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日本のアングラ(その10) [フィクション]

1986年に大学の劇団の新人公演があり、
その時に僕と加奈子は最後の共演をした。

「アポトーシス2007」が旗揚げする1年前のことだ。

加奈子は1985年の夏の公演に参加したものの、
同年の冬公演には参加せず、
その代わりに同じ人文学部の西谷の演劇に協力した。

加奈子ばかりではなく、
夏の僕の独善的な演出や劇団運営のために、
多くの劇団員が冬公演には参加しなかった。

今であれば、僕の何が悪かったかは分かる。

しかし、当時は何も分からぬままに、
ただただ次の公演を実現することで必死だった。

照明担当の下総さんは、
そんな僕にも付いてきてくれた数少ない先輩だった。

誰も僕に付いて来てくれないのであれば、
真面目に1人芝居をすることさえ考えた。
加藤健一が演じた「審判」を、
半分くらいまで台詞を覚えたりもした。

1人芝居であっても、
音効や照明のスタッフは最低限必要だ。

僕の心がそれでも折れなかったのは、
下総さんがその時に、
「石原の芝居にボクは次も協力するよ」
と言ってくれたからなのだ。

結果として、1年生主体のキャストで、
あまりレベルの高い作品にはならなかったけれど、
冬公演はどうにか上演には漕ぎ着けた。

作品はオリジナルを僕が書いた。
それは、僕が初めて書いた創作めいたものだった。

内容はアラン・ガーナーの「ふくろう模様の皿」をモチーフにしたものだ。
これは僕の隠し玉的な本で、
小学校のときからの愛読書だった。

大学生の3人があるとき、
実は互いに幼馴染であったことに気付く。
女性が1人に男性が2人だ。
3人は同じ学生劇団の劇団員で、
女性と男性の1人とは付き合っている。
もう1人は超然とした雰囲気の謎めいた男で、
「女性恐怖症」を自称している。
芝居は男の1人が書き、
自分で演出して付き合っている彼女を主役にする。
ありがちな公私混同のスタイルだ。
もう1人の男は脇役で加わり、
見事な演技を見せると共に、
センスのある舞台装置を作ったり、
素敵な劇中歌を作曲したりする。
つまり、この謎めいた男の方が、
明らかに他の2人より才能豊かだ。
それなのに、控え目なポジションを自らで選んでいるのだ。

その3人の関係が、
互いに幼馴染であったことが分かった時点で、
微妙に揺らぎ始める。

謎めいた雰囲気の男は、
その土地では忌避される出自を持っている。
それが分かった時点でもう1人の男は、
彼を劇団から追い出そうとするが、
女はむしろ謎めいた男に惹かれるようになる。
そして、女は黒づくめの謎の女に出会った日から、
淫乱な性格に変貌し、
男とも別れて劇団を去り、
謎めいた男を誘惑するようになるのだ。

原作は身分差別と悪魔憑きの話なのだが、
そこから超自然的要素をなるべく廃して、
少女は悪魔に憑かれるのではなく、
カルト宗教に入信するようにした。

麻原彰晃の「超能力『秘密の開発法』」が出版されたのが、
同じ1986年。
時代は何となくそうした方向に向かい始めていた。

こうして今考えると、
悪くない作品のようにも思えるけれど、
3人しかキャストがいない中での苦肉の策だった。
謎の女は男の1人がダブルキャストで演じた。

お分かりのように、
登場する女は加奈子のことで、
彼女が僕の元を去り、
西谷の劇団を手伝っていることを、
揶揄するような内容に取れないこともない。

女の役は加奈子と同じ学年の1年生だったが、
その演技は素人レベルで、
とても加奈子と比べられるようなものではなかった。

公演は4日間で、
その2日目に加奈子が客席にいた。

上演が終わると、
OBなど関係者や希望者はその場に残り、
ちょっとした反省会が行われる。

加奈子の隣に変に親密そうなギョロ目の男がいて、
その時には分からなかったが、
それが西谷だった。

感想を求められた加奈子は、
ためらいがちにゆっくりと顔を上げ、
「作者の思いがしっかりと客席に届くような作品に、
なっていなかったのがちょっと残念でした」
という意味のことを、
台詞のような口調で話した。

1年生の立場でいて、
そんな偉そうな感想を言う劇団員は普通はいない。

何となく白々とした気分がその場に流れ、
そうした気まずい空気のままに、
その場はお開きとなった。

それからほどなく、
「レトロウイルス」という、
西谷博が立ち上げた人文学部の劇団の公演があり、
そこには加奈子も参加した。

僕は公演には行かなかったが、
見に行った下総さんは、
自分の下宿で僕と飲みながら、
「うん。やっぱり加奈ちゃんはいい女優だよね」
と語り始め、
「戯曲はさあ、ゴタゴタして整理不充分の感じなんだけどね。
でも、石原の戯曲より、センスは感じたな」
と、敢えて僕を挑発するような言い方をした。

下総さんは時々意図的に、
相手を怒らせて本音を引き出すようなテクニックを使う。

僕も馬鹿なのですぐにカッとして、
「そりゃ、加奈子が出てくれれば、
今度の公演だって数倍はいい作品になったさ」
と言うと、
下総さんはしてやったり、というような顔をして、
「どうかな。多分西谷という主催の1年生と、
加奈ちゃんはデキてると思うよ。
そういう芝居だったんだもん」
と言い放った。

後から考えれば、それは事実だったのだと思う。

しかし、その時はどうしても認めることが出来なかった。

僕と加奈子を強く結び付けていたもの、
それは何と言うのか、
真に藝術的な何かであって、
僕が彼女の中に眠っていた、
もう1つの彼女のようなものを、
初めて彼女が表現可能なものとして、
実体化したのだと信じていたからだ。

僕は彼女の中にある、その何かを調教した。
1つの公演の練習期間だけで、
まだ不十分ではあったけれど、
それが僕以外の誰かに可能であるとは思えなかった。

しかし、
今にして思えばいとも簡単に、
西谷は加奈子の中にある「闇」を調教したのだ。

それが要するに、
「日本のアングラ」の正体であったのかも知れない。
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コメント 4

Silvermac

アングラ愛好家の原点ですね。
by Silvermac (2015-03-30 06:13) 

fujiki

Silvermacさんへ
コメントありがとうございます。
by fujiki (2015-03-30 07:58) 

chacha

当時の演劇を見たかったです

by chacha (2015-03-30 10:46) 

fujiki

chachaさんへ
演劇は間違いなく、
1970年代の前半くらいが、
最も面白かったのだと思います。
僕もその時は観ていません。
by fujiki (2015-03-31 08:20) 

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