東野圭吾「天空の蜂」 [ミステリー]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は祝日でクリニックは休診です。
なるべく家でゆっくりと過ごすつもりです。
何もなければ良いのですが…
それでは今日の話題です。
今日はこちら。
東野圭吾さんが20年前に書いた「天空の蜂」が、
今映画化されて公開中です。
僕は東野さんの作品は、
7割くらいは読んでいると思うのですが、
この作品は発表当時、
原発を絡めたパニック小説というのは、
東野さんには不向きのような思いがあって、
読んでいませんでした。
今回遅ればせながら読了し、
その後で昨日映画にも足を運びました。
これは意外に面白いです。
原作はパニック小説としての段取りには、
矢張り何となく不向きなたどたどしさがあるのですが、
東野さんならではの原発や自衛隊への視点と、
犯人の屈折した心理が面白く、
後半は「読まずに寝られるか」という感じで、
一気に読みました。
そのリーダビリティはさすがです。
原作をそうして読んでしまうと、
これを日本で映画化などしても、
絶対に面白くはならないだろうな、
と思うのですが、
映画はこれも意外に歯ごたえがあって面白く、
抜群とは言えないし不満も勿論あるのですが、
最近では非常に面白く鑑賞しました。
普通考えると、
非常に予見性のある原作であるのですが、
書かれてから15年後に、
実際に原発事故が起こってしまったのですから、
起こる前にそれを予見した作品を、
起こった後で読んでも、
さして面白いとは思えないのではないか、
と思うところです。
現実がフィクションを追い抜いてしまったように思うからです。
また、映画に関しても、
本当に深刻な原発事故が起こってしまった後で、
その15年前の結果として事故が回避される物語を、
今更映像化しても意味がないのではないか、
というように思うところです。
しかし、それが意外にそうではありません。
原発技術者や幹部自衛官の立場になって、
原発や自衛隊の問題を考える、
という東野さんの構想が、
新たな視点としてユニークで、
「沈黙する群衆に刃を突き付ける」
という発想が、
今という時間でむしろ意味を持つからです。
原作は読んで損はないですし、
映画も見て損はないと思います。
以下大きなネタバレはありませんが、
読了及び鑑賞予定の方は、
その後でお読みください。
自衛隊と機械メーカーが共同で開発した、
巨大ヘリがお披露目の日に盗まれ、
稼働中の原発の上空でホバリングします。
天空の蜂を名乗る犯人は、
日本の全ての原発を破壊しなければ、
原発に爆薬を積んだ巨大ヘリを墜落させると、
政府を脅します。
主人公はヘリの開発技術者で、
その友人の息子は、
犯人の意図しないところで、
ヘリの中に人質となってしまいます。
犯人と主人公、そして捜査陣や原発関係者の間で、
頭脳戦が繰り広げられます。
原作も映画も共通の特徴として、
犯人の造形が非常に面白く、
その屈折の感じが、
さすがに東野さん、という感じです。
こういう人物を犯人にして、
こうした物語を紡がせる、というのは、
東野さん以外には、
まず間違いなく出来ない芸当だと思うからです。
構成上の難点は、
人質となった子供が、
前半であっさり救出されてしまうことで、
犯人には人を犠牲にするつもりはない、
ということが分かってしまうので、
サスペンスの要素はかなり減弱してしまうことです。
これは原作でも映画でも同様でした。
原作と映画の最も大きな違いは、
原作では最初から犯人の正体を明かしているのに対して、
映画では終盤になるまで明かされない、
ということです。
映画としては、
間違いなくこの方が効果的です。
それ以外にも、
ヘリに閉じ込められる子供を、
主人公の友人から主人公自身に変えたり、
キーとなる謎の女性が、
海外へ旅行に行かなかった理由を、
犯罪を疑ったのではなく、
妊娠が分かったからにしたりと、
概ね映画として効果的な改変となっていて、
かなり台本が練られていることが分かります。
映画は前半はハリウッドのアクション映画をお手本に、
海外での公開を意図したような色気を感じる、
ちょっと恥ずかしいような感じもあります。
輸出を意識した韓国のアクション大作みたいな雰囲気です。
それが、犯人のアジトのアパートへ、
刑事が踏み込む辺りから、
堤監督の趣味が出る感じというのか、
日本映画のドロドロしたどぎつい画面に変貌します。
ここで壮絶な立ち回りがあり、
若い刑事が死亡するのですが、
こんな格闘は勿論原作にはありません。
この辺からが僕は結構気に入りました。
キーとなる謎の女性が、
トイレで用を足してからニヤリと笑ったり、
髪を無雑作に切って逃亡を図ったり、
という辺りは、今村昌平の映画みたいですし、
クライマックスで幾つかの場面を交錯させるのは、
「砂の器」を彷彿とさせます。
ただ、ヘリが落ちる場面は、
さすがにフルCGでは迫力に乏しく、
犯人が原発の屋上で手を広げるイメージカットは、
さすがにちょっと脱力しました。
映画館で大きな画面と大音量なので、
どうにかしのげますが、
テレビで見たら耐えられないと思います。
映画は福島の原発事故との関連では、
かなり神経を使ったと思うのです。
実際、この企画は、
原発事故の起こる前では、
不安を煽るとして実現不可能だった思いますし、
事故から数年は、
今度は生々し過ぎるとして、
これも実現不可能だったと思います。
今このタイミングだからこそ、
制作と上映が可能であったのだと思います。
映画のラストは2011年3月13日に設定されていて、
その前日に犯人は獄中で死亡したことになっています。
この日にち設定もギリギリのところで、
この日は日曜日で、
まだ原発事故の深刻さは、
一般には知られていなかったタイミングなので、
その予兆を観客に感じさせつつ物語は終わります。
このエピローグは食い足りない感じはありますが、
生々しい記憶が甦るのを避けたのだと思います。
おそらくこの作品が海外公開される場合には、
もっと直接的に原発事故が言及されるのではないでしょうか?
堤幸彦監督は同世代ですし、
そのポリシーには共感出来る部分が多いのですが、
作品としては破天荒なテレビドラマは良くても、
映画はあまり出来の良いものではない、
という印象を持っていました。
日本には他に映画監督はいないのかしら、
と大作を連発する昨今は思うこともあります。
ただ、今回の作品は監督としても、
かなり本気であることを感じさせるもので、
特に後半の人間ドラマは見応えがありました。
原作も映画も、
なかなかお薦めです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は祝日でクリニックは休診です。
なるべく家でゆっくりと過ごすつもりです。
何もなければ良いのですが…
それでは今日の話題です。
今日はこちら。
東野圭吾さんが20年前に書いた「天空の蜂」が、
今映画化されて公開中です。
僕は東野さんの作品は、
7割くらいは読んでいると思うのですが、
この作品は発表当時、
原発を絡めたパニック小説というのは、
東野さんには不向きのような思いがあって、
読んでいませんでした。
今回遅ればせながら読了し、
その後で昨日映画にも足を運びました。
これは意外に面白いです。
原作はパニック小説としての段取りには、
矢張り何となく不向きなたどたどしさがあるのですが、
東野さんならではの原発や自衛隊への視点と、
犯人の屈折した心理が面白く、
後半は「読まずに寝られるか」という感じで、
一気に読みました。
そのリーダビリティはさすがです。
原作をそうして読んでしまうと、
これを日本で映画化などしても、
絶対に面白くはならないだろうな、
と思うのですが、
映画はこれも意外に歯ごたえがあって面白く、
抜群とは言えないし不満も勿論あるのですが、
最近では非常に面白く鑑賞しました。
普通考えると、
非常に予見性のある原作であるのですが、
書かれてから15年後に、
実際に原発事故が起こってしまったのですから、
起こる前にそれを予見した作品を、
起こった後で読んでも、
さして面白いとは思えないのではないか、
と思うところです。
現実がフィクションを追い抜いてしまったように思うからです。
また、映画に関しても、
本当に深刻な原発事故が起こってしまった後で、
その15年前の結果として事故が回避される物語を、
今更映像化しても意味がないのではないか、
というように思うところです。
しかし、それが意外にそうではありません。
原発技術者や幹部自衛官の立場になって、
原発や自衛隊の問題を考える、
という東野さんの構想が、
新たな視点としてユニークで、
「沈黙する群衆に刃を突き付ける」
という発想が、
今という時間でむしろ意味を持つからです。
原作は読んで損はないですし、
映画も見て損はないと思います。
以下大きなネタバレはありませんが、
読了及び鑑賞予定の方は、
その後でお読みください。
自衛隊と機械メーカーが共同で開発した、
巨大ヘリがお披露目の日に盗まれ、
稼働中の原発の上空でホバリングします。
天空の蜂を名乗る犯人は、
日本の全ての原発を破壊しなければ、
原発に爆薬を積んだ巨大ヘリを墜落させると、
政府を脅します。
主人公はヘリの開発技術者で、
その友人の息子は、
犯人の意図しないところで、
ヘリの中に人質となってしまいます。
犯人と主人公、そして捜査陣や原発関係者の間で、
頭脳戦が繰り広げられます。
原作も映画も共通の特徴として、
犯人の造形が非常に面白く、
その屈折の感じが、
さすがに東野さん、という感じです。
こういう人物を犯人にして、
こうした物語を紡がせる、というのは、
東野さん以外には、
まず間違いなく出来ない芸当だと思うからです。
構成上の難点は、
人質となった子供が、
前半であっさり救出されてしまうことで、
犯人には人を犠牲にするつもりはない、
ということが分かってしまうので、
サスペンスの要素はかなり減弱してしまうことです。
これは原作でも映画でも同様でした。
原作と映画の最も大きな違いは、
原作では最初から犯人の正体を明かしているのに対して、
映画では終盤になるまで明かされない、
ということです。
映画としては、
間違いなくこの方が効果的です。
それ以外にも、
ヘリに閉じ込められる子供を、
主人公の友人から主人公自身に変えたり、
キーとなる謎の女性が、
海外へ旅行に行かなかった理由を、
犯罪を疑ったのではなく、
妊娠が分かったからにしたりと、
概ね映画として効果的な改変となっていて、
かなり台本が練られていることが分かります。
映画は前半はハリウッドのアクション映画をお手本に、
海外での公開を意図したような色気を感じる、
ちょっと恥ずかしいような感じもあります。
輸出を意識した韓国のアクション大作みたいな雰囲気です。
それが、犯人のアジトのアパートへ、
刑事が踏み込む辺りから、
堤監督の趣味が出る感じというのか、
日本映画のドロドロしたどぎつい画面に変貌します。
ここで壮絶な立ち回りがあり、
若い刑事が死亡するのですが、
こんな格闘は勿論原作にはありません。
この辺からが僕は結構気に入りました。
キーとなる謎の女性が、
トイレで用を足してからニヤリと笑ったり、
髪を無雑作に切って逃亡を図ったり、
という辺りは、今村昌平の映画みたいですし、
クライマックスで幾つかの場面を交錯させるのは、
「砂の器」を彷彿とさせます。
ただ、ヘリが落ちる場面は、
さすがにフルCGでは迫力に乏しく、
犯人が原発の屋上で手を広げるイメージカットは、
さすがにちょっと脱力しました。
映画館で大きな画面と大音量なので、
どうにかしのげますが、
テレビで見たら耐えられないと思います。
映画は福島の原発事故との関連では、
かなり神経を使ったと思うのです。
実際、この企画は、
原発事故の起こる前では、
不安を煽るとして実現不可能だった思いますし、
事故から数年は、
今度は生々し過ぎるとして、
これも実現不可能だったと思います。
今このタイミングだからこそ、
制作と上映が可能であったのだと思います。
映画のラストは2011年3月13日に設定されていて、
その前日に犯人は獄中で死亡したことになっています。
この日にち設定もギリギリのところで、
この日は日曜日で、
まだ原発事故の深刻さは、
一般には知られていなかったタイミングなので、
その予兆を観客に感じさせつつ物語は終わります。
このエピローグは食い足りない感じはありますが、
生々しい記憶が甦るのを避けたのだと思います。
おそらくこの作品が海外公開される場合には、
もっと直接的に原発事故が言及されるのではないでしょうか?
堤幸彦監督は同世代ですし、
そのポリシーには共感出来る部分が多いのですが、
作品としては破天荒なテレビドラマは良くても、
映画はあまり出来の良いものではない、
という印象を持っていました。
日本には他に映画監督はいないのかしら、
と大作を連発する昨今は思うこともあります。
ただ、今回の作品は監督としても、
かなり本気であることを感じさせるもので、
特に後半の人間ドラマは見応えがありました。
原作も映画も、
なかなかお薦めです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2015-10-12 09:25
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