日本のアングラ(その8) [フィクション]
先日一面識もない演劇マニアからメールが来て、
今は誰も触れることのない「アポトーシス2007」という劇団を、
自分は20代の頃に下北沢の駅前劇場で観て、
ちょっと言葉も失うような感銘を受け、
演劇の魅力に惹き込まれる原動力になったのだけれど、
あの劇団の芝居の魅力を、
誰ひとり記録している人がいないので、
是非僕にその内容を記事にして欲しい、
というような内容だった。
正直を言えば、
「お前が書け!」と言いたいくらいだったが、
それも大人気ないと思い、
差し障りのない文面でお茶を濁した。
僕は確かに「アポトーシス2007」のことを、
他の誰よりも深く知っている。
それは劇団の内幕を知っている、
というような意味ではなく、
上演された演劇としての、
その真価を誰よりも良く知っている、という意味だ。
「アポトーシス2007」が、
1980年代後半から1990年代前半にかけての時期の、
おそらく唯一無二の本格的なアングラ演劇であった、
という事実が、
今ではもう完全に忘れ去られているのは、
個人的には非常に残念に思う。
ただ、これまでの記事を読んで頂いた方にはお分かりのように、
僕と「アポトーシス2007」主催の西谷博との間には、
ちょっとした因縁のようなものがあるので、
他の誰かがそのことを語ってくれるのであれば、
僕は手を引きたいのが正直なところなのだ。
しかし、ネットなどで検索をしても、
「アポトーシス2007」のことなど、
全くないもののように扱われている。
ネットの情報のみを真実と信じているような、
今時の演劇マニアであれば、
そんな劇団は存在しないと思われても、
仕方がないような有様だ。
主催の西谷博自身、
前述のように最近になって、
僕は彼の今の仕事を知ったのだけれど、
もうかつての劇団の話などは、
全くしようとはしないのだ。
それで僕は宗旨替えをして、
演劇マニアのメールに答えてみることにした。
記憶の闇の彼方から、
「アポトーシス2007」の舞台を召喚したいと思う。
西谷博が東京で「アポトーシス2007」を旗揚げしたのは、
1987年の7月のことだ。
彼は僕と同じ大学の人文学部の2年生で、
加奈子よりは1年先輩で僕よりは1年後輩ということになる。
旗揚げメンバーの多くは同じ人文学部の学生だったが、
その後東京で募集をして、
旗揚げ公演の後には複数のセミプロの役者を含む団員が参加した。
旗揚げ公演は下北沢の駅前劇場で上演された。
演劇の町としての下北沢の興隆は、
1981年のザ・スズナリの開場に始まり、
それが本格的になるのは、
1982年の本多劇場の開場である。
駅前劇場は本多劇場の開場から1年後の、
1983年にその歴史が始まっている。
この1980年代の前半から半ばに掛けての時期は、
アングラ演劇がほぼ終焉した時代である。
1982年に寺山修司が死去し、
その数年前から地方に軸足を移していた、
早稲田小劇場は、
1984年にSCOTと改名して、
本格的な地方メセナ的な集団となる。
バブルの時期には藝術が商品として地方行政に買われた。
アングラ演劇の大家であっても、
目端の利く者はその売買契約で余生の安寧を確保したのだ。
これもアングラ演劇の、
1つの死の在り方だった。
1986年にはもう長く踊ってはいなかった、
アングラの始祖の1人たる土方巽が死去した。
同年に一部に根強いファンを持つテント劇団の究竟頂も解散。
翌1987年には唐先生の状況劇場も解散した。
しかし、演劇ファンはアングラの死の匂いには鈍感だった。
時はバブルに至り、
アングラ演劇は「小劇場」と装いを変えて、
夢の遊眠社と第三舞台を頂点とした、
高度資本主義社会に寄り添うような、
「優しい」演劇を志向した。
1987年は村上春樹の「ノルウェイの森」がベストセラーになり、
本多劇場では第三舞台の「モダン・ホラー」(初演はスズナリ)や、
プロジェクト・ナビの「想稿・銀河鉄道の夜」が上演された。
夢の遊眠社は青山劇場で「明るい冒険」を上演し、
イギリスで「野獣降臨」のツアーを行なった。
つまりは、こうした時代だった。
アングラの様式は、
若者をたぶらかす1つの商品としての価値は持っていたので、
流山寺事務所や転位21のような劇団は、
その残滓を作品に反映させてはいたけれど、
その活動も1987年の頃には、
かなり停滞した印象があった。
この時代にアングラはほぼなかったのだ。
西谷博が何故ああした舞台を志向したのか、
直接僕は聞いたことはないし、
聞きたいと思ったこともない。
1つのきっかけは僕が演出した寺山修司の舞台を見たことだ、
と人文学部に在籍していた、
西谷と交流のあった劇団員が話していたことがある。
僕にはその真偽は分からない。
ただ、地方においてはままだアングラ演劇は、
マニアにとっては小劇場演劇の主流であるかのように思われていて、
そうした地方の風土が、
西谷に影響を与えたこと自体は事実だと思う。
彼は生粋の地方出身で、
所謂バブル期の渋谷を中心とした若者文化の洗礼は、
全く受けていなかったのだ。
「アポトーシス2007」の旗揚げ公演は、
「崩壊への序章その1」という謎めいた題名で、
7月の月曜日から水曜日の、
3日間のみ行われた。
これは劇場の借り賃の問題と、
たまたまその3日間のみ、
劇場が使用可能だった、という即物的な理由による。
何故全く無名の劇団の旗揚げ公演が、
こうした小さくてもメジャーな劇場で行われたのかについては、
後に述べるが、
仕掛け人的なある人物の力が大きく関わっている。
3日とも午後7時開演の予定であったが、
初日は3時間押しの午後10時開演という、
滅茶苦茶な事態になった。
これは劇場公演に慣れない劇団で、
ありがちなことだけれど、
本来は少なくとも前日には小屋入りをして、
仕込みや各種のチェックを行なう必要があるところを、
金も時間もないからと、
当日の午後からの準備で、
何とかなると高を括った甘い判断が招いた結果だった。
それでもよく上演に漕ぎ着けたものだと、
当時は感心した覚えがある。
僕は元々夜行の特急で帰る予定であったので、
少しくらい遅くなっても問題はなかったのだが、
さすがに11時を廻ると動揺した。
観客は当初50人くらいが受付をしたのだが、
時間が遅くなるに連れて客は減り、
最終的には20名ほどでの観劇になった。
あの劇場は行かれた方はお分かりのように、
非常に間口の広い構造をしている。
開場になって客席に入ると、
地明かりに照らされた舞台には、
何も装置らしきものはなく、
客席も舞台も同じ一平面で、
同じにように明かりが暗く当たっているだけである。
開場の際に折り畳みの椅子を手渡されるので、
それを好きな場所に置いて、
そこを客席代わりにする。
すると、
客が場所を決めて座った瞬間に、
そこにスポットライトが当たる。
本当は全ての客にスポットを当てたかったのだろうが、
スポットの数には限りがあるので、
結果としては何人かの客のみに、
そうしたサービス(?)が振舞われることになる。
観客がほぼ入場し終わると、
西谷博自身が椅子を持って、
同じように会場の不特定の場所に椅子を置き、
観劇の注意事項などを話し始める。
僕はこれまで西谷博の人となりを、
説明したことはなかった。
西谷は小柄で猪頚でずんぐりした男だ。
いつも丸坊主だが、
ギョロリとした大きな目が特徴で、
今山のように本を書いている、
佐藤優という人の目付きに似ている。
演劇をやっているとは思えないようにボソボソと喋るのだが、
何か矢張り常人とは違う、
得体の知れなさのようなものは確かにあって、
別にそれは訓練されたものではないので、
僕はその点にだけは嫉妬のようなものを、
西谷に感じざるを得ない。
僕には欠片もないカリスマ性というものを、
確かに西谷は持っていたのだ。
西谷は前説の後で、
今日は私も一緒に舞台を見たい、と言って、
椅子に座る、
と、その瞬間に会場は完全な闇に包まれる。
そして、その数秒後にもう一度明かりが点くと、
スポットに照らされた西谷の椅子には、
本人ではなく出来の悪いグロテスクな人形が腰を下ろしている、
すると、会場のあちこちの椅子から、
客を装って座っていた役者が一斉に立ち上がり、
西谷の人形に襲い掛かると、
それがズタズタに引き裂かれて中から赤い煙が立ち上がり、
煙が場内に一気に広がって、
プログレめいた音楽が高まり
(後で実際ELPが使われていることを知った)、
会場は再び真の闇に包まれる。
僕はこれが完全暗転であるのかどうかが知りたくて、
暗転の直後に周囲を注意深く見回したが、
オペ室から漏れる明かりを含めて、
全ての光は消されていた。
僕は背筋を正した。
1982年に寺山修司が死去してから、
プロの舞台で初めて完全暗転が実現した瞬間に、
胸が熱くなる思いがしたからだ。
そして、今も脳裏に鮮やかに蘇る、
奇跡的なアングラ芝居の1時間が始まった。
(続く)
今は誰も触れることのない「アポトーシス2007」という劇団を、
自分は20代の頃に下北沢の駅前劇場で観て、
ちょっと言葉も失うような感銘を受け、
演劇の魅力に惹き込まれる原動力になったのだけれど、
あの劇団の芝居の魅力を、
誰ひとり記録している人がいないので、
是非僕にその内容を記事にして欲しい、
というような内容だった。
正直を言えば、
「お前が書け!」と言いたいくらいだったが、
それも大人気ないと思い、
差し障りのない文面でお茶を濁した。
僕は確かに「アポトーシス2007」のことを、
他の誰よりも深く知っている。
それは劇団の内幕を知っている、
というような意味ではなく、
上演された演劇としての、
その真価を誰よりも良く知っている、という意味だ。
「アポトーシス2007」が、
1980年代後半から1990年代前半にかけての時期の、
おそらく唯一無二の本格的なアングラ演劇であった、
という事実が、
今ではもう完全に忘れ去られているのは、
個人的には非常に残念に思う。
ただ、これまでの記事を読んで頂いた方にはお分かりのように、
僕と「アポトーシス2007」主催の西谷博との間には、
ちょっとした因縁のようなものがあるので、
他の誰かがそのことを語ってくれるのであれば、
僕は手を引きたいのが正直なところなのだ。
しかし、ネットなどで検索をしても、
「アポトーシス2007」のことなど、
全くないもののように扱われている。
ネットの情報のみを真実と信じているような、
今時の演劇マニアであれば、
そんな劇団は存在しないと思われても、
仕方がないような有様だ。
主催の西谷博自身、
前述のように最近になって、
僕は彼の今の仕事を知ったのだけれど、
もうかつての劇団の話などは、
全くしようとはしないのだ。
それで僕は宗旨替えをして、
演劇マニアのメールに答えてみることにした。
記憶の闇の彼方から、
「アポトーシス2007」の舞台を召喚したいと思う。
西谷博が東京で「アポトーシス2007」を旗揚げしたのは、
1987年の7月のことだ。
彼は僕と同じ大学の人文学部の2年生で、
加奈子よりは1年先輩で僕よりは1年後輩ということになる。
旗揚げメンバーの多くは同じ人文学部の学生だったが、
その後東京で募集をして、
旗揚げ公演の後には複数のセミプロの役者を含む団員が参加した。
旗揚げ公演は下北沢の駅前劇場で上演された。
演劇の町としての下北沢の興隆は、
1981年のザ・スズナリの開場に始まり、
それが本格的になるのは、
1982年の本多劇場の開場である。
駅前劇場は本多劇場の開場から1年後の、
1983年にその歴史が始まっている。
この1980年代の前半から半ばに掛けての時期は、
アングラ演劇がほぼ終焉した時代である。
1982年に寺山修司が死去し、
その数年前から地方に軸足を移していた、
早稲田小劇場は、
1984年にSCOTと改名して、
本格的な地方メセナ的な集団となる。
バブルの時期には藝術が商品として地方行政に買われた。
アングラ演劇の大家であっても、
目端の利く者はその売買契約で余生の安寧を確保したのだ。
これもアングラ演劇の、
1つの死の在り方だった。
1986年にはもう長く踊ってはいなかった、
アングラの始祖の1人たる土方巽が死去した。
同年に一部に根強いファンを持つテント劇団の究竟頂も解散。
翌1987年には唐先生の状況劇場も解散した。
しかし、演劇ファンはアングラの死の匂いには鈍感だった。
時はバブルに至り、
アングラ演劇は「小劇場」と装いを変えて、
夢の遊眠社と第三舞台を頂点とした、
高度資本主義社会に寄り添うような、
「優しい」演劇を志向した。
1987年は村上春樹の「ノルウェイの森」がベストセラーになり、
本多劇場では第三舞台の「モダン・ホラー」(初演はスズナリ)や、
プロジェクト・ナビの「想稿・銀河鉄道の夜」が上演された。
夢の遊眠社は青山劇場で「明るい冒険」を上演し、
イギリスで「野獣降臨」のツアーを行なった。
つまりは、こうした時代だった。
アングラの様式は、
若者をたぶらかす1つの商品としての価値は持っていたので、
流山寺事務所や転位21のような劇団は、
その残滓を作品に反映させてはいたけれど、
その活動も1987年の頃には、
かなり停滞した印象があった。
この時代にアングラはほぼなかったのだ。
西谷博が何故ああした舞台を志向したのか、
直接僕は聞いたことはないし、
聞きたいと思ったこともない。
1つのきっかけは僕が演出した寺山修司の舞台を見たことだ、
と人文学部に在籍していた、
西谷と交流のあった劇団員が話していたことがある。
僕にはその真偽は分からない。
ただ、地方においてはままだアングラ演劇は、
マニアにとっては小劇場演劇の主流であるかのように思われていて、
そうした地方の風土が、
西谷に影響を与えたこと自体は事実だと思う。
彼は生粋の地方出身で、
所謂バブル期の渋谷を中心とした若者文化の洗礼は、
全く受けていなかったのだ。
「アポトーシス2007」の旗揚げ公演は、
「崩壊への序章その1」という謎めいた題名で、
7月の月曜日から水曜日の、
3日間のみ行われた。
これは劇場の借り賃の問題と、
たまたまその3日間のみ、
劇場が使用可能だった、という即物的な理由による。
何故全く無名の劇団の旗揚げ公演が、
こうした小さくてもメジャーな劇場で行われたのかについては、
後に述べるが、
仕掛け人的なある人物の力が大きく関わっている。
3日とも午後7時開演の予定であったが、
初日は3時間押しの午後10時開演という、
滅茶苦茶な事態になった。
これは劇場公演に慣れない劇団で、
ありがちなことだけれど、
本来は少なくとも前日には小屋入りをして、
仕込みや各種のチェックを行なう必要があるところを、
金も時間もないからと、
当日の午後からの準備で、
何とかなると高を括った甘い判断が招いた結果だった。
それでもよく上演に漕ぎ着けたものだと、
当時は感心した覚えがある。
僕は元々夜行の特急で帰る予定であったので、
少しくらい遅くなっても問題はなかったのだが、
さすがに11時を廻ると動揺した。
観客は当初50人くらいが受付をしたのだが、
時間が遅くなるに連れて客は減り、
最終的には20名ほどでの観劇になった。
あの劇場は行かれた方はお分かりのように、
非常に間口の広い構造をしている。
開場になって客席に入ると、
地明かりに照らされた舞台には、
何も装置らしきものはなく、
客席も舞台も同じ一平面で、
同じにように明かりが暗く当たっているだけである。
開場の際に折り畳みの椅子を手渡されるので、
それを好きな場所に置いて、
そこを客席代わりにする。
すると、
客が場所を決めて座った瞬間に、
そこにスポットライトが当たる。
本当は全ての客にスポットを当てたかったのだろうが、
スポットの数には限りがあるので、
結果としては何人かの客のみに、
そうしたサービス(?)が振舞われることになる。
観客がほぼ入場し終わると、
西谷博自身が椅子を持って、
同じように会場の不特定の場所に椅子を置き、
観劇の注意事項などを話し始める。
僕はこれまで西谷博の人となりを、
説明したことはなかった。
西谷は小柄で猪頚でずんぐりした男だ。
いつも丸坊主だが、
ギョロリとした大きな目が特徴で、
今山のように本を書いている、
佐藤優という人の目付きに似ている。
演劇をやっているとは思えないようにボソボソと喋るのだが、
何か矢張り常人とは違う、
得体の知れなさのようなものは確かにあって、
別にそれは訓練されたものではないので、
僕はその点にだけは嫉妬のようなものを、
西谷に感じざるを得ない。
僕には欠片もないカリスマ性というものを、
確かに西谷は持っていたのだ。
西谷は前説の後で、
今日は私も一緒に舞台を見たい、と言って、
椅子に座る、
と、その瞬間に会場は完全な闇に包まれる。
そして、その数秒後にもう一度明かりが点くと、
スポットに照らされた西谷の椅子には、
本人ではなく出来の悪いグロテスクな人形が腰を下ろしている、
すると、会場のあちこちの椅子から、
客を装って座っていた役者が一斉に立ち上がり、
西谷の人形に襲い掛かると、
それがズタズタに引き裂かれて中から赤い煙が立ち上がり、
煙が場内に一気に広がって、
プログレめいた音楽が高まり
(後で実際ELPが使われていることを知った)、
会場は再び真の闇に包まれる。
僕はこれが完全暗転であるのかどうかが知りたくて、
暗転の直後に周囲を注意深く見回したが、
オペ室から漏れる明かりを含めて、
全ての光は消されていた。
僕は背筋を正した。
1982年に寺山修司が死去してから、
プロの舞台で初めて完全暗転が実現した瞬間に、
胸が熱くなる思いがしたからだ。
そして、今も脳裏に鮮やかに蘇る、
奇跡的なアングラ芝居の1時間が始まった。
(続く)
2015-03-08 18:51
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コメント(2)
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わくわくしながら読ませてもらってます,日本のアングラ - [フィクション].
演劇のことは何も分かりません.何せ生まれてはじめて観たお芝居は,劇団やまなみ,熱海殺人事件ですから.
by okkun (2015-03-08 23:47)
okkunさんへ
コメントありがとうございます。
ボチボチ書き続けるつもりです。
これからもよろしくお願いします。
by fujiki (2015-03-09 05:56)