「流浪の月」(李相日監督映画版) [映画]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
凪良ゆうさんによるベストセラー小説で、
本屋大賞受賞作でもある「流浪の月」が、
「悪人」などの李相日監督により映画化され今公開中です。
世間からは、
ロリコン男と監禁された被害者の少女、
というレッテルを張られた2人が、
絶望的に強く惹かれ合うという物語で、
原作は愛や恋や血縁という結びつきではない、
それでいて強く惹かれ合う2人の、
新しい関係性を描いた作品ですが、
映画版は矢張り2人の結びつきは「愛」である、
というニュアンスの強いものになっています。
これはまあ、結構好みの分かれる映画だと思います。
昔の東欧やロシアの映画に近いようなタッチなんですね。
僕が一番似ているなと思ったのはタルコフスキーで、
執拗に登場する流れる水の表現とか、
草や光の感じ、
ラス前で母親と息子が対峙するところなど、
「鏡」を強く想起させるような感じがありました。
ただ、タルコフスキーの神秘主義はないんですね。
あるのは徹底した象徴主義。
李さんの映画を全て観ている訳ではないのですが、
「悪人」と比べると「怒り」という映画は、
かなり象徴性が強くなっている表現ですよね。
今回の映画はそれが更に強くなっているという印象で、
台詞や説明は最小限度に切り詰められ、
2人の主人公の間にあるものとその心理の揺れを、
徹底して映像化することに力が注がれている作品です。
僕はタルコフスキーは大好きなので、
この映画もとても好きです。
原作を読んでから映画を観たのですが、
この作品は意図的に省略が多いので、
原作を先に読むことをお勧めします。
そうでないと、意味が分からないところが多いと思います。
たとえば、半ばくらいのところで、
急に広瀬すずさん演じる主人公が、
松坂桃李さん演じる青年の隣に住んでいるんですね。
これは原作では恋人から暴力を受けて、
職場の友人に相談して、
夜逃げ屋を頼んで密かに引っ越しをするんですね。
それでなるべく見つからない場所をと思って引っ越し先を探すのですが、
松坂さんのマンションの隣の部屋が空いているのを、
不動産屋さんで見つけてしまうと、
もうどうにも止められなくなって、
これじゃDV男にバレると理性では分かっていながら、
衝動的に部屋を借りてしまうんですね。
それで最初は松坂さんに隠れるようにして暮らしているのですが、
これも衝動的に様子を窺いたくなって、
それであの映画のベランダのシーンになるのです。
その説明を全て、
映画はバッサリ切っているんですね。
多分撮影はしていた可能性はあるのですが、
編集段階では全て切ってしまっているのです。
それから柄本明さんが、
アンティークショップの主人として出て来るのですが、
1シーンだけの出演で、
何故出演しているのか意味不明なんですね。
これは原作では松坂さんが店を閉めて、
ビルも予定通りで取り壊しになり、
主人公2人もその地を離れるというところで、
3人で話をするところがあるんですね。
その場面のために柄本明さんの役はある、
と言ってもいいくらいなのですが、
その場面をまたバッサリ切っているんですね。
多分これは撮影されたのだと思うのですね。
そうでないと柄本さんをキャスティングはしない、
というように思うからです。
でも、監督は後半を主人公2人だけの場面で、
構成したくなったのだと思うんですね。
それでその場面をカットしたのだと思うのですが、
柄本さんの場面を残さない訳にはいかないので、
前半のみを残して、
それが結果として不自然な登場となってしまったのだと思います。
そんな訳でこの映画は、
2人の主人公の10年以上の間隔を置いた2回の逃避行を、
徹底して象徴的に描くことのために、
ストーリーの流れや辻褄など多くの部分を犠牲にして成り立っている、
かなり特異な作品で、
その分観客を選ぶようなところがあるのですが、
それをしっかり吞み込んだ上でスクリーンに対峙すれば、
その象徴的な表現の純度は非常に高く、
特に中段暴行を受けた広瀬さんが松本の街を彷徨い、
子供返りして松坂さんの元を訪れると、
それが子供の時の最初の出逢いと、
同じ構図になって現れるところや、
ラストの生死の狭間を潜り抜けるような、
道行にも似た旅立ちの場面の流麗さは、
タルコフスキー作品にも引けを取らない映画表現に、
昇華していたように思います。
役者は広瀬さんの体当たり的な演技も、
最早円熟の芸に達したような松坂さんの受けのみの芝居も素晴らしく、
趣里さんも良い仕事をしていたと思います。
横浜流星さんは正直損な役回りで、
キャスティングする側の悪意のようなものを少し感じました。
この役は他の役者さんでも良かったのではないかしら、
正直そんな風に感じました。
数日で一生を駆け抜けるような、
絶望的で燃え尽きるような愛、
2人以外の全ては敵で、
ひたすら愛し合うしか術はない、
みたいな映画が僕はとても好きで、
「ドクトル・ジバゴ」がそうでしょ。
「リービング・ラスベガス」もそんな映画だったですよね。
この作品は原作はハッピーエンドで、
映画版もそれを匂わせてはいるんですが、
基本的にはこうした「燃え尽き系」の作品ですよね。
それもね、最も官能的な瞬間が、
唇に付いたケチャップを拭うだけの行為なんですよね。
それがね、何か物凄く切ないですよね。
原作にも同じ表現はあるのですが、
ハッピーエンドですし、
そんなにそのこと自体が切なくはないのですね。
でも映画は切ないよね。
この青年の心の中の最大の高揚と官能が、
その些細な瞬間にしかないというところがね、
とても悲しくて切なくて、
それでいてとても愛おしく感じるのです。
そんな訳で、
一生心に残るような映画と思う人がいる一方、
何だこりゃ、ダラダラした描写が続くだけで、
訳も分からんし眠くなったぞ、
という人も沢山いるだろう映画なので、
これは合うな、と思う方のみ映画館に足をお運びください。
多分原作は先に読まないとストーリーは良く分かりません。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
凪良ゆうさんによるベストセラー小説で、
本屋大賞受賞作でもある「流浪の月」が、
「悪人」などの李相日監督により映画化され今公開中です。
世間からは、
ロリコン男と監禁された被害者の少女、
というレッテルを張られた2人が、
絶望的に強く惹かれ合うという物語で、
原作は愛や恋や血縁という結びつきではない、
それでいて強く惹かれ合う2人の、
新しい関係性を描いた作品ですが、
映画版は矢張り2人の結びつきは「愛」である、
というニュアンスの強いものになっています。
これはまあ、結構好みの分かれる映画だと思います。
昔の東欧やロシアの映画に近いようなタッチなんですね。
僕が一番似ているなと思ったのはタルコフスキーで、
執拗に登場する流れる水の表現とか、
草や光の感じ、
ラス前で母親と息子が対峙するところなど、
「鏡」を強く想起させるような感じがありました。
ただ、タルコフスキーの神秘主義はないんですね。
あるのは徹底した象徴主義。
李さんの映画を全て観ている訳ではないのですが、
「悪人」と比べると「怒り」という映画は、
かなり象徴性が強くなっている表現ですよね。
今回の映画はそれが更に強くなっているという印象で、
台詞や説明は最小限度に切り詰められ、
2人の主人公の間にあるものとその心理の揺れを、
徹底して映像化することに力が注がれている作品です。
僕はタルコフスキーは大好きなので、
この映画もとても好きです。
原作を読んでから映画を観たのですが、
この作品は意図的に省略が多いので、
原作を先に読むことをお勧めします。
そうでないと、意味が分からないところが多いと思います。
たとえば、半ばくらいのところで、
急に広瀬すずさん演じる主人公が、
松坂桃李さん演じる青年の隣に住んでいるんですね。
これは原作では恋人から暴力を受けて、
職場の友人に相談して、
夜逃げ屋を頼んで密かに引っ越しをするんですね。
それでなるべく見つからない場所をと思って引っ越し先を探すのですが、
松坂さんのマンションの隣の部屋が空いているのを、
不動産屋さんで見つけてしまうと、
もうどうにも止められなくなって、
これじゃDV男にバレると理性では分かっていながら、
衝動的に部屋を借りてしまうんですね。
それで最初は松坂さんに隠れるようにして暮らしているのですが、
これも衝動的に様子を窺いたくなって、
それであの映画のベランダのシーンになるのです。
その説明を全て、
映画はバッサリ切っているんですね。
多分撮影はしていた可能性はあるのですが、
編集段階では全て切ってしまっているのです。
それから柄本明さんが、
アンティークショップの主人として出て来るのですが、
1シーンだけの出演で、
何故出演しているのか意味不明なんですね。
これは原作では松坂さんが店を閉めて、
ビルも予定通りで取り壊しになり、
主人公2人もその地を離れるというところで、
3人で話をするところがあるんですね。
その場面のために柄本明さんの役はある、
と言ってもいいくらいなのですが、
その場面をまたバッサリ切っているんですね。
多分これは撮影されたのだと思うのですね。
そうでないと柄本さんをキャスティングはしない、
というように思うからです。
でも、監督は後半を主人公2人だけの場面で、
構成したくなったのだと思うんですね。
それでその場面をカットしたのだと思うのですが、
柄本さんの場面を残さない訳にはいかないので、
前半のみを残して、
それが結果として不自然な登場となってしまったのだと思います。
そんな訳でこの映画は、
2人の主人公の10年以上の間隔を置いた2回の逃避行を、
徹底して象徴的に描くことのために、
ストーリーの流れや辻褄など多くの部分を犠牲にして成り立っている、
かなり特異な作品で、
その分観客を選ぶようなところがあるのですが、
それをしっかり吞み込んだ上でスクリーンに対峙すれば、
その象徴的な表現の純度は非常に高く、
特に中段暴行を受けた広瀬さんが松本の街を彷徨い、
子供返りして松坂さんの元を訪れると、
それが子供の時の最初の出逢いと、
同じ構図になって現れるところや、
ラストの生死の狭間を潜り抜けるような、
道行にも似た旅立ちの場面の流麗さは、
タルコフスキー作品にも引けを取らない映画表現に、
昇華していたように思います。
役者は広瀬さんの体当たり的な演技も、
最早円熟の芸に達したような松坂さんの受けのみの芝居も素晴らしく、
趣里さんも良い仕事をしていたと思います。
横浜流星さんは正直損な役回りで、
キャスティングする側の悪意のようなものを少し感じました。
この役は他の役者さんでも良かったのではないかしら、
正直そんな風に感じました。
数日で一生を駆け抜けるような、
絶望的で燃え尽きるような愛、
2人以外の全ては敵で、
ひたすら愛し合うしか術はない、
みたいな映画が僕はとても好きで、
「ドクトル・ジバゴ」がそうでしょ。
「リービング・ラスベガス」もそんな映画だったですよね。
この作品は原作はハッピーエンドで、
映画版もそれを匂わせてはいるんですが、
基本的にはこうした「燃え尽き系」の作品ですよね。
それもね、最も官能的な瞬間が、
唇に付いたケチャップを拭うだけの行為なんですよね。
それがね、何か物凄く切ないですよね。
原作にも同じ表現はあるのですが、
ハッピーエンドですし、
そんなにそのこと自体が切なくはないのですね。
でも映画は切ないよね。
この青年の心の中の最大の高揚と官能が、
その些細な瞬間にしかないというところがね、
とても悲しくて切なくて、
それでいてとても愛おしく感じるのです。
そんな訳で、
一生心に残るような映画と思う人がいる一方、
何だこりゃ、ダラダラした描写が続くだけで、
訳も分からんし眠くなったぞ、
という人も沢山いるだろう映画なので、
これは合うな、と思う方のみ映画館に足をお運びください。
多分原作は先に読まないとストーリーは良く分かりません。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。