「はじまりへの旅」 [映画]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日2本目の記事は映画の話題です。
それがこちら。
俳優として著名なマット・ロスが脚本と監督を勤め、
「指輪物語」のビゴ・モーテンセンが主役を演じた、
感動的なロード・ムービー、
「はじまりへの旅」を観て来ました。
これは本当に素晴らしい映画で、
今年観た映画の中では最も心を揺さぶられました。
「森で暮らす風変りな一家が旅に出たことから起こる騒動を描いた、
心温まるコメディ・ドラマ」
というような宣伝文句になっていて、
ポスターも上のようなほのぼのした感じを漂わせたものなので、
そうした薄味のコメディ映画を想像されて、
あまり映画館に足を運ぼう、
という気分にならないかも知れません。
僕も正直そうでした。
ただ、その割には映倫区分はPG12になっています。
何故ほのぼのした家族のコメディ映画が、
PG12なのでしょうか?
観るとすぐにその理由は分かります。
この映画はそんな生易しいものではないのです。
登場する一家のあり様は尋常ではありませんし、
展開されるドラマも尋常なものではありません。
それでいて作り物ではないリアルさがそこにあって、
僕達が当たり前と感じていた生活を、
根底から揺さぶるような刃が潜んでいます。
更には、その世界に一旦馴染んでしまうと、
彼らのことが途方もなく愛しく思え、
ラストには溜まらない感動に、
胸が溢れそうな思いにとらわれるのです。
アカデミー賞に相応しい作品であるように思いますが、
それでいてこの作品が作品賞にノミネートされず、
高名な映画評論家の先生も、
奥歯に物が挟まったような批評しかしていない理由も、
また分かるような気がします。
この作品は人間と家族の真実を描いているのですが、
その真実というのは、
無難で平穏を第一に考えるような社会にとっては、
最悪の危険思想であるからです。
昔は社会変革を叫んでいながら、
今はテレビを見て文句を言う程度で、
平穏に生活を送っているような大人がこの映画を観れば、
何等かの胸騒ぎを絶対に感じると思いますし、
それが素直にこの映画を素晴らしいと、
言えない理由ではないかと思います。
たとえばケン・ローチの「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、
概ね評論家の皆さんは大絶賛で、
それはあの映画が思想の押し付けのようなもので、
ああした思想の押し付けは、
大衆の洗脳がお好きな皆さんには好ましいものだからです。
しかし、真実というのはもっと多面的で、
1つには割り切ることが出来ず、
もっと苦い後味のするものではないでしょうか?
地味な公開ですが結構お客さんは入っていて、
皆さん分かっているなあ、という感じがします。
以下、若干内容に踏み込みます。
後半のネタバレはしませんが、
なるべく鑑賞後にお読み下さい。
ビゴ・モーテンセン演じる主人公は、
革命主義者の過激派の活動家で、
同じく共鳴する活動家の女性と恋をして結婚。
彼女は大富豪の娘で弁護士のインテリなのですが、
そのキャリアを投げ打ち、
アメリカ北西部の森の中で、
おぞましい現代社会とは隔絶した暮らしをしています。
2人は6人の子供をもうけ、
自分たちで独自の教育を施していたのですが、
妻は双極性障害で6人目の子供を産んだ直後に病状が悪化。
手に負えなくなった主人公は、
結果的に拒否していた現代社会に頼り、
自分の姉の伝手で病院に入院させますが、
彼女は入院中に手首を切って自殺してしまいます。
彼女は異常としか思えないような遺言を残していたので、
それを達成するために、
主人公は6人の子供たちと共に、
数千キロ離れた妻の実家への旅に向かうのです。
このオープニングの段取りをお話しただけでも、
この作品がかなりとんでもない代物であることは、
お分かりが頂けるのではないかと思います。
更には2人の子育てが相当壮絶なもので、
いきなり鹿の首をナイフで掻き切って、
内臓を生で食い千切って、
それが大人になる儀式だと悦に入っていますし、
子供同士が本気での殺し合いのような戦闘訓練に興じています。
そこには子供を育てるということの崇高さと、
その恐ろしさのようなものが、
同時に描かれているような気がします。
物語はそれからかつてのアメリカン・ニューシネマを意識した、
ロードムービーの体裁で展開され、
葬式に殴り込むという、
「卒業」のような展開を経て、
母親の意志を汲んだ弔いの、
ちょっと壮絶なクライマックスへと至ります。
凡百の映画が10本束になっても敵わないような、
衝撃と感動とがそこに待っています。
この映画のマット・ロスはまさに天才で、
台本も演出もほぼ完璧と言って良いと思います。
ロードムービーですが探しているのは、
最初から死んでいることが分かっている女性です。
存在しない彼女の狂気が、
物語の原動力になっているという悲しさは、
おそらく今の社会の持つ喪失感そのものの投影なのです。
父親に狂気を見て、家族から離脱を図る少年を、
1人おいているという趣向も上手いと思います。
その残酷さを含めて、
監督は子供というものを本当に良く知っていると思います。
何にせよ、絶対に今観るべき1本、
としか言えない傑作です。
是非是非騙されたと思って劇場に足をお運びください。
期待は多分裏切られないと思います。
観終わって、何か素直に感動出来ないモヤモヤを感じたとすれば、
それはあなたの心の中にあって、
あなたが封印していた何かが、
目覚めようとしているからなのです。
最後に一点だけ不満は、
僕が観た新宿ピカデリーの4番シアターで、
あの劇場はシネスコをそのまま映す大きさがスクリーンになく、
上下が切れたシネスコになっています。
あの劇場は酷いと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日2本目の記事は映画の話題です。
それがこちら。
俳優として著名なマット・ロスが脚本と監督を勤め、
「指輪物語」のビゴ・モーテンセンが主役を演じた、
感動的なロード・ムービー、
「はじまりへの旅」を観て来ました。
これは本当に素晴らしい映画で、
今年観た映画の中では最も心を揺さぶられました。
「森で暮らす風変りな一家が旅に出たことから起こる騒動を描いた、
心温まるコメディ・ドラマ」
というような宣伝文句になっていて、
ポスターも上のようなほのぼのした感じを漂わせたものなので、
そうした薄味のコメディ映画を想像されて、
あまり映画館に足を運ぼう、
という気分にならないかも知れません。
僕も正直そうでした。
ただ、その割には映倫区分はPG12になっています。
何故ほのぼのした家族のコメディ映画が、
PG12なのでしょうか?
観るとすぐにその理由は分かります。
この映画はそんな生易しいものではないのです。
登場する一家のあり様は尋常ではありませんし、
展開されるドラマも尋常なものではありません。
それでいて作り物ではないリアルさがそこにあって、
僕達が当たり前と感じていた生活を、
根底から揺さぶるような刃が潜んでいます。
更には、その世界に一旦馴染んでしまうと、
彼らのことが途方もなく愛しく思え、
ラストには溜まらない感動に、
胸が溢れそうな思いにとらわれるのです。
アカデミー賞に相応しい作品であるように思いますが、
それでいてこの作品が作品賞にノミネートされず、
高名な映画評論家の先生も、
奥歯に物が挟まったような批評しかしていない理由も、
また分かるような気がします。
この作品は人間と家族の真実を描いているのですが、
その真実というのは、
無難で平穏を第一に考えるような社会にとっては、
最悪の危険思想であるからです。
昔は社会変革を叫んでいながら、
今はテレビを見て文句を言う程度で、
平穏に生活を送っているような大人がこの映画を観れば、
何等かの胸騒ぎを絶対に感じると思いますし、
それが素直にこの映画を素晴らしいと、
言えない理由ではないかと思います。
たとえばケン・ローチの「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、
概ね評論家の皆さんは大絶賛で、
それはあの映画が思想の押し付けのようなもので、
ああした思想の押し付けは、
大衆の洗脳がお好きな皆さんには好ましいものだからです。
しかし、真実というのはもっと多面的で、
1つには割り切ることが出来ず、
もっと苦い後味のするものではないでしょうか?
地味な公開ですが結構お客さんは入っていて、
皆さん分かっているなあ、という感じがします。
以下、若干内容に踏み込みます。
後半のネタバレはしませんが、
なるべく鑑賞後にお読み下さい。
ビゴ・モーテンセン演じる主人公は、
革命主義者の過激派の活動家で、
同じく共鳴する活動家の女性と恋をして結婚。
彼女は大富豪の娘で弁護士のインテリなのですが、
そのキャリアを投げ打ち、
アメリカ北西部の森の中で、
おぞましい現代社会とは隔絶した暮らしをしています。
2人は6人の子供をもうけ、
自分たちで独自の教育を施していたのですが、
妻は双極性障害で6人目の子供を産んだ直後に病状が悪化。
手に負えなくなった主人公は、
結果的に拒否していた現代社会に頼り、
自分の姉の伝手で病院に入院させますが、
彼女は入院中に手首を切って自殺してしまいます。
彼女は異常としか思えないような遺言を残していたので、
それを達成するために、
主人公は6人の子供たちと共に、
数千キロ離れた妻の実家への旅に向かうのです。
このオープニングの段取りをお話しただけでも、
この作品がかなりとんでもない代物であることは、
お分かりが頂けるのではないかと思います。
更には2人の子育てが相当壮絶なもので、
いきなり鹿の首をナイフで掻き切って、
内臓を生で食い千切って、
それが大人になる儀式だと悦に入っていますし、
子供同士が本気での殺し合いのような戦闘訓練に興じています。
そこには子供を育てるということの崇高さと、
その恐ろしさのようなものが、
同時に描かれているような気がします。
物語はそれからかつてのアメリカン・ニューシネマを意識した、
ロードムービーの体裁で展開され、
葬式に殴り込むという、
「卒業」のような展開を経て、
母親の意志を汲んだ弔いの、
ちょっと壮絶なクライマックスへと至ります。
凡百の映画が10本束になっても敵わないような、
衝撃と感動とがそこに待っています。
この映画のマット・ロスはまさに天才で、
台本も演出もほぼ完璧と言って良いと思います。
ロードムービーですが探しているのは、
最初から死んでいることが分かっている女性です。
存在しない彼女の狂気が、
物語の原動力になっているという悲しさは、
おそらく今の社会の持つ喪失感そのものの投影なのです。
父親に狂気を見て、家族から離脱を図る少年を、
1人おいているという趣向も上手いと思います。
その残酷さを含めて、
監督は子供というものを本当に良く知っていると思います。
何にせよ、絶対に今観るべき1本、
としか言えない傑作です。
是非是非騙されたと思って劇場に足をお運びください。
期待は多分裏切られないと思います。
観終わって、何か素直に感動出来ないモヤモヤを感じたとすれば、
それはあなたの心の中にあって、
あなたが封印していた何かが、
目覚めようとしているからなのです。
最後に一点だけ不満は、
僕が観た新宿ピカデリーの4番シアターで、
あの劇場はシネスコをそのまま映す大きさがスクリーンになく、
上下が切れたシネスコになっています。
あの劇場は酷いと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
ナタリー・デセイ&フィリップ・カサール デュオ・リサイタル(2017年都民劇場公演) [コロラトゥーラ]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日は声楽が1つと映画が1本です。
最初がこちら。
ナタリー・デセイ様がピアニストのカサールさんと、
2014年に続いてデュオ・リサイタルに来日されました。
4月12日が都民劇場のリサイタル、
それから1日福岡での公演があって、
今週の19日にはもう1回、
新宿のオペラシティでの公演があります。
デセイ様は僕にとっては絶対の藝術神で、
永遠の女神です。
2004年に日本で最初のリサイタルを開き、
東京でのその2回の公演に2回とも足を運びました。
このリサイタルは本当に本当に素晴らしくて、
聴き終わった後はしばらく呆然としていて、
公演は9月にあったのですが、
その年の終わりくらいまでは、
デセイ様のこと以外は殆ど考えられない状態でした。
彼女が目の前で僕のために1曲歌ってくれたら、
その場で咽喉を掻き切って死んでも構わないと、
本当にそのくらいに思いました。
その直後に体調不良で舞台を降板し、
休養に入ったというニュースを聞いた時などは、
フランスまで飛んで行って看病したいような思いにとらわれました。
翌年にメトロポリタン・オペラの「ロミオとジュリエット」で復帰、
というニュースが流れた時は、
真面目にアメリカまで聴きに行くことを考えました。
デセイ様の絶頂期は1998年から2002年くらいまでだと思いますが、
その時にどうして真の藝術を求めて、
何故ヨーロッパやアメリカに足を運ばなかったのかと、
それなしで空しく生きていても何の喜びがあろうかと、
そんなことを毎日悔いるような日々が続きました。
次の来日は2007年のことで、
日本でのデセイ様の人気は、
この時がピークであったと思います。
オペラシティのコンサートホールで、
3日間のリサイタルが行われ、
3日ともほぼ満席でした。
こんなことはあまりソプラノ歌手ではないことでした。
ただ、この時のデセイ様の調子はあまり良くなくて、
咽喉が何度も引っかかるように声が途切れ、
高音もあまり出ず、
ピアニシモの持続も困難でした。
3日のうち1日くらいはいいだろうと思い、
3日とも聴きに行きましたが、
結果としては3日とも同じ状態でした。
次の来日は何とオペラで、
2010年に「椿姫」の舞台に3回立ちました。
これも勿論全日程に足を運びました。
これはこれで素晴らしい舞台でしたが、
デセイ様にベルカントはあまり似合わないと、
そんな思いは抜けませんでした。
出来はまあまあというレベルだったと思います。
それから2012年にマリインスキー管弦楽団の演奏会に参加し、
「ルチア」のタイトルロールを演奏会形式で全幕歌いました。
この公演は1回きりでしたが、
素晴らしいもので、
奇跡的に声は持続され、
いつもの声帯のエンストのような引っかかりもありませんでした。
全盛期のような超高音はありませんでしたが、
歌い回しには間違いのない天才が宿っていました。
デセイ様の「ルチア」にようやく間に合い、
本当に幸せでした。
しかし、真の代表作であった、
「ラクメ」や「ハムレット」には間に合いませんでした。
その翌年の秋にデセイ様はオペラを引退しました。
そして、2014年にはカサールさんと歌曲主体のリサイタルに来日しました。
この公演はプログラムは意欲的なものでしたが、
デセイ様の声は絶不調で、
まともに歌えた曲は、
正直2回の公演で通算しても1曲もない惨状に終わりました。
絶えず声は突っかかって途切れ、
ピアニシモは持続せず、
高音もまるで出ないという無残な状態でした。
そして、今回同じカサールさんとのリサイタルで、
デセイ様は来日されました。
僕は正直あまり期待はせずに劇場に足を運びました。
それでも、彼女が出て来る直前には、
思春期のようにドキドキしましたし、
第一声を発する直前には心臓が止まりました。
4月12日の公演は2014年とはくらべものにならない良い出来で、
まだデセイ様は終わっていない、
という思いに胸が熱くなりました。
歌の技術自体は矢張り全盛期の完璧さとは程遠いのですが、
歌い回しにはかつての軽快さがかなり復活していて、
何より歌芝居のような、
情感を込めた歌い回しが魅力です。
一時期ベルカントにレパートリーを広げて、
無理に重い歌い回しをしていたのですが、
今回のリサイタルで、
初期の軽やかなコロラトゥーラの華やかさが、
戻っていたことをうれしく思いました。
後半は少し咽喉の調子が悪くなってきて、
エンスト気味の声の引っかかりも増えてしまいましたが、
それでも歌のフォルムはそう崩れることなく、
最後まで持続はされていました。
アンコールのシュトラウスで、
ちょっと当てるという感じの軽い出し方でしたが、
最近は出さない超高音を1回出していて、
19日にはもう少し踏ん張ってくれるかな、
とその点はとても楽しみです。
改めて思いますが、
たとえばグノーの「ファウスト」の宝石の歌を、
このように軽やかかつドラマチックに歌えるコロラトゥーラは、
デセイ様の他にはいません。
もう1日4月19日に公演があります。
今度は絶不調ということもないとは言えないので、
生物の舞台は予測は不能ですが、
12日と同じ調子でしたら、
間違いなく素晴らしい体験になることは確実なので、
ご興味のある方は是非足をお運び下さい。
僕も勿論駆けつけます。
フライングの拍手だけはしないでくださいね。
それでは映画の記事に移ります。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日は声楽が1つと映画が1本です。
最初がこちら。
ナタリー・デセイ様がピアニストのカサールさんと、
2014年に続いてデュオ・リサイタルに来日されました。
4月12日が都民劇場のリサイタル、
それから1日福岡での公演があって、
今週の19日にはもう1回、
新宿のオペラシティでの公演があります。
デセイ様は僕にとっては絶対の藝術神で、
永遠の女神です。
2004年に日本で最初のリサイタルを開き、
東京でのその2回の公演に2回とも足を運びました。
このリサイタルは本当に本当に素晴らしくて、
聴き終わった後はしばらく呆然としていて、
公演は9月にあったのですが、
その年の終わりくらいまでは、
デセイ様のこと以外は殆ど考えられない状態でした。
彼女が目の前で僕のために1曲歌ってくれたら、
その場で咽喉を掻き切って死んでも構わないと、
本当にそのくらいに思いました。
その直後に体調不良で舞台を降板し、
休養に入ったというニュースを聞いた時などは、
フランスまで飛んで行って看病したいような思いにとらわれました。
翌年にメトロポリタン・オペラの「ロミオとジュリエット」で復帰、
というニュースが流れた時は、
真面目にアメリカまで聴きに行くことを考えました。
デセイ様の絶頂期は1998年から2002年くらいまでだと思いますが、
その時にどうして真の藝術を求めて、
何故ヨーロッパやアメリカに足を運ばなかったのかと、
それなしで空しく生きていても何の喜びがあろうかと、
そんなことを毎日悔いるような日々が続きました。
次の来日は2007年のことで、
日本でのデセイ様の人気は、
この時がピークであったと思います。
オペラシティのコンサートホールで、
3日間のリサイタルが行われ、
3日ともほぼ満席でした。
こんなことはあまりソプラノ歌手ではないことでした。
ただ、この時のデセイ様の調子はあまり良くなくて、
咽喉が何度も引っかかるように声が途切れ、
高音もあまり出ず、
ピアニシモの持続も困難でした。
3日のうち1日くらいはいいだろうと思い、
3日とも聴きに行きましたが、
結果としては3日とも同じ状態でした。
次の来日は何とオペラで、
2010年に「椿姫」の舞台に3回立ちました。
これも勿論全日程に足を運びました。
これはこれで素晴らしい舞台でしたが、
デセイ様にベルカントはあまり似合わないと、
そんな思いは抜けませんでした。
出来はまあまあというレベルだったと思います。
それから2012年にマリインスキー管弦楽団の演奏会に参加し、
「ルチア」のタイトルロールを演奏会形式で全幕歌いました。
この公演は1回きりでしたが、
素晴らしいもので、
奇跡的に声は持続され、
いつもの声帯のエンストのような引っかかりもありませんでした。
全盛期のような超高音はありませんでしたが、
歌い回しには間違いのない天才が宿っていました。
デセイ様の「ルチア」にようやく間に合い、
本当に幸せでした。
しかし、真の代表作であった、
「ラクメ」や「ハムレット」には間に合いませんでした。
その翌年の秋にデセイ様はオペラを引退しました。
そして、2014年にはカサールさんと歌曲主体のリサイタルに来日しました。
この公演はプログラムは意欲的なものでしたが、
デセイ様の声は絶不調で、
まともに歌えた曲は、
正直2回の公演で通算しても1曲もない惨状に終わりました。
絶えず声は突っかかって途切れ、
ピアニシモは持続せず、
高音もまるで出ないという無残な状態でした。
そして、今回同じカサールさんとのリサイタルで、
デセイ様は来日されました。
僕は正直あまり期待はせずに劇場に足を運びました。
それでも、彼女が出て来る直前には、
思春期のようにドキドキしましたし、
第一声を発する直前には心臓が止まりました。
4月12日の公演は2014年とはくらべものにならない良い出来で、
まだデセイ様は終わっていない、
という思いに胸が熱くなりました。
歌の技術自体は矢張り全盛期の完璧さとは程遠いのですが、
歌い回しにはかつての軽快さがかなり復活していて、
何より歌芝居のような、
情感を込めた歌い回しが魅力です。
一時期ベルカントにレパートリーを広げて、
無理に重い歌い回しをしていたのですが、
今回のリサイタルで、
初期の軽やかなコロラトゥーラの華やかさが、
戻っていたことをうれしく思いました。
後半は少し咽喉の調子が悪くなってきて、
エンスト気味の声の引っかかりも増えてしまいましたが、
それでも歌のフォルムはそう崩れることなく、
最後まで持続はされていました。
アンコールのシュトラウスで、
ちょっと当てるという感じの軽い出し方でしたが、
最近は出さない超高音を1回出していて、
19日にはもう少し踏ん張ってくれるかな、
とその点はとても楽しみです。
改めて思いますが、
たとえばグノーの「ファウスト」の宝石の歌を、
このように軽やかかつドラマチックに歌えるコロラトゥーラは、
デセイ様の他にはいません。
もう1日4月19日に公演があります。
今度は絶不調ということもないとは言えないので、
生物の舞台は予測は不能ですが、
12日と同じ調子でしたら、
間違いなく素晴らしい体験になることは確実なので、
ご興味のある方は是非足をお運び下さい。
僕も勿論駆けつけます。
フライングの拍手だけはしないでくださいね。
それでは映画の記事に移ります。