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頭の中の思考とそれが書かれるということとの違いについて [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は胃カメラの日なので、
カルテの整理をして、
それから今PCに向かっています。

今日は雑談です。

たとえば1時間あることについて考え、
1時間が経過した時点でのその問題についての結論を、
活字にして残したとします。
それから翌日になって、
その活字の文面を読み返し、
そこから再びその同じ問題について、
更に1時間考え、
そうして出た結論を、
再び活字にして残します。
最初の結論から次に考えるまでの時間は、
少なくともその問題について意識上で考えることはせず、
それに関する情報が別個に得られることもないとします。

こうして2時間の思考により得られた結論を、
結論Aと便宜上名付けます。

そこでもう1つ、
今度は1時間矢張り同じ問題について考え、
その1時間の結論を、
活字にはせずに頭の中に強く留めておきます。
そして、
その考えがしっかり心に刻まれているうちに、
更にもう1時間同じ問題について思考を深めます。
こうして得られた結論を、
まとまった段階で矢張り文字に起こします。

この結論を結論Bと名付けます。

さて、
全く同じ人物が全く同じ問題について考えたとして、
この2つの結論は一致するでしょうか?

一致することはない、
というのが僕の考えです。

これはどういう意味かと言うと、
思考というのは、
それが脳の神経回路の中に留まっている状態と、
何らかの形で、
一旦外部に出力された状態では、
その性質が変わるものではないか、
ということです。

そして、
その出力の仕方も、
言葉にして誰かに話したような場合と、
ツィッターのようなものを含めて、
活字にして残した場合では違うのです。

これは、
その思考が言語化され、
それに対する外部の反応が入力されるので、
そのために変化する、
という意味ではありません。
誰にも見せないように、
密かに書いた場合にも同じ結果になるのです。

それは何故でしょうか?

人間の思考の流れというものは、
そのまま脳内で完結した場合と、
中途で一旦外部に出力された場合とでは、
その性質が変わってしまうものだからです。

それでは結論Aと結論Bとは、
どちらが正しくその人の思考を体現しているものと、
考えるべきでしょうか?

僕の個人的な考えは、
それは結論Aである、
というものです。

分断された思考は、
そうでない思考より、
その深さや純粋さにおいて、
劣るものである、
という認識を持っているからです。

先日ツィッター上でこんなつぶやきがありました。

フェノキシエタノール含有のインフルエンザワクチンで、
アナフィラキシーのリスクが高い、
という見解があるが、
他のワクチンにもフェノキシエタノールは含まれているので、
その見解はおかしい、
と言うのです。

こういうものを読むと、
ちょっと悲しい気分になります。

この方は、
フェノキシエタノールが原因でアナフィラキシーが起こる、
という言説を何処かで見て、
その情報を頭の中に入力し、
そこに結び付いた脳内の情報として、
他のワクチンにもフェノキシエタノールは含まれている、
というものがあったので、
その2つを結び付け、
最初の言説は誤りだ、
という結論を出力したのです。

しかし、
勿論そうではありません。

この内容は、
特定のメーカーのインフルエンザワクチンで、
昨年急にアナフィラキシーの報告数が増えた、
という事実があり、
その原因を検証するための研究が厚労省の指示の元に行なわれ、
その結果として、
一部の研究で、
フェノキシエタノールとインフルエンザの抗原との、
何らかの相互作用が、
アナフィラキシーの要因になっているのでは、
ということを示唆するデータがあり、
それは確実な結論ではないけれど、
ワクチンの安全性を優先する立場から、
今年のワクチンではフェノキシエタノールを、
チメロサールに変更する、
という決定が行われた、
という経緯があるのです。

このことは、
当該の検証結果の資料が公開されていますから、
すぐに確認の出来ることです。

しかし、
上記のつぶやきをされるような方は、
そうした情報の確認の作業はせず、
脳に入力された情報を、
一番その時関連性の高い脳内の情報と結びつけ、
すぐさま一定の結論を出して、
その内容をツィッターなどで出力するのです。

つまり、
一種の条件反射的なプロセスです。

それが出力され活字化されるということは、
その内容を本人が再び情報として、
脳に入力することを意味しています。

そして、その情報が再入力された時点で、
その問題に対する思考はストップし、
その人にとってはそれがその思考の結論となります。

つまり、その人の脳はその時点で、
その思考を深めるというタスクを終了してしまうのです。

ある未熟な思考を、
そのまま活字化し発信するという行為は、
概ねそうした意味を持ちます。

同じことを実際に目の前にいる相手に話すとすれば、
そこまでの思考の停止は起こりません。
発信された情報を、
再び文字の形で再入力する、
という作業が入らないからです。
これがSNSの双方向性と実際の会話との違いです。

SNSを活用される方は、
1人だけの考えより、
多くの人の考えがたたかわされる方が、
より議論が深まり、
より深く的確な結論が、
そこから得られるように考えています。

ネットには集合知がある、
というような言い方をされる方もいます。

しかし、
それは必ずしも正しい考えではないと思います。

フェノキシエタノールの例で考えると、
たとえば、上のような意見がつぶやかれた後、
別の方が、
「それはインフルエンザのワクチンに、
限定された現象、という解釈ではないでしょうか?」
というようなレスを返し、
それを見て最初の方も自分の考えを改める、
というような経緯が考えられます。

結論はこれで正しい方向に導かれるのですから、
それで良い、という考え方も成り立ちます。

しかし、
こうした場が成立すれば、
個々の考えは浅くても、
修正されるからそれで良い、
ということになり、
最初のような方は、
同じような反射的な思考を繰り返すようになります。
あるいは自ら発信することはなしに、
その場の議論を眺め、
それが一定の結論に達した時点で、
その結論のみを、
あたかも自分の意見であるかのように、
自分の脳に入力するだけになります。
いずれにしても、
その人の思考のレベルは、
低下することはあっても、
深まることはありません。

つまり、
集合知という考えに立てば、
多くの人が浅い考えを発信し合うほど、
トータルには深く考える人が減り、
吟味された思考が減少するので、
トータルな思考の総量は、
むしろ減少するということになり、
一定の考え、ある特定の個人の考えが、
全体を支配する確率が増加します。
人間は平等ではなくなり、
情報や知性のレベルでの、
支配被支配の構造が成立し易くなります。

たとえば10人の人間がいて、
原発は即座に廃炉すべきか、
というような問題を考えたとしましょう。

思い付きの条件反射的な思考を、
SNSで次々と披露する、
というようなことを繰り返すと、
結果として10人のうち8人くらいの人は、
その反射的な思考を繰り返すのみで、
それ以外の脳内活動は停止した状態になり、
結果として残りの2人のみが、
その思考を引き継いで思考を深めるようになります。

これが続けば、
8人は残りの2人のどちらかの思考に、
おぶさるようになって、
自ら考えること自体を止めて、
残りの2人の思考の奴隷になり信者になります。

その2人の思考は、
一致しないことが通例ですから、
その2人の間に争いが起こり、
残りの8人はどちらかの思考の信者となって、
派閥争いを繰り広げます。

これを思考の総量ということで考えれば、
他人の力を借りずに思考を深める場合に比べて、
10人の思考の総量は、
皆で話し合った場合の方が遥かに少ない、
という結果になりかねません。

3人揃えば文殊の知恵、のような考え方、
集合知というような考え方は、
あくまで個々の人間が、
その問題についての思考を、
まずは孤独に深めた上で、
その結論をたたかわせる、
という意味において成立するものです。

これは全員がその事項において、
専門家になる、ということではありません。
専門家は専門家の立場で、
それ以外の人は専門家ではない立場で、
それぞれの立場で思考を深めることが重要なのです。

それがなされずに、
個々の思考が深められないままで出力され、
その未熟な結論同士で議論されることは、
集団としてはむしろ思考の総量を減らす事態になり、
特定の個人の思考が全体を支配する、
「知の独裁」に、
簡単に結び付くような危険を、
孕んでいるのではないでしょうか?

思考というのは、
本来孤独な作業なのです。
他人の2倍同じことを深く考えたところで、
誰も褒めてはくれないし、
誰も喜んではくれないのです。
あなたの思考はあなた独自のものなのであり、
他人の思考とは本来相容れないものなのです。
そこに人間の根源的な孤独があり、
かつまた崇高さがあるのです。
世界の成り立ちについても、
生きる意味についても、
原発やいじめの問題についても、
今日のご飯のおかずについても、
夏休みの旅行のプランについても、
同じように深く考えることの出来るのが、
すなわち人間の偉大さだと僕は思います。

しかし、SNSのような装置があると、
同じことを多くの人が、
同じように考えているような錯覚に陥り、
誰かに自分の思考を受け入れられたように感じて、
その悦楽の虜になるのです。
その時に、
あなたはむしろ思考しなくなっているのですが、
そのことには気付かず、
普段より色々なことを考えている気分になって、
次第に誰かの思考の奴隷になってゆくのです。

思考というのは、
自分の中で孤独に深められている間は自由なのです。
どんな規制もかからず、
どんな結論に向かうことも自由で、
洗脳のような思考の捕縛にかかることもないのです。
あなたの思考は他人の奴隷にはならないのです。

しかし、
それが一旦言葉や活字の形で出力され、
他人の目にさらされると、
今度はその思考の結論は、
誰かに捕縛され支配される可能性があるのです。
一旦その思考の結論が支配されると、
あなたの脳内の思考自体も支配されるのです。

勿論出力されない思考は、
無力でもあるのですから、
思考は出力されなければ、
ないものと同じです。

ただ、
僕達が自分というものを守るためには、
深められた思考以外はなるべく発信せず、
人間の思考の総量を、
常に増やすように努力することが、
必要なのではないかと思うのです。

最後に誤解のないように補足したいのですが、
僕は決してSNSのようなシステムを、
否定するつもりはありません。
個人的には嫌いですが、
それは個々の向き不向きの問題で、
利便性や有用性はあると思いますし、
お好きな方が多くいらっしゃることも承知はしています。
ただ、その現行の使われ方は、
他人の意見に従ったり、
他人の意見を否定したりすることに、
その多くのエネルギーが割かれていて、
他人の意見を受け入れたり、
自分の意見が他人と違うことを、
肯定的に確認するような姿勢に乏しいのが、
問題だと思うのです。

仮にアインシュタインの時代にSNSがあって、
彼がその思い付きを、
吟味することなく毎日つぶやいたとしたら、
天才の考えはたちまち条件反射的な思考によって否定され、
彼自身の考えも分断されて深まることはなく、
科学の歴史は停滞して終わったのではないでしょうか。

まず自分の考えを出来る限り深く構築し、
構築された考えは善悪や正しい・誤っている、
という尺度で評価するのではなく、
それぞれ唯一無二のものとして、
まずは互いに尊重し合うことこそ、
必要なのではないかと思うのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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コメント 8

西の空

何の説明にもなりませんが、書き言葉と話し言葉はその本質には大きな差異があり、それを表す言語学あるいは哲学の概念としてパロールとエクルチュールという言葉があるように感じています。わたしもtwitterに忌避感が強いのですが、貴兄の詳細な検討は首是するものです。
by 西の空 (2012-07-26 09:36) 

末尾ルコ(アルベール)

ツィッターを含めSNSで多く使用されている言葉づかいであるとか、結局はより強固で陰湿な閉鎖空間、ムラ社会を作ってしまうメンタリティであるとか、あるいはテレビ画面の下部に現れるワザとらしいツィッターの文字であるとか、SNSのメリットも理解できるけれど、どうにも(わたしのですが 笑)肌に合わない要素が多いですね。
まっとうな人間に不可欠な「公私の感覚」もどんどん薄らいで行っているような気がします。

                                RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2012-07-26 09:40) 

人力

メチルローサーは自閉症の発症を促すと言われていますね。これは何処までで真実なのでしょうか?

あれ、思考を深めない人の実例を作ってしまったかも・・・。
by 人力 (2012-07-26 17:23) 

fujiki

西の空さんへ
コメントありがとうございます。
大学の頃記号論が流行っていたので、
「エクリチュールと差異」とか、
懐かしい響きがあります。
by fujiki (2012-07-27 08:23) 

fujiki

RUKOさんへ
コメントありがとうございます。
だんだんと思考が下品で単純なものに、
変容してゆくんですよね。
TLを追うとそれが明らかに分かるので、
人間というのは難しい生き物だなあ、
と改めて思います。
by fujiki (2012-07-27 08:25) 

fujiki

人力さんへ
水銀が自閉症スペクトラムの、
発症の誘因になることは、
ある程度はありそうなのですが、
ワクチンでの量は微量ですし、
元論文もほぼ否定されているので、
現時点では関連性は低い、
という認識が一般的ではないかと思います。
by fujiki (2012-07-27 08:28) 

kannoke

>>分断された思考は、
そうでない思考より、
その深さや純粋さにおいて、
劣るものである、
という認識を持っているからです。

ここの所がよくわかりません(;。;)。
分断された思考と言うのが「A」??…であるかのように文から読み取ってしまいます(頭悪くてスミマセン)。
活字に残して、翌日~と言うのは、時間が開いてるから一時的に分断された思考「A」。
1時間+1時間は繋がっているので「B」と思ってしまうのです。
それ以外の結論的部分には納得できます。
それと、個人的にはですが…一人で考えてると、どんどん思考が狭窄していき固執し頭がガチガチになってきます。
でも他人に話すことで(自分自身の言葉を音で聞くことで)、また新しい思考が展開するように感じます。
他人の意見等は参考程度にとどめておきます。
何かの機会にでもお願いします。
by kannoke (2012-07-27 20:53) 

fujiki

kannoke さんへ
コメントありがとうございます。
回りくどい書き方になっているのですが、
分断された思考がAで、
それが劣化したものになり易い、
という意味です。

思考が一旦記号化された時点で、
そのことにより影響を受け、
変質してしまう可能性がある、
という意味合いです。

1つの物語を作るように、
頭の中に思考の流れがあれば、
他の人と会話したり、
外部の資料を取り入れたりして、
よりその流れは深まることになるのですが、
一旦外部に出力され、
記号化されることで、
頭の中の物語自体が、
見失われ喪失するリスクがある、
という言い方が、
やや分かり易いでしょうか。
by fujiki (2012-07-27 22:21) 

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