事件を報道で知った一般の人が、
報道が匿名であったために、
事件を早く忘れてしまったり、
事件の重要性を軽視する、
などということが有り得るでしょうか?

それはあまりないような気がします。

少なくとも、
僕は全くそうは思いません。

匿名であっても実名であっても、
事件の重みは変わらないと思いますし、
凶悪事件や重大事件であっても、
その発生からしばらくすると、
その当事者の意向などを慮って、
振り返りの報道などでは、
実名は伏せられることが多いからです。

マスメディアはほとぼりが醒めると、
実名を匿名化します。

この事実は、
上記の関係者の方の説明を、
真っ向から否定するもののように思えます。

つまり、
真実を追究するためとか、
歴史に責任を持つためとかというのは、
口実に過ぎず、
マスメディアが実名報道を執拗に要求し、
その実現のためには、
如何なる非人間的な行為も辞さないことの理由は、
もっと別のところにある筈です。

その理由は一体何でしょうか?

この問題を考えるには、
マスメディアとは一体何なのかを、
考える必要があります。

マスメディアとは何でしょうか?

僕のこの質問に対する答えは、
それは国家に対抗する「権力」である、
というものです。

権力とは何でしょうか?

それは僕のような、
権力を持たない人間を、
屈服させ支配させ意のままに操るような力です。

マスメディアは間違いなく、
そうした力を持っています。

従って、
マスメディアは権力装置であって、
それ以外の何物でもありません。

国家というのは勿論代表的な権力装置です。

権力装置が権力を行使する手段には、
暴力としての武力があり、
そして記号としての言葉があります。
これは情報と言い換えても良いかも知れません。

国家は主に武力を持って権力を行使し、
マスメディアは言葉で権力を行使します。

そしてこの2つの権力が、
拮抗しつつ対峙しているのが、
今の日本の権力構造なのです。

僕も含めて権力者ではない多くの皆さんは、
国家に支配され、
その命令によりお金を払ったり、
届け出をしたりして生活をしながら、
マスメディアの言葉による二重の支配を受けます。
国家による言葉を信じることなく、
それに概ね反対し拮抗する、
マスメディアの垂れ流す言葉を信じるように、
強制される訳です。

従って、
マスメディアの意思は、
基本的に国家の言葉を信用させないことと、
それに反する自らの言葉を、
皆さんに信じ込ませることにあります。

実名報道というのは、
要するにマスメディアが権力を行使する上での、
大きな武器の1つなのです。

プライバシーという、
本来最も尊重され守られるべきものを、
暴き立てるのは、
それが権力の行使であるからです。

こんな酷い非人間的なことは、
権力者でなければ出来ないのです。

だからこそ、
マスメディアはそれをするのです。

それが、
マスメディアにとって、
自分が権力であることを、
証明することになるからです。

今回の事案においては、
被害に遭った企業は、
自分達のプライバシーの庇護を、
国家権力に委ねたのです。
それを受けて政府という権力の窓口は、
「被害者の心情を優先して実名を公表しない」
という決定をしたのです。

しかし、
それは国家に拮抗するもう一方の権力である、
マスメディアにとっては許せないことです。

国民がひれ伏すべきべき対象は、
国家ではなく自分達マスメディアでなければならないからです。

そのために、
マスメディアは国家の「匿名」と言う方針に反対し、
強力に「実名」を主張したのです。

理念などないのです。
国家という権力に反対することだけが、
その理由だからです。

言葉を武器とする権力装置であるマスメディアにとって、
自分達が支配している人間の個人情報を曝すことは、
非常に効き目のある強力な武器なのです。

従って、
マスメディアに国家の指示通りに匿名報道をしろ、
と言うのは、
北朝鮮に対して「核を放棄しろ」と言うのと同じような意味合いなのですから、
絶対に容認は出来ないことなのであり、
その実現のためには、
どんなに卑劣な手段も厭わないのです。

それが要するに権力というものの本質だからです。

僕はただ、
マスメディアが権力であることを、
全て否定する訳ではありません。

昔の全体主義の国家においては、
国家は暴力と言葉の両方の権力を一手に握っていたのです。
それが言葉の権力は分離し、
両者が拮抗するような世界になったのです。

そうした歴史的な経緯には、
一定の意義があると思います。

また自分は匿名の存在のまま、
ネットで他人の実名を曝すような、
個人レベルの「小さな権力者」が乱立することは、
マスメディアの支配よりも、
より大きな弊害をもたらすもののようにも思えます。

従って、
これは誰が悪だと簡単に言い切れるような、
単純な問題とは違います。

マスメディアの方の中にも、
良い人は沢山いる、
と言われる方がいます。

勿論その通りで、
それは官僚にも優れた人は沢山いる、
というのと同じことです。

個々の人間としては、
どちらも優秀で尊敬すべき人達なのです。

しかし、
同時に彼らは権力装置の一部でもあり、
その意味で権力そのものの意思には絶対服従の存在なのであり、
そのことを忘れてはいけないと思います。

権力には理念はなく、
善悪の意識もなく、
正邪の観念もなく、
ただ自らの権力を維持することが全ての目的です。
権力という生き物は常に権力を行使していないと、
その存在が維持出来ない生き物なのです。
空気のような権力は存在しないのです。

従って、そうした権力のしもべに、
たとえどんなやり取りがあったとしても、
個人情報や内部情報という「武器」を渡し、
それが使用されないという約束をして、
それが守られると信じることは、
ちょっと筋違いのことのように、
僕には思えます。

拳銃を渡せばそれは発射されるのです。

あなたの秘密を守れるのはあなただけなのです。
国家という権力もマスメディアという権力も、
それが権力である以上、
あなたの秘密を利用することこそすれ、
決して守ったりすることはないのです。

それが権力というものなのであり、
悲しいことに人間はまだ、
権力なしでは生きていけないのです。

権力者の武器は、
僕達ひとりひとりの持っている情報です。
従って、
僕達全員が協力して、
全ての情報を出さないようにすれば、
権力はその力を失い、
マスメディアという権力装置は死滅します。

ただ、
問題はそれでは社会そのものも死滅する可能性がある、
ということであり、
ひとりひとりの人間も、
自分が「ミニ権力者」となることを欲求しているので、
そうしたミニ権力の蔓延が、
更に悪い事態を招く可能性が高い、
ということです。

僕の考えるこの問題のポイントは、
権力というものをこれからの社会で、
どう考えてゆくか、
ということです。

国家という権力もマスメディアという権力も、
どちらも弱体化し、
この社会はより節操のない「ミニ権力者」の乱立により、
収拾の付かないカオスに陥り掛けているようにも思えます。

要するに人間がもう少し成熟し自立するまでは、
一定の権力は必要なのだと思いますが、
その権力装置が穏当にデザインされ、
必要悪として最小限の弊害しかないように誘導されることが、
社会の安定のためには、
必要不可欠なことではないかと思うのです。

言い過ぎの点があったらお許し下さい。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

2012年を振り返る [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今年も今日で終わりですね。

ついさっきまで寝ていましたので、
多分今年一番よく寝た1日だと思います。

昨日は神奈川にある実家に帰りました。
今年は結局2回しか帰りませんでした。

今年は8月15日に手を怪我して、
生まれて初めて、
入院もしましたし、
手術もしました。

手はまだ万全ではありませんが、
もう一歩のところまで回復しています。

仕事は自分なりに続けていますが、
これでいいのか、
という不安は常にあります。

胃カメラはコンスタントに年300例以上はやっています。
今年は早期食道癌の事例を3例、早期胃癌を2例、
診断して癌専門病院にご紹介しました。

在宅での看取りは今年は7件です。

演劇は結構観てはいますが、
保守的なラインナップで、
もっと面白いものを、
見落としているのだろうな、
とは思います。

良かったと思えたのは、
「藪原検校」と「テキサス」、
「生きちゃって どうすんだ」の辺り。
松尾スズキの1人芝居以外は、
いずれも再演です。
ナイロン100℃の年末の大作と、
シベリア少女鉄道の「ステップアップ」
も悪くありませんでした。

オペラ・声楽では、
何と言ってもデセイ様のルチアが最高で、
ひいきの引き倒しではなく、
良い舞台でもありました。
それ以外にはシェーファーの来日も良かったですし、
グルヴェローヴァの日本最後のオペラの舞台も、
感銘の深いものでした。

歌舞伎は猿之助の襲名があったので、
これには出掛けました。
勘三郎の死には色々と思うところがありますが、
これはまた記事にしたいと思います。

映画は映画館では、
「夢売るふたり」しか観ませんでした。

本も有川浩をまとめ読みしたくらいで、
後はあまり読めていません。

ブログは概ね毎日書いています。

今年の記事では、
iPS細胞でファンタジー系の論文を連発した、
M研究員のことを書いた、
「捏造とファンタジーの世界」と
過換気症候群のペーバーバッグ再呼吸のことをまとめた、
「過換気症候群にペーパーバッグ再呼吸は危険なのか?」
が最もアクセス数が多く、
特に「過換気…」は、
ブログ開設以降、
これまでで最も1日のアクセスが多かった記事でした。

今年は奈良に4回も行ったので、
すっかり「奈良漬け」という感じです。
明日からまた行きます。
ただ、怖いので転びそうな場所は止めておきます。

今年も1年お読み頂きありがとうございました。

来年はもうちょっと色々な意味でどうにかしたいな、
と思いますが、
どうにかならないかも知れません。

来年が皆さんにとって良い年になりますように。

石原がお送りしました。

直線的時間と円環的時間について [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

診療所の本年の診療は本日までとなります。
翌29日より来年1月4日までは、
休診ですのでご注意下さい。
明けの5日の土曜日は通常通りの診療になります。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

大学の教養学部の時に、
歴史哲学の講義があり、
今もその時の講義ノートは、
大切に保管しています。

大学の講義と言われるものの中で、
一番印象的だったものかも知れません。

歴史哲学というのは、
ある時代に何があったとか、
どんな人がいたとか、
そうしたことを題材にするものではなく、
人間が歴史を語ったりまとめたりする、
そうした行為の裏にある、
思考の枠組みのようなものを、
その研究対象にする学問です。

その講義の中で、
学んだことの1つは、
歴史における時間の捉え方には、
直線的な時間認識と円環的な時間認識との2種類がある、
ということです。

直線的な時間というのは、
常に時間は一方向に流れる、
という考え方です。

この時間の流れの感覚からすると、
ある出来事が起こると、
それが次の出来事の原因となり、
その結果生じた出来事がまた更に次の出来事の原因となります。

この流れは基本的には途切れることなく、
永遠に続きます。

もう1つの時間の捉え方は、
時間は円環をなし循環する、
というものです。

つまり、
部分的な時間を切り取って考えれば、
1つの出来事が次の出来事に連鎖したり乗り越えられたりする、
という点では同一なのですが、
その連鎖は永遠に続く直線ではなく、
あるサイクルで振り出しに戻るような性質を持っています。

そのサイクルは1年かも知れませんし、
10年かも知れず、10万年かもそれ以上かも知れません。

永遠というのはこの考え方からすれば、
存在するものでもあり、
存在しないものでもあります。

それが円というものの不思議さなのです。

こうした考え方自体は、
物凄く古いものです。

おそらく人間が社会的な存在として、
生きるようになってからは、
常にこの2つの考え方が人間の思考の中にはあるのです。

しかし、
おそらく本当の意味での時間というのは、
直線的なものではなく、
円環的なものでもないのではないかと思います。

それを直線にしたり円環にしたりするのは、
人間の心の恣意的な働きなのです。

何を当たり前のことを、
と思われる方があるかも知れません。

しかし、
この歴史認識の違いというのは、
意外に奥が深く、
今でも人間の心を支配し、
その自由を奪っているように思います。

実例でご説明しましょう。

先日選挙がありましたが、
「歴史を決して後戻りさせてはならない」
というような発言がよく聞かれました。

この考え方は、
歴史は正しい道筋であれば、
常に直線的に進歩し、
国民の幸せも生活の利便性も、
常により良い方向に進む性質のものだ、
という直線的な歴史認識を、
そのベースにしていることが分かります。

歴史は正常な流れの中にあれば、
当然決して後戻りなどはしません。
時間の奴隷である人間如きに、
そうした力などある筈もないからです。

それを敢えてそうした言い方をするのは、
正常な進歩を妨げる悪い奴らがいる、
ということを強調したいが故のレトリックです。

正常な流れにあれば直線的に進歩する筈なのに、
それが官僚機構なのか自民党政治なのか何なのかは分かりませんが、
悪い奴らが邪魔するので、
進むべきものが進まない、
ということなのです。

一方で「日本を取り戻す」という発言がありました。

これは基本的には円環的な時間の認識を元にしているのです。

直截に言えば、
「元に戻そう」と言うことです。

これは定められたレールに沿って走っていれば、
時には右に逸れたり左に逸れるように見えても、
同じところに戻って来る、
という時間認識が元になっています。

やるべきことは、
レールやその上を走る車体が老朽化したら、
それを補修することであり、
運航を妨害するような敵が現れれば、
それを撃退することです。

そうしたメンテナンスさえしっかりしていれば、
廻るべきものは廻ってゆくのです。

ただ、
露骨にそう言うと反感を招くのでは、
と警戒するので、
「取り戻す」というどちらとも取れるような、
曖昧な言い方をしている訳です。

経済においても、
景気は循環するという理論がある一方で、
ゆるやかな好景気が、
正しい判断が繰り返されれば永遠に持続する、
というような考え方もあります。

これも理論というより、
円環的な時間認識と直線的な時間認識とを、
ただ経済に適応しただけのようにも思えます。

このどちらの立場に立つのかによって、
何か障害であり何が悪かが、
変貌してしまうからです。

近代は直線的な歴史認識の時代、
と言って良いかも知れません。

科学の進歩というのは、
その象徴的な事象です。

そして、
共産主義や社会主義の思想というのも、
社会が科学と同じように直線的に進歩するという、
直線的な歴史認識に基づいているからです。

科学万能主義を含めて、
こうした思想の虜になっている人は、
円環的な歴史認識を決して認めようとはしません。

しかし、現代は混沌の時代で、
誰もが単純で直線的な歴史認識に対して、
懐疑的になっています。

仮に時間が直線だとすれば、
どう考えても永遠の下り坂が目の前にあり、
逆戻りせずに歴史を前に進めることは、
却って落ちる速度を上げる役目しか、
果たさないようにも思えます。

だからと言って、
単純に円環的な歴史認識に立つとしても、
なすべきことが何であるのかが見えては来ません。

直線的な歴史認識で邁進することが長過ぎた現在においては、
時間がどのような輪をなし、
引かれたレールが何処にあったのかも、
見出すことが困難になっているからです。

社会が直線的に進歩することを、
最早信じなくなった多くの人が、
まだ医療を含めた科学の進歩だけは、
専門家か一般の方かの区別なく、
信じて疑わないのは僕には不思議なことに思えます。

社会の情報量は増え、
科学技術は確かに進歩を続けているように見えますが、
その一方でどう考えても、
その恩恵を受ける筈の人間は、
明らかに劣化しているように思えます。

それは本来円環を成して循環するべき何かを、
科学技術の1方向性が、
歪めてしまった帰結のようにも思えます。

歴史認識というのは要するに時間認識のことです。

僕達は今一度、
何処かで見失ったレールを、
見つけ出す必要があるのかも知れません。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

有川浩とノロウイルス感染症の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は産業医の面談に廻る予定です。

今日は雑談的なものです。

本屋さんへ行って、
有川浩の「フリーター、家を買う。」の単行本を探し、
1冊あったのでそれをレジに持って行きます。

すると、
訳知り顔の店員さんにこんなことを言われます。

「お客さん、この本は来月文庫本が出るので、
それまで待った方がお得ですよ。
同じ作者の単行本でしたら、
『植物図鑑』がお薦めです」

善意で言われていることは分かります。
すぐに文庫が出版される単行本を、
買いに来るのは文庫化を知らないからだとは、
推測されるところです。
「フリーター、家を買う。」は、
図書館戦争のシリーズを別にすれば、
連続ドラマ化されるなどして、
有川さんの作品の中でも、
一般によく知られているものですから、
それを今買うという時点で、
この人はあまり有川浩のことを知らないな、
というのは、
これも蓋然性の高い推測になります。

ただ、実際には僕はそれまでに、
20冊以上は有川さんの作品は読んでいて、
「フリーター、家を買う。」は後の楽しみにとっていたのです。
文庫化が翌月ということは知りませんでしたが、
そのうちには出ることは知っていました。

それでも、
買うのなら単行本の方が良かったのです。
「植物図鑑」は勿論読んでいて、
短編の「クジラの彼」に似ていることや、
マンガの美味しんぼに似ていることなどで、
1時間くらいの時間はもたせられるくらいの知識はありました。
感想としては、
とても面白いのだけれど、
ラストで男の正体が分かると、
何かガッカリするので、
あの正体なら最後まで謎のままの方が、
良かったのじゃないかな、
ということです。

しかし、
そんなことを言ったところで仕方がありません。
僕はただ、
「そのままで大丈夫です」
と言ってレジを済ませます。

店員さんにとって僕はどのような存在に思えたでしょうか?

せっかく有益な情報を提供したのに、
分からず屋で聞く耳を持たないように思えたかも知れません。

ブログやツィッターで、
そのことを文字にするかも知れません。

より良い結果に至り、
より顧客に満足のゆく結果が得られるように、
その店員さんは努力をしたのですが、
結果的にはそれはあまり意味のないことになり、
そのことをその店員さんは決して知ることはありません。

こんなことは他にもありそうです。

ノロウイルスの感染症が蔓延しています。

多数の食中毒を出した事例や、
高齢の死亡者を複数出した事例などは、
他人事とは思えません。

このことについては、
多くの医療関係者の方が、
色々なことをつぶやいたり発信したりしています。

個人的には
あまりそんなことは言わない方が良いのに、
と思いますが、
言いたい方は言いたいのでしょうから仕方がありません。

ある人はノロウイルス感染症は、
通常は放っておけば治る病気なのであり、
点滴するくらいしか治療はないのだから、
医者などに行くべきではない、
というようなことを言われます。
重症化のリスクのある場合にのみ、
医者へ行けば良いのだ、
というのです。

またある人は、
学校でノロウイルスの検査をするように言われた患者さんが、
検査を希望して来院されたのに対して、
検査をして陽性になったところで
治療が変わるということはないのだから、
そんな必要は全くなく、
生徒に検査を強要するような学校は、
非科学的でどうしようもないのだ、
という考えのもとに、
外来では患者さんにそう言って、
検査をすることは拒否した、
と書かれていました。

言われることはいちいちもっともではあります。

ただ、
最初にご紹介した本屋の店員さんのように、
患者さんやそれを取り巻く社会というものを、
自分より無知なるものの世界として、
一面的に捉え過ぎているようにも思います。

つまり、
「フリーター、家を買う。」
の単行本を買おうとしてレジに差し出した時点で、
こいつは分かっていないな、
と一方的に判断し、
説教をしてお客さんを追い返すような行為に似ています。

本屋の店員さんは決してそのようなことはしないでしょう。
しかし、医療関係者は平気でします。

それは何故でしょうか?

勿論本を買うことと病気の検査をすることとでは、
問題の性質は違います。
ただ、そうではあっても、
似た部分もまたあるのです。
医療従事者が患者さんをどう捉えているのか、
という関係性の問題が、
ここには潜んでいるように思います。

先日患者さんから次のようなお問い合わせがありました。

食品関連の会社に勤めているOLの方で、
嘔吐と下痢の症状があり、
医療機関に行くべきかどうか、
風邪の時などに受診する医療機関に問い合わせをしたところ、
その必要はないと言われたので、
自宅で療養して数日で症状は改善しました。
それでその翌日から出社する旨会社に言うと、
ノロウイルスの診断が間違いないなら、
治ったかどうかを検査で確認し、
その証明書を持って来てもらわないと、
出社は認められない、
というのです。
それで再度医療機関に問い合わせをすると、
そんな目的で検査をするのは非科学的でナンセンスであり、
検査をすることは出来ない、
という返事でした。
他にも幾つかの医療機関に問い合わせをしましたが、
何処も検査をしてはくれません。
あるところでは必要がないから駄目だと言われ、
別の医療機関では、
症状のある時に掛かっていないのだから、
そんなことは出来ない、
という返事です。

それで僕は、
自費になりますがそれでも構わなければ、
検査はいつでも可能です、
ただし、ノロウイルスの抗原が陰性でも、
それは周囲に感染しないことの証明にはならず、
症状がノロウイルスであったことの証明にもならないので、
そのことは頭において検査を受けて欲しい、
と言いました。

患者さんは納得されたので、
来て頂き便の検査をしました。

結果は陰性だったので、
その旨の結果のみを記した証明書を書きました。

患者さんとお話をしましたが、
こうした検査が手続き的で便宜的なものに過ぎない、
ということは充分理解をされていました。

しかし、
会社や学校というのは、
100%の安全を目標として努力をした、
ということに重点を置きますから、
会社が検査で問題なしとの証明書を持って来い、
と言うことの必然性も理解は出来ます。

その2つの考えの板挟みに、
その患者さんは困っていたのであり、
科学的に正しい判断とは言え、
医療従事者がその板挟みに手を貸すのは、
あまり良いことのようには僕には思えません。

こうしたケースでは、
誰かが安全の責任を持たなければいけないのです。

それはその施設や企業の、
産業医や学校医、そして安全管理の責任者の仕事になります。

しかし、
その責任の所在が明確でない場合には、
その患者さんに対応した医療従事者が、
責任を持つことも必要なことなのではないかと思います。

これは別の患者さんから最近言われたことですが、
もしノロウイルスと思われるような症状があった時には、
受診しても構わないでしょうか?
と改めて聞かれたので、
勿論構わないのですが何故ですか、
と問い返すと、
先日テレビの医療系のコメンテーターが、
ノロウイルス如きで医者に行くのは間違いで、
医者にとっても迷惑な行為なので、
アルカリイオン飲料を少しずつ飲んで、
治るのを待つのが正解だ、
と目を吊り上げてのたまったのだそうです。

勿論そのコメンテーターのような方は、
医者には行かずに家で唸っていれば良いのです。
しかし、人間はそれぞれ違いますから、
全ての人がその通りにする必要はないのだと僕は思います。
健康状態で不安を感じれば、
些細なことでもお問い合わせ頂いて良いのですし、
受診をされても良いのです。

ただ、ものは感染症ですから、
流行状況によっては、
なるべく最初からは受診するべきではない、
というような状況も有り得ます。

しかし、
少なくとも今はそうした状況ではありませんし、
そうした状況かどうかを判断するのは、
行政の仕事だと思います。

僕が医療従事者以外の方に分かって頂きたいことは、
医者にも色々な立場があり、
その立場によって考え方が異なるので、
1つの意見で全てが代表されるようには考えないで欲しい、
ということです。

地域の基幹病院の外来に、
いきなり沢山の嘔吐下痢症の患者さんが大勢詰め掛け、
その多くは症状の軽い患者さんであったりすれば、
当然そこに勤めている医者は、
「ノロ如きで病院へ来るな!」
という感想を持つのです。
その先生にはもっとその先生の専門分野の患者さんを診たり、
もっと重症の患者さんを診たりするという、
仕事があり、
その仕事の時間が盗られるように感じるからです。
その先生の仕事にとって、
軽症だけれど病状に不安を持つ患者さんの、
お話を聞き診察をして、
その不安を和らげるような仕事は、
仕事とは見做されていないか、
少なくとも「俺でなくても出来ることだ」
と思われているからです。

一方で僕のような立場の医者にとっては、
そうしたことの方がメインの仕事であり、
「たかがノロウイルス感染症」であっても、
時に深刻な問題になることも現実にはあるのであり、
その見極めをすると共に、
そうではない患者さんの不安を和らげ、
適切な対応に対してのアドバイスをすることは、
無意味なこととは思えないのです。

ですから医療機関を上手く使って頂いて、
些細なことでもご不安があれば、
それを解消することこそが、
医療のプロの仕事だと思いますし、
お問い合わせや受診を躊躇う必要はないように思います。
また、分からず屋と思える患者さんに、
イライラされている先生も、
ひょっとしたらその見方が違うだけで、
その患者さんなりの理屈があり、
その理屈と先生の理屈とが、
ぶつかるのではなく融和するところにこそ、
真の医療の姿があるのではないかということに、
今少しその賢い頭脳を使って頂ければな、
と思うのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

医療の変遷と医師患者関係という医療資源について [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は朝から臨時の出動があり、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

先日、過換気症候群の発作時の対処として、
ペーパーバッグ再呼吸が最近はあまり推奨されていない、
という話題を取り上げました。

このように、
かつては正しいとされていた医療上の処置や治療の考え方が、
時代と共に変遷するというのは、
医療の歴史の中では枚挙に暇のないことです。

こうした時に、
新しい考え方を知った人は、
それが専門家でもそうではない一般の方でも、
概ね新しい考え方が100%正しいものとして、
古い考え方を誤りとして強く攻撃することが、
しばしばあります。

ただ、
ペーパーバッグ再呼吸を例に取れば、
過換気症候群の診断が明確でないのに、
それと決め付けて、
その処置を行なうことが、
致命的な誤りなのであって、
不安による過呼吸の診断が明確なものであって、
一種の自己対処法としてその処置を行なっている場合には、
確かにその効果は実証されたものではありませんが、
特に実害はなく、
目を吊り上げて糾弾するような性質のものではないように、
僕には思えます。

実際に今でも多くの方が、
その方法で不安から来る発作の症状を、
緩和することが出来ているのです。
ある日急にペーパーバッグ再呼吸は危険だから、
今度からはそれはやらないで我慢しなさいと言われれば、
発作が悪化する可能性もありますし、
その代りに、
具合の悪い時には安定剤を飲んで下さい、
というようなことになれば、
どちらがその患者さんにとって、
その後の人生のためにメリットのあることなのか、
疑問に感じます。

ペーパーバッグ再呼吸は殺人的、
のようにNHKの今年の夏の番組では、
扇情的に放送されましたが、
その内容を紹介したネットのページでは、
担当のディレクターが匿名で、
「紙袋による対処法は役に立つものだと思っていたが、
海外の文献で危険があると知り、
驚いてその内容を伝える使命を感じた」
のようなコメントが書かれています。

僕がこのディレクターの方に、
1つだけお聞きしたいことは、
この番組を作る際に、
心療内科などにおいて、
ペーパーバッグ再呼吸を指導されている、
多くの患者さんがいるという事実を、
どの程度真剣にお考えになったのでしょうか、
ということです。

もう1つ同じような話をします。

慢性うつ病や非定型うつ病、
新型うつ病などという曖昧模糊とした概念があり、
そうした病気の患者さんが増えている、
という考え方があります。

古典的うつ病というのは、
責任感の強い生真面目な方に多い病気で、
全てを自分のせいにして苦しむような、
自責の念が強いのですが、
所謂新型うつ病というのは、
他罰的な傾向が強く、
仕事には行けないけれど遊びには行ける、
というように、
その状態に苦しんでいる人以外には、
あまり病気のように見えない、
という特徴があります。

これはただの「怠け病」に過ぎない、
という考え方があり、
NHKはそうした番組も放送しました。
ネットなどでは複数の医療関係者の方が、
これは病気ではなく、
医療の関わるような問題ではない、
というようなコメントを、
されていました。
総じて精神科領域のご専門ではない方々です。

僕は2008年頃に、
同じような内容の記事を書きましたが、
今は削除しています。

それは主に産業医の現場において、
実際にそうした症状に苦しんでいる、
多くの方のお話しを実際に聞いたからです。

その人達は、
確かに自分の境遇を、
全て他人のせいにする傾向がありますが、
それでも自分をコントロールすることが出来ずに苦しみ、
どうすれば自分が社会に貢献することが出来るのかを、
必死で考えて悩んでいます。

自分の境遇を他人のせいにするからいけませんか?

でも、
政治家は全員、
日本がダメになったのは、
他人のせいだと言う人種ではないですか?

他罰的な人が悪いのなら、
全ての政治家もまた悪いのです。

僕が言いたいことは、
他罰的かどうかというようなことは、
ただの性格傾向に過ぎないのではないか、
ということです。
問題の本質はそこにはないのです。

あなたが今辛いのは、
決してあなたのせいではないんだよ、
これは病気なんだから、
一緒に治してゆきましょうね、
というようなことを言われて治療をされている方が、
現実に大勢いるのです。

新しい見解に拠れば、
そんな病名は存在せず、
それは病気ではないのかも知れません。

しかし、
そんなことをいきなり言われたらどうでしょうか?

少なくとも患者さんと治療者との信頼関係は破壊され、
それが元に戻ることは永久にないのではないかと思います。

僕が最近思うことは、
患者さんと治療者との間に、
人間同士としての信頼関係が構築されることは、
そう簡単に出来ることではなく、
それがある意味最大の医療資源ではないか、
ということです。

1人の医者が1人の患者さんの、
全てを診ることが、
出来る訳ではありません。

適切な個別の専門医との連携は、
患者さんの治療のために、
必要不可欠なものです。

ただ、複数の治療者と、
同じように信頼関係が構築出来るかと言えば、
それは困難ではないかと思いますし、
人間の心理から考えて、
あまり合理的ではないと思います。

メインの治療者は1人であり、
患者さんとの間に人間同士としての信頼関係のあることが、
矢張り何より重要なことなのです。

治療法も病気の概念も、
確かに時代と共に変わってゆくものです。

ただ、
それは必ずしも、
ある日を境に急に逆転する、
というような性質のものばかりではありません。

上記の事例で言えば、
ペーパーバッグ再呼吸は、
元々さほど根拠のある治療ではなかったのですが、
一般に流布された経緯があり、
その有効性が心理的なものを含めれば、
完全に否定されたものではありませんし、
過換気症候群の診断が間違いなく、
必要に応じての使用であれば、
それでも病態悪化のリスクがある、
ということの証明はありません。

要はペーパーバッグ再呼吸をすると、
一般の方でも一時的な低酸素状態を誘発するリスクがあるので、
基礎疾患の有無を確認することなく、
安易に行なったり指示したりしては危険だ、
ということなのです。

過換気症候群における発作のコントロールにも、
別箇の方法が望ましい、
ということは事実と思いますが、
この病気の持つ微妙さと、
実際に多くの患者さんが、
「大きな危険はないやり方で」
この方法を用いている現状がある以上、
NHKの番組のような手法は、
誤りだと強く思います。

また、新型うつ病に関しては、
これも定義があやふやな段階で、
こうした病名が患者さんに告知され、
説明されるという状況は、
本来望ましいものではありませんが、
そうしたことが実際にあることも事実であり、
病名の妥当性はともかくとして、
言われるような症状で、
実際に苦しんでいる、
多くの患者さんがいらっしゃることも事実です。

それが病気ではない、というような言い方は、
少なくとも軽率にはするべきではないと、
これも強く思います。

医者にも色々な方がいますし、
色々な意見があります。
このような時代ですから、
自分なりの意見のある多くの方が、
そうした意見を、
一般の方の目にも触れる場所で、
つぶやいたり叫んだりしています。

NHKの番組を制作されるような方は、
おそらくそうした発言をまず読み、
そこから資料を集めたり取材をして、
扇情的な番組に仕立てて行くのだと思います。

ただ、
僕が1つだけ言いたいことは、
世の中には多くの医者がいて、
多くの患者さんがいるのですから、
より大きな視点で、
この意見により傷付く患者さんがいたり、
破壊されるような医者と患者さんとの人間関係がないかどうかを、
もう一度考えてみてから、
専門家はつぶやいたり叫んだりしてはもらえないだろうか、
ということであり、
NHKの番組を制作される方は、
それが専門家の意見であっても、
それ以外の意見もある筈であり、
意見自体が変遷してゆくものなのですから、
もう少し広い視野で周囲を見まわして、
世の中に「悪」を作るような、
そうした番組は作らないで頂きたい、
ということです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

人間は現在に生きているという訳ではない、ということ [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

生きている今この時を大切にしよう、
というのは、
良く聞かれる手垢の付いたフレーズです。

ただ、人間というのは、
ある程度の期間生きていれば、
どちらかと言えば過去に生きていて、
現在に生きている訳ではない、
というようにも思えます。

それが顕著に表れるのは、
認知症の場合です。

認知症の患者さんは間違いなく過去に生きています。

もうとっくに辞めてしまった仕事を、
まだしているように振舞ったり、
もう死んでしまった家族と話をしたり、
過去の大失敗を、
たった今したことのように悔やんだりもします。

何故こうしたことが起こるのでしょうか?

それは認知症の患者さんが、
今をそのままに生きることは、
非常に困難な状態にあるからです。

認知症の初期には、
短期の記憶を保持する働きが低下するので、
その日こうしたいと思ったことを、
1つ1つの行動に変換し、
それを繋ぎ合わせてゆく行程が、
分断されてしまいます。

こうした繋がりの断たれた世界で生きることは、
人間にとっては何よりも辛いことです。

こうした時こそ、
人間同士の助け合いが、
それを繋ぐ役割を果たすのですが、
往々にしてその本人に近い関係にある人ほど、
その人の変化に憤り、
「何で忘れるんだ!」
と物忘れを責めるので、
本人は助けを求めることを止め、
現実と繋がることを自分から放棄して、
自分の大過去に閉じこもるようになるのです。

ここまで極端でなくても、
人間は色々なレベルで、
「過去」に生きています。

これは人間の行動そのものが、
基本的にその意志は過去に発し、
それを今この時の行動に、
変換することを基本としているからでもあります。

人間にはその日の段取りがあり、
それが邪魔されると不愉快に感じます。

ただ、
その一方でその瞬間の判断で、
衝動的に行動することもあり、
一目惚れや直観のように、
今その時で完結するような性質の行動もあります。

人間はこの過去にプログラムされた行動と、
その時のある種の条件反射的な衝動による行動とを、
調節しながら日々の生活を送っています。

このどちらを優先するかのさじ加減こそが、
人間の性格というものの本質かも知れません。

決して認知症ではないのですが、
ある程度の年齢になると、
一定の割合で過去に生きることを選択する人が出て来ます。

現実に折り合って調節することを止め、
過去のある時期にプログラムされた外界との関わり方を、
変えることなく生活を続けようとします。

たとえば10年前の過去に生きている人と、
現在に生きている人とが、
同じ花を見たとしても、
それは同じ認識にはなりません。

10年前に生きている人には、
現在の花は見えてはおらず、
それを頭の中で10年前にあった花に、
変換して認識しているからで、
2人がその花の美しさについて議論したとしても、
その会話は決して噛み合うことはありません。

これはコンピューターソフトのアップデートに似ています。

外界を適切に認識し続けるためには、
知覚と認識と行動とを繋ぐソフトウェアを、
日々アップデートしてゆく必要があります。

しかし、
毎回アップデートするのも面倒ですし、
しなくてもコンピューターは、
動かなくなるという訳ではありません。

時が経つに連れ、
人はさぼってアップデートなどしなくなり、
ソフト自体もメンテナンスの期間が終わるので、
アップデートすること自体が出来なくなります。

アップデートをさぼった状態が、
「過去に生きる」ことで、
メンテナンス期間の終了が、
すなわち認知症です。

話せば分かる、
という意見があります。

一方でどんなに言葉を費やしても、
理解に至らない、
という人間関係もあります。

人間同士にこうしたことがあるのは、
その人間の生きている時代が違うからです。

同じ状態にある認識ソフト同士であれば、
「話せば分かる」のですが、
ソフトのヴァージョンが端から違っていれば、
どんなに言葉を費やしても、
理解し合うことはないのです。

ここにおいて、
人間が理解し合うためには、
相手がどのようなヴァージョンの認識ソフトを使用しているか、
ということを知ることが重要だ、
ということが分かります。

言葉を変えれば、
相手がどの時代に生きているのかを知ることが、
何より重要だ、
ということになります。

先日の選挙前の党首討論などを聞いていると、
そこに出ている「党首」の多くは、
今を生きている人ではなく、
戦後すぐの時代に生きていたり、
20年くらい前の時代でアップデートを止めている人であったり、
何処にも存在しない、
観念としての世界に、
生きている人であったりすることに気付きます。

こうした人達が議論をしても、
そもそも話が噛み合う訳がありません。

TPPも原発も1000兆円の借金も、
彼らの1人1人にとって、
今あるものとは別の物に見えているからです。

原発が10年で廃止出来ると言う人は、
原発が10年で廃止出来る世界に生きているのです。
原発が即時廃止出来ると言う人は、
そうした観念の世界に生きているのです。
原発の廃止は困難だと言う人は、
そうした世界に生きているのです。

これは考え方の枠組みの問題ではなく、
その人がどの時代で、
自分の認識のアップデートを、
放棄しているのかによって決まる事項です。

「たかが電気」と言うミュージシャンは、
たかが電気の時代に生きている人なのです。

理解するべきは、
その人がその時考えていることではなく、
その人が生きている時代なのです。

日本という社会それ自体が、
もう認知症の水準に達しているものかも知れません。

ある年齢以上の人は、
皆アップデートするのを止めて、
過去に生きて現在を捨て、
若い世代の人は、
逆に今だけを刹那的に生きて、
過去から現在をプログラミングすることを放棄しています。

これが多分、
社会そのものの老いの姿なのかも知れません。

それではどうすれば良いのでしょうか?

僕の個人的な意見は、
この社会の成員の全てが、
本当の意味で「今」と関わりを持つことが、
何よりも重要だ、
ということです。

しかし、
それは刹那的な関わりであってはならず、
明日のことを計画する意志を持ち、
それをその明日の行動に繋げてゆくプロセスこそが、
必要なのです。

過去から学ぶことは大切ですが、
過去に生きていてはいけません。
今をそのままに生きることは重要ですが、
今だけを刹那的に生きるだけでは不充分です。

人間が生きるということは、
近未来を現在に繋げてゆく行為の連続であるからです。

認知症の社会には、
介護が必要です。

この社会はサポートされ、
介護されなければならないのです。

この場合のサポートや介護は何かと言えば、
社会保障のことでもなく年金のことでもありません。

この社会の成員の全てを、
「今」に繋ぎ止める、
と言うことです。

そのためには、
何らかのコミュニケーションのツールが必要です。

初期の認知症の方が使う日々の練習帳のように、
その日やるべきことと、
明日やるべきことを、
確認するためのツールです。

僕達が今するべきことは、
どんな詰まらないことでも良いので、
どんな時代に生きている人にとっても、
同時に出来、その結果を共有出来るような、
そうしたツールを手に入れることではないでしょうか?

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

所有欲の起源とその将来について [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日で診療は午前中で終わり、
午後は産業医の面談に廻る予定です。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

所有欲というものがありますね。
ある物を全面的に自分の管理下に置きたい、
という欲求のことです。

その1つの表れが、
コレクターという存在です。

ある物を欲して、
それを収集し買い求め、時には奪い取り、
それを完全に自分の管理下において、
そこにある種の快楽を得る、
という一連の行動を好む人種のことです。

僕は長いこと、
古書とマジックグッズ、
ビデオやDVDといった映像メディアの、
コレクターでしたが、
最近は他の多くの欲望と一致して、
その興味はやや薄いものになりつつあります。

物を所有するということに対して、
それほどの欲求を感じなくなったということでもありますし、
年齢を重ねることにより、
欲望というものそのものが、
減弱しつつある表れなのかも知れません。

人間は物を欲しがります。

子供は目に止まったものを、
指を指して欲しがり、
自分の手にすると喜びますが、
手に入れられないと、
火が付いたように泣いたり、
お母さんの手を引っ張って駄々をこねます。

大人になると、
そうした行為は脳の前頭葉の働きで抑制され、
頭の中で欲しいと思っても、
すぐに駄々をこねることはなくなりますが、
脳内での所有欲の強さは、
決して減弱するという訳ではなく、
それを無理矢理抑えることにより、
ある種のストレスを、
蓄積してゆくのです。

そうしたストレスが存在するということは、
前頭葉の抑制が減弱したり解除されたりした場合に、
どういうことが起こるのかで分かります。

所謂「万引き」ですね。

以前はピック病と呼ばれた、
前頭側頭型認知症という病気がありますが、
これは認知症の1つで、
主に前頭葉の働きが初期に低下することにより、
人格変化が健忘などに先行し、
高頻度に見られる兆候が、
「万引き」です。

また、
精神的に不安定であったり、
ストレスが溜まった状態では、
その1つの表れとして、
習慣的な「万引き」が起こります。

この現象はつまり、
人間には目に付いた物を、
自分の手に入れたいという、
原初的な欲求があり、
それを通常抑えているのは、
前頭葉の抑制に過ぎないのだ、
ということを意味しているのです。

近代は所有欲の時代だったと、
そうした言い方が出来るかも知れません。

物を欲しがる貪欲な人間の意識が、
ある意味人類の進歩に繋がったという側面があるのです。

その一方で物を私有することを禁止し、
全てを共有することが人間のあるべき姿だ、
という立場があります。
これは非常に崇高な理念ではあると思いますが、
目に付いたものを自分の手の中に入れ、
意のままにしようとする一連の行動は、
人間の本能的な行為なので、
それを前頭葉の抑制を超えて、
完全に抑止することは、
不可能な夢に過ぎないようにも思います。

僕は本と映像の私有には、
今でも一定の執着がありますが、
その所有のハードルが、
最近上がっているように感じます。

映像ではストリーミング配信という手法が一般化し、
本は電子書籍化が進行していますが、
それはいずれも一種の共有で、
お金は払いながらも、
完全な所有にはならないような仕組みです。
一見所有に思えても、
ある特殊なフォーマットでのみ再生可能であったり、
特定の機器の中でのみ、
その使用が行えるように仕組まれています。

つまり、
完全な所有は以前より困難になっているのです。

情報のデジタル化やネットの進歩というのは、
ある種の共有を広め、
純粋な私的所有を、
制限する方向に向かっているように、
何となく僕には思えます。

それは一面、
私有からの解放という理想に近付くもののようにも思えますが、
現実には所有の持つ金銭的な価値を、
裏にいる誰かが、
高めようとしているだけのようにも思えます。

地球にある富の不公正な奪い合いは熾烈さを増し、
日本の富の総量はどんどん減少している昨今、
おそらく一部の人達の富を守るために、
一般の人達にとっての私有の価値は、
将来的には更に釣り上げられていくもののように、
思えてなりません。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

子供の泣き声とそれを耐えるべきだという意見について [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から色々とやることがあるのに、
結局何も出来ず、
今PCに向かっています。

診療はいつも通りです。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

先日ある漫画家の方が、
飛行機の機内での、
小さなお子さんの泣き声を、
耐え難く感じて、
そのことに対する問題提起を文章化したところ、
多くの方から非難された、
というネットの噂話めいた記事を目にしました。

その漫画家の方は女性で、
旦那さんと一緒に飛行機に搭乗されていて、
同乗していた女性の乳幼児のお子さんが、
延々と泣き続けているのを耐え難く感じ、
そのお母さんに、
「あなたのお子さんはしばらくは飛行機に乗せない方が良い」
と話し、
飛行機から降りると言って騒ぎを起こした、
というのです。

多くの方はその漫画家に批判的な意見を、
ネットなどで開陳されていて、
概ねその内容は、
乳幼児は泣くのが普通のことであり、
それに目くじらを立てるのは、
大人気ないというものや、
お母さんが傷付いて可哀想だ、
というもの、
また自分も子供がいない時には、
子供の泣き声が嫌だったけれど、
子供が出来てから考え方が変わった、
子供もいない人間は、
矢張り寛容さが足りない、
というようなものです。

僕はそうした意見に反論するつもりはありませんし、
人間の意見としてもっともなものだと思います。
もし、この内容がほぼ事実で、
その場に自分がいたとすれば、
この漫画家の方の行動に、
反発する気持ちを持ったと思います。

ただ、1つだけ言いたいことは、
この世界には、
子供を心の底から授かりたいと願いながら、
その希望が叶わず、
それを断念したご夫婦が多くいらっしゃるのであり、
特に不妊治療に長く苦しみ、
身体を痛め付けながら、
願いが叶わなかった女性にとっては、
ある時期には、
お子さんの泣き声が、
心に針を刺されるような苦痛になるのだ、
ということです。

僕は自分の親族を含めて、
そうした話を、
何度か聞いたことがあるので、
お互い様なのだから、
全ての人はお子さんの泣き声に、
我慢するのが当然だ、
という意見には、
俄かに賛同することは出来ません。

公共の場では、
誰もが小さなお子さんを尊ぶべきであり、
それが他人の子供であっても、
自分の身に置き換えて考えて、
何があっても我慢するべきなのでしょうか?

それはそうかも知れません。

ただ、
そうした状況に耐えられない人格が、
存在することは事実であり、
そこにはそれなりの理由があって、
そうした観点からは、
何らかの逃げ場所は必要ではないかと思うのです。

問題になった漫画家の方の文章を読むと、
確かに挑発的で扇情的な部分がありますが、
子供を非難するような言説はなく、
飛行機という空間の中で、
お子さんの泣き声が耐え難くなった時に、
逃げ場が全くない、
ということを主に問題にしています。

たとえば電車であれば、
降りることも可能ですが、
飛行機ではそうしたことも出来ません。

従って、
こうした問題提起は、
僕には決して誤りであるとは思えません。

逃げ場所は、
あってしかるべきではないでしょうか。

漫画家を非難する意見の中には、
「子供のいない女は心が狭いな」
というような露骨なものが多くありました。

こうした言葉が、
お子さんに恵まれなかった多くの女性に対して、
如何に残酷で差別的なものであるのかを、
おそらく多くの方は、
自覚はされていないのではないかと思います。

ネットの言論は公正なものかと言えば、
決してそんなことはないと思うのです。

子供の泣き声に文句を言うのは良くないことだ、
という非難の声が次々と寄せられれば、
いや自分はそれだけは、
理性では悪いことは思うけれど、
どうしても我慢が出来ない、
と思ったり、
子供がいることを、
人間としてのステージが上がったことのように言うのは、
納得がゆかないと思っても、
弱い立場であれば、
口をつぐむのが人間というものだからです。

人間は正当でないことも考え、
間違ったことだと思っても、
生理的に耐えられなかったり、
受け付けないことというのがあるのです。

しかし、
それが圧殺され、
うっかり口にすれば、
袋叩きに遭うのが、
ネットという世界です。

勿論僕はお子さんの泣き声は、
どんなことがあっても我慢します。
ただ、全ての人がそうでなくても、
いいのではないかと思いますし、
「うるせえな、そのクソガキを黙らせろ!」
と怒鳴るおじさんが一方にいて、
「何を言ってるこのクソオヤジ、
子供は泣くのが仕事なんだよ!」
と言い返すおばさんが一方にいるのが、
何か健全な姿のように思います。

何にしても、
多くの人とは別個の行動を取る人がいれば、
そうした行動を取らせるだけの、
その人なりの理由について、
しばし思いを巡らすだけの余裕は、
常に持っていたいなとは思うのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

映画のこと、その他のこと [身辺雑記]

こんにちは。

六号通り診療所の石原です。

今日は祝日で診療所は休診です。

今日も何もなければ、
のんびり過ごすつもりです。

今日は雑談です。

先日久しぶりに映画館に行きましたが、
本編前の宣伝で、
京都の南座で寅さんの上映会があり、
それが最後の35ミリフィルムによる上映だ、
というナレーションがあって、
ショックを受けました。

多くの方にとっては当然のことかも知れませんが、
もうフィルムの時代は完全に終わるのですね。

今の映画のデジタル上映というのは、
要するにBlu-rayの画質と基本的には同質のもので、
それをプロジェクターで投影しているだけに過ぎないので、
いよいよ自宅のホームシアターと、
映画館との違いは、
小さなものになったように思います。

可燃性のあるフィルムというものの性質から言って、
それが消滅に向かうのは止むを得ないような気もしますし、
医療におけるレントゲンフィルムも、
診療所では昔ながらの方式でまだ撮ってはいますが、
いずれはレントゲンフィルムも消滅に向かうことは、
ほぼ間違いがなさそうです。

ただ、レコードがCDになった時もそうでしたが、
それが1つの文化の終焉であり、
レコードの音質とCDの音質とが、
基本的に別物であることは事実で、
それと同じように、
フィルム文化というものも終焉し、
それと共に映画というものの本来の姿も、
消滅し、
二度と甦ることはないような気がします。

大林宣彦監督はその独特の言い回しで、
映画館で観る映画には、
そのコマとコマとの間に、
それより多くの「闇」があり、
観客は映画館の闇の中で、
実は映像を観るより多くの時間、
闇を見ているのだ、
と語りました。

映画の映像というのは、
基本的にはパラパラ漫画と同じ、
静止画の連続として動きを表現するもので、
その間には常に空白があり、
闇が存在しています。

しかし、それがデジタル化された時点で、
闇は消失し、
連続した光だけが残ります。

この2つが同一だと言うのは、
何処をどう考えても誤りのように、
僕は思います。

フィルムと同様に、
フィルムは使用しなくても、
フィルム通りのコマを再現し、
その間に闇を挟んだ映像が、
何らかの形で残らないかな、
と思いますし、
フィルムによる上映も、
何らかの形で継続されれば良いな、
と思います。

僕が子供の頃には、
映画は映画館だけのもので、
他で観ることは殆ど叶わなかったので、
本当に食い入るように画面を観ていましたし、
淀川長冶さんのように、
およそ日本で公開された映画を全て観ていて、
その内容を生き字引のごとく語る、
ということが、
一種の技芸として成立していたのですが、
時代は変わり、
ビデオが出来て普及し、
DVDになり、
Blu-rayになって、
ほぼ納得のゆく画質で、
映画を自宅で観ることが出来るようになりました。

僕は個人的にはそうした時代が来ないかなあと、
子供心に思っていたので、
こうした時代が来たことは、
本当にうれしいのですが、
その一方で、
実はそうなることで、
これまでの何かが失われ、
かつてのような映画を観るという体験が、
永遠に失われることになるとは、
当時は予想することすら出来ませんでした。

もう1つ思うことは、
かつてフィルムで撮影された多くのテレビドラマなどが、
デジタル化されることによって、
非常に劣化した状態で、
細々と流されている惨状で、
これはその気になれば、
幾らでも修正してより良い画質にすることは可能なのですから、
とても残念に思います。
なるほど日本のテレビの皆さんは、
色々な文化をないがしろにするのと同様、
自分達の先輩が苦労して作った作品に対しても、
愛着はあまり持ってはいないように思います。

本と映画は僕にとっては執着のあるものですが、
本も電子書籍が主体となればその様相は変わり、
紙の本はおそらく滅んでゆくでしょうし、
それに伴ってかつての読書という習慣も、
存在はしなくなるのではないかと思います。

人間の歴史はこうしたものかと思うと、
何か切ない気分になりますが、
元気な間は紙の本を読み、
フィルムの時代に思いを馳せるようにしたいと思います。

それでは今日はこれだけです。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

吉祥龍穴 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

今日は土曜日なので、
趣味の話題です。

今日は神龍の住む穴が、
ご神体の神社のご紹介です。

神社を龍穴神社(りゅうけつじんじゃ)と言い、
そのご神体が吉祥龍穴という、
岩に穿たれた龍神様の住む洞窟です。

場所は奈良県の室生で、
有名な室生寺からほど近い場所にあります。

国道沿いに龍穴神社があり、
説明書きによると、
まずそこで参拝して身を清め、
出来れば衣類も着替えて、
龍穴に参拝するように、
と書かれています。

しかし、社務所は閉まっていたので、
参拝だけして龍穴に向かいます。

国道に出て、
1キロ弱くらい歩くと、
「吉祥龍穴」という看板があり、
そこから舗装された山道を、
テクテクと800メートルほど登ります。

途中に天岩戸神社というものがあり、
そのご神体がこちらの岩です。
天岩戸神社.jpg
ここから更に登ると、
このような案内表示があり、
鳥居を潜って、
今度は階段を100段ほど下ります。
龍穴の鳥居.jpg
見えて来る光景がこちら。
龍穴遠景.jpg
急な流れの河が一旦落差の低い滝になって、
それが蛇行する滝壺の当たりに洞窟があり、
その前にせり出すようにして、
簡素な拝殿があります。

靴を脱いでスリッパに履き替え、
拝殿に上がると、
右手に滝が見えます。
それがこちら。
龍穴の滝.jpg
この流れが左に向かってうねり、
正面に目を移すと、
こんな具合になります。
川の流れと龍穴.jpg
正面奥にあるのが龍穴で、
その前には注連縄が張られています。

龍穴の全景がこちらになります。
龍穴のアップ.jpg
画像ではお分かりにならないと思いますが、
実際にはかなりの凄味があり、
神龍の棲家であっても当然かな、
と思えます。

参拝をしてから、
静かに戻りましたが、
往復人間には全く出会いませんでした。

今日は吉祥龍穴を見て頂きました。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。