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三好十郎「浮標(ぶい)」(2016年長塚圭史演出版) [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。
ただ、講習会があるので午後から御茶ノ水に出掛ける予定です。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
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三好十郎が1940年に書いた代表作の1つである「浮標(ぶい)」を、
長塚圭史さんが演出した舞台が、
9月2日より本日まで、
世田谷パブリックシアターで上演されています。

この長塚さん演出版の「浮標」は、
今回が3演目となります。
初回は2011年で翌2012年に再演があり、
そして今回が3回目の上演です。
東京は3日間だけですから全国巡演がメインの、
番外公演的な意味合いなのかも知れません。

僕がこのプロダクションを観るのは今回が初めてです。
2003年に新国立劇場で栗山民也演出の舞台があり、
その時に初めてこの戯曲に接して、
非常な感銘を受けました。
その時の主演は生瀬勝久さんで、
僕は密かに生瀬さんの、
舞台での代表作ではないかと思っています。
そのくらい、この上演での生瀬さんの芝居は圧倒的でした。

この時の上演は非常にオーソドックスなもので、
それだけに戯曲の凄みを強く感じました。

昭和15年頃の空気感が本物として感じられるのが、
何より面白く、
それでいて内容は全く古くなっていません。
2003年時点でも、
何て不思議に現代日本に問題提起しているのだろうと思って見ていたのですが、
今回2016年に観ても、
矢張り今の日本に問題提起しているように見えるのです。
このように、言葉をそのままに上演しても、
その時代その時代の同時代性をもって、
心を抉るような感動を、
観客に与え続けるという点で、
この作品は日本には珍しい「真の古典戯曲」だと思います。

昭和初期から戦中くらいに書かれた戯曲は、
暗い話なのに今の時代にはないような不思議な明るさがあり、
意外にバタ臭い感じであることも特徴です。
この作品もかなりチェーホフの影響などは受けていて、
浜辺の脇役同士の恋愛絡みの遣り取りや、
金貸しとの対話などは、
「桜の園」を彷彿とさせますし、
「100年後の世の中は…」みたいな、
「三人姉妹」を思わせるような台詞もあります。

カンツォーネの「ソレントへ帰れ」を、
若い女優さんに歌わせるという趣向も、
「三人姉妹」の「モスクワへ…」を意図したもののようにも思えます。

ただ、ラストの「万葉集」の絶唱を含めて、
なかなか巧みに昭和15年の日本に換骨奪胎されていて、
海外作品の影響を、
大きくは感じさせないような作品に仕上がっています。

一時左翼運動に傾倒していた画家の主人公が、
千葉の海辺で結核に倒れた妻の看病をしています。
彼にとっては妻が良くなることが、
人生における唯一で究極の価値になっているのですが、
その点においては、
彼の身近に存在するものや、
彼の信じているもの、かつて信じていたものが、
彼の意に沿わない結論しか出さないので、
彼はその運命に抗い、
たった1人の抵抗を試みるのです。
そして、それは客観的には、
何か酷く滑稽で無残な姿にしか見えません。

友達の金貸しから金を借り、
芸術的には軽蔑する画家から斡旋された、
絵本の挿絵の仕事で食いつないでいる身でしかないのに、
その友人からの誘いを拒絶して、
せっかくの仕事を無にしてしまったり、
親身になって妻の治療に当たっていた友人でもある医者を、
その高慢な本性に気づいたばかりに、
罵倒して表面的な友情さえも無にしてしまったりもします。
唯一の本当の友人は出征してしまいます。

信じるもの全てに裏切られ、
それでも縋れるもの全てに縋って、
必死で妻の病気が治るという奇跡を信じる、
崇高なほどに哀れで無残で狂気に満ちた、
人間という存在の極北とでも言うべき主人公の造形は、
時代背景もあるのでしょうが、
デモーニッシュな凄みを持っています。

それが日本の口語演劇の代表的な傑作の1つと言える所以です。

2003年の新国立版は、
極めてオーソドックスな演出でしたが、
今回の長塚圭史版は、
舞台を一面の砂浜のみとして、
家の場面も座椅などを砂に置くだけで表現しています。
オープニングは全キャストが黒い衣装で並び、
それから舞台袖の椅子に座って舞台を見守ります。
最初のみそのままの衣装で役を演じ、
それ以降は舞台設定通りの衣装を、
身につけて演技をします。
端役は舞台袖の椅子に座ったキャストが、
声のみで演じます。

何と言うのか、
舞台稽古を見せられているようなイメージです。
個人的にはこの作品の台詞の強さを表現するには、
そのままオーソドックスに演じるのが一番、
というように思っているのですが、
衣装を着けて舞台に登場するようになると、
次第に普通の芝居になってゆくので、
そう違和感はありませんでした。

僕の推測ですが、
立ち稽古をしているうちに、
皆で他の役者の芝居を、
何もない稽古場で一緒に見ている姿が、
最も純粋に長塚さんには感じられたのかも知れません。

その稽古の時の純粋な感じ、
昭和15年の世界を、
現在の役者が皆で作り上げようとする姿を、
そのまま舞台に載せようと、
そう考えたのではないでしょうか?

この演出には基本的に賛成はしませんが、
そう考えるとその意図は汲めるように思いました。

今回の舞台では、
後半の長塚さん自身が演じる医師と、
田中哲司演じる主人公との対決に、
最も感銘を受けました。

長塚さんはそれほど上手い役者ではないと思うのですが、
今SNSで威張っているような医者と殆ど同質の、
優秀だけれど鼻持ちならない、
言葉だけで「患者のために」と言いはするけれど、
その感情が全く伴っていない感じ、
知性というものの醜悪さをプンプンさせている感じを、
見事に出していたと思います。

僕がこの作品を好きなのは、
この医者の造形の的確さが大きい部分を占めていて、
チェーホフにもこうした医者は登場しますが、
より日本的で今でも間違いなくいる感じです。
昭和15年の醜悪さが、
今でも同じように醜悪であるという事実に、
人間というものの不思議さと、
藝術の本質を見るような思いもします。

これは医者という人種の特性を知らない人には、
おそらく分からない感じです。
この役の長塚さんは多分彼一番の芝居を見せていて、
テレビドラマの「Dr.倫太郎」での医者役も、
これがあったからこそのオファーであったように、
個人的には思います。
多分長塚さん自身気に入っているので、
「浮標」を何度も再演している理由は、
そのせいもあるのではないでしょうか?

役者は皆好演で、
妻の母役の池谷のぶえさんの強烈ないやらしさも、
金貸しの菅原永二さんの作りこんだ雰囲気も、
いずれも良かったと思います。

初演から主役を演じている田中哲司さんも、
なかなかの熱演ですし、
この役にはフィットしていると思うのですが、
僕の頭には新国立版の生瀬さんの演技が焼きついているので、
その台詞の力強さや迫力という面では、
物足りないものを感じました。

僕が観た時の調子もあるのでしょうが、
長い論争の場面で興奮して来た時など、
テンションが持続出来ずに声も涸れ、
失速してしまうようなところが何度もありました。

そういうところの生瀬さんの力押しは、
凄まじいものがあったのです。

今回の舞台の感想に、
主人公が単なるダメ男にしか見えなかった、
というものがあったのですが、
この作品の真価を全く理解していない、
残念な発言だと思うとともに、
そう感じさせてしまう1つの要素は、
田中さんの芝居の「失速感」にもあったように思いました。

この役にはおそらく、
それ自体デモーニッシュな気合と体力が、
必要なのではないかと思います。

いずれにしても、
この作品が名作であることを再認識した上演であったことは確かで、
後は長塚さんの最高傑作と言って良い、
「はたらくおとこ」の再演を期待して待ちたいと思います。
(変な演出はしないで下さいね)

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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