人間は現在に生きているという訳ではない、ということ [身辺雑記]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
それでは今日の話題です。
今日は雑談です。
生きている今この時を大切にしよう、
というのは、
良く聞かれる手垢の付いたフレーズです。
ただ、人間というのは、
ある程度の期間生きていれば、
どちらかと言えば過去に生きていて、
現在に生きている訳ではない、
というようにも思えます。
それが顕著に表れるのは、
認知症の場合です。
認知症の患者さんは間違いなく過去に生きています。
もうとっくに辞めてしまった仕事を、
まだしているように振舞ったり、
もう死んでしまった家族と話をしたり、
過去の大失敗を、
たった今したことのように悔やんだりもします。
何故こうしたことが起こるのでしょうか?
それは認知症の患者さんが、
今をそのままに生きることは、
非常に困難な状態にあるからです。
認知症の初期には、
短期の記憶を保持する働きが低下するので、
その日こうしたいと思ったことを、
1つ1つの行動に変換し、
それを繋ぎ合わせてゆく行程が、
分断されてしまいます。
こうした繋がりの断たれた世界で生きることは、
人間にとっては何よりも辛いことです。
こうした時こそ、
人間同士の助け合いが、
それを繋ぐ役割を果たすのですが、
往々にしてその本人に近い関係にある人ほど、
その人の変化に憤り、
「何で忘れるんだ!」
と物忘れを責めるので、
本人は助けを求めることを止め、
現実と繋がることを自分から放棄して、
自分の大過去に閉じこもるようになるのです。
ここまで極端でなくても、
人間は色々なレベルで、
「過去」に生きています。
これは人間の行動そのものが、
基本的にその意志は過去に発し、
それを今この時の行動に、
変換することを基本としているからでもあります。
人間にはその日の段取りがあり、
それが邪魔されると不愉快に感じます。
ただ、
その一方でその瞬間の判断で、
衝動的に行動することもあり、
一目惚れや直観のように、
今その時で完結するような性質の行動もあります。
人間はこの過去にプログラムされた行動と、
その時のある種の条件反射的な衝動による行動とを、
調節しながら日々の生活を送っています。
このどちらを優先するかのさじ加減こそが、
人間の性格というものの本質かも知れません。
決して認知症ではないのですが、
ある程度の年齢になると、
一定の割合で過去に生きることを選択する人が出て来ます。
現実に折り合って調節することを止め、
過去のある時期にプログラムされた外界との関わり方を、
変えることなく生活を続けようとします。
たとえば10年前の過去に生きている人と、
現在に生きている人とが、
同じ花を見たとしても、
それは同じ認識にはなりません。
10年前に生きている人には、
現在の花は見えてはおらず、
それを頭の中で10年前にあった花に、
変換して認識しているからで、
2人がその花の美しさについて議論したとしても、
その会話は決して噛み合うことはありません。
これはコンピューターソフトのアップデートに似ています。
外界を適切に認識し続けるためには、
知覚と認識と行動とを繋ぐソフトウェアを、
日々アップデートしてゆく必要があります。
しかし、
毎回アップデートするのも面倒ですし、
しなくてもコンピューターは、
動かなくなるという訳ではありません。
時が経つに連れ、
人はさぼってアップデートなどしなくなり、
ソフト自体もメンテナンスの期間が終わるので、
アップデートすること自体が出来なくなります。
アップデートをさぼった状態が、
「過去に生きる」ことで、
メンテナンス期間の終了が、
すなわち認知症です。
話せば分かる、
という意見があります。
一方でどんなに言葉を費やしても、
理解に至らない、
という人間関係もあります。
人間同士にこうしたことがあるのは、
その人間の生きている時代が違うからです。
同じ状態にある認識ソフト同士であれば、
「話せば分かる」のですが、
ソフトのヴァージョンが端から違っていれば、
どんなに言葉を費やしても、
理解し合うことはないのです。
ここにおいて、
人間が理解し合うためには、
相手がどのようなヴァージョンの認識ソフトを使用しているか、
ということを知ることが重要だ、
ということが分かります。
言葉を変えれば、
相手がどの時代に生きているのかを知ることが、
何より重要だ、
ということになります。
先日の選挙前の党首討論などを聞いていると、
そこに出ている「党首」の多くは、
今を生きている人ではなく、
戦後すぐの時代に生きていたり、
20年くらい前の時代でアップデートを止めている人であったり、
何処にも存在しない、
観念としての世界に、
生きている人であったりすることに気付きます。
こうした人達が議論をしても、
そもそも話が噛み合う訳がありません。
TPPも原発も1000兆円の借金も、
彼らの1人1人にとって、
今あるものとは別の物に見えているからです。
原発が10年で廃止出来ると言う人は、
原発が10年で廃止出来る世界に生きているのです。
原発が即時廃止出来ると言う人は、
そうした観念の世界に生きているのです。
原発の廃止は困難だと言う人は、
そうした世界に生きているのです。
これは考え方の枠組みの問題ではなく、
その人がどの時代で、
自分の認識のアップデートを、
放棄しているのかによって決まる事項です。
「たかが電気」と言うミュージシャンは、
たかが電気の時代に生きている人なのです。
理解するべきは、
その人がその時考えていることではなく、
その人が生きている時代なのです。
日本という社会それ自体が、
もう認知症の水準に達しているものかも知れません。
ある年齢以上の人は、
皆アップデートするのを止めて、
過去に生きて現在を捨て、
若い世代の人は、
逆に今だけを刹那的に生きて、
過去から現在をプログラミングすることを放棄しています。
これが多分、
社会そのものの老いの姿なのかも知れません。
それではどうすれば良いのでしょうか?
僕の個人的な意見は、
この社会の成員の全てが、
本当の意味で「今」と関わりを持つことが、
何よりも重要だ、
ということです。
しかし、
それは刹那的な関わりであってはならず、
明日のことを計画する意志を持ち、
それをその明日の行動に繋げてゆくプロセスこそが、
必要なのです。
過去から学ぶことは大切ですが、
過去に生きていてはいけません。
今をそのままに生きることは重要ですが、
今だけを刹那的に生きるだけでは不充分です。
人間が生きるということは、
近未来を現在に繋げてゆく行為の連続であるからです。
認知症の社会には、
介護が必要です。
この社会はサポートされ、
介護されなければならないのです。
この場合のサポートや介護は何かと言えば、
社会保障のことでもなく年金のことでもありません。
この社会の成員の全てを、
「今」に繋ぎ止める、
と言うことです。
そのためには、
何らかのコミュニケーションのツールが必要です。
初期の認知症の方が使う日々の練習帳のように、
その日やるべきことと、
明日やるべきことを、
確認するためのツールです。
僕達が今するべきことは、
どんな詰まらないことでも良いので、
どんな時代に生きている人にとっても、
同時に出来、その結果を共有出来るような、
そうしたツールを手に入れることではないでしょうか?
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
それでは今日の話題です。
今日は雑談です。
生きている今この時を大切にしよう、
というのは、
良く聞かれる手垢の付いたフレーズです。
ただ、人間というのは、
ある程度の期間生きていれば、
どちらかと言えば過去に生きていて、
現在に生きている訳ではない、
というようにも思えます。
それが顕著に表れるのは、
認知症の場合です。
認知症の患者さんは間違いなく過去に生きています。
もうとっくに辞めてしまった仕事を、
まだしているように振舞ったり、
もう死んでしまった家族と話をしたり、
過去の大失敗を、
たった今したことのように悔やんだりもします。
何故こうしたことが起こるのでしょうか?
それは認知症の患者さんが、
今をそのままに生きることは、
非常に困難な状態にあるからです。
認知症の初期には、
短期の記憶を保持する働きが低下するので、
その日こうしたいと思ったことを、
1つ1つの行動に変換し、
それを繋ぎ合わせてゆく行程が、
分断されてしまいます。
こうした繋がりの断たれた世界で生きることは、
人間にとっては何よりも辛いことです。
こうした時こそ、
人間同士の助け合いが、
それを繋ぐ役割を果たすのですが、
往々にしてその本人に近い関係にある人ほど、
その人の変化に憤り、
「何で忘れるんだ!」
と物忘れを責めるので、
本人は助けを求めることを止め、
現実と繋がることを自分から放棄して、
自分の大過去に閉じこもるようになるのです。
ここまで極端でなくても、
人間は色々なレベルで、
「過去」に生きています。
これは人間の行動そのものが、
基本的にその意志は過去に発し、
それを今この時の行動に、
変換することを基本としているからでもあります。
人間にはその日の段取りがあり、
それが邪魔されると不愉快に感じます。
ただ、
その一方でその瞬間の判断で、
衝動的に行動することもあり、
一目惚れや直観のように、
今その時で完結するような性質の行動もあります。
人間はこの過去にプログラムされた行動と、
その時のある種の条件反射的な衝動による行動とを、
調節しながら日々の生活を送っています。
このどちらを優先するかのさじ加減こそが、
人間の性格というものの本質かも知れません。
決して認知症ではないのですが、
ある程度の年齢になると、
一定の割合で過去に生きることを選択する人が出て来ます。
現実に折り合って調節することを止め、
過去のある時期にプログラムされた外界との関わり方を、
変えることなく生活を続けようとします。
たとえば10年前の過去に生きている人と、
現在に生きている人とが、
同じ花を見たとしても、
それは同じ認識にはなりません。
10年前に生きている人には、
現在の花は見えてはおらず、
それを頭の中で10年前にあった花に、
変換して認識しているからで、
2人がその花の美しさについて議論したとしても、
その会話は決して噛み合うことはありません。
これはコンピューターソフトのアップデートに似ています。
外界を適切に認識し続けるためには、
知覚と認識と行動とを繋ぐソフトウェアを、
日々アップデートしてゆく必要があります。
しかし、
毎回アップデートするのも面倒ですし、
しなくてもコンピューターは、
動かなくなるという訳ではありません。
時が経つに連れ、
人はさぼってアップデートなどしなくなり、
ソフト自体もメンテナンスの期間が終わるので、
アップデートすること自体が出来なくなります。
アップデートをさぼった状態が、
「過去に生きる」ことで、
メンテナンス期間の終了が、
すなわち認知症です。
話せば分かる、
という意見があります。
一方でどんなに言葉を費やしても、
理解に至らない、
という人間関係もあります。
人間同士にこうしたことがあるのは、
その人間の生きている時代が違うからです。
同じ状態にある認識ソフト同士であれば、
「話せば分かる」のですが、
ソフトのヴァージョンが端から違っていれば、
どんなに言葉を費やしても、
理解し合うことはないのです。
ここにおいて、
人間が理解し合うためには、
相手がどのようなヴァージョンの認識ソフトを使用しているか、
ということを知ることが重要だ、
ということが分かります。
言葉を変えれば、
相手がどの時代に生きているのかを知ることが、
何より重要だ、
ということになります。
先日の選挙前の党首討論などを聞いていると、
そこに出ている「党首」の多くは、
今を生きている人ではなく、
戦後すぐの時代に生きていたり、
20年くらい前の時代でアップデートを止めている人であったり、
何処にも存在しない、
観念としての世界に、
生きている人であったりすることに気付きます。
こうした人達が議論をしても、
そもそも話が噛み合う訳がありません。
TPPも原発も1000兆円の借金も、
彼らの1人1人にとって、
今あるものとは別の物に見えているからです。
原発が10年で廃止出来ると言う人は、
原発が10年で廃止出来る世界に生きているのです。
原発が即時廃止出来ると言う人は、
そうした観念の世界に生きているのです。
原発の廃止は困難だと言う人は、
そうした世界に生きているのです。
これは考え方の枠組みの問題ではなく、
その人がどの時代で、
自分の認識のアップデートを、
放棄しているのかによって決まる事項です。
「たかが電気」と言うミュージシャンは、
たかが電気の時代に生きている人なのです。
理解するべきは、
その人がその時考えていることではなく、
その人が生きている時代なのです。
日本という社会それ自体が、
もう認知症の水準に達しているものかも知れません。
ある年齢以上の人は、
皆アップデートするのを止めて、
過去に生きて現在を捨て、
若い世代の人は、
逆に今だけを刹那的に生きて、
過去から現在をプログラミングすることを放棄しています。
これが多分、
社会そのものの老いの姿なのかも知れません。
それではどうすれば良いのでしょうか?
僕の個人的な意見は、
この社会の成員の全てが、
本当の意味で「今」と関わりを持つことが、
何よりも重要だ、
ということです。
しかし、
それは刹那的な関わりであってはならず、
明日のことを計画する意志を持ち、
それをその明日の行動に繋げてゆくプロセスこそが、
必要なのです。
過去から学ぶことは大切ですが、
過去に生きていてはいけません。
今をそのままに生きることは重要ですが、
今だけを刹那的に生きるだけでは不充分です。
人間が生きるということは、
近未来を現在に繋げてゆく行為の連続であるからです。
認知症の社会には、
介護が必要です。
この社会はサポートされ、
介護されなければならないのです。
この場合のサポートや介護は何かと言えば、
社会保障のことでもなく年金のことでもありません。
この社会の成員の全てを、
「今」に繋ぎ止める、
と言うことです。
そのためには、
何らかのコミュニケーションのツールが必要です。
初期の認知症の方が使う日々の練習帳のように、
その日やるべきことと、
明日やるべきことを、
確認するためのツールです。
僕達が今するべきことは、
どんな詰まらないことでも良いので、
どんな時代に生きている人にとっても、
同時に出来、その結果を共有出来るような、
そうしたツールを手に入れることではないでしょうか?
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2012-12-08 08:04
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コメント(3)
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高血圧に対してのアドバイス有難う御座いました。
ACE阻害剤と少量の利尿剤による降圧は、まだ試していなかった薬の組み合わせでしたので、今のCa拮抗剤+β遮断剤の組み合わせの試みが今週終わるので担当医に相談してみたいと思います。
ふたりの友人の透析生活とその後の結末を見てきただけにちょっと神経質になっている所も有りました。
仰るとおり、最善を尽くしたうえで、心静かな日々を送ること心掛けたいと思います。
by 今野祥山 (2012-12-08 08:50)
政治家の人に読ませてあげたいなぁ…
by chima (2012-12-08 17:20)
chimaさんへ
コメントありがとうございます。
泥仕合というか、
自分を棚に上げての非難合戦には、
うんざりしますね。
by fujiki (2012-12-10 08:10)