SSブログ
フィクション ブログトップ
- | 次の10件

B君と予言のノートの話 [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日も診療所は休みです。

昨日は神奈川の実家に戻りました。
今日は1日のんびりしているつもりです。

今日の内容も、フィクションとしてお読み下さい。

僕が大学1年の時、
たまたま同じ下宿に同級生のB君がいました。
下宿代は月15000円ですから、
そう高額ではありませんでしたが、
廊下の板はギシギシと歩く度に軋み、
隣の音は丸聞こえの築20年は経っている二階屋で、
トイレは共同で風呂はありません。
それを考えれば、当時としても割高な感じはしました。
一階は大家さんの母屋でしたが、
ぎょろ目で鬼瓦のような顔をしたご主人が、
1日でも家賃を入れるのが遅れると、
「てめえ、どういうつもりだ」
と血相を変えて怒鳴り込んで来ます。
医学生が下宿するのに、
とても見合った環境とは言えませんでした。

B君は背の高い好青年という印象で、
いつも笑顔を絶やしません。
やや甲高い声で話をします。
礼儀正しく、板が軋む廊下で僕の顔を見ると、
自分から快活に声を掛けて来ます。
地元の出身で、その口調には、
独特のまろやかな訛りがありました。

B君はこのように温厚な性格で、
その上テニス部に所属するスポーツマンでもありました。
学業の成績も概ね良好です。

そんなB君が、
珍しく感情を露にしたことが一度だけありました。

確か夏の終わりの頃だったと思いますが、
大家さんが下宿生と一緒に夕食をしようと声を掛けて来て、
たまたまその時下宿にいた僕とB君の2人が、
呼ばれて大家さん一家と夕食を共にしたのです。
どういう話の展開だったのかは忘れてしまったのですが、
大家さんが今の世の中と昔との違いについて、
何か喋っていて、それに対して、
話を向けられた僕とB君とが、
それぞれ自分の意見を話したのです。
B君はまあ、如何にも優等生的な一般論を述べ、
僕はちょっといつもの変わった話をしました。

大家さんは僕の話を気に入ってくれて、
「お前は若いが、世の中のことが良く見えてる」
と言いました。
すると、いつもは温厚なB君が、
その時ばかりは顔を真っ赤にして大家さんに対し、
「それは僕が世の中のことを分かっていない、という意味ですか」
と半ば喧嘩腰に大家さんに言い募ったのです。
「そうは言わねえがな、俺くらいの年になると分かることもあるのよ」
と大家さんが言うと、
「分りましたよ。要するに、あなたは僕より石原君の方が好きなんですね」
と言うなり、B君はすっくと立って、
そのまま出て行ってしまいました。

何となく一瞬気まずい空気が漂いました。
ただ、大家さんという人は、
そんなことを気に掛けるタイプではありません。
B君の後を追おうとする僕を制して、
「まあ、放っとけよ」
と言うとまた話し始めました。
僕は結局タイミングを失い、
その場に留まったのです。

夕食が終わり、大家さんと別れてから、
僕は二階のB君の部屋に行き、
ドアをノックしました。
何となく謝りたいような気分になったのです。
ところが、B君はいないようで返事はありません。
ノブを握ると、部屋に鍵は掛かっていませんでした。

何故、B君の部屋に入ろうと思ったのか、
今ではよく分かりません。
本来はそんなことをするべきではなかったのです。
でも、すいません。
現実にその時僕は勝手にB君の部屋に入ってしまったのです。
部屋の中はまだ夕陽が差していて、
中を見て取るだけの明るさはありました。

大きさは4畳半一間ですから、
見渡せばただそれだけです。
B君の姿はありませんでした。
奥の窓際に小さな机があって、
その上に1冊の大学ノートが置かれています。

ノートの表紙にマジックで表題が書かれていて、
「B君の人生を成功させるためのノート」
という文字が見えました。

これもまた僕の懺悔になります。
僕は誘惑に抗い難く、
そのノートを覗いて見てしまいました。

まず最初のページに、
B君と思しき人物の、
漫画風のイラストがあり、
一番上に「これが世界一素晴らしいB君の全てだ!」
と書かれていました。
イラストのB君はポーズを取って笑顔を見せていて、
そこには多くの矢印で、
各部分の解説が添えられています。
たとえば、口に書かれた矢印には、
「この笑顔にメロメロにならない女はいない。
その白い歯は全女性の憧れの的だ」
みたいな文句が並んでいます。

続いて次のページをめくると、
年表形式で、生まれてからB君の人生に起こったことが、
年代順に書かれています。
ちなみにその年の項目には、
「地元の○○大学医学部に、一発合格。
素晴らしいキャンパスライフが始まる」
との記載がありました。
「世界一素晴らしいB君」にとって、
地方の国立大学はちょっと役不足のような気もしますが、
その書き方では、特に不満ではないようです。

驚いたことに、その年表にはB君の未来も書かれていました。
「未来日記」の先取りのような部分もあったのです。
それによると、25歳で素晴らしいパートナーと結婚。
27歳でノーベル賞級の発見をして、
海外に招待され、留学することになっています。

ノートにはまだ続きがありましたが、
さすがにちょっと怖くなった僕は、
そこでノートを閉じ、部屋を後にしました。

翌朝、いつものように廊下でB君に会い、
いつものように挨拶を交わしました。
前夜のことにはお互いに触れませんでしたし、
B君の態度も普段と変わりはありませんでした。

B君は1年で下宿を去り、
僕とB君とは殆ど交流はなくなりました。
同学年とは言え、クラスも分かれていたので、
それほど交流の機会はなかったのです。

僕がB君のノートに再び出会ったのは、
大学を卒業して3年ほど経った頃のことです。

僕の所属していた科の患者さんが、
集中治療室に入ることになり、
医局員が交代で集中治療室に泊り込むことになったのです。
ある夜当番になった僕が、
二段ベッドが左右に並ぶ当直室に入ると、
たまたま目の前のベッドの上に置かれた、
馴染みのある大学ノートが目に入ったのです。
まさかと思って裏返して見ると、
「B君の人生を成功させるためのノート」
と間違いなく書かれています。
僕とは別の科に入局していたB君も、
たまたまその日泊まりの日だったのです。

再び僕は誘惑に駆られ、
ノートの中に目を通しました。

僕がいつもそのように、
勝手に他人の持ち物を盗み読みするような人間だと、
思われると困るのですが、
僕は基本的にそうした人間ではないつもりです。

ただ、皆さんも想像してみて下さい。
ほぼ10年ぶりにそのノートに再会して、
中を見る欲求に逆らえる人がいたら、
教えて欲しいと思います。

ノートの1ページ目のイラストは、
元のままでした。
B君は社会人になったその時まで、
自分の人生の理想像を、
ノートに書き綴っていたのです。
ただ、年表を見ると、
その記載は現実に合わせて修正が加えられていました。
一年後に教授を仲人にした結婚式が、
盛大に行なわれる予定になっていました。
これは現実の予定なのか、
まだ架空のものなのかは、よく分かりません。
続いて、2年後には助教授に昇進する予定になっていました。
B君の年齢であれば、異例の抜擢である筈です。
ただ、ノーベル賞級の発見、というのは消されていて、
それはより現実的な目標に修正されたのだと思われました。

その夜B君に会うことはありませんでした。

そしてまた、月日が流れました。

B君が急死したとの連絡を受けたのが、
数年前のことです。
その更に数年前に癌が発見され、
闘病を続けた後に、
まだ40代前半の若さで亡くなったのです。

あのノートを、B君は最後まで付けていたのでしょうか。
世界一の人生を生きるという決意を持って生き続けたB君は、
病の床でそのノートをどのように締め括ったのでしょうか。
B君のことを考えると、
僕は人生の残酷さのようなものを感じます。

B君があのノートを、
どのくらいの秘密にしていたのか、僕には分かりません。
無雑作にあちこちに置かれていたところを見ると、
ひょっとしたら、友達には見せていたのかも知れません。

僕は本来はこんなことを書くべきではないのかも知れません。
ただ、今思い返して見ると、
僕が2回あのノートを見たことが、
僕にはどうしても偶然のようには思えないのです。
この話を何処かに書いておくことが、
B君のためにもなるような気がして、
今日ここに書くことに決めました。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

癌保険と思い出せない顔の話 [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

診療所は今日から15日まで休診になります。

でも、今日はいつもと同じ時間に起き、
これから、在宅医療の研修に出掛ける予定です。

数日前、
診療所に掛かっている若い女性から、
ある日急に電話が掛かって来る、
という夢を見ました。

その電話の内容というのが不思議なもので、
彼女は国産の宇宙ステーションに乗り込んでいたのですが、
隊員の衣服の洗濯をしていたところ、
ハッチを閉じ忘れて洗濯物ごと、
宇宙空間に投げ出されてしまった、
というのです。
「もう診療所には行けないわ。御免なさい」
と、それが最後の言葉でした。

宇宙空間に投げ出された筈なのに、
電話が掛かってくるのですから、
訳が分かりません。

目が覚めてから、
その人の顔が何故かどうしても思い出せず、
どうしてなのだろうと思っていたら、
昨日本人が外来を受診されました。
当たり前のことですが、
別に宇宙空間の放浪者になっていた訳ではなかったのです。
ああそうか、こんな顔だったな、
とその時にしっかり確認した筈なのに、
今日になってみると、
もうすっかり忘れています。
思い出そうとしても、
どうしても思い出せません。

不思議ですね。

それも、完全に思い出せないというのとは違っていて、
彼女の顔を思い出そうとすると、
何故か別の女性の顔がそこにだぶるのです。
そのだぶる女性というのが、
これがまたその女性とは全然何の関係もなく、
決して似ているという訳でもないので、
尚更不思議です。

だぶって思い出す女性というのは、
僕のところに来た保険の勧誘員です。
数年前に僕に関係のある人の伝手で、
診療所を訪れ、
何度か診察室で話をしました。
本社勤務でまだ20代の若さでした。

ちょっと変わった人で、
あまり熱心にセールストークをしません。
まだ十代の頃にお母さんを癌で亡くしていて、
その時に明らかに手術ミスであったのに、
大病院の医者に嘘を塗り固めたような説明をされ、
強い憤りを感じたけれど、
まだ子供でどうすることも出来なかった、
というような話を、
診療が終わった後の夜の診察室で、
何処か遠くを見るような目付きをしながら、
淡々と話し続けるのです。
「医者って本当に汚いですよね」
というのが話の締め括りで、
そこだけは僕の方を真正面から見詰めてそう言われると、
僕自身がその病院の医者のような気分になって、
白衣なんてその場で脱ぎ捨てて、
このまま何処かへ走って逃げてしまおう、
というような思いにさせられるのでした。

そんな話を聞かされた上で、
「癌保険」の勧誘なのですから、
どう対応したらよいものか、
混乱してしまいます。
そもそも、10代で母親を医療ミスで失い、
医療不信を強く持っていて、
何故医療保険の勧誘の仕事などをしているのでしょうか。
これは僕の偏見かも知れませんが、
保険の世界というのは、
純粋な気持ちだけで仕事の出来る世界ではなさそうです。
却って母親の死の記憶が、
嫌な形で甦ったりはしないかと、
そんな余計なお世話の心配までしてしまいます。

その女性は3回僕の元を訪れ、
僕は結局言われるままにその保険に入りました。
健康診断のために新宿の高層ビルの中にある健診室に行き、
その帰りに彼女に会うと、
「まさか、入ってくれるとは思いませんでした」
と言われたので、
結局僕のことを1つも分かってはくれなかったのだな、
とちょっと切ない気分になりました。

彼女は本社勤務で、実際の担当は別の女性になったので、
僕はその後彼女には一度も会ってはいません。

その彼女の顔が、
何故どうしても思い出せない、
患者さんの顔にだぶるのでしょうか?

僕の頭の顔の記憶の整理棚の中で、
何故かその2つの顔が、
非常に間違い易い位置に存在しているとしか、
僕には考えることが出来ません。

僕はその患者さんに幸せになって欲しいと、
それは本当に心の底からそう思っていて、
しかし、現実はそうはなっていません。
僕に何か出来ることはないかと煩悶しつつ、
それがおこがましいことのように感じることもあります。
結局は全ては時間が解決してくれるしかないのかな、
という無力感に囚われることもあります。

いずれは彼女は診療所には来なくなる筈で、
来なくなる状態の方が、
彼女にとって良いことであるのも間違いのないことです。
診療所というのは、結局はそうした場所だからです。
そして、彼女が診療所に来なくなって初めて、
僕は実際に見るより鮮やかに、
彼女の顔を思い出すようになるのかも知れません。

そろそろ時間なので、
出掛けることにしますね。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

続・僕の知っている「偽医者」の話 [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は事務仕事の予定です。

それでは今日の話題です。

今日は昨日とはまた別の、
「偽医者」の事例の話です。
これも僕の聞いた事実を元にしていますが、
そのまま書くと差し障りがあるので、
細部は色々と変えています。
フィクションとしてお読み頂ければ幸いです。

その診療所は繁華街のビルの4階にありました。

元々ある病院の事務長をしていた人物が、
開設者となり開設したのです。

診療所の経営者は開業医であれば、
通常は院長が同時に兼ねるのですが、
経営者は医者である必要はないので、
こうした形もあり得るのです。

診療科目は内科と皮膚科と泌尿器科です。
近隣には飲食店街があり、
性病の患者さんが多いことが想定されました。
そこで、泌尿器科のニーズが高いと判断したのです。
ビルの4階という立地も、
その意味では目立たずこっそり受診出来るので、
むしろ好都合と考えられました。

これはかなり以前の話で、
まだ医局制度が絶対の頃です。
バイトだけをしているような医者は少なく、
バイトをしている殆どの医者は大なり小なり、
大学の医局の影響力の下にありました。

開設者の事務長は、
それで伝手のある大学病院の、
泌尿器科の医局に連絡を取り、
そこからバイトの医者を派遣してもらい、
それで診療を行なう方針にしました。
本来は最初から常勤の医者が望ましかったのですが、
幾ら募集を掛けても反応はなく、
もう場所は押さえてしまったので、
止むを得ない決断だったのです。

ただ、診療所には管理者が必要です。
経営者は医者でなくてもいいのですが、
管理者は医者でなくてはならない決まりです。
事務長はこれも伝手を探してあちこちを廻り、
結局もう引退された高齢の内科の医者に、
「形だけの」管理者になってもらうように頼み込みました。
管理者は原則「専任」でなくてはいけません。
他の医療機関との掛け持ちではいけないのです。
従って、常勤の医者が見付からない場合には、
引退された医者とか、
何かの理由で定期的な仕事をしていない医者を、
探さなければいけません。

その頼んだ医者は、実際に診療をする訳ではありません。
ただ、書類の管理者の欄に名前を書くだけです。
所謂「名前貸し」ですね。
名前を貸すだけで、その医者は月10万円の報酬を要求。
事務長は法外な要求だな、とは思ったものの、
他に探す当てもないので、そのまま支払うことに決めました。

これももう、とっくに時効の話ですが、
勿論当時でも違法行為です。
しかし、事務長としては、他に方法はなかったのでした。

診療所は開設され、取り敢えずは週4日のスケジュールで、
外来の診療が始まりました。
大学の医局から派遣されて来る医者は、
日替わりです。
1人は講師の肩書きで、この医者は経験もあり、
事務長から見ても、まっとうな仕事振りでした。
どうやら、近いうちに開業する思惑があるらしく、
その予行演習のつもりのようでした。
残りの医者はもっと若く、
明らかに研修医か、それに毛の生えた状態でした。
今は研修中にバイトは原則として出来ませんが、
当時は卒業したてで、まだ右も左も分からない状態でも、
バイトで当直や外来が可能だったのです。

当然の如く、まともな診察ではありません。
ある医者は1人の患者さんに1時間掛けて、
診察をします。
特定の人ではなく、全員1時間掛かるのです。
「何故そんなに時間が掛かるのですか?」
と事務長が訊くと、
「本当に真剣な診察は、そのくらいの時間が掛かるものなのです」
と逆に怒られてしまいます。
それでいて、手付きはたどたどしく、
素人目にも無駄に時間だけ掛けているような気がします。
また別のある医者は、
殆ど患者さんと言葉を交わさず、
患者さんの顔を見ることもしません。
それでいきなり陰部を露出させ、
尿道に何も言わずに綿棒を突っ込んだりするので、
患者さんは悲鳴を上げて大騒ぎになります。

講師でもそんな研修医でも、
バイト代は基本的には同じです。
それはちょっと問題ではないかと講師の医者に言うと、
医局には分からない形で、自分の報酬だけ増やしてくれないか、
と要求されます。
要するに裏金を出せと言うのです。
事務長としては、むしろ新人の医者の報酬は下げて欲しいと思って、
そんな話をしたのですが、
却ってやぶ蛇となり、支出が更に嵩んでしまったのです。

バイトであるのにもかかわらず、
夏と冬には「特別手当」の名目で、
賞与まで要求されます。
そんなこんなで人件費は膨れ上がり、
開所1年で診療所は膨大な赤字を抱えました。

そんなある日、来る筈だったバイトの医者に、
突然「今日は医局の用事が入ったから」
とキャンセルされる事態が起こります。

事務長は頭を抱えます。
それで師長として勤務していた、
ベテランの看護師に相談すると、
「取り敢えず薬だけで済む患者さんは、
薬だけ処方して帰ってもらいましょう。
新患の人には事情を言って、
別の日に来てもらうようにしましょうか…」
と何となく含みのある言い方です。

事務長は迷いましたが、
これでまたその日診療所を閉めれば、
その分赤字が膨らんでしまいます。
それで、看護師長の言う通りに診療を始めました。
途中で看護師長が相談に来て、
「新患なんですが、ただの膀胱炎みたいなんです。
おしっこを取って検査に出して、
いつもの抗生物質を出せばそれでよさそうなんですが…」
と言葉を濁します。

事務長の頭の中で、その時に何かが弾けました。
看護師が暗に仄めかしていた内容が、
自分の意思にしっかりと結び付いたのです。
それで事務長は言いました。
「私が話しをするよ。診察室に入れてくれないか」
と言います。

これが「偽医者」誕生の瞬間でした。

事務長は白衣を着て、診察室に入り、
患者さんを呼び入れて話を聞きました。
元々営業畑の仕事をしていて、
話すのは得意です。
散々酷い研修医の診察を隣で聞いていて、
診療の段取りは分かっています。
「膀胱炎ですね。薬を出しておきましょう」
で診療は終了です。
患者さんが出て行ってから、
傍に立つ看護師長と相談して、
検査と処方の指示をカルテに書きます。

診療を終えて、事務長の心には、
何か充実感のようなものが去来していました。
勿論看護師長の助けがあってのことですが、
自分の診察は少なくとも研修医よりは数段上でしたし、
掛かった患者さんもそう感じた筈です。
それどころか、開業を目指している講師の医者よりも、
患者さんのあしらいは堂に入っていたのではないか、
と事務長は思います。
不正をしたという疚しさは、感じない訳ではありません。
しかし、自分は一言も、自分が医者だと名乗った訳ではありません。
診察室に座り、白衣を着ている自分を見て、
患者さんが勝手にそう思っただけのことです。
「私は嘘は吐いていない」
勝手な理屈でしたが、
そう頭の中で唱えると、
罪悪感は消えました。
第一、誰も損はしていないではないか、
と事務長は考えます。
患者さんも損はしていないし、
普段よりむしろ充実した診療を得て、
満足して診療所を後にしたのです。
それに引き換えあいつらは何だ、
と思いは研修医の未熟さに及びます。
何も出来ない癖に態度ばかりは一人前で、
法外な金を要求するじゃないか。

その後何度か同じようなことがあり、
バイトの医者がドタキャンすると、
代わりに事務長が診療をしました。

そして、それからしばらくして、講師の医者が、
もう少しバイトの報酬を上げてくれ、
そうでないとこれ以上は続けられない、
という足元を見るような要求をして来ました。
事務長はその要求をすっぱり拒絶し、
大学の医局は医者を引き揚げました。

さて、それから事務長は自分が院長として、
診療に当たり、事務全般も同時に受け持ちました。
通常の開業医と同じになったのです。
唯一違っていたのは、医師免許がないということだけでした。
診療所の評判はそれまでより上がり、
患者さんも増え、
一番の負担であった人件費が格段に減少したため、
経営状態も改善しました。

全てはしばらくの間順調に思えました。
しかし、こんなことが長続きする訳はありません。
以前受診した患者さんからの不審の訴えと、
スタッフの内部告発が重なり、
事務長は捕まり、刑に服したのです。

これも色々と考えさせる事例です。
今は多分昔のような非常識な新人の勤務はない筈なので、
状況は変化しているとは思いますが、
医局制度が崩壊したため、
却って医師が偏在し、
一部で深刻な医師不足の事態を生んでいます。

医者の端くれとしては、
あんな仕事なら俺が代わりにやった方がましだ、
などと言われないように、
日々の診療に勤めたいとは思っています。

皆さんはどうお考えになりますか?

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

僕の知っている「偽医者」の話 [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は胃カメラの日なので、
カルテの整理をして、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日は僕の知っている偽医者の事例の話です。
僕の聞いた事実を元にしていますが、
そのまま書くと差し障りのある部分があり、
細部はかなり変えていますので、
フィクションとしてお読み頂ければ幸いです。

通常医者は大学の医学部を卒業して、
医師国家試験を受け、
それに合格すると、
自動的に厚生労働省の「医籍」に登録されます。
その医籍を見れば、登録番号何番は、何処の誰それである、
ということが確認出来る訳です。

医者の手元にあるのは、送られて来た、
「医師免許証」という小ぶりの表彰状のような、
免状一枚です。

たとえば僕がある病院に就職するとしますよね。

採用前の段階で、医師免許が確認されることは、
殆どありません。
ただ、実際の勤務となれば、
その医者がいることを、
行政に報告しなければいけません。
日本の医療は基本的に健康保険が使われますから、
医者はその地方自治体の、
「保険医」でなければならないからです。
その手続きの際には、
必ず医師免許証の現物が必要である、
ということになっています。
ただ、別に本人確認は必要とはなりません。
担当者が免許証を持って行けば、
それで手続きは済んでしまうのです。

Aさんは専門学校卒業の経歴で、
それも医療系ではありませんでした。
ある病院の夜間救急の受付のアルバイトがあり、
基本的に条件は医学生とされていました。
AさんはG医科大学の学生と身分を偽って、
そのアルバイトに応募し、
採用されました。
実際に医学生であることの確認を、
身分証明書や学生証でしておけば良かったのでしょうが、
それは厳密にはされなかった訳です。
多分「学生証を見せて」くらいのことは言われたのでしょうが、
「すいません。今ちょっと携帯していなくて」
くらいのことで、そのままウヤムヤになってしまったのです。

Aさんは他の数人のメンバーをシフトを組みながら、
その当直の受付のバイトを始めました。

皆さんも救急で夜間に大病院に行かれると、
割と無愛想なお兄ちゃんが、
窓口で対応してくれることがあるかと思います。
あれは医学生のバイトなのです。

Aさんはまず医学生の仮面を被ります。
実際には学生ですらなかったのです。
しかし、アルバイトを続け、
他の医学生の話を聞いているうちに、
何となく自分も医学部の学生であるかのように、
錯覚するようになります。
救急外来を担当している医者も、
当然Aさんを医学生として対応します。
「うちの病院に来て見ないか」みたいな話も当然ある訳です。
他の医学生のバイトのメンバーも、
高学年になってくれば、
卒業後の進路のことも話題に上ります。
「A君は大学に残るの?」
みたいな話になると、
それに対して何か答を捻り出さざるを得ず、
Aさんの頭の中で、妄想でもないのでしょうが、
色々な嘘が1つの形を取るようになります。

それから半年が経ち、
多くの一緒にいたメンバーは卒業し、
バイトを辞めました。
残ったのはAさんと、後は自分より若いメンバーです。
Aさんは自然と仕切り役のような立場になり、
病院の救急担当の医者との交流も密になります。
そんな時、親しくしていた病院のある科の部長の先生から、
将来の進路のことを尋ねられ、
「実は僕は大学を今は辞めているんです」
と新たな嘘を話します。
「東洋医学を勉強しようと、アジアのある国の医科大学に留学し、
そこでその国の医師免許を取ったのですが、
日本に戻っても、外国の資格じゃ免許を取れないと聞いて、
正直困っているんです」
とのびっくりするような話です。

しかし、医者というのは世間知らずの生き物です。
この部長先生はAさんのほら話を完全に真に受け、
何と自分で国と地方自治体に掛け合って、
2年間の研修を日本で受ければ、
その後国家試験の受験資格を与える、
という文言を行政から引き出したのです。

それでAさんはその病院の臨時研修医のような形を取り、
医学全般の研修を2年間受けるようになったのです。
アジア某国の医師免許なるものは、
結局一度も提示を求められることはありませんでした。

2年間の研修を終えた時には、
もうAさんは自分が医者だ、という考えに、
微塵の疑いも持ってはいませんでした。
ただ、だからと言って、
海外の医師免許などというのは、
真っ赤な嘘なのですから、
研修を終えても国家試験を受ける訳にはいきません。

Aさんは以前の救急受付の時に、
当直の医者から手渡された医師免許証の本物を、
密かにコピーして、何枚も手元に置いていました。
その名前を自分に書き換え、
更にコピーを繰り返して、
偽の免許証のコピーを作りました。

そして、その後幾つかの医師派遣の会社に登録し、
当直や外来のバイトを掛け持ちして、
通常の勤務医を超える年収を手にするようになったのです。

本来はバイトの医者でも医師免許証が必要な筈です。
しかし、「すいません。今日はコピーしか手元にないんです」
と言われれば、その場はそれで済んでしまいます。
医籍番号さえあれば、手続きは可能だからです。
疑いを持って調べなければ、
それが他人の番号であるとは分かりません。

Aさんは数年間そうした生活を続け、
ひょんなことからその不正が発覚して、
今はその罪で服役中です。

考えると腹立たしいのですが、
通常では越えることの不可能な障害を、
嘘と一種の外交手腕で、
ひょいひょいと乗り越えてゆく姿には、
何となく羨ましいような複雑な気分にもなります。
多分人間が生きてゆく上で、
最も役に立つものは、他人に取り入る技術なのでしょうね。
そう考えると何か切ない気分にもなります。

皆さんはどうお考えになりますか。

今日は僕の知っている「偽医者」の話でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

1994年の初夏の出来事 [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は診療所は休みですが、
八王子で健康教室のような催しがあり、
そこで講演を頼まれたので、
これから八王子まで出掛けます。

今日の話は1994年の初夏の頃の出来事です。

僕はその年の春に糖尿病の研究で、
医学博士の学位を取り、
春からは内科の臨床の傍ら、
カルシウムの吸収についての研究を始めていました。

午前中は外来に出たり、
心エコーなどの検査をして、
午後は研究と病棟の業務に追われました。

長野県の松本は蔵の多い街で、
僕のその時の住居は、
蔵を改造した旧家の裏庭にある下宿でした。

蔵は1階と2階とに分かれていて、
僕が借りているのは2階だけです。
賃貸料は確か一月7000円でした。
破格の安さとも言えましたが、
風呂は勿論ありませんし、
流しは1階に共同で、下の住人と一緒に使います。
トイレも共同で、庭の片隅にあるだけです。

大学病院へと続く道路から、
塀と塀とに挟まれた、
人一人斜めになって辛うじて通れるような通路を抜けると、
母屋の庭に出ます。
その中程に和式のトイレがあり、
そこに座って、丁度目の高さにある小さな窓から外を見ると、
庭の向こう、母屋の和室で、囲碁盤に向かって、
何か定石を並べている、もう70代後半と思しき、
大家のご主人の姿が、決まって目に留まりました。

その情景を、僕は今でも不意に思い出すことがあります。
妙に懐かしく、それでいて切なく、
永遠に帰ることのない、
子供の頃の夏の夕暮れと同じ匂いがします。

その年の6月27日は月曜日でした。
僕の所属していた内科の教室では、
毎週月曜日の夜に医局会議があり、
その会議の後で製薬会社の勉強会があります。
医局会議が、確か5時からだったと思います。
それが1時間くらいで終わって、
その後が勉強会です。
製薬会社の担当者が、
医局員の前で薬の説明をして、
医局員の質問を受けます。
何故こんな時間に勉強会をするのかと言えば、
製薬会社が医局員の人数分の、
お弁当を用意してくれるのです。
それを食べてから、
多くの医局員は研究に入ります。

僕はその時「弁当隊長」でした。
製薬会社の担当者と、
予め話し合い、日程を決めると共に、
お弁当の数と種類とを相談するのです。
僕はお弁当の選択がうまいと、
医局員には概ね好評でした。

その日のお弁当が何であったかは、
さすがにもう忘れてしまいましたが、
その日説明された薬の名前はメモが残っています。
薬の名前は「モダシン」。
これは当時発売したばかりの、
注射で使う抗生物質でした。

説明会が終わってから、
僕は病棟に行って、
入院されている患者さんの診察に廻りました。
特に重症の患者さんはなく、
病棟はのんびりとした雰囲気の中にありました。

そののんびりとした雰囲気が、
ちょっと不謹慎な提案に繋がります。
僕が後輩の医局員に声を掛け、
その後輩がナースステーションにいた、
非番の看護婦さん2人に声を掛けて、
4人で街に飲みに行こうという話になりました。
(わざわざ説明するまでもありませんが、
この当時は看護師という名称はありませんでした)

多くの医局員が研究室で遺伝子を抽出したり、
ネズミの息の根を止めたり、培養液を調整したりしている時間に、
僕達4人はこっそり、しかし堂々と、
病院の外に出ました。

蒸し暑い薄曇りの日だったような記憶がありますが、
これは記憶違いだったかも知れません。
でも、雨は降ってはいませんでした。

大学病院からゆっくりと20分程歩くと、
裏町という飲食街に出ます。
そこにある民家風の居酒屋に入り、
2時間ほどそこにいてから、
ほろ酔い気分で外に出ました。
時間はもう11時を廻っていたと思います。

翌日も仕事ですから、それほど遅くなる訳にも行きません。
途中まで病院の方向に向かって、
4人で歩きました。
後輩は1人の看護婦さんのことが好きであるのは、
何となく分かりました。
相手の看護婦さんも、満更ではない様子でした。

それで自然と、その2人が離れる格好になり、
もう1人の看護婦さんと僕とが一緒になりました。
彼女は僕より確か2歳くらい年上で、
まだ独身でした。
背が低く、ちょこちょこと、
ちょっとペンギンみたいな歩き方をします。

そのペンギンの家は松本城の方向で、
僕も何となく途中まで後に続きました。

歩くには心地良い深夜でした。
僕は別にペンギン歩きの彼女と、
付き合っていた訳ではありませんでしたし、
別に彼女の家まで付いて行くつもりもありませんでした。
ただ、道は次第に暗く狭くなって行きましたし、
彼女も「もうここでいいわ」とも言いませんでした。
それで何となく2人は歩き続けたのです。

ある四つ辻に来たところで、
彼女は不意に立ち止まり、
「怖いわ」とポツリと言いました。
「どうしたの?」と僕が言うと、
「あそこで今何か動いたの」
と言って、暗い路地の向こうを指差します。
路地は殆ど闇の中に沈んでいて、
何も僕には不審なものは見えません。

僕も何となく不安な気分になりましたが、
ほろ酔いの気楽さもあって、
先に立って路地を進みました。

結局道には何も不審なものはなく、
そこから少し進んだ場所で、
僕はペンギン歩きの彼女と別れ、
松本城を経由して自分の蔵に帰り、
すぐに泥のような眠りに就きました。

その翌日、1つのニュースが流れました。

原因不明の毒ガスにより、前夜松本市内で7名の死者が出たのです。

その毒ガスの発生地点は、ペンギン歩きの彼女の家の、
すぐ傍だったのです。
勿論彼女は無事でしたが、
後少し時間が遅ければ、
僕も彼女も、事件に遭遇していたかも知れないタイミングでした。

その後ペンギン歩きの彼女とは何度も話はしましたが、
その夜のことには触れませんでした。
ですから、彼女がその夜一体何を見て、
何に怯えたのか、
それが事件と関係のあることだったのかなかったのか、
それも今でも不明のままです。

後に「松本サリン事件」と呼ばれる事件の、
当日のパーソナルな出来事でした。

それではそろそろ出掛けます。

皆さんは良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

20歳に死ぬということ [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は休みで、
朝から鮫洲の試験場に免許の更新に行きました。
これからは家でのんびりするつもりです。

今日はちょっと僕の昔話を聞いて下さい。

今放送されている、
「ラブシャッフル」というドラマには、
「私、20歳の誕生日に死ぬわ」
と話す少女が登場しますが、
実は昔僕は同じセリフを実際に聞いたことがあります。

それは大学2年の春のことで、
彼女は同級生の色白の少女でした。

演劇に入れ込んでいた僕は、
春の定期公演のチケットを、
たまたま講義の控え室で会った、
それまで殆ど話したこともなかった彼女に売り、
その日は公演の最終日でした。
そして、2時間目からの授業に間に合うように、
まだ1時間目の授業中に控え室に入ると、
そこに1人だけいたのが彼女でした。

僕が入るのとほぼ同時に、
ジェラルミンの煤けた机の前に座っていた彼女は、
すっと僕の方を見上げました。
そして、「重役出勤ね」、
と自分の方から僕に声を掛けたのです。
窓から差し込む午前中の白い日差しが、
彼女の右の頬の肌を、
普段より白い輝きに染めていました。
それがちょっと尋常ではない色に思えて、
僕は何となく背中が粟立つのを感じたのです。

「Rさんはどうして?」
僕が言うと、彼女は一瞬当惑したような表情を浮かべてから、
あまり自然とは言えない笑顔を見せ、
「○○学はいつも出ないと決めているの」
と、何か意味あり気に言葉を継ぎました。
「でも、わたしは計算してるから大丈夫だけど、
石原君はまずいんじゃないの」
「うん。まずい」
「今のペースじゃ留年するわよ」
そう、演劇の公演の一ヶ月前くらいには、
殆ど講義に姿を見せなくなる、
僕は極め付きの不真面目な生徒でした。

僕が何も言わないでいると、
彼女はもう一度、
料理下手な女の子が、
ヴァレンタインに無理矢理作った、
チョコレートのような笑顔を見せました。

「まだ時間があるから、ちょっとそこに座って」
と、自分の隣のイスを顎でしゃくります。
僕が腰を掛ける時に、
ちらと彼女の目の前に広げられた大学ノートを見ると、
そこには無地のページの中に、
一本の木の絵だけが、
大きく描かれていました。

何か悪いものを見てしまったように思って、
すぐに目を逸らすと、
彼女は逆にその絵を、
ぐいと僕の方へと差出しました。
「好きな木の絵を描きなさい、ってテストがあるでしょ」
「ああ。何となく聞いたことはある」
「バウムテストって言うの。
私の描いた絵はこれ。
木の幹が細くて、
下の地面が描いてないでしょ」
「うん」
「心を病んでる証拠なのよ」

僕は何と答えていいのか分からず、
思わず彼女の顔を見ました。
と、彼女はすぐに話題を変え、
「昨日石原君のお芝居に行ったわ」
と言いました。
「どうでした?」
「変な感じが石原君に合ってて良かったわ」
演目は鴻上尚史の「デ・ジャヴ」。
僕はETというかき回し役の、
コメディリリーフでの出演でした。
「Help Me!と叫ぶのはどんな気持ち?」
「えっ」
僕は再び絶句しました。
確かにその戯曲の中で、
空から落下傘で登場する僕は、
いきなり英語で「Help Me!」と叫びます。
でも、それは一種のギャグです。
役作りの上で演じるような場面ではありません。

「どうってこともないけど」
漸く僕がこう言うと、彼女はちょっと目を細めて、
「あれを聞いてとても羨ましかったの。
私も助けてって、大声で叫びたいわ」
と言葉を継ぎました。

本来はここまで言われれば、
僕の方がもっと彼女に、
その理由を問いただしても良い所です。
でも、極め付きの鈍感でもあった僕は、
そのまま黙って彼女の次の言葉を待ちました。

妙に緊張感のある静寂が辺りに満ちて、
それから彼女は窓の方に目を移しながら、
ぽつりと、
「私、今度の日曜日に20歳になるの。
その日に死ぬと決めているの」
と言ったのです。

そのある意味衝撃的な一言が、
僕には何故か「今日のお昼何処へ行く?」、
と言ったやり取りと同じくらい、
自然なもののように聞こえました。
ただ、ある種舞台に上がったような非現実感があって、
同時に僕の腹は決まったような気もしたのです。

「でも、どうして」
「じゃ、どうして生きていないといけないの」
「20歳じゃ早過ぎる」
「じゃ、何歳なら死んでもいいの?
しわしわのおばあちゃんになったら、
許してくれた訳?」
「僕が決めることじゃない」
不意にそこで間が空いて、
それで僕は失言をしたのが分かりました。
「分かってないのね」
「これからいいことがあるかも知れない」
「ないかも知れないわ」
「何か遣り残したことはないの?」
「ないわ」
今から考えると馬鹿げたことですが、
その言葉を発した彼女の薄く小さな口元が、
僕に次の一言を言わせたのです。

「セックスしたことは?」
「…ないわ」
「じゃ、死ぬ前に僕が君とセックスをするよ」
「嘘」
「嘘じゃないさ。日曜日に君の家に行くよ。
君の決意がどうしても変わらないのなら、
僕はそれ以上は何も言わない。
でも、処女で死ぬのは詰まらないじゃないか」
僕がこう言うと、
彼女は僕を吟味するかのように目を細めました。
「私、汚れてるのよ」
そして、こう言葉を継ぎます。
「どういう意味?」
「○○学の教室に、今時々遊びに行ってるの。
テニス部の先輩が助教授でね、
その誘いで行って研究を手伝ったりして。
一昨日の夜、帰りに先輩が送ってくれることになって、
駐車場の暗がりでね、
急にキスをされたの」
「キスだけ?」
「ええ」
「なら…」
「でも信じられなかったの。先生なのよ。奥さんもいるのに。
こんなことが有り得るなんて、
信じられない気がしたの。不潔だわ」
「でも、僕は今キスじゃなくて、
セックスをしよう、と言ったんだよ。
何で僕には怒らないの?」
「それは…」
彼女は間合いを取って僕を見つめ、
「石原君のことは好きだから」
と何かを搾り出すように口にしたのです。

彼女が本当に死にたい原因が何なのか、
僕にはよく分かりませんでした。
でも僕がその時に言ったことには嘘はありません。
彼女は自分のノートの1ページに、
自分の借りているアパートの地図を描いて、
そのページを破ると僕に渡しました。
時間は夜の7時と決め、
それまでは死なないと彼女も約束しました。
もう少し話をしたかったのですが、
その時1時間目の講義は終わって、
他のクラスメートがどやどやと入って来たので、
話はそれきりになりました。

そして、その3日後の日曜日のことです。
馬鹿な僕は昼から銭湯に行き、
それから夕方には精力を付けようと、
生卵を3個飲みました。
携帯電話など勿論なかった頃で、
事前の連絡は取れません。

春にしては寒い日の夜は、
6時半にはとっぷりと暮れて、
薄曇りの空は墨を流したような暗さです。
15分前には家を出て、
畑の中の道を、
地図を見ながら進みました。
バックの中には1冊の戯曲を入れました。
寺山修司の「地球空洞説」。
そこに収められている「盲人書簡上海編」の、
1シーンを、彼女と演じてみたいという思いが、
僕にはあったのです。
本当に馬鹿ですね。
そして妙にロマンチストでもあったのです。

松本清張に「たづたづし」という短編があります。
一種の夜這いの話なのですが、
それを読む度にあの時の畑の中の、
曲がりくねった道のことを思い出します。
途中で家並みは途切れ、
一応舗装はされているのですが、
畑の中をたった1人で進んでいくのです。
辺りはほぼ真の闇です。
遠くに頼りなげな灯りが見えて、
それを目標に歩くのですが、
近寄って見ると、
家ではなくただの外灯だったりもするのです。

それでも漸く彼女のアパートに着きました。
普通のやや大きめの2階家で、
1階はどうやら管理人さんの自宅で、
2階が彼女の借りている部屋のようです。
外付けの階段を昇り、
ブザーを押すと、
しばらくして彼女が出て来ました。

見るとたたきには、
明らかに彼女のものとは違う、
2足の靴が置かれています。

何となく嫌な気分になりながら奥に入ると、
彼女のご両親と思しき中年の夫婦が、
揃って僕の方を見上げました。
「石原君が来てくれたんだから、
もういいから早く帰って」
と、彼女はきつくご両親に言います。
気の弱そうなご両親は、僕に向かって何度も頭を下げ、
「娘をよろしく」と言って帰って行きました。

それから僕達は、
六畳間の座卓に向かい合って座りました。
「今日死ぬことをご両親に言ったの?」
と僕が言うと、
「そう。来なくていいと言うのにわざわざ来たのよ」
と苛立ったように言います。

それから僕達がどんな話をしたのかは、
今ではあまり覚えていません。
ただ、僕がこうして来た時点で、
彼女にはもう死ぬ気はなくなったのだ、
ということは分かりました。
お芝居の1シーンを演じようと提案すると、
彼女は即座に否定しました。
彼女が生きているのはあくまでリアルな世界で、
僕の方が幻想を抱いてこの場所にいるのだ、
ということが何となく分かって来ました。
そのうちにゆっくりと夜は明け、
彼女の死の機会は失われました。

セックスの話は、
僕の方からも彼女の方からも切り出されず、
僕はただお茶を飲んで話をしただけで、
翌朝彼女の家を辞したのです。

それから何度か、僕達は逢いました。
ただ、人と付き合うということが、
どういう意味を持つことかにまだ無自覚であった僕は、
彼女の思いに応えることが出来ませんでした。
彼女を思う気持ちが、
僕になかった訳ではありません。
でも、彼女の死を救った、という自己満足の方が、
より大きかったのだ、という気がします。
何度目かの出逢いの時に、
僕達は衝突し、
それから現在に至るまで、
僕と彼女は2人だけで逢ったことはありません。
大学卒業とともに、
彼女は大学を離れ、僕は大学に残ったので、
偶然出逢うような機会も失われました。
彼女は僕に失望し、深く傷付いたのだと思います。

彼女に「20歳の死」を宣告された時、
本当はどうすれば良かったのか、
と今でも悩むことがあります。
受け止めるという心からの気持ちがなければ、
行くべきではなかったのかも知れません。

これは僕にとっての永遠の宿題の1つです。

ええと、今日の記事はフィクションとしてお読み下さい。
でも、この世に誰1人として、
自分で死んでいい人間は決していません。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
- | 次の10件 フィクション ブログトップ