「血とバラ」(1961年ロジェ・ヴァディム監督作品) [映画]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は連休でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
昨日に続き、
怪奇映画の名作を振り返ります。
完全にマニアックな趣味の世界なので、
ご興味のない方はスルーして下さい。
1957年から1963年くらいの間が、
怪奇映画の最大の黄金時代です。
旗振り役は昨日ご紹介したハマーフィルムで、
「フランケンシュタインの逆襲」と「吸血鬼ドラキュラ」が、
世界的に大ヒットしたので、
それを真似た怪奇映画があちこちで作られたのです。
本国イギリスでも多くの映画が作られましたし、
アメリカは表現規制の問題があって、
まだSFの時代が続くのですが、
ロジャー・コーマンがポーの作品を、
自由自在に脚色して色彩映画として成功。
同時期にイタリアで巨匠マリオ・ヴァ―ヴァが、
英国製とはまた変わった世界を確立しましたし、
フランスではまた独自の感性を持った怪奇映画が作られました。
その代表的な傑作が、
このロジェ・ヴァディムの「血とバラ」と、
明日ご紹介するフランジェの「顔のない眼」です。
昨日の「吸血鬼ドラキュラ」は、
長くテレビでも見ることが出来なかった作品ですが、
この「血とバラ」は、
東京では当時の東京12チャンネルで昼や夜に繰り返し放映され、
何度も見る機会がありました。
フランスの古城を舞台に、
現代に過去の女吸血鬼が、
孤独なミラルカという若い女性の姿を借りて蘇る、
という話で、
直接的な吸血鬼の描写などは皆無で、
心理的なほのめかしのみに終始して、
唯一の吸血シーンも、
象徴的な夢の場面に変換されて表現される、
というかなり異色の映画でした。
ただ、全体が妙に艶めかしく、
むせかえるような官能の表現に満ちていて、
「そうか、吸血鬼になると、
人間である時には抑えられていた何かが解放されるのね」
と初見は小学生4年生くらいの時だったと思いますが、
そう感じたことを覚えています。
映画全体の謎めいた感じ、
1時間半もないという短さ、
バラの棘に刺されて指先から垂れた、
1滴の血を唇から舐めとるなどの、
ヴァディム監督独特の官能的な描写、
ひたすら美しく撮られた女性達、
当時流行の精神分析的解釈と、
モノクロの幻想シーンに真紅の血が溢れたり、
ラスト赤いバラが見る見る萎れるような、
遊び心のある象徴的な映像などが、
絶妙にブレンドされて唯一無二の傑作に昇華されたのです。
大林宜彦監督はこの映画を愛して、
何度も自分の映画に引用していますし、
映画評論家の石上三登志さんは、
その幻想シーンの解釈などについての、
如何にもインテリ好みの解説を発表しています。
しかし…
実はこの映画は、
どうやらヴァディム監督のオリジナルそのものでは、
ないようなのですね。
ドイツ版というDVDが販売されていて、
それを見ると画格もシネスコサイズで、
今まで見慣れていたスタンダードではありませんし、
何より映画を代表する筈の、
吸血の幻想シーンがありません。
その代わり血まみれの乳房が露わになるような、
当時は成人映画でないと許されないような描写もあり、
全体に重く沈んだ映像は、
当時のヨーロッパ官能映画そのものでした。
おそらくこちらの方がオリジナルの「血とバラ」で、
僕が見慣れていた、
そして石上三登志さんや大林宜彦さんが絶賛したあの「血とバラ」は、
アメリカや日本などの海外用に、
短縮版として再編集された別物だったのです。
娯楽映画は当時はあまり独立した創作と、
見做されていないような部分があり、
プロデューサーや興行主が、
適当に再編集して別の映画にしてしまう、
ということが通常としてあったのですね。
この映画にもそんな訳で多くのヴァージョンがあり、
何かインテリぶった深淵で、
ほのめかしの藝術のように見えた世界は、
誰かがお金儲けのために、
適当にフィルムを切り張りして作った、
二次創作に過ぎないものであったのかも知れません。
名だたるインテリが感動した幻想シーンも、
実はヴァディム監督自身は、
全く関与していない可能性もある訳です。
それを知った時にはちょっと愕然としましたが、
映画というのは所詮はそうしたもので、
僕達はその出会いを、
そのままに感じ味わうのが正解であるのかも知れません。
この映画は未だに日本でソフト化されておらず、
海外版もオリジナルはあるのですが、
僕達が感動した再編集短縮版は、
どれだけのヴァージョンがあるのかも分からず、
まっとうな形で観るのは難しいのが実際です。
(最近確認した訳ではないので、
実は発売されているのかも知れませんが…)
でも、僕の魂の一部は、
今もあのフランスの古城の中を、
何かを探して彷徨っているような気がします。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は連休でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
昨日に続き、
怪奇映画の名作を振り返ります。
完全にマニアックな趣味の世界なので、
ご興味のない方はスルーして下さい。
1957年から1963年くらいの間が、
怪奇映画の最大の黄金時代です。
旗振り役は昨日ご紹介したハマーフィルムで、
「フランケンシュタインの逆襲」と「吸血鬼ドラキュラ」が、
世界的に大ヒットしたので、
それを真似た怪奇映画があちこちで作られたのです。
本国イギリスでも多くの映画が作られましたし、
アメリカは表現規制の問題があって、
まだSFの時代が続くのですが、
ロジャー・コーマンがポーの作品を、
自由自在に脚色して色彩映画として成功。
同時期にイタリアで巨匠マリオ・ヴァ―ヴァが、
英国製とはまた変わった世界を確立しましたし、
フランスではまた独自の感性を持った怪奇映画が作られました。
その代表的な傑作が、
このロジェ・ヴァディムの「血とバラ」と、
明日ご紹介するフランジェの「顔のない眼」です。
昨日の「吸血鬼ドラキュラ」は、
長くテレビでも見ることが出来なかった作品ですが、
この「血とバラ」は、
東京では当時の東京12チャンネルで昼や夜に繰り返し放映され、
何度も見る機会がありました。
フランスの古城を舞台に、
現代に過去の女吸血鬼が、
孤独なミラルカという若い女性の姿を借りて蘇る、
という話で、
直接的な吸血鬼の描写などは皆無で、
心理的なほのめかしのみに終始して、
唯一の吸血シーンも、
象徴的な夢の場面に変換されて表現される、
というかなり異色の映画でした。
ただ、全体が妙に艶めかしく、
むせかえるような官能の表現に満ちていて、
「そうか、吸血鬼になると、
人間である時には抑えられていた何かが解放されるのね」
と初見は小学生4年生くらいの時だったと思いますが、
そう感じたことを覚えています。
映画全体の謎めいた感じ、
1時間半もないという短さ、
バラの棘に刺されて指先から垂れた、
1滴の血を唇から舐めとるなどの、
ヴァディム監督独特の官能的な描写、
ひたすら美しく撮られた女性達、
当時流行の精神分析的解釈と、
モノクロの幻想シーンに真紅の血が溢れたり、
ラスト赤いバラが見る見る萎れるような、
遊び心のある象徴的な映像などが、
絶妙にブレンドされて唯一無二の傑作に昇華されたのです。
大林宜彦監督はこの映画を愛して、
何度も自分の映画に引用していますし、
映画評論家の石上三登志さんは、
その幻想シーンの解釈などについての、
如何にもインテリ好みの解説を発表しています。
しかし…
実はこの映画は、
どうやらヴァディム監督のオリジナルそのものでは、
ないようなのですね。
ドイツ版というDVDが販売されていて、
それを見ると画格もシネスコサイズで、
今まで見慣れていたスタンダードではありませんし、
何より映画を代表する筈の、
吸血の幻想シーンがありません。
その代わり血まみれの乳房が露わになるような、
当時は成人映画でないと許されないような描写もあり、
全体に重く沈んだ映像は、
当時のヨーロッパ官能映画そのものでした。
おそらくこちらの方がオリジナルの「血とバラ」で、
僕が見慣れていた、
そして石上三登志さんや大林宜彦さんが絶賛したあの「血とバラ」は、
アメリカや日本などの海外用に、
短縮版として再編集された別物だったのです。
娯楽映画は当時はあまり独立した創作と、
見做されていないような部分があり、
プロデューサーや興行主が、
適当に再編集して別の映画にしてしまう、
ということが通常としてあったのですね。
この映画にもそんな訳で多くのヴァージョンがあり、
何かインテリぶった深淵で、
ほのめかしの藝術のように見えた世界は、
誰かがお金儲けのために、
適当にフィルムを切り張りして作った、
二次創作に過ぎないものであったのかも知れません。
名だたるインテリが感動した幻想シーンも、
実はヴァディム監督自身は、
全く関与していない可能性もある訳です。
それを知った時にはちょっと愕然としましたが、
映画というのは所詮はそうしたもので、
僕達はその出会いを、
そのままに感じ味わうのが正解であるのかも知れません。
この映画は未だに日本でソフト化されておらず、
海外版もオリジナルはあるのですが、
僕達が感動した再編集短縮版は、
どれだけのヴァージョンがあるのかも分からず、
まっとうな形で観るのは難しいのが実際です。
(最近確認した訳ではないので、
実は発売されているのかも知れませんが…)
でも、僕の魂の一部は、
今もあのフランスの古城の中を、
何かを探して彷徨っているような気がします。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。