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私的「いじめ考」 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は胃カメラの日なので、
カルテの整理をして、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日は雑談です。

僕なりの「いじめ」についての話です。

僕も自分なりに、
いじめに苦しんだ時期があり、
実行に移すことはありませんでしたが、
一時期は「死」を真剣に考えたこともありました。

それは記憶の中では、
小学校の中学年くらいの時期に始まり、
中学校の3年間がピークで、
高校の前半くらいまでは断続的に続きました。

もう大分記憶は薄れましたし、
今も尾を引いている、
ということはあまりありませんが、
黒板に「石原君が早くいなくなればいいと思います」
のようなことを書かれて、
ホームルームの前に黒板消しで消したことなどは、
今でもリアルに覚えています。

ただ、簀巻きにされて窒息したり、
タバコの火を押し付けられたり、
といったことはありませんでしたから、
今から見ればまだ、
牧歌的な時代の話だったのかも知れません。

従って以下の内容は、
僕の受けたレベルのいじめに限った話で、
それがたとえば今問題になっているような出来事とは、
同じものとは限らない、
ということは、
ご理解の上お読み頂きたいと思います。

大人にも勿論いじめはありますが、
中学校の頃のいじめとは、
矢張りかなり様相の違うもののように思います。

また、幼稚園にもいじめはあると思いますが、
それは当人達にとって、
あまりいじめとは認識されないように思います。

つまり、
中学校くらいの時期に特徴的ないじめというのは、
その年齢層に特有の何かを持っていて、
それが「いじめ」という現象を考える上で、
非常に重要なことのように僕には思えます。

いじめはしばしば、
先生やPTAのような身近な大人にとっては、
「遊び」や「けんか」のように見えることがあります。

そのことが後から問題となり、
「いじめを見抜けなかった」と非難されたりするのですが、
僕は見抜けなかったのではなく、
「遊び」や「けんか」と認識した先生は、
その出来事を客観的かつ冷静に、
理解したに過ぎないのではないかと思います。

つまり、
いじめている生徒といじめられている生徒という、
当事者以外にとっては、
いじめという現象は存在せず、
それは単なる「遊び」や「けんか」に過ぎないことが、
往々してあり、
時にはいじめている生徒にとっても、
それは「遊び」や「けんか」という認識であって、
唯一いじめられている生徒にとってのみ、
それが自分の全存在を否定し、
死を引き寄せるような深刻な行為になるのであり、
そのことがいじめという問題の、
1つの特徴であり解決を困難にしている要因ではないか、
と思えるのです。

いじめを見逃した先生が、
こうした場合に非難されるとすれば、
それは冷静で有り過ぎ、
いじめられた生徒の主観に立って、
その物事を見ることがなかった、
という点においてのみのように思えます。

要するに、
いじめは学童期から思春期に特有の、
ある種の感受性にその要因の1つがあるのです。

小学校の低学年の時に、
同級生の家に行き、
そこで大車輪の技を掛けられて、
窓に足が激突して窓ガラスが割れ、
足が血まみれになったことがありました。
今思うと相当の話ですが、
当時はあまり、
いじめられた、
というような感覚はありませんでした。

これは、
暴力というものに対して、
まだ鈍感であったので、
その意味合いを過剰に受け止めて、
自分を追い込むようなことが、
なかったからだと思います。

小学校も中学年くらいになると、
集団を作り、その中に仲間外れを作って、
その仲間外れを罵ったり、
笑い者にしたり、
時には暴力を振るったりすることが、
人間の集団というものの、
1つの特性として表れるようになります。

これはおそらく、
親や大人の関係性を離れたところで、
子供同士の共同体が、
自然と形成されることの、
1つの表れではないかと思います。
それまでの子供の社会は、
大人の社会の一部として存在するだけだったのですが、
この時期から部分的に独立するようになるのです。
子供が大人になるためには、
これは絶対に必要なプロセスです。
そして、まだ出来上がったばかりの子供の共同体は、
原始的動物的な姿を残しています。
その弱肉強食の非情さと残酷さが、
所謂「いじめ」を生み出す源泉です。

つまり、
子供独自の社会が生まれると共に、
自然に「いじめ」は発生するのです。

その理由は、
未熟な共同体というもの、
未熟な社会というものは、
そうした生贄を必要とするように出来ているからです。

何故そう出来ているのでしょうか?

それはいじめられた側の僕には分りません。

この社会の比率的には多くの方は、
基本的にいじめる側の立場の人で、
そうした人はそのことの意味を、
おそらく生理的に理解されているのだと思います。

「そりゃそうだ。うまくいくためには、
そうした生贄が必要だよね」
と心の中では思っているのではないでしょうか。

よく加害者側の個人情報が流出したりすると、
「それは逆の意味のいじめである」
というようなことを言う人がいますが、
いじめられた経験のある人は、
多分そのようなことは言わないと思います。
勿論面白がって情報を拡散する行為を、
正当化するつもりもありませんし、
正しいこととも思いませんが、
いじめた生徒が気の毒だ、
などとは決して思いません。
理屈や理性ではなく、
生理的にそうは思えないのです。

いじめた側の皆さんは、
すぐにそうしたことは忘れて大人になり、
概ね大人になってもそうした皆さんが、
この世の中で大きな顔をしているので、
「いじめた生徒を非難しても、
決していじめはなくならない」
などと言いますが、
そうした発言を聞くだけで、
「ああ、この人はいじめる側の人だったのだな」
といじめられたトラウマのある人には、
すぐにピンと来ますし、
本能的にそうした人とこの問題を話すようなことは、
避けるのが賢明と理解するのです。

従って、いじめ問題に対して、
もっぱら発言されているのは、
いじめた側の人達です。
いじめられた側の人達は、
概ね理性的であれば沈黙を守ります。
それはトラウマに触れることが辛いからでもありますし、
いじめた側とそんな議論をしても、
ロクなことはないと分かっているからです。
ここに、
いじめ問題の対策が、
概ね失敗する大きな要因があるように思います。

話が逸れましたので、
いじめの起源の問題に戻ります。

民話や昔話には、
ある村では定期的に洪水が起こり、
その破滅を防ぐためには、
毎年1人の生贄を神や怪物に捧げなければならない、
というような話がよくあります。

この物語の意味するものは、
共同体の維持のためには、
そこから排除される生贄が、
定期的に必要だ、ということです。

しかし、
物語には続きがあり、
良い神や英雄がその村に現れると、
その英雄は怪物や悪い神を倒し、
生贄の習慣はその村からなくなります。

これはつまり、
原始的な共同体には常に生贄が必要だが、
それが理性によって克服されると、
新たに誕生した社会では、
生贄は少なくとも見かけ上は、
必要とされなくなる、
ということを意味しています。

要するに、
これは原始的な社会が、
成熟することの寓話なのです。

この生贄を「いじめ」に置き換えれば、
中学生くらいにピークに達する、
特有の残酷な形態を取る「いじめ」の持つ意味が、
何となく見えて来るように思います。

精神分析的に言えば、
これはその共同体という自我が、
成熟する過程なのです。

大人の支配が緩み、
学校という檻の中に、
強制的に閉じ込められた子供達は、
苦しみながら自分達だけの共同体や社会を形成し、
そこに一定の秩序を作ろうとします。

その過渡期に出現する現象が「いじめ」です。

高校時代から大学時代くらいに掛けて、
それまでのような「いじめ」の構図が、
見掛け上消失するのは、
子供の社会が成熟し、
大人の社会に近付いてゆくからです。

大人の社会でも、
当然排除の論理は働くのですが、
常にセーフティーネットは意識されていて、
法律もそのために整備され、
同じ現象も差別とか偏見とかという、
別個の観念をもって理解されます。
その社会に適合出来ず、
より動物的な社会を求める人間も少数はいて、
その人達は一般の社会からは、
ドロップアウトしてアウトローになります。

年齢と共にいじめが消失するように見える、
もう1つの要因は、
いじめられる側の感受性にあります。

中学生くらいを頂点にした発達上の一時期では、
僕達の感性は非常に死と近いところにあります。

いじめられる側の立場の人間にとって、
「いじめ」を受けることは、
即自らの死を考えることに繋がります。

僕も中学時代には、
一時期自分の死をかなり具体的に考えました。

その後もっと辛い目には何度も遭いましたが、
その時には、
同じようには死を身近に感じることはありませんでした。

これはその時期特有の現象だと思いますが、
いじめている相手に、
真面目に尋ねたりするのです。
「僕は死んだ方がいいのかな。
○○君は僕に死んで欲しいの?」

僕も実際にそうした質問を何度かしました。

いじめっ子はそうした時には、
非常に面倒臭そうな顔をするのが常です。
集団に生贄が必要なのは理の当然で、
選ばれた馬鹿を、
適当にあしらっているに過ぎないからです。

ただ、
いじめられる側は、
それでも執拗にそうした問いを繰り返すので、
いじめる側は、終いにはうんざりして、
「じゃ、死ねばいいじゃないか」
というような言葉が口を突くのではないかと思います。

中学校時代に特有な、
未熟な社会の特性としての「いじめ」は、
概ねこうしたもので、
いじめる側は特殊な場合を除けば、
いじめる対象に、
常にいじめられていることを希望しているだけで、
死などは期待していないのです。

「死」に魅入られるのはむしろ、
いじめられる側の方なのです。

ここに、
中学時代のいじめが、
しばしば悲劇を生むことの、
大きな要因があるように、
僕には思えます。

この死に魅入られるような感受性の鋭さ、
いじめによる疎外感を、
完全な自己否定と考え、
その救済を皮肉にも、
左程の深い意味もなくいじめている当の相手に、
全存在を懸けて求めようとする、
その切実で真面目過ぎて、
時に滑稽にさえ見える独特の感性が、
いじめている相手の無雑作な拒絶に遭う時、
もうその目の前に、
死が大きな口を開けて、
いじめられたお子さんを、
待っているように思われるのです。

従って、
そうした帰結としての死は、
当の本人にとっても、
いじめた相手にとっても、
同じように不幸な出来事です。

人が自ら死を選ぶことを、
全て止めることは不可能です。

しかし、
中学生のいじめによる死だけは、
矢張り絶対に止めなければならないと思います。

それは周囲にいる大人によって、
強引に止められなければいけません。
それ以外に、
その死を止める力は存在しないからです。

いじめ自体は未熟な社会性から考えれば、
不可抗力の面があります。
問題は、
いじめられた当人が必要以上にそれを、
自分の生に対する根源的な問いと考え、
思春期特有の感受性から、
それを簡単に死に結び付け、
自分が生きるに値するのか、
と言う問いは、
常にいじめる相手に向けられるのに対して、
いじめる相手の未熟な自我は、
それを受け止めることは出来ない、
という点にあります。

よく、
どうしていじめで死を選ぶ中学生は、
親や先生にその苦しみを訴えないのか、
という疑問を言われる方がいますが、
僕の考えではそれはナンセンスです。

いじめられた当人にとって、
自分を救済してくれる相手は、
常にいじめている相手以外には有り得ないからです。
いじめられっこは、
いじめっこに評価されることだけを、
「お前は生きていてもいい」
と言われることだけを望んでいるのです。
しかし、それは絶対に叶うことのない夢で、
その時いじめられっこの心は、
死に魅入られるのです。

僕がいじめの問題に望むことは、
いじめを理解するとか、
そういうことではなく、
「死」だけを強引に止めることです。
大人の権限を持って、
それだけは許さないことです。
いじめは不可抗力なのです。
子供を学校という檻の中に閉じ込めて、
そこで社会性を獲得させ、
人間関係を成熟させる、
というシステム自体が、
いじめの発生装置なのだから仕方がないのです。

勿論悪質で犯罪的ないじめもありますが、
多くのいじめは未熟な社会性から生まれた、
発達の過渡期の現象です。

いじめというそのもの自体を否定するとすれば、
学校というシステムを否定し、
子供の社会性の獲得のあり方を、
否定しなければなりません。

それも1つの考えですが、
実現性は薄いと思います。

問題は死を止めることです。
それだけを止めることです。

僕がタイムマシンで過去に戻って、、
いじめられていた、
中学生の僕に言いたいことは、
今君に出来ることは何もないし、
君をいじめているあいつに、
何かを期待したところで、
それが叶うことは金輪際なく、
君に出来ることは、
ただひたすらに自己否定に耐えることしかないのだけれど、
そうして耐えることは、
君の人生にとって決してマイナスではなく、
絶対に君の生を支えてくれる何かは、
君の心の中に湧き上がる日が来るので、
それを信じて、
死に魅入られることだけはしないで欲しい、
ということだけです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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コメント 17

rtfk

先生のお考え しごくご尤もと思いました。

by rtfk (2012-07-24 08:25) 

ekoppi

私が子供のころ(昭和20年代)は、今のいじめのような陰湿なものはありませんでした。当時は、まだ日本は発展途上国でしたし、親も必死に生活していましたから。そういう社会の中では、生きることに皆が懸命でした。
自殺するなど考えられません。
親は、もっと自分の子供の行動を把握して未然に防ぐ手立てはないものでしょうか。子供の行動に無関心な親も多いのではないかと思います。
by ekoppi (2012-07-24 09:36) 

MDISATOH

Dr.Ishhara非常に興味深くいじめに関する記事を読ませて頂きました。私も小学生後半、主に3人からいじめに遭い鉛筆を人差し指と中指の間に挟まれグリグリと傷め付けられたものでした。然し最後の方で、決闘を申し込まれ、砂場で窮鼠猫を噛むで、逆に殴りつけて一人に耳に切る怪我を負わせると、もう虐められなくなりました。
中学の時も虐めに遭いましたが、歌舞伎の女形と囃したてられ、逆に
殴り囃したてた方の目尻を切る怪我を負わせると、その仲間から虐めを受け続けました。
虐めは何処にでも有ると思います。
by MDISATOH (2012-07-24 13:24) 

なぜか大人になると、たいしたことのない苛めっ子や威張っていた人達。

どこかのBBSで、とある方が自分を虐めた人間の氏名を検索してみたら、やっぱり検索結果がゼロだったそうです。あれだけ威張って鳴り物入りだったのに、あれだけ威張って苛めっ子だったのにね、やっぱりね。その方はその検索結果を見て納得したそうです。
私は、苛めっ子と同じ名前が偶然ですが、とあるAV女優と全く同じ名前でレンタルビデオ店に置いてあったのを見て腹を抱えて笑い転げた事があります。それを借りて視聴をしてみました。やっぱり大したこと無かったな内容が。
by なぜか大人になると、たいしたことのない苛めっ子や威張っていた人達。 (2012-07-24 18:11) 

A・ラファエル

私も虐められた側の人間なので、
自己の存在価値を全否定されているという感覚はよくわかります。
ただ、私は30代後半になって会社勤めをした時にも
虐められ阻害された経験がありますので、
虐める行為が成長の過渡期のものとは思えません。
もちろん、虐めている人が成熟しているとも思いませんが・・・。

by A・ラファエル (2012-07-24 21:49) 

fujiki

rtfk さんへ
コメントありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
by fujiki (2012-07-25 08:19) 

fujiki

ekoppi さんへ
コメントありがとうございます。
子供のいじめは、
月並みですが、
矢張り大人の社会の鏡という側面が、
あるのではないかと思います。
by fujiki (2012-07-25 08:23) 

fujiki

MDISATOH さんへ
コメントありがとうございます。
逆襲は有効な手段なのだと思いますが、
僕はとても駄目でした。
by fujiki (2012-07-25 08:26) 

fujiki

何故か大人に…さんへ
コメントありがとうございます。
そうかも知れませんね。
ただ、僕は個人的には、
昔偉そうだった人は、
今でも威張っているような気がします。
by fujiki (2012-07-25 08:27) 

fujiki

A・ラファエルさんへ
コメントありがとうございます。
それはその集団の自立の度合いにも、
よるような気がします。
子供の時と全く同じ現象が、
そのまま持続することもあるようですね。
by fujiki (2012-07-25 08:30) 

ゆうのすけ

私は 誰にも言えませんでしたね。親や教師にも・・・。
究極の選択を考える前に 私は逃げました。そして きっといつか見かえすと思って 幾年も過ごしてきましたが その気持ちがバネであり 今思えば なんで自身を出せなかったのかって後悔。。。

かばうつもりはありませんが いじめる側も いじめられる側も 当人だけの問題でなく もっと大きなバックが要因にあると思うのです。子供は 親の言葉に出さない 気持ちや心理の葛藤に かなり敏感だと 私は思うんです。親の前で 自身を抑えていい子でいるのが いい子だと子供心に感じたことが。。。

いじめの問題は 震災や原発事故と同じように 決して目をそらしたらいけないですよね。

・・・君の人生にとって決してマイナスではなく、
絶対に君の生を支えてくれる何かは、
君の心の中に湧き上がる日が来るので、
それを信じて・・・ 共感します。☆ 
by ゆうのすけ (2012-07-26 00:12) 

fujiki

ゆうのすけさんへ
コメントありがとうございます。
簡単に逃げられるようなシステムは、
もっと整備されるべきだと思います。
大人にも勿論いじめはありますが、
思春期のものは感受性に影響される部分が、
大きいことに配慮が必要なように思います。
by fujiki (2012-07-27 08:21) 

minK

久しぶりにBLOGの更新をする余力が生まれまして
先生のところにもお邪魔出来ました。
いっきに読んでおります(笑)

しかし、いじめに関してはそこまで先生方が冷静に
けんかと判断して受け止めたか
というと、そうではないかもしれません。

大人社会でもいじめは存在し、かなり陰湿なものです。
先生同士の職員室内のいじめはもっと子ども社会より酷いですよ。
「 あんな奴早くやめちゃえばいいのに! 」
は、可愛い方で
「 病気なら、さっさと●ねばいい! 」
と、言われ鬱になった方も多くいらっしゃいます。
また、保護者と教師の間にもいじめがありますし、、、、
教師が冷静に子どもを見られなくなっている例も多いですね。

いやな世の中ですが、大人がいじめをやめない限り
子どものいじめは指導できないと思っています。
by minK (2012-07-27 15:17) 

fujiki

mink さんへ
コメントありがとうございます。
集団によって特徴的ないじめの性質があるようですね。

by fujiki (2012-07-27 22:30) 

九子

いじめに対する処方箋は無いと思いがちですが、「死」だけを強引に止めるということなら、なんとか出来そうな気がしますね。
「子供社会に生贄は必要」というのもなるほどと思いました。
by 九子 (2012-07-28 11:01) 

fujiki

九子さんへ
コメントありがとうございます。
世の中はどうも混沌としていて、
嫌になりますね。
by fujiki (2012-07-30 08:18) 

株の初心者

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
by 株の初心者 (2012-08-16 19:43) 

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