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市川崑「犬神家の一族」あれこれ [映画]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は祝日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
犬神家の一族.jpg
角川映画の第一作、
1976年の市川崑監督、
石坂浩二が金田一耕介を演じた、
横溝正史原作のミステリー映画、
「犬神家の一族」の公開時のパンフレットの表紙です。

この映画は中学校の時に、
同級生の友達数人と見に行きました。
水戸の映画館の前で待ち合わせをしたのですが、
女の子の2人組が来るのが遅れ、
結果的に始まって15分くらいは、
見ることが出来ませんでした。
映画館に入った時には、
珠代さんのボートに穴が開いて沈みそうになって、
というところまで話は進んでいました。

最初の部分を観たのは、
その後テレビで放送された時でした。

見た直後の皆の感想は、
「何だかなあ」というものでした。
女の子の感想は、
「あんまり怖くなかったね」
というものでした。

この映画では前半で地井武男さんが殺されて、
首を切られるのですが、
その首の作り物が、
「あらあら」という出来なのに、
それを見た金田一耕介が、
極めて大仰なリアクションで驚くので、
その場面でガッカリしてしまうのです。

ただ、当初から、個人的には強く印象には残りました。

その後テレビで放送された時に何度か見て、
その時は非常に楽しかったですし、
何か不思議と何度も繰り返し見たくなる、
ある種の魔力のようなものが、
この作品にはあることを感じました。
実際、ビデオに録画して、それを流しながら勉強すると、
結構捗るので、
大学で試験の前などは、
エンドレスで一時はこの映画を流していました。
(勿論いつもではありませんでしたが…)

僕にとっては、
一種のカルトムービーだったのです。

この映画の新しさは、
おそらく日本最初の、
ミステリー小説のほぼ忠実な映像化であったことです。

この映画以前にも、
ミステリーを原作とする映画は多くありましたし、
横溝正史の作品自体、
何度も映像化されています。
しかし、それは原作を大きくリライトしたもので、
原作の伏線やトリックを、
そのまま活かしたものではありませんでした。

これは通常は当たり前のことで、
映像と小説とは、
基本的に構成が違うので、
そのまま映像化しようとしても、
通常は無理があるのです。

この映画は初めて小説の構成をそのままに、
その映像化に成功しています。

そのために、多くの技巧と工夫とが、
この作品には凝らされています。

その多くは自身ミステリーファンでもある、
市川監督のこだわりによるものです。

まず、作品の選定ですが、
横溝正史の作品のうち、
「犬神家の一族」は、
必ずしも有名なものではなく、
そのミステリーとしての出来栄えも、
「獄門島」や「本陣殺人事件」、
「八つ墓村」といった諸作からは、
少し見劣りのするものです。

この作品は富豪の死が引き金になり、
異常な遺言が発表され、
生死の不明な相続人の存在が鍵になり、
3つの見立て殺人が行なわれるなど、
「獄門島」と似通った構成を取っていますが、
正直「獄門島」よりミステリーとしての密度は、
かなり劣ります。
ただ、「獄門島」ほど複雑な筋立てになると、
そのまま映画にすることは、
不可能ではないものの、
かなり無理があるのです。

実際「獄門島」は何度も映像化はされていますが、
原作の忠実な映像化は一度もされていません。
最近は放送禁止用語の問題もあって、
根幹になる設定すら、
変えられて無残な姿を曝しています。
市川監督自身、シリーズの3作目は「獄門島」でしたが、
犯人を一部変えるという、
思い切った改変をしています。

その一方でこの「犬神家の一族」は、
トリックは端的に言えばたった1つで、
それも結構視覚的なものなのです。

この点で映画の作り手の選択眼は、
非常に確かなものと言えると思います。

ミステリーの映像化で、
一番の問題になるのは、
最初の人物紹介の煩わしさと、
犯人が指摘された後で、
探偵が絵解きを長々とする場面の、
映像的な処理です。

その市川監督の解決法は、
人物紹介に関しては、
映像的な技巧を駆使して、
短時間でコラージュ風に紹介することで、
解決しています。
役者陣が実力派揃い、ということもありますが、
映像マジックと呼んで良い完成度で、
この部分は何度見ても、
僕は楽しめます。

ラストの絵解きについては、
これは腹を括って、
省略なく長時間の絵解きを行なっています。

ただ、犯人と重要人物とが、
その絵解きの場で初めて直接出会い、
感動的な語らいをする、
という趣向を盛り込んで、
ドラマとしてはその部分をクライマックスにする、
という構成を用意しているのです。

内容的にはほぼほぼ原作通りなのですが、
最後の殺人については少し設定が改変されています。
これは原作もこの部分がかなり強引なのですね。
「本当に実現可能だったのかしら」と思えるような部分があり、
それで映画版は設定を少し変え、
それがその後の映像化でも踏襲されているという側面があります。

映画館で見るとこの映画は、
細部の安っぽさや、なくもがなのギャクなどに、
かなりガッカリ感があって、
高い点は付けられない気分になるのですが、
ミステリーの映像化としては、
エポックメイキングなものであった事は確かで、
謎の人物がマスクを取る場面や、
その正体を現わす場面など、
忘れ難い場面も多く、
日本映画のカルトの1本だと思います。

その後市川監督自身によるリメイクを含めて、
多くの「犬神家の一族」と称する映画やドラマが作られていますが、
その志の高さとカルトとしての魅力において、
この映画以降の全ての映像化は蛇足に過ぎない、
と断言出来ます。

先日NHKでも前後編で3時間のドラマとして放映されましたが、
ほぼほぼ映画版と同じ部分が多くて、
その点は落ち着いて見ていたのですが、
最後に至って、実は真犯人に金田一耕助は騙されていた、
というどんでん返し(?)が付け加えられていて、
呆然とさせられました。

こんなことしちゃ駄目だよ。

やりたい気持ちは分かるのです。
金田一耕助の存在と推理、何か変だもんね。
解決も強引で納得しにくい点もあるんですよね。
でも、もしこれをやるなら、
「犬神家の一族」ではなく、新作にするべきでしょ。
それが作者への最低限のリスペクトではないでしょうか?
これは原作者が生きていたとしても、
憤りを感じたと思うんですね。
だって、
「あなたの書いた結末より面白い結末を思いついたので変えてみました。
この方が今風でいいでしょ」
と言われているようなものでしょ。
「そう思うなら自分で最初から書いてくれよ。
君のお話の方が今の時代に合っていて、
さぞかし面白いのだろうけれど、
僕の書いた話をそのまま使っておいて、
一旦その通りの結末をつけているのに、
最後だけ書き換えるのはフェアじゃないよ」
と思って当然ではないでしょうか?

結局今の視点で過去の作品を上から目線で批評し、
断罪しているんですね。
原作には復讐に取り憑かれた人物が登場しますが、
それを今回の映像化では愛に飢えた人物に書き換えていますよね。
要するに昔の人は悪い考えを持っていて、
悪い時代であったけれど、
今はそうじゃないよ、と言いたいのですね。
今はそれが流行りなので仕方がないのですが、
横溝正史でそんなことはしないで欲しい、
というのが個人的な強い思いでした。

今日は僕の好きな映画の話でした。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い連休をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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