柴幸男「わたしが悲しくないのはあなたが遠いから」(フェスティバル/トーキョー17) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日2本目の記事も演劇の話題です。
それがこちら。
ままごとの柴幸男さんが、
今年のフェスティバル/トーキョー17の一環として、
東京芸術劇場の地下の隣り合った2つの小劇場で、
同時に一連の作品を上演する、
という興味深い企画を行っています。
上演は本日までの予定です。
ままごとは何と言っても「わが星」が素晴らしく、
小演劇史上に燦然と輝く大傑作で、
今年リクリエートされた「わたしの星」も、
感動的な傑作で感銘を受けましたので、
これはままごとの作品は全て傑作なのではないかしら、
と思って今回も急遽観ることにしました。
企画も興味深くて、
震災のような、
その場にいない人にとっては「遠くにある悲劇」をテーマに、
観客は同時には観ることが出来ない、
隣り合った2つの劇場で、
同じモチーフの芝居を同時に上演し、
それが所々でリンクする、
というこれまでにない発想の公演です。
僕はイースト版を最初に観て、
それから別の日にウエスト版を観ました。
率直な感想は、
「今回は準備不足」というもので、
無理して両方行くこともなかった、
というのが正直なところでした。
また練り上げての上演を期待したいな、
というように思う一方で、
この発想はもっと別の形で活かすべきで、
今回は失敗と捉えた方が良いのでは、
というようにも感じました。
当たり前のことかも知れませんが、
ままごともいつも面白い、
という訳ではなかったようです。
以下ネタバレを含む感想です。
上演は本日までですので、
本日観劇予定の方は、
終了後にお読み下さい。
東京芸術劇場の地下には、
隣り合ったほぼ同じ大きさの劇場が2つ並んでいて、
一方がシアターイーストでもう一方がシアターウエストです。
両方とも小さな箱の割には、
無機的な感じがして、
新国立劇場の小劇場と同じように、
客席と舞台が一体感を持つことが、
難しいような印象をいつも持っています。
この劇場で観た芝居は、
概ね地味で面白くない、ということが多いのです。
今回は同時上演ということで、
2つの劇場の入り口に、
仮説の空港の入場ゲートのようなものが、
設けられています。
イーストウイングとウエストウイング、
ということのようです。
それはそれで良いのですが、
安っぽいベニヤの工作みたいなセットなので、
ちょっとガッカリします。
両方の劇場ともシンプルなセットで、
1時間15分程度の3幕に分かれた、
ほぼ同一のストーリーが展開されます。
ただ、演出は両者で異なっていて、
シンプルなセットも、
イースト版は背景がスクリーンになっていて、
映像を映すという趣向の一方で、
ウエスト版は客席に前後から挟み込まれた、
中央の横長ステージになっていて、
そのため横移動が多く、映像は使われません。
イーストでは東子(トーコ)さんという女性が主人公で、
ウエストでは西子(セイコ)さんという女性が主人公となり、
東子さんは標準語を話し、
西子さんは関西弁です。
どちらの設定でも、
生まれた時から自分の隣に、
合わせ鏡のような女の子がいて、
その子との距離が、
次第に離れて行く、
という趣向になっています。
そして相手の側に次々と悲劇が起こり、
それは震災であったり、テロであったりします。
主人公はそれを否定しようとしたり、
過去にさかのぼってそれを止めようとしたり、
遠くで起こったことだからと無関心を装ったりもするのですが、
そのどれでもない別の答えを探して、
生まれることを繰り返す、
という物語です。
戯曲はかなり観念的で、
言葉で説明する部分が多く、
児童劇的なスタイルを取ったり、
お説教じみた部分も多いのが、
個人的にはかなり退屈でした。
言わんとすることが良く分かりますし、
遠い世界で起こった悲劇にどう向き合うべきか、
というのは、極めて今日的なテーマであると思います。
如何にも柴さんらしい、
純粋で真っ直ぐな考え方だなあ、という風には思います。
同感もします。
ただ、それをそのまま芝居にするのは、
あまり効果的なことではないように感じました。
どちらかと言えば、
トークショーで観客と語り合ったり、
テレビ番組にしたり、
講演会のテーマにする方が合っているようなテーマです。
要するに演劇にはテーマ自体があまり向いていないし、
咀嚼をされていないし、演劇化されていないように感じたのです。
素の舞台でダブダブの衣装を着た女優さんに、
「その時遠くの世界で海が燃えました」
みたいなことを言われて、
それで何を感じないといけないのでしょうか?
悪く言えばとても独りよがりな世界を感じました。
劇場の横にドアがあって、
そこを開くとその向こうにもう1つの劇場がある、
という趣向なのですが、
実際には別に2つの劇場を直線的に繋ぐ道はないので、
音を飛ばしてそれらしく見せているだけです。
当日の話題などを幕間で役者さんが通路越しに話し合って、
「ほら、つながってるでしょ」みたいなことをするのですが、
それがどうした、というくらいにしか感じませんし、
観客に呼びかけて、客いじりをするようなことに、
あまり慣れている役者さん達ではないので、
とても反応が良いとは言えない観客相手に、
空しく呼びかけ進行するのも何か白々しい感じです。
「そちらは順調に進んでいますか?」
「順調です」
「良かった。こっちも順調です」
みたいなことを何度かやるのですが、
順調であることを確認してどうするのでしょうか?
見えない世界で悲劇が起こっている、
というお芝居なのですから、
順調でなくならないと、
やる意味がないのではないでしょうか?
実際に劇中で何度か東西の役者さんが入れ替わって登場するのですが、
それがとても効果的、ということもありませんでした。
柴さんの演出はいつも感心して観ていたのですが、
今回は台湾のスタッフが音楽と衣装を担当していて、
それも作品世界にマッチしていないように感じました。
ダブダブの色気の欠片もないような抽象的な衣装は、
とてもつまらなく舞台の単調さを増していましたし、
いつもなら音楽はとても舞台に合っていて、
クライマックスでは情緒的な盛り上がりを見せるのですが、
今回は予め作曲された音楽を、
「使わなければいけなかった」ということのようで、
音楽が舞台の流れを消すという、
嫌な感じになっていました。
音楽を舞台に合わせてつけ直すだけでも、
作品の印象はかなり変わるのではないかと思います。
長い紙を広げて波を表現したりするのも、
野田秀樹演出と似すぎていて興ざめでした。
総じて練り上げが不足していて、
中途半端な舞台でした。
せっかくの面白い企画であり上演だったと思うので、
こうした結果になったことは非常に残念に感じました。
勿論これは個人的な感想ですので、
面白いとお感じになった方もいるかと思います。
色々な感想があるということで、
ご容赦を頂ければ幸いです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日2本目の記事も演劇の話題です。
それがこちら。
ままごとの柴幸男さんが、
今年のフェスティバル/トーキョー17の一環として、
東京芸術劇場の地下の隣り合った2つの小劇場で、
同時に一連の作品を上演する、
という興味深い企画を行っています。
上演は本日までの予定です。
ままごとは何と言っても「わが星」が素晴らしく、
小演劇史上に燦然と輝く大傑作で、
今年リクリエートされた「わたしの星」も、
感動的な傑作で感銘を受けましたので、
これはままごとの作品は全て傑作なのではないかしら、
と思って今回も急遽観ることにしました。
企画も興味深くて、
震災のような、
その場にいない人にとっては「遠くにある悲劇」をテーマに、
観客は同時には観ることが出来ない、
隣り合った2つの劇場で、
同じモチーフの芝居を同時に上演し、
それが所々でリンクする、
というこれまでにない発想の公演です。
僕はイースト版を最初に観て、
それから別の日にウエスト版を観ました。
率直な感想は、
「今回は準備不足」というもので、
無理して両方行くこともなかった、
というのが正直なところでした。
また練り上げての上演を期待したいな、
というように思う一方で、
この発想はもっと別の形で活かすべきで、
今回は失敗と捉えた方が良いのでは、
というようにも感じました。
当たり前のことかも知れませんが、
ままごともいつも面白い、
という訳ではなかったようです。
以下ネタバレを含む感想です。
上演は本日までですので、
本日観劇予定の方は、
終了後にお読み下さい。
東京芸術劇場の地下には、
隣り合ったほぼ同じ大きさの劇場が2つ並んでいて、
一方がシアターイーストでもう一方がシアターウエストです。
両方とも小さな箱の割には、
無機的な感じがして、
新国立劇場の小劇場と同じように、
客席と舞台が一体感を持つことが、
難しいような印象をいつも持っています。
この劇場で観た芝居は、
概ね地味で面白くない、ということが多いのです。
今回は同時上演ということで、
2つの劇場の入り口に、
仮説の空港の入場ゲートのようなものが、
設けられています。
イーストウイングとウエストウイング、
ということのようです。
それはそれで良いのですが、
安っぽいベニヤの工作みたいなセットなので、
ちょっとガッカリします。
両方の劇場ともシンプルなセットで、
1時間15分程度の3幕に分かれた、
ほぼ同一のストーリーが展開されます。
ただ、演出は両者で異なっていて、
シンプルなセットも、
イースト版は背景がスクリーンになっていて、
映像を映すという趣向の一方で、
ウエスト版は客席に前後から挟み込まれた、
中央の横長ステージになっていて、
そのため横移動が多く、映像は使われません。
イーストでは東子(トーコ)さんという女性が主人公で、
ウエストでは西子(セイコ)さんという女性が主人公となり、
東子さんは標準語を話し、
西子さんは関西弁です。
どちらの設定でも、
生まれた時から自分の隣に、
合わせ鏡のような女の子がいて、
その子との距離が、
次第に離れて行く、
という趣向になっています。
そして相手の側に次々と悲劇が起こり、
それは震災であったり、テロであったりします。
主人公はそれを否定しようとしたり、
過去にさかのぼってそれを止めようとしたり、
遠くで起こったことだからと無関心を装ったりもするのですが、
そのどれでもない別の答えを探して、
生まれることを繰り返す、
という物語です。
戯曲はかなり観念的で、
言葉で説明する部分が多く、
児童劇的なスタイルを取ったり、
お説教じみた部分も多いのが、
個人的にはかなり退屈でした。
言わんとすることが良く分かりますし、
遠い世界で起こった悲劇にどう向き合うべきか、
というのは、極めて今日的なテーマであると思います。
如何にも柴さんらしい、
純粋で真っ直ぐな考え方だなあ、という風には思います。
同感もします。
ただ、それをそのまま芝居にするのは、
あまり効果的なことではないように感じました。
どちらかと言えば、
トークショーで観客と語り合ったり、
テレビ番組にしたり、
講演会のテーマにする方が合っているようなテーマです。
要するに演劇にはテーマ自体があまり向いていないし、
咀嚼をされていないし、演劇化されていないように感じたのです。
素の舞台でダブダブの衣装を着た女優さんに、
「その時遠くの世界で海が燃えました」
みたいなことを言われて、
それで何を感じないといけないのでしょうか?
悪く言えばとても独りよがりな世界を感じました。
劇場の横にドアがあって、
そこを開くとその向こうにもう1つの劇場がある、
という趣向なのですが、
実際には別に2つの劇場を直線的に繋ぐ道はないので、
音を飛ばしてそれらしく見せているだけです。
当日の話題などを幕間で役者さんが通路越しに話し合って、
「ほら、つながってるでしょ」みたいなことをするのですが、
それがどうした、というくらいにしか感じませんし、
観客に呼びかけて、客いじりをするようなことに、
あまり慣れている役者さん達ではないので、
とても反応が良いとは言えない観客相手に、
空しく呼びかけ進行するのも何か白々しい感じです。
「そちらは順調に進んでいますか?」
「順調です」
「良かった。こっちも順調です」
みたいなことを何度かやるのですが、
順調であることを確認してどうするのでしょうか?
見えない世界で悲劇が起こっている、
というお芝居なのですから、
順調でなくならないと、
やる意味がないのではないでしょうか?
実際に劇中で何度か東西の役者さんが入れ替わって登場するのですが、
それがとても効果的、ということもありませんでした。
柴さんの演出はいつも感心して観ていたのですが、
今回は台湾のスタッフが音楽と衣装を担当していて、
それも作品世界にマッチしていないように感じました。
ダブダブの色気の欠片もないような抽象的な衣装は、
とてもつまらなく舞台の単調さを増していましたし、
いつもなら音楽はとても舞台に合っていて、
クライマックスでは情緒的な盛り上がりを見せるのですが、
今回は予め作曲された音楽を、
「使わなければいけなかった」ということのようで、
音楽が舞台の流れを消すという、
嫌な感じになっていました。
音楽を舞台に合わせてつけ直すだけでも、
作品の印象はかなり変わるのではないかと思います。
長い紙を広げて波を表現したりするのも、
野田秀樹演出と似すぎていて興ざめでした。
総じて練り上げが不足していて、
中途半端な舞台でした。
せっかくの面白い企画であり上演だったと思うので、
こうした結果になったことは非常に残念に感じました。
勿論これは個人的な感想ですので、
面白いとお感じになった方もいるかと思います。
色々な感想があるということで、
ご容赦を頂ければ幸いです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
前川知大「関数ドミノ」(2017年寺十吾演出版) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
昨日は変な夢を見ました。
加藤浩次さんが、
朝の情報番組の傍ら弁護士をしている事務所で、
何故か僕はバイトをしているのですが、
そこで変なおじさんに、
悪徳政治家にパワハラをされていると弁護を頼まれ、
僕は素人なので加藤さんにお願いすると、
着手金は200万だけどお前ならまけてやる、と言われ、
お願いするのですが、
良く考えてみると自分が弁護を依頼している訳でもないのに、
何故僕がお金を出さなければいけないのだろう、
とはたとそのことに気づいて、
加藤さんに連絡を取るのですが繋がらない、
という夢です。
困りました。
今日は日曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
イキウメの前川知大さんが、
2005年にイキウメで初演し、
2009年と2014年に再演された「関数ドミノ」が、
今回ナベプロの主催で寺十吾さんの演出により再演されました。
キャストは若手中心ですが、
瀬戸康史さん、柄本時生さん、勝村政信さんと、
なかなかの曲者演技派が揃っています。
「関数ドミノ」は2009年版を初めて観て、
とても感銘を受けましたし、
かなり衝撃的でした。
内容も演出スタイルも、
新しい芝居だと興奮したのです。
それからイキウメのお芝居はほぼ全部観ていますが、
正直2009年の「関数ドミノ」を超えるものはないと感じています。
もちろん初物の新鮮さあってのことかも知れません。
2014年の再演もその意味でとても期待したのですが、
前川さんは前回の脚本に大きく手を入れていて、
演出も大幅に変えていたのですが、
それが個人的には「改悪」としか思えず、
最初から「違う違う、こんなんじゃ台無しじゃないか!」
と叫びだしたい気分になりました。
勿論元々前川さんが書かれたものですから、
僕が文句を言う筋合いはないのですが、
それでも2009年に観た時の新鮮な衝撃が、
汚されたように感じたのです。
これだけ大きく変更してしまうのなら、
全くの新作を書けば良いのに、
と正直を言えば思いました。
今回の企画上演では、
前川さん自身が2009年版を使用する、
とチラシにも書かれています。
それから寺十吾さんの前川作品の演出にも興味があり、
期待をして観に出掛けました。
観終わった後の感想としては、
この作品の持つ力を、
再認識させるような公演には充分なっていたと思います。
これはワンアイデアの作品なのですが、
ラストのある秘密が明らかになる瞬間の破壊力が素晴らしくて、
ほぼ予想の付くような筋書きではあるのですが、
単なるどんでん返しではなく、
今の世の中に生きる多くの人間が持っている病理のようなものを、
演劇的に露わに視覚化している、
という点が何より素晴らしいのです。
2009年版のラストで、
自分の人生が思い通りにならないことを、
全て他人のせいにしていた主人公が、
その拠り所を失って、
舞台上で途方に暮れる姿が非常に印象的でしたし、
「散歩する侵略者」のラストにも通底する感じがありました。
2014年版では話を複層的に複雑化していて、
原案のシンプルさが失われていたのが最低でした。
今回の寺十吾さんの演出では、
イキウメの舞台が、
いつもやや無機的でスタイリッシュな感じなのに対して、
ややレトロで昭和趣味のセットを作り、
舞台奥に壊れた半透明の車と、
風力発電のプロペラの列を配して、
それがラスト途方に暮れる主人公の背後に浮かび上がると、
ある種の「負の力」が世界に波及して破滅の引き金を引くような、
サイバーパンク的な終末観を演出して効果的でした。
これはただ、前川さんの戯曲の、
本来のラストの意味合いとは、
ちょっと違うようにも思いました。
何より真相が明らかになる場面を、
仰々しいくらいにメリハリを付けて盛り上げてくれましたし、
「ドミノ」の部屋の盗聴をする場面などは、
部屋を左右に置いて、
非常にわかりやすく演出していました。
寺十吾さんの演出意図は、
アングラ的素養をベースに置きながら、
戯曲の構造をわかりやすく提示することに重点を置き、
オープニングとラストにだけ、
戯曲の世界観にないものを付加する、
という構想で、
これは蜷川幸雄さんの演出に非常に近いものではないかと思いました。
多くの演出家が蜷川さんの仕事を、
引き継ぎ乗り越えるような試みを、
少しずつされていますが、
僕はアングラの素養を持ち、
それをスペクタクル化する技量をもっている、
という意味で、
寺十吾さんこそ、
蜷川幸雄に近い演出家ではないか、
という感じを今回持ちました。
イキウメは最近は個性的な役者さんも、
育って来てはいるのですが、
演技にはやや平坦な印象があり、
役柄にも無理を感じることも多いのですが、
今回はプロデュースとあって、
その役柄に違和感のないメンバーで固められていて、
作品世界にすんなりと入ることが出来ましたし、
皆なかなかの熱演でした。
主人公の瀬戸康史さんは、
最近病的な感じを少し出し過ぎかな、
というようには感じますが、
主役にふさわしい熱演でしたし、
勝村政信さんがさすがの風格で作品を締めてくれました。
持病を持って苦悩する山田悠介さんも、
とても良かったと思います。
そんな訳で当たり前のことですが、
戯曲が良く演出が良く役者が良ければ、
芝居が良くなるのは当たり前であることを、
改めて認識させてくれた上演で、
寺十吾さんにはこれからも、
小劇場の不幸に埋もれた名作の復活を、
是非お願いしたいと思います。
今日はもう1本演劇の話題が続きます。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
昨日は変な夢を見ました。
加藤浩次さんが、
朝の情報番組の傍ら弁護士をしている事務所で、
何故か僕はバイトをしているのですが、
そこで変なおじさんに、
悪徳政治家にパワハラをされていると弁護を頼まれ、
僕は素人なので加藤さんにお願いすると、
着手金は200万だけどお前ならまけてやる、と言われ、
お願いするのですが、
良く考えてみると自分が弁護を依頼している訳でもないのに、
何故僕がお金を出さなければいけないのだろう、
とはたとそのことに気づいて、
加藤さんに連絡を取るのですが繋がらない、
という夢です。
困りました。
今日は日曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
イキウメの前川知大さんが、
2005年にイキウメで初演し、
2009年と2014年に再演された「関数ドミノ」が、
今回ナベプロの主催で寺十吾さんの演出により再演されました。
キャストは若手中心ですが、
瀬戸康史さん、柄本時生さん、勝村政信さんと、
なかなかの曲者演技派が揃っています。
「関数ドミノ」は2009年版を初めて観て、
とても感銘を受けましたし、
かなり衝撃的でした。
内容も演出スタイルも、
新しい芝居だと興奮したのです。
それからイキウメのお芝居はほぼ全部観ていますが、
正直2009年の「関数ドミノ」を超えるものはないと感じています。
もちろん初物の新鮮さあってのことかも知れません。
2014年の再演もその意味でとても期待したのですが、
前川さんは前回の脚本に大きく手を入れていて、
演出も大幅に変えていたのですが、
それが個人的には「改悪」としか思えず、
最初から「違う違う、こんなんじゃ台無しじゃないか!」
と叫びだしたい気分になりました。
勿論元々前川さんが書かれたものですから、
僕が文句を言う筋合いはないのですが、
それでも2009年に観た時の新鮮な衝撃が、
汚されたように感じたのです。
これだけ大きく変更してしまうのなら、
全くの新作を書けば良いのに、
と正直を言えば思いました。
今回の企画上演では、
前川さん自身が2009年版を使用する、
とチラシにも書かれています。
それから寺十吾さんの前川作品の演出にも興味があり、
期待をして観に出掛けました。
観終わった後の感想としては、
この作品の持つ力を、
再認識させるような公演には充分なっていたと思います。
これはワンアイデアの作品なのですが、
ラストのある秘密が明らかになる瞬間の破壊力が素晴らしくて、
ほぼ予想の付くような筋書きではあるのですが、
単なるどんでん返しではなく、
今の世の中に生きる多くの人間が持っている病理のようなものを、
演劇的に露わに視覚化している、
という点が何より素晴らしいのです。
2009年版のラストで、
自分の人生が思い通りにならないことを、
全て他人のせいにしていた主人公が、
その拠り所を失って、
舞台上で途方に暮れる姿が非常に印象的でしたし、
「散歩する侵略者」のラストにも通底する感じがありました。
2014年版では話を複層的に複雑化していて、
原案のシンプルさが失われていたのが最低でした。
今回の寺十吾さんの演出では、
イキウメの舞台が、
いつもやや無機的でスタイリッシュな感じなのに対して、
ややレトロで昭和趣味のセットを作り、
舞台奥に壊れた半透明の車と、
風力発電のプロペラの列を配して、
それがラスト途方に暮れる主人公の背後に浮かび上がると、
ある種の「負の力」が世界に波及して破滅の引き金を引くような、
サイバーパンク的な終末観を演出して効果的でした。
これはただ、前川さんの戯曲の、
本来のラストの意味合いとは、
ちょっと違うようにも思いました。
何より真相が明らかになる場面を、
仰々しいくらいにメリハリを付けて盛り上げてくれましたし、
「ドミノ」の部屋の盗聴をする場面などは、
部屋を左右に置いて、
非常にわかりやすく演出していました。
寺十吾さんの演出意図は、
アングラ的素養をベースに置きながら、
戯曲の構造をわかりやすく提示することに重点を置き、
オープニングとラストにだけ、
戯曲の世界観にないものを付加する、
という構想で、
これは蜷川幸雄さんの演出に非常に近いものではないかと思いました。
多くの演出家が蜷川さんの仕事を、
引き継ぎ乗り越えるような試みを、
少しずつされていますが、
僕はアングラの素養を持ち、
それをスペクタクル化する技量をもっている、
という意味で、
寺十吾さんこそ、
蜷川幸雄に近い演出家ではないか、
という感じを今回持ちました。
イキウメは最近は個性的な役者さんも、
育って来てはいるのですが、
演技にはやや平坦な印象があり、
役柄にも無理を感じることも多いのですが、
今回はプロデュースとあって、
その役柄に違和感のないメンバーで固められていて、
作品世界にすんなりと入ることが出来ましたし、
皆なかなかの熱演でした。
主人公の瀬戸康史さんは、
最近病的な感じを少し出し過ぎかな、
というようには感じますが、
主役にふさわしい熱演でしたし、
勝村政信さんがさすがの風格で作品を締めてくれました。
持病を持って苦悩する山田悠介さんも、
とても良かったと思います。
そんな訳で当たり前のことですが、
戯曲が良く演出が良く役者が良ければ、
芝居が良くなるのは当たり前であることを、
改めて認識させてくれた上演で、
寺十吾さんにはこれからも、
小劇場の不幸に埋もれた名作の復活を、
是非お願いしたいと思います。
今日はもう1本演劇の話題が続きます。