山本澄人「を待ちながら」(演出飴屋法水) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
今年芥川賞を取った山下澄人さんが、
ベケットをモチーフにした新作戯曲を書き、
飴屋法水さんが演出した舞台が、
本日までアゴラ劇場で上演されています。
例によって娘のくるみさんも出演して、
いつものように飴屋さんの1人がなり、
みたいな場面もありますから、
山下さんと飴屋さんの共同創作、
というようなニュアンスが強いように思います。
結果として昨年の本谷有希子さんと、
芥川賞作家の受賞第一作の戯曲を、
飴屋さんが演出するという企画が、
続いているということになっています。
なかなか凄みのある芝居で、
別に「ゴドーを待ちながら」が、
そのまま使われている訳ではないのに、
これまでの多くの「ゴド待ち」より、
遥かにベケットの本質が表現されているように、
個人的には感じました。
その即物的な残酷さとシュールさ、
絶望を突き抜けたところから来る笑いと、
生と死が無常に向き合うような気分、
日本の情緒とは、
明らかに異質な何かが立ち上がって来る感じがして、
とても刺激的な体験でした。
後半はちょっと退屈さも感じましたし、
ラストが詩の朗読で終わるのは、
何か如何にもありきたりで落胆しましたが、
前半はともかく圧倒的でした。
唐先生や別役実の初期戯曲に、
非常に似通った即物的で出鱈目なシュールさを感じましたが、
それは要するに唐先生も別役実も、
ベケットに影響されていた、
と言うことかも知れません。
以下少しネタバレがあります。
これから鑑賞予定の方は、
必ず鑑賞後にお読みください。
アゴラ劇場のいつもの出入り口は一切使用せず、
いつもは役者が使用する通路のみが、
今回の舞台では観客の導線になっています。
観客はいつもは外付けの階段から2階の劇場に入るのですが、
今回は1階の楽屋を通り、
そこから出演者用の階段を上って、
2階の劇場に入ります。
劇場はほぼ素舞台となっていて、
窓やドアは上演前には全て開放されています。
そして、中央にはベッドがあって、
実際に半身麻痺で透析をしている役者さんが、
そこに横になっています。
その寝たきりの男の娘がくるみさんで、
2人が生活している小さな世界に、
不意に異形の乱入者が、
次々と入って来ます。
山本澄人さん自身が、
身体から楽器を沢山ぶら下げた、
実際には小人ではない小人を演じ、
そのパートナーとして、
言葉を自発的には殆ど話さない、
黒づくめの男を飴屋さんが演じます。
飴屋さんの登場は、
フェンシングのマスクを被り、
そのマスクの中で大量の爆竹を発火させる、
という仰天するような荒業で、
観客の度肝を抜きます。
3人目として登場するのは佐久間麻由さんで、
何と全身血まみれで口からも血を吐きながら、
一輪車に乗った赤いランドセルの少女として登場します。
彼女はおばあさんの運転する乗用車に轢かれたのですが、
死んだことを認められずに現れ、
その身体から長い臓物がくるみさんによって引き出されます。
山下さんと飴屋さんのコンビは、
「ゴドーを待ちながら」のゴドーを待つ2人のようですし、
動かない寝たきりの男は、
「しあわせな日々」の地中に埋もれた女を彷彿とさせます。
また、寝たきりの主人公の存在は、
固定された椅子に座って、
舞台を観るしかない観客という存在を、
意味しているようにも思われます。
「観客」という視点から見た奇妙で残酷な世界を、
この作品は表現し、
そして観客である主人公は、
最後に立ち上がりその世界を出て行きます。
後半はやや内省的な感じになり、
最後は詩を朗読して終わるという構成は、
予定調和的で物足りなさも感じましたが、
今見られるとは思えなかったようなアングラ芝居で、
さすが飴屋法水、さすが山下澄人というところを、
見せつけた素敵な舞台でした。
佐久間麻由さんの一輪車を駆使した怪演も、
今年の演技賞(個人的な)は決定的な凄まじさだったと思います。
凄い芝居でした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
今年芥川賞を取った山下澄人さんが、
ベケットをモチーフにした新作戯曲を書き、
飴屋法水さんが演出した舞台が、
本日までアゴラ劇場で上演されています。
例によって娘のくるみさんも出演して、
いつものように飴屋さんの1人がなり、
みたいな場面もありますから、
山下さんと飴屋さんの共同創作、
というようなニュアンスが強いように思います。
結果として昨年の本谷有希子さんと、
芥川賞作家の受賞第一作の戯曲を、
飴屋さんが演出するという企画が、
続いているということになっています。
なかなか凄みのある芝居で、
別に「ゴドーを待ちながら」が、
そのまま使われている訳ではないのに、
これまでの多くの「ゴド待ち」より、
遥かにベケットの本質が表現されているように、
個人的には感じました。
その即物的な残酷さとシュールさ、
絶望を突き抜けたところから来る笑いと、
生と死が無常に向き合うような気分、
日本の情緒とは、
明らかに異質な何かが立ち上がって来る感じがして、
とても刺激的な体験でした。
後半はちょっと退屈さも感じましたし、
ラストが詩の朗読で終わるのは、
何か如何にもありきたりで落胆しましたが、
前半はともかく圧倒的でした。
唐先生や別役実の初期戯曲に、
非常に似通った即物的で出鱈目なシュールさを感じましたが、
それは要するに唐先生も別役実も、
ベケットに影響されていた、
と言うことかも知れません。
以下少しネタバレがあります。
これから鑑賞予定の方は、
必ず鑑賞後にお読みください。
アゴラ劇場のいつもの出入り口は一切使用せず、
いつもは役者が使用する通路のみが、
今回の舞台では観客の導線になっています。
観客はいつもは外付けの階段から2階の劇場に入るのですが、
今回は1階の楽屋を通り、
そこから出演者用の階段を上って、
2階の劇場に入ります。
劇場はほぼ素舞台となっていて、
窓やドアは上演前には全て開放されています。
そして、中央にはベッドがあって、
実際に半身麻痺で透析をしている役者さんが、
そこに横になっています。
その寝たきりの男の娘がくるみさんで、
2人が生活している小さな世界に、
不意に異形の乱入者が、
次々と入って来ます。
山本澄人さん自身が、
身体から楽器を沢山ぶら下げた、
実際には小人ではない小人を演じ、
そのパートナーとして、
言葉を自発的には殆ど話さない、
黒づくめの男を飴屋さんが演じます。
飴屋さんの登場は、
フェンシングのマスクを被り、
そのマスクの中で大量の爆竹を発火させる、
という仰天するような荒業で、
観客の度肝を抜きます。
3人目として登場するのは佐久間麻由さんで、
何と全身血まみれで口からも血を吐きながら、
一輪車に乗った赤いランドセルの少女として登場します。
彼女はおばあさんの運転する乗用車に轢かれたのですが、
死んだことを認められずに現れ、
その身体から長い臓物がくるみさんによって引き出されます。
山下さんと飴屋さんのコンビは、
「ゴドーを待ちながら」のゴドーを待つ2人のようですし、
動かない寝たきりの男は、
「しあわせな日々」の地中に埋もれた女を彷彿とさせます。
また、寝たきりの主人公の存在は、
固定された椅子に座って、
舞台を観るしかない観客という存在を、
意味しているようにも思われます。
「観客」という視点から見た奇妙で残酷な世界を、
この作品は表現し、
そして観客である主人公は、
最後に立ち上がりその世界を出て行きます。
後半はやや内省的な感じになり、
最後は詩を朗読して終わるという構成は、
予定調和的で物足りなさも感じましたが、
今見られるとは思えなかったようなアングラ芝居で、
さすが飴屋法水、さすが山下澄人というところを、
見せつけた素敵な舞台でした。
佐久間麻由さんの一輪車を駆使した怪演も、
今年の演技賞(個人的な)は決定的な凄まじさだったと思います。
凄い芝居でした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。