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癌保険と思い出せない顔の話 [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

診療所は今日から15日まで休診になります。

でも、今日はいつもと同じ時間に起き、
これから、在宅医療の研修に出掛ける予定です。

数日前、
診療所に掛かっている若い女性から、
ある日急に電話が掛かって来る、
という夢を見ました。

その電話の内容というのが不思議なもので、
彼女は国産の宇宙ステーションに乗り込んでいたのですが、
隊員の衣服の洗濯をしていたところ、
ハッチを閉じ忘れて洗濯物ごと、
宇宙空間に投げ出されてしまった、
というのです。
「もう診療所には行けないわ。御免なさい」
と、それが最後の言葉でした。

宇宙空間に投げ出された筈なのに、
電話が掛かってくるのですから、
訳が分かりません。

目が覚めてから、
その人の顔が何故かどうしても思い出せず、
どうしてなのだろうと思っていたら、
昨日本人が外来を受診されました。
当たり前のことですが、
別に宇宙空間の放浪者になっていた訳ではなかったのです。
ああそうか、こんな顔だったな、
とその時にしっかり確認した筈なのに、
今日になってみると、
もうすっかり忘れています。
思い出そうとしても、
どうしても思い出せません。

不思議ですね。

それも、完全に思い出せないというのとは違っていて、
彼女の顔を思い出そうとすると、
何故か別の女性の顔がそこにだぶるのです。
そのだぶる女性というのが、
これがまたその女性とは全然何の関係もなく、
決して似ているという訳でもないので、
尚更不思議です。

だぶって思い出す女性というのは、
僕のところに来た保険の勧誘員です。
数年前に僕に関係のある人の伝手で、
診療所を訪れ、
何度か診察室で話をしました。
本社勤務でまだ20代の若さでした。

ちょっと変わった人で、
あまり熱心にセールストークをしません。
まだ十代の頃にお母さんを癌で亡くしていて、
その時に明らかに手術ミスであったのに、
大病院の医者に嘘を塗り固めたような説明をされ、
強い憤りを感じたけれど、
まだ子供でどうすることも出来なかった、
というような話を、
診療が終わった後の夜の診察室で、
何処か遠くを見るような目付きをしながら、
淡々と話し続けるのです。
「医者って本当に汚いですよね」
というのが話の締め括りで、
そこだけは僕の方を真正面から見詰めてそう言われると、
僕自身がその病院の医者のような気分になって、
白衣なんてその場で脱ぎ捨てて、
このまま何処かへ走って逃げてしまおう、
というような思いにさせられるのでした。

そんな話を聞かされた上で、
「癌保険」の勧誘なのですから、
どう対応したらよいものか、
混乱してしまいます。
そもそも、10代で母親を医療ミスで失い、
医療不信を強く持っていて、
何故医療保険の勧誘の仕事などをしているのでしょうか。
これは僕の偏見かも知れませんが、
保険の世界というのは、
純粋な気持ちだけで仕事の出来る世界ではなさそうです。
却って母親の死の記憶が、
嫌な形で甦ったりはしないかと、
そんな余計なお世話の心配までしてしまいます。

その女性は3回僕の元を訪れ、
僕は結局言われるままにその保険に入りました。
健康診断のために新宿の高層ビルの中にある健診室に行き、
その帰りに彼女に会うと、
「まさか、入ってくれるとは思いませんでした」
と言われたので、
結局僕のことを1つも分かってはくれなかったのだな、
とちょっと切ない気分になりました。

彼女は本社勤務で、実際の担当は別の女性になったので、
僕はその後彼女には一度も会ってはいません。

その彼女の顔が、
何故どうしても思い出せない、
患者さんの顔にだぶるのでしょうか?

僕の頭の顔の記憶の整理棚の中で、
何故かその2つの顔が、
非常に間違い易い位置に存在しているとしか、
僕には考えることが出来ません。

僕はその患者さんに幸せになって欲しいと、
それは本当に心の底からそう思っていて、
しかし、現実はそうはなっていません。
僕に何か出来ることはないかと煩悶しつつ、
それがおこがましいことのように感じることもあります。
結局は全ては時間が解決してくれるしかないのかな、
という無力感に囚われることもあります。

いずれは彼女は診療所には来なくなる筈で、
来なくなる状態の方が、
彼女にとって良いことであるのも間違いのないことです。
診療所というのは、結局はそうした場所だからです。
そして、彼女が診療所に来なくなって初めて、
僕は実際に見るより鮮やかに、
彼女の顔を思い出すようになるのかも知れません。

そろそろ時間なので、
出掛けることにしますね。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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midori

私は,毎週通っているクリニックの主治医の顔が,ふだんどうしても思い出せません.
いつも軽い驚きとともに「あぁ,そうだった」と思いながら挨拶します.
他の人はすぐ思い浮かぶし,似顔絵も得意なのに.
ヘンですね.記憶のシステムは謎ばかりです.
by midori (2010-01-11 17:40) 

fujiki

midori さんへ
コメントありがとうございます。

そうですね。
多分、そういうものなのだと思います。
by fujiki (2010-01-11 18:05) 

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