藝術の水源を守る、ということ [身辺雑記]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
デセイ様が11月に来日するようなので、
心が落ち着かなくなりましたが、
どうだろう。
1日だけだし、
ドタキャンしても公演としては成立するように仕組まれているので、
当日まで油断は出来ない感じです。
それに「ルチア」はなあ、
食べられるギリギリの熟れた桃のような感じだけれど、
でも絶望的に好きなので、
期待せず待ちます。
今日はちょっと雑談です。
大阪の橋下徹市長が、
文楽がお客さんを呼び込もうという、
努力をしておらず、
文楽劇場にもお客さんが入っていないので、
文楽への助成金をカットする方向で検討している、
というような話がありました。
イタリアでもオペラの税金による補助がカットされ、
本場のオペラが息も絶え絶えという状況だと耳にしますから、
これは決して日本だけの問題ではなく、
資本主義の世界で、
人間が藝術というものに、
どのような価値を見出し、
文化の継続性というものに、
どのような考え方を持つかという、
本質的な問題を孕んでいる事項のように、
僕には思えます。
橋下市長の考えは、
ツィートなどを読む範囲では、
次のようなものです。
文化事業というのは行政にとっても、
補助すべき対象ではあるけれど、
今のように財政状況が厳しい状況であれば、
その内容をもっと絞らざるを得ない。
文化事業にも色々なものがあり、
文楽や特定のオーケストラなどに、
既得権益のように補助金を配分するのは、
果たして税金の支払う市民や府民の、
民意に適うものであろうか?
たとえば、勘三郎の公演の方が、
より多くのお客さんに支持されているのであれば、
文楽の補助金を削って、
勘三郎の公演に補助を出しても良いのではないか。
もし、勘三郎の公演にはお金は出さず、
文楽にはお金は出すとすれば、
その基準は明確でなければならないのではないか。
概ね僕の理解の中では、
そうした見地のものです。
皆さんはこの考えをどう思われますか?
基本的な考えとしては、
僕は賛成なのです。
行政から降りてくるお金を期待して、
それを糧にして行なっているような藝術は、
少なくとも真の意味での藝術ではない。
それはまあ芸術という程度か、
もしくはゲイジュツ、という程度のものだと思うからです。
真の藝術とは、
命懸けでやるものだと思うからです。
いつ藝術と共に死んでも、
それで本望という思いが、
何処かになければならないと思うからです。
昔から藝術家は権力者からお金をもらってたり援助を受けたり、
ある時には肉体関係を結んだりもしていた訳ですし、
そうした援助なしでは、
成立困難であった藝術の形式というものが、
確かに存在していた訳ですが、
その一方で権力者と藝術の力で対決し、
差し違える覚悟で舞台に上がっていたという一面もあり、
そうした葛藤こそ、
すなわち文化というものであったからです。
個人的な考えとしては、
舞台や音楽への補助金など全て廃止して、
その代わり税制面での優遇措置があれば、
端的に言えば藝術活動の収益を無税にすれば、
宗教と同じで、
それで成立するものだと僕は思います。
特に演劇など、
今助成金をもらっているような多くの団体や個人の中には、
昔は「資本主義打倒!」みたいなことを言っていたような人が、
多くいらっしゃるのですから、
行政から一銭もお金などもらってはいけないと思います。
彼らの活動に、
権力と本気で斬り結ぶような所が、
あるとは到底思えませんし、
お上の悪口を散々言っておいて、
もらうものだけはもらう、
というのは、
どう考えても筋が違うと思うからです。
僕は思想的には間違っているとは思わないのです。
資本主義は良くないと思いますし、
打倒され革命が起こり、
それで真にもっと人間的な社会が訪れるものなら、
その方が良いと思います。
資本主義の世の中では、
人間は本当の意味で幸せにはなれないと思います。
勿論これは、
自分の今の生活は棚に上げての無責任な発言ですが、
議論の上ではそう思います。
しかし、そうした思想を公言して活動していた人が、
お上からお金をもらってはいけません。
ある意味税金など一切払わなくて良いと思いますが、
一銭ももらってはいけないと思います。
つまり、金銭的に国家とは独立した存在であるべきで、
そうでなければ命懸けで批判していることにはならないからです。
ただし、それと文楽を一緒にするのは、
文楽に対してちょっと酷だと思うのです。
文楽とは人形浄瑠璃のことで、
歌舞伎の演目の多くは、
元々は文楽がオリジナルで、
後から歌舞伎化されたものです。
近松門左衛門の時代には、
歌舞伎より文楽の方が人気があったのですが、
その後歌舞伎人気が文楽を追い越し、
江戸末期には大阪の文楽は廃れます。
江戸末期以降、
文楽は何度も滅亡寸前まで追い詰められ、
実際にはほぼ滅んだ時期もあったのですが、
その時代その時代に、
文楽を愛した少数の愛好家の手によって、
どうにか命脈を保ちます。
そして、国立文楽劇場と国立劇場の開場に伴い、
一種の国家の保護の元に、
絶滅を免れて現在に至っているのです。
文楽の代表作と言えば、
近松門左衛門の「曽根崎心中」はその筆頭ですが、
この作品は一時は完全に絶えていたものを、
昭和30年に復活させたものです。
従って、これは当時の一種の新作なのです。
文楽というのは、
江戸時代の様式が、
そのまま伝わっていると思うのは大きな誤りで、
その音楽も演出も、
時代時代で変化しているものなのです。
現在の文楽は、
行政の庇護を離れて、
自立出来るような性質のものではありません。
数ある古典芸能の中でも、
おそらく最も滅びに近いジャンルです。
ですから、
そこに目を付けた橋下市長は、
いつもながら急所を付いているのです。
ただし、
文楽は歌舞伎の源流であり、
僕の敬愛する猿之助は、
自分流の義経千本桜を創造するに当たり、
文楽の太夫にその節廻しの教えを乞いました。
つまり、
文楽という水源なしでは、
歌舞伎も滅ぶのです。
多くの日本人にとって、
初めて予備知識なく観る文楽の舞台は、
おそらく退屈の極みだと思います。
しかし、予備知識なく初めて見て、
それで楽しめてしまうものだけが、
文化であり藝術であって良いのでしょうか?
僕は必ずしもそうは思いません。
古典というのは昔は同時代の藝術であり、
観ればそれで分かる性質のものであったのですが、
今観る古典はそこに長い歳月の壁があり、
それを乗り越えるためには、
観る側にもそれなりの準備が必要です。
しかし、そうした苦労をして初めて、
分かる性質のものもあるのであり、
それは失われた過去との対話でもあるのです。
真の藝術家は権威主義は嫌っても、
先人の業績には常に最大限の尊敬を払っています。
猿之助は常に、
文楽への尊敬の念を持ち続けたと思いますし、
現勘三郎も、
おそらくはそうした気持ちを持っていることを、
僕は信じたいと思います。
猿之助も勘三郎も、
どんな芝居をやれば、
お客さんが集まって、
興行として成功するのかは知り抜いていて、
それでいてその演じる演目の中には、
予備知識がないと理解出来ず、
多くの観客にとっては退屈極まりないような演目も、
ちゃんと混ぜ込んでいるのです。
それは何故でしょうか?
それは彼らが、
藝術の素晴らしさ、
過去の偉大な先人と対話し、
自分の根っこの部分に触れる素晴らしさを、
言葉を変えれば、
藝術というものの真の価値を、
一般の観客にも、
是非分かってもらいたいと考えているからです。
多くの一般の観客に、
勉強して欲しいと願っているからです。
確かにそうした努力を、
文楽に係わる人達はしていないと思います。
しかし、今の文楽にそれを求めるのは無理です。
今の文楽にそんな体力はなく、
それを要求すれば潰れてしまうからです。
勿論いつまでもそれではいけないのです。
現代に通じる新たな藝術の創造が、
文楽の世界にも生まれなければならないのです。
かつて戦後の文楽にも黄金時代があり、
人形遣いでは吉田玉男と蓑助の名コンビがあり、
住太夫の名演がありました。
名演の時代には勿論新作も生まれましたし、
過去に埋もれた作品の復活もありました。
今はその時代に比べれば、
どう考えてもレベルは低いのです。
従って、文楽は今のままではいけません。
その意味では橋下市長の見解は正しいのです。
ただ、僕の意見は、
そうした面も勿論あるけれど、
藝術の蘇生はそれほど簡単なものではなく、
文楽は歌舞伎から「本行」と呼ばれているように、
多くの古典芸能の「水源」の1つであり、
その水源が一旦途絶えてしまったら、
その下流にある多くの藝術も、
振り返るべき「親」を失って孤立してしまうのです。
藝術の水源を守っては頂けないでしょうか?
それが現時点で僕の言いたい唯一のことです。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
デセイ様が11月に来日するようなので、
心が落ち着かなくなりましたが、
どうだろう。
1日だけだし、
ドタキャンしても公演としては成立するように仕組まれているので、
当日まで油断は出来ない感じです。
それに「ルチア」はなあ、
食べられるギリギリの熟れた桃のような感じだけれど、
でも絶望的に好きなので、
期待せず待ちます。
今日はちょっと雑談です。
大阪の橋下徹市長が、
文楽がお客さんを呼び込もうという、
努力をしておらず、
文楽劇場にもお客さんが入っていないので、
文楽への助成金をカットする方向で検討している、
というような話がありました。
イタリアでもオペラの税金による補助がカットされ、
本場のオペラが息も絶え絶えという状況だと耳にしますから、
これは決して日本だけの問題ではなく、
資本主義の世界で、
人間が藝術というものに、
どのような価値を見出し、
文化の継続性というものに、
どのような考え方を持つかという、
本質的な問題を孕んでいる事項のように、
僕には思えます。
橋下市長の考えは、
ツィートなどを読む範囲では、
次のようなものです。
文化事業というのは行政にとっても、
補助すべき対象ではあるけれど、
今のように財政状況が厳しい状況であれば、
その内容をもっと絞らざるを得ない。
文化事業にも色々なものがあり、
文楽や特定のオーケストラなどに、
既得権益のように補助金を配分するのは、
果たして税金の支払う市民や府民の、
民意に適うものであろうか?
たとえば、勘三郎の公演の方が、
より多くのお客さんに支持されているのであれば、
文楽の補助金を削って、
勘三郎の公演に補助を出しても良いのではないか。
もし、勘三郎の公演にはお金は出さず、
文楽にはお金は出すとすれば、
その基準は明確でなければならないのではないか。
概ね僕の理解の中では、
そうした見地のものです。
皆さんはこの考えをどう思われますか?
基本的な考えとしては、
僕は賛成なのです。
行政から降りてくるお金を期待して、
それを糧にして行なっているような藝術は、
少なくとも真の意味での藝術ではない。
それはまあ芸術という程度か、
もしくはゲイジュツ、という程度のものだと思うからです。
真の藝術とは、
命懸けでやるものだと思うからです。
いつ藝術と共に死んでも、
それで本望という思いが、
何処かになければならないと思うからです。
昔から藝術家は権力者からお金をもらってたり援助を受けたり、
ある時には肉体関係を結んだりもしていた訳ですし、
そうした援助なしでは、
成立困難であった藝術の形式というものが、
確かに存在していた訳ですが、
その一方で権力者と藝術の力で対決し、
差し違える覚悟で舞台に上がっていたという一面もあり、
そうした葛藤こそ、
すなわち文化というものであったからです。
個人的な考えとしては、
舞台や音楽への補助金など全て廃止して、
その代わり税制面での優遇措置があれば、
端的に言えば藝術活動の収益を無税にすれば、
宗教と同じで、
それで成立するものだと僕は思います。
特に演劇など、
今助成金をもらっているような多くの団体や個人の中には、
昔は「資本主義打倒!」みたいなことを言っていたような人が、
多くいらっしゃるのですから、
行政から一銭もお金などもらってはいけないと思います。
彼らの活動に、
権力と本気で斬り結ぶような所が、
あるとは到底思えませんし、
お上の悪口を散々言っておいて、
もらうものだけはもらう、
というのは、
どう考えても筋が違うと思うからです。
僕は思想的には間違っているとは思わないのです。
資本主義は良くないと思いますし、
打倒され革命が起こり、
それで真にもっと人間的な社会が訪れるものなら、
その方が良いと思います。
資本主義の世の中では、
人間は本当の意味で幸せにはなれないと思います。
勿論これは、
自分の今の生活は棚に上げての無責任な発言ですが、
議論の上ではそう思います。
しかし、そうした思想を公言して活動していた人が、
お上からお金をもらってはいけません。
ある意味税金など一切払わなくて良いと思いますが、
一銭ももらってはいけないと思います。
つまり、金銭的に国家とは独立した存在であるべきで、
そうでなければ命懸けで批判していることにはならないからです。
ただし、それと文楽を一緒にするのは、
文楽に対してちょっと酷だと思うのです。
文楽とは人形浄瑠璃のことで、
歌舞伎の演目の多くは、
元々は文楽がオリジナルで、
後から歌舞伎化されたものです。
近松門左衛門の時代には、
歌舞伎より文楽の方が人気があったのですが、
その後歌舞伎人気が文楽を追い越し、
江戸末期には大阪の文楽は廃れます。
江戸末期以降、
文楽は何度も滅亡寸前まで追い詰められ、
実際にはほぼ滅んだ時期もあったのですが、
その時代その時代に、
文楽を愛した少数の愛好家の手によって、
どうにか命脈を保ちます。
そして、国立文楽劇場と国立劇場の開場に伴い、
一種の国家の保護の元に、
絶滅を免れて現在に至っているのです。
文楽の代表作と言えば、
近松門左衛門の「曽根崎心中」はその筆頭ですが、
この作品は一時は完全に絶えていたものを、
昭和30年に復活させたものです。
従って、これは当時の一種の新作なのです。
文楽というのは、
江戸時代の様式が、
そのまま伝わっていると思うのは大きな誤りで、
その音楽も演出も、
時代時代で変化しているものなのです。
現在の文楽は、
行政の庇護を離れて、
自立出来るような性質のものではありません。
数ある古典芸能の中でも、
おそらく最も滅びに近いジャンルです。
ですから、
そこに目を付けた橋下市長は、
いつもながら急所を付いているのです。
ただし、
文楽は歌舞伎の源流であり、
僕の敬愛する猿之助は、
自分流の義経千本桜を創造するに当たり、
文楽の太夫にその節廻しの教えを乞いました。
つまり、
文楽という水源なしでは、
歌舞伎も滅ぶのです。
多くの日本人にとって、
初めて予備知識なく観る文楽の舞台は、
おそらく退屈の極みだと思います。
しかし、予備知識なく初めて見て、
それで楽しめてしまうものだけが、
文化であり藝術であって良いのでしょうか?
僕は必ずしもそうは思いません。
古典というのは昔は同時代の藝術であり、
観ればそれで分かる性質のものであったのですが、
今観る古典はそこに長い歳月の壁があり、
それを乗り越えるためには、
観る側にもそれなりの準備が必要です。
しかし、そうした苦労をして初めて、
分かる性質のものもあるのであり、
それは失われた過去との対話でもあるのです。
真の藝術家は権威主義は嫌っても、
先人の業績には常に最大限の尊敬を払っています。
猿之助は常に、
文楽への尊敬の念を持ち続けたと思いますし、
現勘三郎も、
おそらくはそうした気持ちを持っていることを、
僕は信じたいと思います。
猿之助も勘三郎も、
どんな芝居をやれば、
お客さんが集まって、
興行として成功するのかは知り抜いていて、
それでいてその演じる演目の中には、
予備知識がないと理解出来ず、
多くの観客にとっては退屈極まりないような演目も、
ちゃんと混ぜ込んでいるのです。
それは何故でしょうか?
それは彼らが、
藝術の素晴らしさ、
過去の偉大な先人と対話し、
自分の根っこの部分に触れる素晴らしさを、
言葉を変えれば、
藝術というものの真の価値を、
一般の観客にも、
是非分かってもらいたいと考えているからです。
多くの一般の観客に、
勉強して欲しいと願っているからです。
確かにそうした努力を、
文楽に係わる人達はしていないと思います。
しかし、今の文楽にそれを求めるのは無理です。
今の文楽にそんな体力はなく、
それを要求すれば潰れてしまうからです。
勿論いつまでもそれではいけないのです。
現代に通じる新たな藝術の創造が、
文楽の世界にも生まれなければならないのです。
かつて戦後の文楽にも黄金時代があり、
人形遣いでは吉田玉男と蓑助の名コンビがあり、
住太夫の名演がありました。
名演の時代には勿論新作も生まれましたし、
過去に埋もれた作品の復活もありました。
今はその時代に比べれば、
どう考えてもレベルは低いのです。
従って、文楽は今のままではいけません。
その意味では橋下市長の見解は正しいのです。
ただ、僕の意見は、
そうした面も勿論あるけれど、
藝術の蘇生はそれほど簡単なものではなく、
文楽は歌舞伎から「本行」と呼ばれているように、
多くの古典芸能の「水源」の1つであり、
その水源が一旦途絶えてしまったら、
その下流にある多くの藝術も、
振り返るべき「親」を失って孤立してしまうのです。
藝術の水源を守っては頂けないでしょうか?
それが現時点で僕の言いたい唯一のことです。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2012-04-21 08:10
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コメント(4)
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> 真の藝術とは、
命懸けでやるものだと思うからです。
同感です!
実に興味深く読ませていただきました。
特に地方などでは「ハコ」の中で「なあなあ」してる人たちをよく見かけますので。
話は変わりますが、「デセイ様」の件。
心に真のミューズを持ってしまうと常に「至福と恐怖」が同居するものですね。(わたしも覚えが…笑)
RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2012-04-21 11:19)
狂言みたいに文楽を失礼だけど歌舞伎の前にセットでやるような時代が来るかもしれませんね。そう思いました。
by つうさんとう (2012-04-21 12:55)
RUKO さんへ
コメントありがとうございます。
税金をもらって芝居をしているような、
アマチュアの方も結構いらっしゃって、
一概に否定するつもりはありませんが、
そうしたところに税金を使うことは、
個人的には疑問に思います。
by fujiki (2012-04-23 08:28)
つうさんとうさんへ
コメントありがとうございます。
面白いお考えですね。
文楽の特殊性からして、
そうした生き残り策は難しいと思うのですが、
ただ単独で生き残りが、
難しいジャンルであることは、
残念ながら事実だと思います。
by fujiki (2012-04-23 08:30)