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城山羊の会「仲直りするために果物を」 [演劇]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。
今日は1日のんびり過ごす予定です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はまず演劇が1本、
そしてクラシックのリサイタルが1本です。

まず演劇はこちら。
城山羊の会.jpg
CMディレクターとして活躍する山内ケンジさんの演劇ユニット、
城山羊の会の新作公演が、
今池袋の東京芸術劇場シアターウエストで本日まで上演中です。

前作の「トロワグロ」では岸田戯曲賞を受賞し、
今波に乗っているコアなファンの多い演劇ユニットです。

前作は直前まで迷っていて結局行かず、
遅ればせながら今回が初見です。

今回の作品は、
一時期のクドカンや長塚圭史が得意としていた、
一種の残酷演劇で、
些細なことから暴力的なキャラクター同士の、
殺し合いの連鎖が始まり、
最後には全て死に絶えるというような、
救いの欠片もないような話です。

こういう話が僕は決して嫌いではなく、
たとえばマクドナーが書いて長塚圭史が演出した、
「ウィー・トーマス」などは、
残酷を通り越した一種の爽快さがあり、
殺人や死体解体の瞬間を、
客席で心待ちにしてしまうような危険な作品で、
ラストの不毛なオチの破壊力も抜群の快作でした。

歌舞伎は残酷見世物としての側面があり、
谷崎潤一郎の「恐怖時代」などは、
大正時代の新歌舞伎にして、
残酷演劇の古典です。
これも殆どのキャストが殺し合って死に絶えますが、
美貌で冷酷無比の殺人マシーンの少年剣士などが登場し、
殺人の快楽を観客に体感させる危険な藝術でした。

ただ、今回の作品はどうにも陰惨なだけで面白くはなく、
個人的には苦痛な観劇でした。

おまけに芝居が始まってしばらくして、
腹痛と排便の衝動が強烈に襲い、
最後までどうにか持たせましたが、
僕のお腹の葛藤の深刻さの方が遥かに大きく、
芝居に専念すること自体が困難でした。
残念です。

今回はどうやらこれまでの作品とは傾向を変えた、
ということのようなので、
次回作には期待をしたいと思います。

以下ネタバレを含む感想です。

客入れにはバーバーの「弦楽のためのアダージョ」が、
延々と流れています。
映画の「プラトーン」に使われたあれです。

アダージョが一旦途切れると、
「携帯電話はなんたら」という色気のないアナウンスが入り、
その後は音楽のない時間が数分流れ、
客電が消えないうちに舞台で芝居は始まります。

これはこの作品に限ったことではありませんが、
音楽のない数分が客席の間が持たない感じで嫌です。
本来は客入れの音効が止まったら、
すぐに本編に入るべきではないでしょうか?
注意喚起のアナウンスを入れたいのであれば、
終わった瞬間に暗転するか、
アナウンスのある間から、
もう芝居は始めているべきのように思います。

要するに客電を消す前に芝居がさりげなく始まる、
という演出が、
アナウンスの入れ方や始まりのタイミングに、
合っていないように思うのです。
まあでも、殆どの芝居はそんな感じですから、
この作品が特にその点で問題、
ということではありません。

舞台に空き地とあばら家のような借家があり、
その向こうには高台の坂道があります。

借家には仕事を首になった青年と、
その妹が住んでいて、
借家の家賃を払えずに困っています。

大家はかつてはカルト宗教にいた経歴があり、
その上司はその筋の人間のようです。
それで取立てに訪れると、
兄と妹は心中をしようと包丁を振り回していて、
それを大家は自分を殺そうとしていると誤解したところから、
不穏な死の空気が漂い始め。
後半に登場する怪しい大学の先生が、
複数の女性と淫行に及んでいたことから、
殺し合いの幕が開きます。

ラストは殆どの人間が死に絶える地獄絵図となりますが、
大家は家賃を免除するので、
兄は死んだ妹と共に、
それを喜ぶというブラックなオチが付きます。

こういう極端な作品は、
観客が何を期待するのかによって、
その評価は異なるものだと思います。

僕は矢張り物語自体の捻りとか、
物語の始まりには想像の出来なかったような情景が、
ラストには現れることを期待しますし、
登場するキャラクターの予想を超える言動や、
何より残酷描写そのものの意外性や工夫を求めたいと思います。

前述の「ウィー・トーマス」では、
最も残忍極まりない人物が、
猫を溺愛しているという趣向が面白く、
次には拳銃というものの特性を利用して、
いつ発射されるのか、というドキドキをサスペンスに利用します。
撃つと大きな音がするので嫌なのですが、
撃つぞ、と身構えて結局撃たないようなことを繰り返し、
実は意外な瞬間に引き金が弾かれます。

「恐怖時代」では、
白い衣装に血糊が目の前で浮き出し、
時にその場で噴出する、という仕掛けを、
巧みに用いてショックを演出しています。
通常歌舞伎ではそうしたことはしないので、
引き伸ばされた展開の中で、
その瞬間のショックが大きいのです。

今回の作品では、まず展開に意外性のないことが不満です。

作品の骨格としては、
家賃が払えなくて困っている兄と妹がいて、
その挙句に悲劇の端緒が開かれますが、
そのためには、
最初は極まっとうな「貧乏」が、
リアルに描写されることが必要であるように思います。

しかし、舞台は非現実感のあるあばら家で、
それも舞台のかなり奥で、
わざわざ聞こえないような小さな声で、
兄と妹の演技は開始されます。
「花を売ってお金を用意した」と称する妹は、
最初から秘密を持っていることが明らかで、
あまり語らない兄の態度も良く分かりません。
それで大家に出て行ってほしいと言われると、
今度はすぐに2人で無理心中しよう、
という話になるので、
あまりに唐突な気がしますし、
その後はひたすら殺し合いの地獄絵図に突入するので、
兄と妹の内面なども、
何も描かれないままに吹っ飛んでしまいます。

前半をわざわざ舞台奥の見辛い場所で行なう、
という演出も、
とても効果的とは思えません。
後半は前の空き地での芝居になるのですから、
前半はもう少し前に部屋のセットをせり出しておいて、
それで歌舞伎のように部屋のセットを廻して、
奥に位置を変えれば、
それで良かったように思います。

この辺りのセンスは非常に疑問です。

妹が自分を刺して倒れ、
その責任追及の中で、
大学のエロ先生が兄に刺されるところから、
後半の血塗連鎖劇はそのスピードを増しますが、
この場面も包丁を背中に刺して倒れ、
後でその場所に血が滲んでいるだけですから、
とても平凡で詰まりません。

ラスト近くで大家の上司が、
口封じのために大学の先生の妻を犯して殺そうとしますが、
その場面はあばら家の中に隠されて演じられ、
ラストに血まみれになった妻が登場して終わるだけです。

せっかく残酷描写が作品の肝なのに、
この及び腰ではどうなのでしょうか?

「殺し場」はセンスだと思います。
もっと意外性のある展開で、
殺しの瞬間はなるべく舞台上で演じることを徹底してこそ、
こうした残酷演劇は面白いではないでしょうか?

更には死んだ筈の妹が、
わざわざ起き上がって台詞を言ったりするようなところも、
ラストはほぼ死の世界に以降したのだと思うので良いのですが、
あまり徹底した感じではないので、
趣向としても物足りない感じが残ります。
何かもう少し破壊力のあるオチが、
必要だったのではないでしょうか?

そんな訳で今回の作品は、
僕にはとても乗れなかったのですが、
城山羊の会としては、
かなり毛色の変わった作品という位置付けのようなので、
次回作で、
その真価を確認したいと思います。

それでは次はクラシックのリサイタルの話題です。
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