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続・電気を使わない藝術を! [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。

朝からいつもように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

大阪の橋下市長が文楽を鑑賞し、
「曽根崎心中」に対して、
一般の観客の興味を惹くために、
古めかしい演出を変えた方がいい、
というニュアンスのことを話したそうです。

橋下市長はさすがによく勉強されていて、
「曽根崎心中」は文楽の最大の人気作の1つですが、
一旦は文楽では絶えていたものを、
戦後になって復活させたもので、
音楽も演出もその全てが、
実際には新たに創作されたものです。
そのことばかりか、
近松門左衛門の原作を、
現行の上演が、
かなり適当にカットしていることも知っていて、
古いままでやるのなら、
むしろ近松の原文に戻した方が良いのでは、
ということまで言っていたようです。

勿論レクチャーした方がいたのでしょうが、
こういう知恵の付け方が、
さすが、という気はします。

ただ、その知恵を付けている方が、
どの程度の見識のある方なのかは、
非常に心配です。
将来の文楽について高い見識を持ち、
アドバイスをされるような方が、
そうそういらっしゃるとは思えないからです。

三谷幸喜版の文楽が、
どういうものになるかは分かりませんが、
古典を再生させる、
というようなことになると、
どうせ出て来るのは、
野田秀樹や蜷川幸雄や、
串田和美くらいなのだろうな、
と思うと、
なにやら暗澹ある思いにもなるのです。
それがどんなものになるのかは、
最初から底が知れています。

こうした遣り取りを見ていると、
稀代の権力者に目を付けられて、
文楽は矢張り終わるな、
と実感として思いました。

本来は文楽の皆さんが、
本物の藝術家なら、
独裁的な権力者の前で、
自らの藝で一世一代の舞台を演じるというのは、
藝術家冥利に尽きると思いますし、
それが最高の舞台になり、
権力者を圧倒したとすれば、
滅多にない藝道の奇跡、
ということになるのですが、
どうもそうしたことには、
ならなかったようだからです。

勿論命懸けの気概を失った芸術家と、
それにたかるように存在する天下りのお役人様が、
文化予算として税金を使っている、
という側面はある訳で、
そこに切り込むという狙いは分かるのですが、
何も瀕死の状態にある文楽を、
そんな生贄に選ばなくてもな、
と無念の思いもあって、
矢張りこれも1つのいじめではあるのだな、
と思えてなりません。

それはつまり、
文楽の弱さを承知の上で、
その生贄に選んだのが想定されるからです。
弱い相手を選んでつるし上げることを、
「いじめ」と言いますね。

話題を変えます。

先日、ある電気を使い放題の音楽家の方が、
電気を使ったマイクなどの拡声装置を使用しながら、
「たかが電気のために…」というようなご発言をされて、
アジテーションをされている画像を見ました。

僕はその方の言われることの、
多くの部分には賛同は出来ませんが、
藝術は電気によって堕落し、
真の藝術の回復のためには、
「電気を使わない藝術」こそ必要なのだ、
という点については、
大いに賛成です。

ただ、おそらくはその方の言われる、
「たかが電気…」というのは、
政治的な発言であって、
藝術に奉仕するための発言ではなく、
その方は今後も、
自分の音楽には電気を使い続け、
それを聴く聴衆にも、
電気を使わせ続けるのではないか、
と思います。

舞台藝術は間違いなく、
電気を使うことによって堕落しました。
音楽もおそらく、
電気を使うことにより詰まらないものになりました。

ただ、
電気を使用することにより、
藝術は大衆化して「芸術」になった、
ということは1つの事実で、
電気が使用される以前の藝術というものの、
ある種の特権的な性質を、
どう考えるかで、
その評価は変わって来る面があるのではないかと思います。

昨年の3月20日に、
「電気を使わない藝術を!」という記事を書きました。

計画停電によって、
都内は闇がいつもより格段に深く、
原発事故の行方も非常に不確かなままの時期でした。

その時、
都内で演劇の公演を行なっていた、
野田秀樹や三谷幸喜は、
「こうした世の中が暗い時こそ、
芸術の灯りを消してはいけない」
と、数日の休演を挟んで、
公演の続行を決めたのです。

しかし、
僕は正直その決定には賛同出来ませんでした。

彼らの芝居は、
電気の灯りで舞台を煌々と照らし、
声はマイクで仰々しく拡声し、
電気仕掛けで舞台を動かし、
音楽をスピーカーから鳴らすという代物です。

つまり、
無駄な電気の浪費の、
巨大な見本のようなものなのです。

それを節電の最中に上演することが、
皆の心を明るくするから良いのだ、
とは詭弁に過ぎないように思いました。

演劇や音楽は、
元々は電気など必要とはしなかったのですし、
電気を使用しない期間の方が、
これまででずっと長かったのです。

そうであるなら、
何故こうした時には、
「電気を使わない演劇」を、
上演しようとは思わなかったのでしょうか?

僕にはそれこそあるべき姿のように思えました。

古代ギリシャの巨大な野外劇場でも、
演劇は上演され音楽は奏でられていました。

時には数千人かそれ以上の観客が、
その藝術を鑑賞した訳ですが、
勿論声はマイクなど使用せず、
舞台を電気の灯りで照らすようなこともしませんでした。

何故そんなことが可能だったのでしょうか?

数千人の観客に、
どうしてたった1人の肉声が、
届くことが出来たのでしょうか?

それはそこに集まった全ての観客が、
耳を澄ませて声を聴いていたからです。

数千人の観客全てが注意を集中させて耳を澄ます時、
その場には奇跡的な静寂が訪れ、
その静寂の中では、
囁き声も千里を走り、
あたかも目の前で話すかのうように、
遥か彼方の舞台上の俳優の声が聴こえ、
それに感動することが出来たのです。

そして、
電気のない時代の観客の感覚は研ぎ澄まされ、
小さな声にこそ美を感じることが出来たのです。

藝術は観客が作る、
ということの真の意味は、
こうしたところにあるのだと思います。

それが今はどうでしょうか?

300人程度の大きさの会場でも、
マイクを使わないような演劇や音楽の上演はなく、
音はけたたましく人工的に拡声されないと、
ざわついて耳を澄ますということをしない、
今の観客の耳には届きません。

これはどういうことかと言うと、
藝術という観点から見れば、
人間は進歩などせず、
種としての老化をしているのであり、
その感覚は若さを失っているので、
音を大きくしたり、
補聴器を付けたりしないと、
それまでのように音を聴くことが出来ない状態になった、
ということなのです。

その堕落の源こそ、
電気です。

最初の「たかが電気のために…」という台詞が、
仮にマイクを使うことなく、
全くの肉声で発せられ、
全ての電気や人工物が使用されない中で、
耳を澄ませる数万人の観客の耳に届いたとしたら、
僕はその光景こそ藝術だと思いますし、
その音楽家は本物の藝術家であり、
その奇跡的な光景こそ、
真の藝術そのものだと思います。

しかし、
実際にはそうではなかったのです。

ヒットラーはマイクを使ったパフォーマンスの、
1つの完成者だと思いますが、
その後のほぼ全ての演説や集会が、
その主義や主張は多種多様でありながら、
結局のところ、
大観衆を目の前に電気を使って声を拡声し、
巨大で人工的な音で、
内容のない空疎なアジテーションを、
1つの気分として受身の観衆に垂れ流す、
という点においては、
全く同じことをしている、
というのは何か履き違えをしているように、
僕には思えます。

うまく言葉に出来ませんが、
こうしたことを続けている限りは、
本当に重要なメッセージが、
共有されることはないような気がします。

電気を使わない生活は、
現実的には不可能だと思いますが、
藝術は電気なしでも可能です。

消防法という問題はありますが、
照明の代わりには、
自然光と蝋燭の炎を使い、
声も音も全て肉声に拘り、
観客は皆五感もしくは六感を研ぎ澄ませて、
見えない物を見、
聴こえない音を聴くために、
感覚をかつてのように鋭敏に若返らせるために、
その劇場や野外の会場に、
静謐な思いで集うのです。

もし脱原発を叫びたいような演劇人がいらっしゃるなら、
藝術家のなすべきことは、
デモやアジテーションや政治的な内容の芝居ではなく、
電気を全く使わない芝居ではないでしょうか。
藝術家の現実に対する抵抗というのは、
常にそうした形を取るべきだと、
僕は思います。

今こそ電気を使わない藝術を!

それが僕の心からの願いです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

頭の中の思考とそれが書かれるということとの違いについて [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は胃カメラの日なので、
カルテの整理をして、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

たとえば1時間あることについて考え、
1時間が経過した時点でのその問題についての結論を、
活字にして残したとします。
それから翌日になって、
その活字の文面を読み返し、
そこから再びその同じ問題について、
更に1時間考え、
そうして出た結論を、
再び活字にして残します。
最初の結論から次に考えるまでの時間は、
少なくともその問題について意識上で考えることはせず、
それに関する情報が別個に得られることもないとします。

こうして2時間の思考により得られた結論を、
結論Aと便宜上名付けます。

そこでもう1つ、
今度は1時間矢張り同じ問題について考え、
その1時間の結論を、
活字にはせずに頭の中に強く留めておきます。
そして、
その考えがしっかり心に刻まれているうちに、
更にもう1時間同じ問題について思考を深めます。
こうして得られた結論を、
まとまった段階で矢張り文字に起こします。

この結論を結論Bと名付けます。

さて、
全く同じ人物が全く同じ問題について考えたとして、
この2つの結論は一致するでしょうか?

一致することはない、
というのが僕の考えです。

これはどういう意味かと言うと、
思考というのは、
それが脳の神経回路の中に留まっている状態と、
何らかの形で、
一旦外部に出力された状態では、
その性質が変わるものではないか、
ということです。

そして、
その出力の仕方も、
言葉にして誰かに話したような場合と、
ツィッターのようなものを含めて、
活字にして残した場合では違うのです。

これは、
その思考が言語化され、
それに対する外部の反応が入力されるので、
そのために変化する、
という意味ではありません。
誰にも見せないように、
密かに書いた場合にも同じ結果になるのです。

それは何故でしょうか?

人間の思考の流れというものは、
そのまま脳内で完結した場合と、
中途で一旦外部に出力された場合とでは、
その性質が変わってしまうものだからです。

それでは結論Aと結論Bとは、
どちらが正しくその人の思考を体現しているものと、
考えるべきでしょうか?

僕の個人的な考えは、
それは結論Aである、
というものです。

分断された思考は、
そうでない思考より、
その深さや純粋さにおいて、
劣るものである、
という認識を持っているからです。

先日ツィッター上でこんなつぶやきがありました。

フェノキシエタノール含有のインフルエンザワクチンで、
アナフィラキシーのリスクが高い、
という見解があるが、
他のワクチンにもフェノキシエタノールは含まれているので、
その見解はおかしい、
と言うのです。

こういうものを読むと、
ちょっと悲しい気分になります。

この方は、
フェノキシエタノールが原因でアナフィラキシーが起こる、
という言説を何処かで見て、
その情報を頭の中に入力し、
そこに結び付いた脳内の情報として、
他のワクチンにもフェノキシエタノールは含まれている、
というものがあったので、
その2つを結び付け、
最初の言説は誤りだ、
という結論を出力したのです。

しかし、
勿論そうではありません。

この内容は、
特定のメーカーのインフルエンザワクチンで、
昨年急にアナフィラキシーの報告数が増えた、
という事実があり、
その原因を検証するための研究が厚労省の指示の元に行なわれ、
その結果として、
一部の研究で、
フェノキシエタノールとインフルエンザの抗原との、
何らかの相互作用が、
アナフィラキシーの要因になっているのでは、
ということを示唆するデータがあり、
それは確実な結論ではないけれど、
ワクチンの安全性を優先する立場から、
今年のワクチンではフェノキシエタノールを、
チメロサールに変更する、
という決定が行われた、
という経緯があるのです。

このことは、
当該の検証結果の資料が公開されていますから、
すぐに確認の出来ることです。

しかし、
上記のつぶやきをされるような方は、
そうした情報の確認の作業はせず、
脳に入力された情報を、
一番その時関連性の高い脳内の情報と結びつけ、
すぐさま一定の結論を出して、
その内容をツィッターなどで出力するのです。

つまり、
一種の条件反射的なプロセスです。

それが出力され活字化されるということは、
その内容を本人が再び情報として、
脳に入力することを意味しています。

そして、その情報が再入力された時点で、
その問題に対する思考はストップし、
その人にとってはそれがその思考の結論となります。

つまり、その人の脳はその時点で、
その思考を深めるというタスクを終了してしまうのです。

ある未熟な思考を、
そのまま活字化し発信するという行為は、
概ねそうした意味を持ちます。

同じことを実際に目の前にいる相手に話すとすれば、
そこまでの思考の停止は起こりません。
発信された情報を、
再び文字の形で再入力する、
という作業が入らないからです。
これがSNSの双方向性と実際の会話との違いです。

SNSを活用される方は、
1人だけの考えより、
多くの人の考えがたたかわされる方が、
より議論が深まり、
より深く的確な結論が、
そこから得られるように考えています。

ネットには集合知がある、
というような言い方をされる方もいます。

しかし、
それは必ずしも正しい考えではないと思います。

フェノキシエタノールの例で考えると、
たとえば、上のような意見がつぶやかれた後、
別の方が、
「それはインフルエンザのワクチンに、
限定された現象、という解釈ではないでしょうか?」
というようなレスを返し、
それを見て最初の方も自分の考えを改める、
というような経緯が考えられます。

結論はこれで正しい方向に導かれるのですから、
それで良い、という考え方も成り立ちます。

しかし、
こうした場が成立すれば、
個々の考えは浅くても、
修正されるからそれで良い、
ということになり、
最初のような方は、
同じような反射的な思考を繰り返すようになります。
あるいは自ら発信することはなしに、
その場の議論を眺め、
それが一定の結論に達した時点で、
その結論のみを、
あたかも自分の意見であるかのように、
自分の脳に入力するだけになります。
いずれにしても、
その人の思考のレベルは、
低下することはあっても、
深まることはありません。

つまり、
集合知という考えに立てば、
多くの人が浅い考えを発信し合うほど、
トータルには深く考える人が減り、
吟味された思考が減少するので、
トータルな思考の総量は、
むしろ減少するということになり、
一定の考え、ある特定の個人の考えが、
全体を支配する確率が増加します。
人間は平等ではなくなり、
情報や知性のレベルでの、
支配被支配の構造が成立し易くなります。

たとえば10人の人間がいて、
原発は即座に廃炉すべきか、
というような問題を考えたとしましょう。

思い付きの条件反射的な思考を、
SNSで次々と披露する、
というようなことを繰り返すと、
結果として10人のうち8人くらいの人は、
その反射的な思考を繰り返すのみで、
それ以外の脳内活動は停止した状態になり、
結果として残りの2人のみが、
その思考を引き継いで思考を深めるようになります。

これが続けば、
8人は残りの2人のどちらかの思考に、
おぶさるようになって、
自ら考えること自体を止めて、
残りの2人の思考の奴隷になり信者になります。

その2人の思考は、
一致しないことが通例ですから、
その2人の間に争いが起こり、
残りの8人はどちらかの思考の信者となって、
派閥争いを繰り広げます。

これを思考の総量ということで考えれば、
他人の力を借りずに思考を深める場合に比べて、
10人の思考の総量は、
皆で話し合った場合の方が遥かに少ない、
という結果になりかねません。

3人揃えば文殊の知恵、のような考え方、
集合知というような考え方は、
あくまで個々の人間が、
その問題についての思考を、
まずは孤独に深めた上で、
その結論をたたかわせる、
という意味において成立するものです。

これは全員がその事項において、
専門家になる、ということではありません。
専門家は専門家の立場で、
それ以外の人は専門家ではない立場で、
それぞれの立場で思考を深めることが重要なのです。

それがなされずに、
個々の思考が深められないままで出力され、
その未熟な結論同士で議論されることは、
集団としてはむしろ思考の総量を減らす事態になり、
特定の個人の思考が全体を支配する、
「知の独裁」に、
簡単に結び付くような危険を、
孕んでいるのではないでしょうか?

思考というのは、
本来孤独な作業なのです。
他人の2倍同じことを深く考えたところで、
誰も褒めてはくれないし、
誰も喜んではくれないのです。
あなたの思考はあなた独自のものなのであり、
他人の思考とは本来相容れないものなのです。
そこに人間の根源的な孤独があり、
かつまた崇高さがあるのです。
世界の成り立ちについても、
生きる意味についても、
原発やいじめの問題についても、
今日のご飯のおかずについても、
夏休みの旅行のプランについても、
同じように深く考えることの出来るのが、
すなわち人間の偉大さだと僕は思います。

しかし、SNSのような装置があると、
同じことを多くの人が、
同じように考えているような錯覚に陥り、
誰かに自分の思考を受け入れられたように感じて、
その悦楽の虜になるのです。
その時に、
あなたはむしろ思考しなくなっているのですが、
そのことには気付かず、
普段より色々なことを考えている気分になって、
次第に誰かの思考の奴隷になってゆくのです。

思考というのは、
自分の中で孤独に深められている間は自由なのです。
どんな規制もかからず、
どんな結論に向かうことも自由で、
洗脳のような思考の捕縛にかかることもないのです。
あなたの思考は他人の奴隷にはならないのです。

しかし、
それが一旦言葉や活字の形で出力され、
他人の目にさらされると、
今度はその思考の結論は、
誰かに捕縛され支配される可能性があるのです。
一旦その思考の結論が支配されると、
あなたの脳内の思考自体も支配されるのです。

勿論出力されない思考は、
無力でもあるのですから、
思考は出力されなければ、
ないものと同じです。

ただ、
僕達が自分というものを守るためには、
深められた思考以外はなるべく発信せず、
人間の思考の総量を、
常に増やすように努力することが、
必要なのではないかと思うのです。

最後に誤解のないように補足したいのですが、
僕は決してSNSのようなシステムを、
否定するつもりはありません。
個人的には嫌いですが、
それは個々の向き不向きの問題で、
利便性や有用性はあると思いますし、
お好きな方が多くいらっしゃることも承知はしています。
ただ、その現行の使われ方は、
他人の意見に従ったり、
他人の意見を否定したりすることに、
その多くのエネルギーが割かれていて、
他人の意見を受け入れたり、
自分の意見が他人と違うことを、
肯定的に確認するような姿勢に乏しいのが、
問題だと思うのです。

仮にアインシュタインの時代にSNSがあって、
彼がその思い付きを、
吟味することなく毎日つぶやいたとしたら、
天才の考えはたちまち条件反射的な思考によって否定され、
彼自身の考えも分断されて深まることはなく、
科学の歴史は停滞して終わったのではないでしょうか。

まず自分の考えを出来る限り深く構築し、
構築された考えは善悪や正しい・誤っている、
という尺度で評価するのではなく、
それぞれ唯一無二のものとして、
まずは互いに尊重し合うことこそ、
必要なのではないかと思うのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

私的「いじめ考」 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は胃カメラの日なので、
カルテの整理をして、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

僕なりの「いじめ」についての話です。

僕も自分なりに、
いじめに苦しんだ時期があり、
実行に移すことはありませんでしたが、
一時期は「死」を真剣に考えたこともありました。

それは記憶の中では、
小学校の中学年くらいの時期に始まり、
中学校の3年間がピークで、
高校の前半くらいまでは断続的に続きました。

もう大分記憶は薄れましたし、
今も尾を引いている、
ということはあまりありませんが、
黒板に「石原君が早くいなくなればいいと思います」
のようなことを書かれて、
ホームルームの前に黒板消しで消したことなどは、
今でもリアルに覚えています。

ただ、簀巻きにされて窒息したり、
タバコの火を押し付けられたり、
といったことはありませんでしたから、
今から見ればまだ、
牧歌的な時代の話だったのかも知れません。

従って以下の内容は、
僕の受けたレベルのいじめに限った話で、
それがたとえば今問題になっているような出来事とは、
同じものとは限らない、
ということは、
ご理解の上お読み頂きたいと思います。

大人にも勿論いじめはありますが、
中学校の頃のいじめとは、
矢張りかなり様相の違うもののように思います。

また、幼稚園にもいじめはあると思いますが、
それは当人達にとって、
あまりいじめとは認識されないように思います。

つまり、
中学校くらいの時期に特徴的ないじめというのは、
その年齢層に特有の何かを持っていて、
それが「いじめ」という現象を考える上で、
非常に重要なことのように僕には思えます。

いじめはしばしば、
先生やPTAのような身近な大人にとっては、
「遊び」や「けんか」のように見えることがあります。

そのことが後から問題となり、
「いじめを見抜けなかった」と非難されたりするのですが、
僕は見抜けなかったのではなく、
「遊び」や「けんか」と認識した先生は、
その出来事を客観的かつ冷静に、
理解したに過ぎないのではないかと思います。

つまり、
いじめている生徒といじめられている生徒という、
当事者以外にとっては、
いじめという現象は存在せず、
それは単なる「遊び」や「けんか」に過ぎないことが、
往々してあり、
時にはいじめている生徒にとっても、
それは「遊び」や「けんか」という認識であって、
唯一いじめられている生徒にとってのみ、
それが自分の全存在を否定し、
死を引き寄せるような深刻な行為になるのであり、
そのことがいじめという問題の、
1つの特徴であり解決を困難にしている要因ではないか、
と思えるのです。

いじめを見逃した先生が、
こうした場合に非難されるとすれば、
それは冷静で有り過ぎ、
いじめられた生徒の主観に立って、
その物事を見ることがなかった、
という点においてのみのように思えます。

要するに、
いじめは学童期から思春期に特有の、
ある種の感受性にその要因の1つがあるのです。

小学校の低学年の時に、
同級生の家に行き、
そこで大車輪の技を掛けられて、
窓に足が激突して窓ガラスが割れ、
足が血まみれになったことがありました。
今思うと相当の話ですが、
当時はあまり、
いじめられた、
というような感覚はありませんでした。

これは、
暴力というものに対して、
まだ鈍感であったので、
その意味合いを過剰に受け止めて、
自分を追い込むようなことが、
なかったからだと思います。

小学校も中学年くらいになると、
集団を作り、その中に仲間外れを作って、
その仲間外れを罵ったり、
笑い者にしたり、
時には暴力を振るったりすることが、
人間の集団というものの、
1つの特性として表れるようになります。

これはおそらく、
親や大人の関係性を離れたところで、
子供同士の共同体が、
自然と形成されることの、
1つの表れではないかと思います。
それまでの子供の社会は、
大人の社会の一部として存在するだけだったのですが、
この時期から部分的に独立するようになるのです。
子供が大人になるためには、
これは絶対に必要なプロセスです。
そして、まだ出来上がったばかりの子供の共同体は、
原始的動物的な姿を残しています。
その弱肉強食の非情さと残酷さが、
所謂「いじめ」を生み出す源泉です。

つまり、
子供独自の社会が生まれると共に、
自然に「いじめ」は発生するのです。

その理由は、
未熟な共同体というもの、
未熟な社会というものは、
そうした生贄を必要とするように出来ているからです。

何故そう出来ているのでしょうか?

それはいじめられた側の僕には分りません。

この社会の比率的には多くの方は、
基本的にいじめる側の立場の人で、
そうした人はそのことの意味を、
おそらく生理的に理解されているのだと思います。

「そりゃそうだ。うまくいくためには、
そうした生贄が必要だよね」
と心の中では思っているのではないでしょうか。

よく加害者側の個人情報が流出したりすると、
「それは逆の意味のいじめである」
というようなことを言う人がいますが、
いじめられた経験のある人は、
多分そのようなことは言わないと思います。
勿論面白がって情報を拡散する行為を、
正当化するつもりもありませんし、
正しいこととも思いませんが、
いじめた生徒が気の毒だ、
などとは決して思いません。
理屈や理性ではなく、
生理的にそうは思えないのです。

いじめた側の皆さんは、
すぐにそうしたことは忘れて大人になり、
概ね大人になってもそうした皆さんが、
この世の中で大きな顔をしているので、
「いじめた生徒を非難しても、
決していじめはなくならない」
などと言いますが、
そうした発言を聞くだけで、
「ああ、この人はいじめる側の人だったのだな」
といじめられたトラウマのある人には、
すぐにピンと来ますし、
本能的にそうした人とこの問題を話すようなことは、
避けるのが賢明と理解するのです。

従って、いじめ問題に対して、
もっぱら発言されているのは、
いじめた側の人達です。
いじめられた側の人達は、
概ね理性的であれば沈黙を守ります。
それはトラウマに触れることが辛いからでもありますし、
いじめた側とそんな議論をしても、
ロクなことはないと分かっているからです。
ここに、
いじめ問題の対策が、
概ね失敗する大きな要因があるように思います。

話が逸れましたので、
いじめの起源の問題に戻ります。

民話や昔話には、
ある村では定期的に洪水が起こり、
その破滅を防ぐためには、
毎年1人の生贄を神や怪物に捧げなければならない、
というような話がよくあります。

この物語の意味するものは、
共同体の維持のためには、
そこから排除される生贄が、
定期的に必要だ、ということです。

しかし、
物語には続きがあり、
良い神や英雄がその村に現れると、
その英雄は怪物や悪い神を倒し、
生贄の習慣はその村からなくなります。

これはつまり、
原始的な共同体には常に生贄が必要だが、
それが理性によって克服されると、
新たに誕生した社会では、
生贄は少なくとも見かけ上は、
必要とされなくなる、
ということを意味しています。

要するに、
これは原始的な社会が、
成熟することの寓話なのです。

この生贄を「いじめ」に置き換えれば、
中学生くらいにピークに達する、
特有の残酷な形態を取る「いじめ」の持つ意味が、
何となく見えて来るように思います。

精神分析的に言えば、
これはその共同体という自我が、
成熟する過程なのです。

大人の支配が緩み、
学校という檻の中に、
強制的に閉じ込められた子供達は、
苦しみながら自分達だけの共同体や社会を形成し、
そこに一定の秩序を作ろうとします。

その過渡期に出現する現象が「いじめ」です。

高校時代から大学時代くらいに掛けて、
それまでのような「いじめ」の構図が、
見掛け上消失するのは、
子供の社会が成熟し、
大人の社会に近付いてゆくからです。

大人の社会でも、
当然排除の論理は働くのですが、
常にセーフティーネットは意識されていて、
法律もそのために整備され、
同じ現象も差別とか偏見とかという、
別個の観念をもって理解されます。
その社会に適合出来ず、
より動物的な社会を求める人間も少数はいて、
その人達は一般の社会からは、
ドロップアウトしてアウトローになります。

年齢と共にいじめが消失するように見える、
もう1つの要因は、
いじめられる側の感受性にあります。

中学生くらいを頂点にした発達上の一時期では、
僕達の感性は非常に死と近いところにあります。

いじめられる側の立場の人間にとって、
「いじめ」を受けることは、
即自らの死を考えることに繋がります。

僕も中学時代には、
一時期自分の死をかなり具体的に考えました。

その後もっと辛い目には何度も遭いましたが、
その時には、
同じようには死を身近に感じることはありませんでした。

これはその時期特有の現象だと思いますが、
いじめている相手に、
真面目に尋ねたりするのです。
「僕は死んだ方がいいのかな。
○○君は僕に死んで欲しいの?」

僕も実際にそうした質問を何度かしました。

いじめっ子はそうした時には、
非常に面倒臭そうな顔をするのが常です。
集団に生贄が必要なのは理の当然で、
選ばれた馬鹿を、
適当にあしらっているに過ぎないからです。

ただ、
いじめられる側は、
それでも執拗にそうした問いを繰り返すので、
いじめる側は、終いにはうんざりして、
「じゃ、死ねばいいじゃないか」
というような言葉が口を突くのではないかと思います。

中学校時代に特有な、
未熟な社会の特性としての「いじめ」は、
概ねこうしたもので、
いじめる側は特殊な場合を除けば、
いじめる対象に、
常にいじめられていることを希望しているだけで、
死などは期待していないのです。

「死」に魅入られるのはむしろ、
いじめられる側の方なのです。

ここに、
中学時代のいじめが、
しばしば悲劇を生むことの、
大きな要因があるように、
僕には思えます。

この死に魅入られるような感受性の鋭さ、
いじめによる疎外感を、
完全な自己否定と考え、
その救済を皮肉にも、
左程の深い意味もなくいじめている当の相手に、
全存在を懸けて求めようとする、
その切実で真面目過ぎて、
時に滑稽にさえ見える独特の感性が、
いじめている相手の無雑作な拒絶に遭う時、
もうその目の前に、
死が大きな口を開けて、
いじめられたお子さんを、
待っているように思われるのです。

従って、
そうした帰結としての死は、
当の本人にとっても、
いじめた相手にとっても、
同じように不幸な出来事です。

人が自ら死を選ぶことを、
全て止めることは不可能です。

しかし、
中学生のいじめによる死だけは、
矢張り絶対に止めなければならないと思います。

それは周囲にいる大人によって、
強引に止められなければいけません。
それ以外に、
その死を止める力は存在しないからです。

いじめ自体は未熟な社会性から考えれば、
不可抗力の面があります。
問題は、
いじめられた当人が必要以上にそれを、
自分の生に対する根源的な問いと考え、
思春期特有の感受性から、
それを簡単に死に結び付け、
自分が生きるに値するのか、
と言う問いは、
常にいじめる相手に向けられるのに対して、
いじめる相手の未熟な自我は、
それを受け止めることは出来ない、
という点にあります。

よく、
どうしていじめで死を選ぶ中学生は、
親や先生にその苦しみを訴えないのか、
という疑問を言われる方がいますが、
僕の考えではそれはナンセンスです。

いじめられた当人にとって、
自分を救済してくれる相手は、
常にいじめている相手以外には有り得ないからです。
いじめられっこは、
いじめっこに評価されることだけを、
「お前は生きていてもいい」
と言われることだけを望んでいるのです。
しかし、それは絶対に叶うことのない夢で、
その時いじめられっこの心は、
死に魅入られるのです。

僕がいじめの問題に望むことは、
いじめを理解するとか、
そういうことではなく、
「死」だけを強引に止めることです。
大人の権限を持って、
それだけは許さないことです。
いじめは不可抗力なのです。
子供を学校という檻の中に閉じ込めて、
そこで社会性を獲得させ、
人間関係を成熟させる、
というシステム自体が、
いじめの発生装置なのだから仕方がないのです。

勿論悪質で犯罪的ないじめもありますが、
多くのいじめは未熟な社会性から生まれた、
発達の過渡期の現象です。

いじめというそのもの自体を否定するとすれば、
学校というシステムを否定し、
子供の社会性の獲得のあり方を、
否定しなければなりません。

それも1つの考えですが、
実現性は薄いと思います。

問題は死を止めることです。
それだけを止めることです。

僕がタイムマシンで過去に戻って、、
いじめられていた、
中学生の僕に言いたいことは、
今君に出来ることは何もないし、
君をいじめているあいつに、
何かを期待したところで、
それが叶うことは金輪際なく、
君に出来ることは、
ただひたすらに自己否定に耐えることしかないのだけれど、
そうして耐えることは、
君の人生にとって決してマイナスではなく、
絶対に君の生を支えてくれる何かは、
君の心の中に湧き上がる日が来るので、
それを信じて、
死に魅入られることだけはしないで欲しい、
ということだけです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

「科学的に有り得ない」ということ [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は健康診断の結果説明会のため、
午後の診療は5時15分までとさせて頂きます。
ご注意下さい。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

大分前ですが、
日常の不思議を科学的に解明する、
という趣旨の番組が、
結構流行ったことがありました。

その中に大食いの人は何故太らないのか、
というものがあり、
その点で電話で取材を受けたこともあります。
「それは絶対○○しているからに決まっているじゃないか」
と思いましたが、
そうも言えないので、
幾つかの可能性についての話をしました。

代謝が活発だからではないか、
という考え方もあり、
甲状腺機能亢進症の人は、
食欲は出ますが痩せるので、
それもないとは言えません。

ただ、バセドウ病は概ね若い女性に多く、
最初から痩せていることが多いので、
一体どの程度のカロリーが、
甲状腺ホルモンによって消費され、
どの程度のカロリーで、
それが均衡に達するのか、
という点は、
非常に興味深く思いますが、
それを人体実験で証明するのは、
倫理的な問題が大きく、
データはあまりまともなものはないようです。

さて、今日取り上げたいのはその話ではなく、
非常に見ていて刺激を受けた、
別の話題についての話です。

火渡りの行というのがあって、
これは宗教行事や修行、時には見せ物やマジックとして、
燃やした火がまだ燻っている灰の上を、
裸足で渡るものですが、
その人は足の裏に火傷1つしないのです。

これは生理的な現象なのでしょうか、
それとも超能力の類なのでしょうか、
それとも何かトリックがあるのでしょうか。

番組においては、
まず皮膚科の医者に話を聞きます。

その医者の見解としては、
燻った灰の温度は、
確実に皮膚の細胞を変性させる温度を超えており、
足の裏には水分や脂の膜が存在するけれど、
それも高温では瞬時に蒸発する筈なので、
火渡りをして火傷をしない、
などということは有り得ない、
という立場でした。

スタッフが研究機関の協力で、
灰の上の温度を計ってみると、
確かにそれは皮膚を障害する温度を、
遥かに超えています。

つまり、
以上の情報が事実とすれば、
火渡りをして火傷をしない、
ということは生理的には有り得ないことで、
それが実際に起こるとすれば、
それは科学の常識を超えた超常現象であるか、
何らかのトリックがあるかの、
どちらかである、
ということになります。

本当にそうなのでしょうか?

真相はご存じの方も多いと思いますが、
これまでの議論の流れとは、
別個の所にありました。

ライデンフロスト効果という、
物理現象があります。

よく熱したフライパンに、
水を一滴垂らすと、
その水滴は丸い球のようになって、
しばらく滑るようにフライパンの表面を移動します。

つまり、
これは水の粒が高熱に触れたのですが、
瞬時に蒸発することなく、
水滴の塊の形を保ちながら、
しばらく高熱の表面に存在し続けている、
という現象が起こっていることを意味しています。

これは水の粒子が、
急に高熱の物体に接触した時、
その境界に水蒸気の膜を作り、
それが熱伝導を遮断して、
水の粒子自体は蒸発を免れる、
というメカニズムと理解されています。

火渡りで火傷をしないという現象は、
このメカニズムで説明が可能です。

裸足の足の裏は汗を掻いていて、
それが水の膜を形成しています。
足の裏が急に高熱の灰に触れると、
そこにライデンフロスト効果による水蒸気の層が出来、
熱を遮断するので、
皮膚の障害が起こらず、
火傷をしないのです。
(ウィキペディアにはこの説明に批判的な表現がありますが、
その根拠はあまり明確でなく、
偏向した記載のように僕には思えます)

面白いですね。

世間には「科学的に有り得ない」
というような言い方を、
自信満々に連発するような言説が溢れています。
それは概ね、
あまり科学に明るくはない人を、
自分の考えに服従させようとする時に、
上から目線で発せられることが多いのです。
つまり、「権力を伴った呪術的な言葉」です。

しかし、
本当に科学的な人は、
「科学で有り得ないように見える現象」を、
むしろ愛するものではないかと僕は思います。

そうした現象の多くは、
上記の火渡りのように、
適応するべき原理を誤っているために、
人間が「有り得ない現象」を作りだしているか、
そうでなければ、
これまでにない科学的原理や自然の新たなメカニズムの、
発見に結び付くような知見が、
潜んでいる可能性が高いからです。

本当に科学的な人が重要視するのは、
むしろその現象の観察の精度であり、
その現象そのものの了解の困難さではないのです。

特に医療者は上記の事例のように、
物理学的な現象の理解などには、
不勉強で知識が乏しいことが多く、
安易に「それは医学的に有り得ない」
というような言い方は慎むべきではないかと思いますが、
実際にはそうしたつぶやきだらけの状況に、
何か暗澹たる思いがするのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

生活保護の査定について [身辺雑記]

ちょっと臨時の記事です。

雑誌の記事で、
都内の病院勤務の医者の話として、
「生活保護の受給者の医療費は、
請求通りに支給されていて、
査定はないので丸儲けだ」
というようなニュアンスのものがありましたが、
それは嘘です。

診療所にも生活保護の方は受診をされますが、
検査も薬も査定されます。

税金を使用している関係上、
今では査定は通常より厳しいくらいです。

つまり、
健康保険の給付に問題あり、
という判断があれば、
その分の医療費は医療機関には入りません。

取材を受けられたのがどういう方か分かりませんが、
病院に勤務されていて、
直接経営や診療報酬のチェックの作業をされていないとすれば、
そうした面にあまり知識はないと思います。

僕も以前病院勤務の時には、
そうした知識は全くありませんでした。

以上、
憤りを感じたので臨時で書きました。

こういうのはツィッターが便利なのでしょうが、
嫌いなので仕方がありません。

「利権」を考える [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。

いつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

「利権」という言葉がありますね。

原発利権とかワクチン利権とかと言われると、
なるほどな、
と思いますが、
電波利権とか北朝鮮利権とか埋め立て利権とか、
どのような組み合わせでも成立しますし、
利権集団とか利権構造とか、
自由自在に使われているので、
こんな言葉が一体いつからあって、
どのように使われていたのだろう、
とちょっと不思議に思いました。

「権利」という言葉は、
確か法律か何かの用語のために、
明治の頃にでっち上げた言葉だった筈です。

それならそれを逆にした「利権」というのも、
その頃に作られたものなのでしょうか?

取り敢えず、家にある「広辞苑」を引いてみます。

利権とは、
利益を専有する権利、
と書かれています。

日本の辞書というのは、
その言葉の成り立ちなど、
まるで書いてはいないので、
正直読んでもまるで参考にはならずに、
苛々します。

ただ、この記載を読む限り、
必ずしも利権という言葉は、
悪い意味で使われるものではないことが分かります。

たとえば、
「この農場の利権をもらいたい」
というような会話が、
本来は普通に成立するような気がします。

しかし、
今そんな言い方をすれば、
「お前は何を言っているんだ!」
と袋叩きに遭う羽目に成りかねません。

利権という言葉は現在では、
ほぼ100%悪い意味で使われているからです。

別のもっとくだけた辞書には、
「利益を独占して思うままにすること」
と書かれています。

なるほど。
同じことを言ってはいるのですが、
この表現だと如何にも、悪党の言い分、
という感じになります。

つまり、
ここまでで何となく分かることは、
利権という言葉は、
元々は善悪のない透明なニュアンスのものだったけれど、
ある時からそれが誰かに汚されて、
悪のレッテルを貼られる言葉になった、
という一連の流れがあるのだろう、
ということです。

明治時代の辞書の「言海」には、
利権という言葉は載っていません。
つまり、当時あったにしても、
それほどポピュラーな言葉では、
なかったことが分かります。

漢和辞典には、
もう少し詳しいことが、
書いてあるのではないか、
と思うとこれがガッカリで、
矢張り広辞苑と同じことしか書かれてはいません。

世の中には語源辞典というものがあるので、
ああこれは素晴らしいと思って見てみましたが、
どの辞書も「幕間」とか「メリヤス」とか、
そうした言葉の語源が載っていても、
「利権」という言葉の語源は載っていません。

これもまたガッカリです。

ネットで「利権 意味」などで検索しても、
まるで情報がありません。

ちぇ、全然役に立たないじゃん、
とこれもまたガッカリです。

それで、どのくらい昔から利権という言葉が、
使われていたのかを追跡する意味で、
amazon の本のタイトルで検索してみました。

すると一番古いのが、
1920年代から1930年代の本で、
「満蒙の鉄道利権」とか、
「露領極東の鉱業利権」というのがあります。

これはその名の通り、
満州での鉄道を占有する権利や、
鉱石の発掘を占有する権利を、
指しているものと思われます。

勿論悪い意味ではなく、
むしろ「大陸でドシドシ利権を獲得するぞ」、
というような意味合いであったのだと思います。

それが、
明らかに悪い意味で現われるのが、
1970年で、
「利権の海」という、
東京湾の埋め立てを巡る裏の事情を扱った本や、
「くたばれ自民党ーこの利権集団を裸にする」
というような、
下品なタイトルに行き当たります。

おそらく、この時代に、
メディアで利権という言葉に、
「汚い色」が付けられたのだと推測されます。

誰が最初にこうした「汚し」を行なったのかは、
今のところ特定が出来ません。

立花隆の「田中角栄研究」は、
1974年ですから後のことですし、
松本清張さんは、
如何にもそうした言葉を使っている印象がありますが、
手元にある小説や評論、エッセイをめくっても、
「利権」という言葉には行き当たりません。
「現代官僚論」という官僚の利権を扱った本がありますが、
そこには「利権」という言葉はなく、
主に「官僚の特権」と書かれています。
さすが清張さん、
下品な言葉は使っていなかったのね、
と嬉しくなります。
その一方、立花隆の文章は、
出自不明の汚い言葉のオンパレードです。

「利権」という言葉の「汚し」に関しては、
新聞が最初かな、
というのが現時点での推論です。

高島俊男さんの書かれたものを読むと、
汚職という言葉は、
戦前の「涜職(とくしょく)」という言葉を、
メディアが下品に改変して作られた造語のようですが、
今では平然と辞書にも載っています。

従って、
この「利権」も、
元々ある利益の占有という意味合いの言葉を、
仰々しく悪に汚したもののように、
推測されます。

おそらく最初は、
「利権を貪る」
のような表現が取られたのではないでしょうか?

これは「利権」自体は悪いニュアンスはないのですが、
印象として言葉に悪い色が付くのです。
そのうちに、
「利権」という言葉自体が、
悪い印象に染められて行きます。

そう考えると、
「利権」という言葉が、
何か可哀想に思えます。

メディアというのは、
人間を苛めたりさらし者にしたりするだけではなく、
言葉にも辱めを受けさせるのです。

なので僕は、
テレビなどで何か得意げに、
利権、利権と、
喚くような人が、
あまり好きではありません。

その人の顔は大抵、
非常に下品に歪んでいますし、
何より汚い言葉の奴隷にように見えるからです。

高島さんの文章を読んでから、
「汚職」という言葉も、
嫌いになって最近は使わないようにしています。

「あなたは涜職の罪を犯しましたね」
と言った方が余程格調が高く、
何より下品ではありません。

昔の言葉に、
新しい意味が付加されたり、
新しい言葉が作られることは、
言葉も生き物である以上、
当然のことで、
そうした新陳代謝がなければ、
言葉も命を絶たれてしまいます。

しかし、
メディアの作る言葉は、
概ね他人を非難したり穢したり、
悪い意味を付加することが殆どで、
かつては良い意味に使われた言葉も、
悪い意味に変換してしまいます。

これでは、
言葉の支配する世の中が、
良くならないのが当然ではないでしょうか?

せっかく言葉を作るなら、
もっと美しく、
他人を褒めたり尊重したりする、
宝石のような言葉をこそ、
メディアもジャーナリストも、
考案するべきではないかと僕は思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

(付記)
引用したお名前に誤りがありましたので、
ご指摘を受け訂正しました。
(2012年6月11日午前8時修正)

あなたに掛かった魔法 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。

朝からいつものように、
駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。

一昨日からまた妻が入院しているので、
気分はブルーです。
退院はいつになるのか分かりません。

昨日は夜の9時から床屋さんで髪を切りました。
以前利用していた床屋さんが、
急に店を閉めてしまって、
その2軒隣くらいにある、
別の床屋さんを今は利用しているのですが、
そのお店は奥さんが別の仕事でうんと稼いでいて、
旦那さんが余技でやっているので、
いつも開いているのではなく、
営業時間も特に決まっていないのです。
それで、電話でまずお伺いを立てて、
時間を調整してから行くのです。

昨日の午後に電話をして、
今日の日曜日はどうですか、
とお聞きすると、
日曜日は都合が悪いので駄目だけれど、
土曜日の午後はどうですか、
と言われたので、
夜遅くの時間になってしまうのですが、
と言うと、
ああ、それは全然遅くても構わないよ、
夜中でもいいよ、
と言われたので、
夜の9時からになりました。

不思議な床屋さんでしょ。

便利なのか不便なのか、
よく分かりません。

今日は雑談です。

ツィッターなどというものが出来てから、
「言葉の魔力」というものに、
改めて目を見開かされる思いがします。
それも概ね悪い意味合いのことです。

あれはただ文字を並べただけのものですが、
それが魔力を持って人間を支配し、
思想という得体の知れないものを操り、
人間を政治的にして、
党派を分け、
その間に争いをもたらします。

あのタイムラインと称するものや、
まとめと称するものを見ていると、
人間という動物が、
何故今不幸であるのか、
何故戦争などの殺し合いがなくならないのか、
何故権力者が支配を続けることが出来るのかが、
リアルに分かって恐怖を覚えます。

言葉は常に善悪を分け、
党派の争いを促し、
最終戦争に至るまで、
完全に相手を屈服させるまで、
その戦いの中断を許しません。

最近ある政治家の変節とされるものを、
ある経済評論家が評価したのですが、
その文章を読んだ時、
とても心が洗われるような清々しさを感じました。

何故そんな風に感情が動いたのかと考えてみると、
それは別に僕がその意見に賛同しているから、
ということではなく、
ああこの人は本当に純粋に、
心の底から相手の人の人間性を評価しているのだ、
ということが伝わって来たからだと、
後から思い至りました。

つまり、言葉に愛を感じたのです。

「はじめに言葉ありき」

これは事実だと思います。
人間の本質は「言葉」であって、
それが話されることと、
それが文字になることとは、
大きく意味合いが違うのです。

勿論その場で消えてしまう話し言葉より、
文字になった言葉の方が、
その「魔力」は強いのです。

それなので、
昔の権力者は、
文字が大衆に利用されることを怖れ、
書かれた文字を神格化し、
書物を厳重に管理することで、
自らの権力という魔力を、
守ろうとしたのです。

ところが、
パンドラの箱は開き、
「文字」は広く全てに近い人間に、
開放されました。

文字が完全に開放された姿が、
今のツィッターと称するものの実体です。

人間は常に言葉に縛られ、
言葉による支配を受けます。

その意味で、
人間の世界というのは、
「言葉」の魔法が支配する、
現実ではない魔術の世界です。

僕自身生まれてからこのかた、
多くの魔法を掛けられ、
多くの予言をされて、
その魔力に苦しみました。

それは、
「お前は思いやりの心が足りない」
とか、
「お前は結婚は出来ない」
とか、
「そんな身体じゃ30までも生きられないな」
とか、
「お前に運転免許は取れない」
とか、
「石原君はいばっているから、
遊びたくありません」
とかといった、
概ね子供の頃の友達や先生からの魔法です。

仕事柄、
色々とご苦労をされている方のお話も聞きますが、
「お前を生んだのは失敗だった」
とか、
「お前はそんな性格だから、
友達がいないんだ」
といった魔法を掛けられている方が多いのです。

ただ、
これはただの「言葉」で、
非現実的な世界の魔法です。

そして、
必ず魔法は解けるのだと、
僕は思います。

僕は意外と具体的な魔法を掛けられたので、
「いばっていて友達が出来ず、思いやりの心がない」
という魔法は解けていませんが、
30を過ぎても辛うじて生きていますし、
運転免許も取れましたし、
結婚もしたので、
「ああ、これはただの魔法だったのだ」
とそんな風に思うことが出来ました。

もっと深刻な魔法を掛けられた方も、
僕は必ず解けると信じています。

それはただの「言葉」で、
ただの魔法なのです。

ツィッターのような道具に、
思想や政治を語らせてはいけない、
と僕は思います。

たとえば、
ツィッターで、
目茶苦茶な暴言を吐く方達がいます。
彼らの主張する内容は、
とても了承することの出来ないものですが、
それでいて、彼らの言葉には人間味があり、
人間的な魅力もあることが、
しばしばあります。

その一方で、
極めてまっとうな意見を持ち、
多くの権威に守られている、
多くの肩書きをお持ちの識者とされる方の言葉が、
その裏に人間としての卑しさや、
根本的な人間への愛の不足を、
かいま見せることがあります。

言葉にはつまり、
こうした二面性があるのです。

魔術の道具としての言葉と、
その人間の本質を示す言葉とは、
元々別のものなのです。

この2つの言葉が乖離しているにも関わらず、
思想への批判がその人物の否定に、
直結し一切の躊躇が許されないところが、
「魔法としての言葉」の怖さです。

ただし、
純粋にその人を賞賛しその人への愛を語る時、
それは決してプライベートな間柄ばかりではないと思いますが、
その言葉の持つ二面性や乖離は、
「魔法のように」消え失せ、
そうした「愛の言葉」は、
どんな人の胸にも、
清々しく響くのです。

これは個人的な反省も含めて思うことですが、
ブログやツィッターなどの文章は、
本質的に人を非難したり、
政治的に活動したりするためのものではなく、
他人への愛を語り、
他者を本質的な意味で、
賞賛する道具として利用する時にのみ、
その本来の輝きを持ち、
邪悪な魔法を打ち払う、
真の魔力を持つのではないかと思うのです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

藝術の水源を守る、ということ [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

デセイ様が11月に来日するようなので、
心が落ち着かなくなりましたが、
どうだろう。
1日だけだし、
ドタキャンしても公演としては成立するように仕組まれているので、
当日まで油断は出来ない感じです。
それに「ルチア」はなあ、
食べられるギリギリの熟れた桃のような感じだけれど、
でも絶望的に好きなので、
期待せず待ちます。

今日はちょっと雑談です。

大阪の橋下徹市長が、
文楽がお客さんを呼び込もうという、
努力をしておらず、
文楽劇場にもお客さんが入っていないので、
文楽への助成金をカットする方向で検討している、
というような話がありました。

イタリアでもオペラの税金による補助がカットされ、
本場のオペラが息も絶え絶えという状況だと耳にしますから、
これは決して日本だけの問題ではなく、
資本主義の世界で、
人間が藝術というものに、
どのような価値を見出し、
文化の継続性というものに、
どのような考え方を持つかという、
本質的な問題を孕んでいる事項のように、
僕には思えます。

橋下市長の考えは、
ツィートなどを読む範囲では、
次のようなものです。

文化事業というのは行政にとっても、
補助すべき対象ではあるけれど、
今のように財政状況が厳しい状況であれば、
その内容をもっと絞らざるを得ない。
文化事業にも色々なものがあり、
文楽や特定のオーケストラなどに、
既得権益のように補助金を配分するのは、
果たして税金の支払う市民や府民の、
民意に適うものであろうか?
たとえば、勘三郎の公演の方が、
より多くのお客さんに支持されているのであれば、
文楽の補助金を削って、
勘三郎の公演に補助を出しても良いのではないか。
もし、勘三郎の公演にはお金は出さず、
文楽にはお金は出すとすれば、
その基準は明確でなければならないのではないか。

概ね僕の理解の中では、
そうした見地のものです。

皆さんはこの考えをどう思われますか?

基本的な考えとしては、
僕は賛成なのです。

行政から降りてくるお金を期待して、
それを糧にして行なっているような藝術は、
少なくとも真の意味での藝術ではない。
それはまあ芸術という程度か、
もしくはゲイジュツ、という程度のものだと思うからです。

真の藝術とは、
命懸けでやるものだと思うからです。
いつ藝術と共に死んでも、
それで本望という思いが、
何処かになければならないと思うからです。

昔から藝術家は権力者からお金をもらってたり援助を受けたり、
ある時には肉体関係を結んだりもしていた訳ですし、
そうした援助なしでは、
成立困難であった藝術の形式というものが、
確かに存在していた訳ですが、
その一方で権力者と藝術の力で対決し、
差し違える覚悟で舞台に上がっていたという一面もあり、
そうした葛藤こそ、
すなわち文化というものであったからです。

個人的な考えとしては、
舞台や音楽への補助金など全て廃止して、
その代わり税制面での優遇措置があれば、
端的に言えば藝術活動の収益を無税にすれば、
宗教と同じで、
それで成立するものだと僕は思います。

特に演劇など、
今助成金をもらっているような多くの団体や個人の中には、
昔は「資本主義打倒!」みたいなことを言っていたような人が、
多くいらっしゃるのですから、
行政から一銭もお金などもらってはいけないと思います。
彼らの活動に、
権力と本気で斬り結ぶような所が、
あるとは到底思えませんし、
お上の悪口を散々言っておいて、
もらうものだけはもらう、
というのは、
どう考えても筋が違うと思うからです。

僕は思想的には間違っているとは思わないのです。
資本主義は良くないと思いますし、
打倒され革命が起こり、
それで真にもっと人間的な社会が訪れるものなら、
その方が良いと思います。
資本主義の世の中では、
人間は本当の意味で幸せにはなれないと思います。
勿論これは、
自分の今の生活は棚に上げての無責任な発言ですが、
議論の上ではそう思います。

しかし、そうした思想を公言して活動していた人が、
お上からお金をもらってはいけません。
ある意味税金など一切払わなくて良いと思いますが、
一銭ももらってはいけないと思います。
つまり、金銭的に国家とは独立した存在であるべきで、
そうでなければ命懸けで批判していることにはならないからです。

ただし、それと文楽を一緒にするのは、
文楽に対してちょっと酷だと思うのです。

文楽とは人形浄瑠璃のことで、
歌舞伎の演目の多くは、
元々は文楽がオリジナルで、
後から歌舞伎化されたものです。

近松門左衛門の時代には、
歌舞伎より文楽の方が人気があったのですが、
その後歌舞伎人気が文楽を追い越し、
江戸末期には大阪の文楽は廃れます。

江戸末期以降、
文楽は何度も滅亡寸前まで追い詰められ、
実際にはほぼ滅んだ時期もあったのですが、
その時代その時代に、
文楽を愛した少数の愛好家の手によって、
どうにか命脈を保ちます。

そして、国立文楽劇場と国立劇場の開場に伴い、
一種の国家の保護の元に、
絶滅を免れて現在に至っているのです。

文楽の代表作と言えば、
近松門左衛門の「曽根崎心中」はその筆頭ですが、
この作品は一時は完全に絶えていたものを、
昭和30年に復活させたものです。
従って、これは当時の一種の新作なのです。
文楽というのは、
江戸時代の様式が、
そのまま伝わっていると思うのは大きな誤りで、
その音楽も演出も、
時代時代で変化しているものなのです。

現在の文楽は、
行政の庇護を離れて、
自立出来るような性質のものではありません。

数ある古典芸能の中でも、
おそらく最も滅びに近いジャンルです。

ですから、
そこに目を付けた橋下市長は、
いつもながら急所を付いているのです。

ただし、
文楽は歌舞伎の源流であり、
僕の敬愛する猿之助は、
自分流の義経千本桜を創造するに当たり、
文楽の太夫にその節廻しの教えを乞いました。

つまり、
文楽という水源なしでは、
歌舞伎も滅ぶのです。

多くの日本人にとって、
初めて予備知識なく観る文楽の舞台は、
おそらく退屈の極みだと思います。

しかし、予備知識なく初めて見て、
それで楽しめてしまうものだけが、
文化であり藝術であって良いのでしょうか?

僕は必ずしもそうは思いません。

古典というのは昔は同時代の藝術であり、
観ればそれで分かる性質のものであったのですが、
今観る古典はそこに長い歳月の壁があり、
それを乗り越えるためには、
観る側にもそれなりの準備が必要です。

しかし、そうした苦労をして初めて、
分かる性質のものもあるのであり、
それは失われた過去との対話でもあるのです。

真の藝術家は権威主義は嫌っても、
先人の業績には常に最大限の尊敬を払っています。

猿之助は常に、
文楽への尊敬の念を持ち続けたと思いますし、
現勘三郎も、
おそらくはそうした気持ちを持っていることを、
僕は信じたいと思います。

猿之助も勘三郎も、
どんな芝居をやれば、
お客さんが集まって、
興行として成功するのかは知り抜いていて、
それでいてその演じる演目の中には、
予備知識がないと理解出来ず、
多くの観客にとっては退屈極まりないような演目も、
ちゃんと混ぜ込んでいるのです。
それは何故でしょうか?

それは彼らが、
藝術の素晴らしさ、
過去の偉大な先人と対話し、
自分の根っこの部分に触れる素晴らしさを、
言葉を変えれば、
藝術というものの真の価値を、
一般の観客にも、
是非分かってもらいたいと考えているからです。

多くの一般の観客に、
勉強して欲しいと願っているからです。

確かにそうした努力を、
文楽に係わる人達はしていないと思います。

しかし、今の文楽にそれを求めるのは無理です。
今の文楽にそんな体力はなく、
それを要求すれば潰れてしまうからです。

勿論いつまでもそれではいけないのです。

現代に通じる新たな藝術の創造が、
文楽の世界にも生まれなければならないのです。

かつて戦後の文楽にも黄金時代があり、
人形遣いでは吉田玉男と蓑助の名コンビがあり、
住太夫の名演がありました。
名演の時代には勿論新作も生まれましたし、
過去に埋もれた作品の復活もありました。

今はその時代に比べれば、
どう考えてもレベルは低いのです。

従って、文楽は今のままではいけません。

その意味では橋下市長の見解は正しいのです。

ただ、僕の意見は、
そうした面も勿論あるけれど、
藝術の蘇生はそれほど簡単なものではなく、
文楽は歌舞伎から「本行」と呼ばれているように、
多くの古典芸能の「水源」の1つであり、
その水源が一旦途絶えてしまったら、
その下流にある多くの藝術も、
振り返るべき「親」を失って孤立してしまうのです。

藝術の水源を守っては頂けないでしょうか?

それが現時点で僕の言いたい唯一のことです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

匿名の問題を考える [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日なので、
診療所は休診です。

朝からいつものように、
駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日は僕なりに匿名の問題を考えたいのですが、
最初に強調しておきたいことがあります。

ブログをされている多くの皆さんは、
一種のニックネームで、
ブログをされていると思うのですが、
それは匿名と同一に論じられる性質のものではなく、
そうした個人情報を一定レベル制限する行為を、
僕は否定するつもりは全くない、
ということです。

わざわざ言わなくても良いのに、
自分の名前を名乗ったり、
自分の所属を明らかにするのも、
一種の自己顕示欲の現れと取れなくもなく、
要は名乗る必要のない場所では、
名乗らないのが普通のことだからです。

僕自身、
別に隠すつもりもないし、
そうなってもいないのですが、
もとより大した人間でもなく、
大した立場でもないので、
自分の名前を書いたり、
自分の写真を出したりすることは、
基本的に嫌いです。

ただ、ある種の悪意が、
匿名の仮面を被って、
不吉な疫病のように蔓延していることも、
一方の事実で、
そうした非難すべき匿名性と、
そうではない匿名性とを、
どのように区別するべきなのか、
というのが今日のテーマなのです。

その点、
誤解のないように、
慎重にお読み頂ければ幸いです。

さて…

唐突ですが、
スーパーマンは「匿名」の存在ですね。

その正体は冴えない新聞記者のクラーク・ケントですが、
世の中の悪を倒し、「アメリカ一国主義」を守るため、
一種の変装をして、
一般の皆さんの前に現れます。

「スーパーマンは本当は誰なのだろう?」
という疑問が、
一般大衆から寄せられますが、
それに対してはスーパーマンは答えることはせず、
自分の正体を明かすことはありません。

スーパーマンは宇宙人なのですから、
その超人としての姿が正体で、
クラーク・ケントの方が仮の姿、
という言い方も出来ます。

ただ、通常は人間世界を本意で考えますから、
クラーク・ケントが自分の正体を隠し、
「匿名」のスーパーマンとして、
活躍している、
という言い方が妥当だと思います。

クラーク・ケントは、
何故自分がスーパーマンと同一人物であることを、
隠さなければならないのでしょうか?

それは1つには、
冴えない新聞記者としての自分の生活が、
スーパーマンであることが分かった途端に、
成立し難くなってしまうためであり、
もう1つには、
彼のスーパーマンとして戦うという仕事にとって、
自分がクラーク・ケントであることが分かると、
不利益が生じるためです。

「あなたがスーパーマンだったのね」
ということになれば、
同じ人間とは相手は見てくれなくなり、
それなりに居心地の良かった、
「馬鹿を装う」のんびりとした日常が、
破壊されてしまいます。

悪党がその事実を知ってしまえば、
クラーク・ケントを襲撃することが可能になりますし、
彼の人間社会での友人知人を、
人質に取るような作戦も可能となります。

従って、
クラーク・ケントが、
自分がスーパーマンであることを隠して、
お馬鹿な新聞記者を演じていることを、
視聴者はあまり批判的には受け止めません。

一方で、ここに1人の悪党がいて、
表の顔は慈善事業にも熱心な大富豪の実業家なのですが、
その実世界征服を企む悪の秘密結社の大ボスでもあり、
その正体を隠して実業家としての生活をしています。

その正体があれやこれやの展開があって、
スーパーマンにより暴かれることになるのですが、
その時視聴者の皆さんは、
彼が実業家を装っていたことを、
明確な悪として認識し、
「自分を偽善家に見せかけるなど卑怯だ」
という感想を持ちます。

ここで1つ皆さんにお聞きしたいのですが、
何故スーパーマンが身分を偽ることは問題がなく、
悪党が身分を偽ることは、
卑怯な行為なのでしょうか?

身分を偽り、一種の「匿名」の壁に、
身を守らせる行為が卑怯なものであるのなら、
そのこと自体は、
スーパーマンでも悪党でも、
変わりはないことなのではないでしょうか?

そんなことは当たり前だよ、
スーパーマンは正義の味方だからだろ、
と言われる方があるかも知れません。

なるほど、
これは正義と悪、という問題なのかも知れません。

しかし、正義とは何でしょうか?
悪とは何かしら?

善悪というのは、
その人間の行為にこそ現れるものである筈です。
悪を為す者が悪人で、
善を為す者が善人です。

悪党は弱い者を苛めたり、搾取したり、
世界の秩序を破壊するような、
陰謀を巡らせたりします。
それがすなわち、
悪人であることの証です。

正義の味方の行為の定義は、
それよりはややあやふやなものですが、
第一義的には、
悪を為す悪党を退治することであり、
弱い者を助けることです。

しかし、
自分の正体を偽る、という行為については、
両者に特に変わりはありません。

従って、
その行為が一方では善になり、
一方では悪になるとすると、
同じ行為の評価が、
その主体により正反対になっている、
ということになります。

言葉を変えれば、
行為には善悪の色分けがはっきりしているものと、
そうではないものとがあり、
善悪のはっきりしていない行為においては、
その評価は、
その行為の主体の、
それ以外の行為の質によって決まる、
ということになる訳です。

それでは、
「匿名」の壁に隠れる、という行為は、
どのような時に容認され、
どのような時に否定されるものなのでしょうか?

皆さんはどのような場合に「匿名」を認め、
どのような場合に認めないのでしょうか?

僕の考えるこの問いへの答えは、
「それは権力の行使を伴うかどうかで決まる」
というものです。

もう少し噛み砕いてご説明します。

スーパーマンは自分がクラーク・ケントでいる時には、
極力他者に影響力を与えないような生活をしています。
自分の意思で、
自分の影響力で、
他人に何かをさせようとか、
そう仕向けよう、というような行為はしないのです。
スーパーマンとして敵と戦う時にも、
彼は他人の助けは原則として借りず、
たった1人で戦いを挑みます。
神話の英雄は、
結構怪物を倒しておいて、
村一番の美女と結婚を強要したり、
何かの褒美をもらったりしますが、
スーパーマンはそうした自分の行為の結果を、
他者への影響力の行使、
すなわち権力の行使には利用しないのです。

それに引き換え、
悪の実業家は、
匿名の存在でありながら、
他人を支配したり弱い者いじめをするような、
他者への影響力の行使を行なっています。

つまり、これが両者の本質的な違いです。

神話を始めとする過去の英雄は、
基本的に匿名の存在ではありません。

名前を名乗ることが彼らの英雄としての証です。
冒険の途中においては、
確かに匿名性を利用して、
敵の裏をかいたりはしますが、
その最後には自分の出自を明らかにします。

しかし、現代の物語のヒーローは、
概ね「匿名」の衣を身に纏って現れます。

それは現代が、
身を守るために「匿名」を必要とする社会だからかも知れません。

日本では「匿名」で情報を発信したり、
自分の意見を述べたり、
誰かもしくは何かを、
賞賛したり批判したりする人が多く存在しています。

僕はそのことを批判するつもりはありません。

現代社会では実名にはリスクがあり、
「匿名」のメリットというものがあるからです。

ただ、「匿名」で権力を行使する行為は、
容認されるべきではないと思います。

一種の政治的な活動をしながら、
匿名で情報発信をされている方がいて、
自分で飼い慣らした子分を利用して、
それも匿名で、気に食わない意見があると、
その相手に攻撃を加えたりしています。

匿名で意図的に世論誘導しようとするような行為と同様、
こうした行為に違和感を感じるのは、
それが単なる匿名の情報発信ではなく、
「権力の行使」を伴っているからなのだと、
僕は思います。

情報発信は匿名で行なっても、
何ら問題はないのです。
しかし、それが権力の行使に結び付く時には、
発信者はその名前と所属とを、
共に明確にしなければならないと僕は思います。

権力というのは透明性がなければならないのです。
それは国家権力がそうであるのと同じように、
少人数の集団や家族や、
ネットのコミュニティのようなものでも、
基本的には同じなのです。

人は誰でも権力者になる可能性があり、
その時点では匿名であってはならないのです。

それが、「ゲームの規則」だと僕は思います。

かつては大衆は須らく匿名の存在であり、
村人A、村人Bのような状態でした。

それが1人1人が名前を持ち、
独立した人格として自立することで、
近代が成立することになったのです。
大衆の1人1人が、
誇らしく自分の名前を名乗る、
という時代が到来したのです。

しかし、その後高度に情報化した社会になると、
自分の情報を守る、ということが、
自己防衛の手段として重要なものとなり、
不用意に自分が何者であるかを明らかにする行為が、
不利益をもたらすことが多くなったのです。

実名でブログを書いたところ、
その名前を悪用されて、
金銭トラブルや詐欺に引っ掛かったり、
ツィッターで不用意に呟いた一言で、
不特定多数の人間から攻撃を受け、
実名や勤め先、住所などを調べ上げられて晒され、
それが理由で会社を辞めざるを得なくなった、
というような事例は、
その不利益の顕著なものだと思います。

こうしたことが多くあれば、
身を守るためには匿名にならざるを得ず、
自分の本来誇るべき名前を、
得体の知れない記号のようなものに変え、
動物やアニメのキャラや図形を、
自分という存在の代わりに、
その分身として使用するようになります。

せっかく自分の名前を名乗るという誇らしさが、
人間社会の成長の1つの兆しであったのに、
高度に進歩した社会においては、
自分の身を守るために、
それを捨てざるを得なくなる、
というのは何か悲しいことのように思います。
匿名であるということは、
確実に何かを喪失する行為であるからです。

「匿名」の必要性というのは、
この社会の、
おそらくは本質的な特性であって、
その必要性の高さが、
その社会の何かのバロメーターに違いがありません。
僕達はそのことに無頓着になりがちですが、
そのことの持つ本当の意味を、
すなわち何故自分は、
ある状況において、
匿名であることを必要としているのか、
ということを、
もう一度問い直すことが必要なのではないかと、
最近思えてなりません。

今日は「匿名」と権力の関係について、
僕なりに考えました。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

漫画と本の違いをどう考えるか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。

朝からいつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから何となくあれやこれやをしていたら、
もうこんな時間になってしまいました。

1年前の今日に…
というような話はしないことにします。
理由は最初書いたのですが、
誤解を招くような気がしたので削りました。

休みの日は趣味の話題です。

少し前に、
本を読むのは良いことなのに、
何故漫画を読むことはそうではないのか、
というような話がありました。

それに対する僕の個人的な答えは、
活字を脳に入力するという刺激に対して、
漫画を脳に入力するという刺激は、
脳の別個の部分を刺激する行為であり、
特殊なトラウマ化するような情報としての強さを持ち、
それが想像力を制限してしまう可能性があるからだ、
というものです。

誤解のないように言いますが、
僕は漫画は好きですし、
読むことが悪いことだとは思いません。
そんなことを今言う人がいれば、
逆に相当の見識の持ち主です。
ただ、脳の発達がまだ未熟な時期や、
自我が脆弱な状態にある時に、
漫画だけを情報入力の手段とすることには、
リスクがあるように思います。

日本の漫画文化というのは、
非常に強力なインパクトを、
脳に与えるメディアだと、
個人的には思います。

比較的最近の経験としては、
しりあがり寿さんの、
「真夜中の弥次さん喜多さん」という怪作がありますが、
あの漫画を一気読みしたら、
物凄いトラウマ的な衝撃を受け、
その前に読んだ何冊かの小説や、
何本かの映画の記憶が、
そのまま吹っ飛んでしまった、
ということがありました。

漫画というものには、
こうした強烈さがあります。

この強烈さは、
一体何処から来るものなのでしょうか?

子供の頃、
蜂が群れる姿が、
非常に怖くて見ることが出来ませんでした。

小さなものがウジャウジャと動いているのが、
生理的に怖いのです。

鉄腕アトムに「悪魔のハチ」という話があって、
これはロボットのハチが襲って来るのですが、
アトムがそのロボットハチの巣を壊すと、
そこから湧いて出たハチの大群が、
アトムの身体を覆ってしまいます。

それを描いた1コマが、
僕は見た瞬間に、
思わず顔を背けて、
家の外に駆け出してしまうほど怖ろしくて、
そのため今でもこの漫画だけは、
僕は読むことが出来ません。

それでは実際のハチの群れが、
テレビに映し出されていればどうかと言うと、
それは気分は良くないですが、
それでも見ることは出来ます。

つまり、漫画ほど怖くはありません。

それでは実際のハチの巣を見るのはどうかと言うと、
勿論ハチの巣の目の前に立って、
それを覗き込むのは嫌です。

ただ、その嫌な理由は、
生理的な嫌悪感よりも、
ハチが自分の方に飛んで来るかも知れない、
と思うところから来ています。

つまり、漫画の恐怖とは別物です。

たとえば、
ハチに襲われても問題のない完全防備で、
ハチの巣の前に立ったり、
家の中から外のハチの巣を窓越しに眺めるのは、
テレビでその場面を見ることと、
ほぼ同じ不快感しか感じない筈です。

実物のハチより、
それを描いた絵の方が、
より生理的な恐怖感は強く、
その衝撃は心に突き刺さるのです。

絵のハチが、
僕に襲い掛かることは有り得ません。

子供であっても、
そんなことは分かっています。

それなのに、
怖くてしょうがないのです。

この恐怖の正体は、
一体何なのでしょうか?

1つのヒントは、
同じような恐怖を感じる対象が、
他にも存在する、ということです。

子供の頃、
色つきの粘土で、
漫画のキャラクターを作ったのですが、
それを最後に手で歪めて変形させたのです。
その瞬間の恐怖感は、
漫画のハチへの恐怖と、
非常に似通ったものがありました。

問題は要するに、
脳の中にあるイメージの境界、
というところにありそうです。

人間の顔がありますね。

脳の中には「これは人間の顔である」
というようなイメージがあって、
ある種の判断基準があり、
それに合致するものが、
人間の顔として認識されます。

漫画には複数の人物が登場し、
その顔が描かれます。

しかし、その顔は、
その漫画のタッチにもよりますが、
かなり実物からはデフォルメされたものになっていて、
ただの星型が目の代用になっていたり、
個々のパーツの配分が、
極端に変わっていたりもします。
色もデタラメです。

それなのに、
僕達はそれを見て、
人間の顔であると認識しています。

ただ、そのデフォルメが、
ある限界を超えた時、
最早それは人間の顔であるとは、
認識は出来なくなってしまいます。

その微妙な境界線に近い領域で、
人は恐怖を覚えるのではないか、
というのが僕の仮説です。

恐怖とは対象が認識出来ないことが、
その1つの要件となります。

漫画のハチが強烈で怖ろしいのは、
それがハチと認識出来る境界すれすれに存在し、
その数が大群で、
しかもアトムという別個の存在と、
重なり合うように描かれているからです。

脳で解析出来る限界ギリギリに、
それが存在していることが、
その恐怖の大きな要件なのです。

漫画がそれを読む者に、
忘れ難い衝撃を与えるのは、
それが抽象と具象との、
境界領域にあって、
リアルとは別個の物語を、
平然と紡いでいるからです。

活字というものを発明し、
利用している人間の脳には、
具象と抽象の区別が存在し、
その境界が存在しているのです。

しかし、漫画という形式は、
時にその境界を侵犯しようという存在です。

それを解析しようとする脳には、
自ずと強い負荷が掛かり、
それが漫画の娯楽としての快楽でもあり、
衝撃性でもあり、
時にはトラウマ化もする要因ではないかと思われるのです。

活字を読むという行為は、
抽象の部分を入力装置としては利用し、
それを内的に具象化する行為です。

ユング流に言えば、
実体験以外に、
コンプレックスを形成するのに、
有用な刺激と成り得るものなのです。

しかし、具象と抽象との境界の不安定さに、
直接切り込むような漫画の刺激は、
脳の構造を揺るがすような強烈さを持っているので、
それだけが情報入力の手段となることには、
リスクがあるように僕には思えます。

つまり、成長期に漫画だけを読んでいることは、
脳の発達においてのリスクに成り得る、
ということで、
非常に古風なオジサンの意見となったことを、
お許し下さい。

勿論、
これは僕のような古い脳にとっての話で、
今の若い皆さんの脳は、
具象と抽象の境界に恐怖など覚えることのない、
ニュータイプの段階に、
進化しているのかも知れません。

今日は漫画と本の違いについての私見でした。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。