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漫画と本の違いをどう考えるか? [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。

朝からいつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから何となくあれやこれやをしていたら、
もうこんな時間になってしまいました。

1年前の今日に…
というような話はしないことにします。
理由は最初書いたのですが、
誤解を招くような気がしたので削りました。

休みの日は趣味の話題です。

少し前に、
本を読むのは良いことなのに、
何故漫画を読むことはそうではないのか、
というような話がありました。

それに対する僕の個人的な答えは、
活字を脳に入力するという刺激に対して、
漫画を脳に入力するという刺激は、
脳の別個の部分を刺激する行為であり、
特殊なトラウマ化するような情報としての強さを持ち、
それが想像力を制限してしまう可能性があるからだ、
というものです。

誤解のないように言いますが、
僕は漫画は好きですし、
読むことが悪いことだとは思いません。
そんなことを今言う人がいれば、
逆に相当の見識の持ち主です。
ただ、脳の発達がまだ未熟な時期や、
自我が脆弱な状態にある時に、
漫画だけを情報入力の手段とすることには、
リスクがあるように思います。

日本の漫画文化というのは、
非常に強力なインパクトを、
脳に与えるメディアだと、
個人的には思います。

比較的最近の経験としては、
しりあがり寿さんの、
「真夜中の弥次さん喜多さん」という怪作がありますが、
あの漫画を一気読みしたら、
物凄いトラウマ的な衝撃を受け、
その前に読んだ何冊かの小説や、
何本かの映画の記憶が、
そのまま吹っ飛んでしまった、
ということがありました。

漫画というものには、
こうした強烈さがあります。

この強烈さは、
一体何処から来るものなのでしょうか?

子供の頃、
蜂が群れる姿が、
非常に怖くて見ることが出来ませんでした。

小さなものがウジャウジャと動いているのが、
生理的に怖いのです。

鉄腕アトムに「悪魔のハチ」という話があって、
これはロボットのハチが襲って来るのですが、
アトムがそのロボットハチの巣を壊すと、
そこから湧いて出たハチの大群が、
アトムの身体を覆ってしまいます。

それを描いた1コマが、
僕は見た瞬間に、
思わず顔を背けて、
家の外に駆け出してしまうほど怖ろしくて、
そのため今でもこの漫画だけは、
僕は読むことが出来ません。

それでは実際のハチの群れが、
テレビに映し出されていればどうかと言うと、
それは気分は良くないですが、
それでも見ることは出来ます。

つまり、漫画ほど怖くはありません。

それでは実際のハチの巣を見るのはどうかと言うと、
勿論ハチの巣の目の前に立って、
それを覗き込むのは嫌です。

ただ、その嫌な理由は、
生理的な嫌悪感よりも、
ハチが自分の方に飛んで来るかも知れない、
と思うところから来ています。

つまり、漫画の恐怖とは別物です。

たとえば、
ハチに襲われても問題のない完全防備で、
ハチの巣の前に立ったり、
家の中から外のハチの巣を窓越しに眺めるのは、
テレビでその場面を見ることと、
ほぼ同じ不快感しか感じない筈です。

実物のハチより、
それを描いた絵の方が、
より生理的な恐怖感は強く、
その衝撃は心に突き刺さるのです。

絵のハチが、
僕に襲い掛かることは有り得ません。

子供であっても、
そんなことは分かっています。

それなのに、
怖くてしょうがないのです。

この恐怖の正体は、
一体何なのでしょうか?

1つのヒントは、
同じような恐怖を感じる対象が、
他にも存在する、ということです。

子供の頃、
色つきの粘土で、
漫画のキャラクターを作ったのですが、
それを最後に手で歪めて変形させたのです。
その瞬間の恐怖感は、
漫画のハチへの恐怖と、
非常に似通ったものがありました。

問題は要するに、
脳の中にあるイメージの境界、
というところにありそうです。

人間の顔がありますね。

脳の中には「これは人間の顔である」
というようなイメージがあって、
ある種の判断基準があり、
それに合致するものが、
人間の顔として認識されます。

漫画には複数の人物が登場し、
その顔が描かれます。

しかし、その顔は、
その漫画のタッチにもよりますが、
かなり実物からはデフォルメされたものになっていて、
ただの星型が目の代用になっていたり、
個々のパーツの配分が、
極端に変わっていたりもします。
色もデタラメです。

それなのに、
僕達はそれを見て、
人間の顔であると認識しています。

ただ、そのデフォルメが、
ある限界を超えた時、
最早それは人間の顔であるとは、
認識は出来なくなってしまいます。

その微妙な境界線に近い領域で、
人は恐怖を覚えるのではないか、
というのが僕の仮説です。

恐怖とは対象が認識出来ないことが、
その1つの要件となります。

漫画のハチが強烈で怖ろしいのは、
それがハチと認識出来る境界すれすれに存在し、
その数が大群で、
しかもアトムという別個の存在と、
重なり合うように描かれているからです。

脳で解析出来る限界ギリギリに、
それが存在していることが、
その恐怖の大きな要件なのです。

漫画がそれを読む者に、
忘れ難い衝撃を与えるのは、
それが抽象と具象との、
境界領域にあって、
リアルとは別個の物語を、
平然と紡いでいるからです。

活字というものを発明し、
利用している人間の脳には、
具象と抽象の区別が存在し、
その境界が存在しているのです。

しかし、漫画という形式は、
時にその境界を侵犯しようという存在です。

それを解析しようとする脳には、
自ずと強い負荷が掛かり、
それが漫画の娯楽としての快楽でもあり、
衝撃性でもあり、
時にはトラウマ化もする要因ではないかと思われるのです。

活字を読むという行為は、
抽象の部分を入力装置としては利用し、
それを内的に具象化する行為です。

ユング流に言えば、
実体験以外に、
コンプレックスを形成するのに、
有用な刺激と成り得るものなのです。

しかし、具象と抽象との境界の不安定さに、
直接切り込むような漫画の刺激は、
脳の構造を揺るがすような強烈さを持っているので、
それだけが情報入力の手段となることには、
リスクがあるように僕には思えます。

つまり、成長期に漫画だけを読んでいることは、
脳の発達においてのリスクに成り得る、
ということで、
非常に古風なオジサンの意見となったことを、
お許し下さい。

勿論、
これは僕のような古い脳にとっての話で、
今の若い皆さんの脳は、
具象と抽象の境界に恐怖など覚えることのない、
ニュータイプの段階に、
進化しているのかも知れません。

今日は漫画と本の違いについての私見でした。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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コメント 5

末尾ルコ(アルベール)

非常に刺激的なご仮説ですね!

> 漫画だけを情報入力の手段とすることには

まったくその通りだと思います。
「だけ」というのは本当に…。
それと昼間っから大人のビジネスマンが電車やカフェでむさぼるようにマンガ雑誌を読むというのも・・・。
マンガ表現にはリスペクトを置いていますが、「読み方」ですよね。

                              RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2012-03-11 23:37) 

ぱん

面白い仮説ですね。不気味の谷現象にも通じそうですね。もっと掘り下げてみたくなりました。
by ぱん (2012-03-12 00:23) 

fujiki

RUKO さんへ
コメントありがとうございます。
色々な面で「節度」というのは、
消滅に向かっているような気がします。
悲しいことですね。
by fujiki (2012-03-12 08:34) 

fujiki

ばんさんへ
コメントありがとうございます。
思い付きなので、
詰めは甘いと思います。
ただ、人間にとって刺激の受け止め方というのは、
かなり重要な問題だという気はします。
by fujiki (2012-03-12 08:36) 

masayuki

とても興味深く読みました.
確かに,脳に対する侵襲力は強烈で制御できませんね.
恐怖の感じ方に種類があるというのもいいですね.
また,考察聞かせてください.
ありがとうございました.
by masayuki (2012-03-13 12:52) 

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