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長野の鰻の話 [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は診療所は休診で、
朝から大掃除の予定だったのですが、
何となく気が乗らず、
まだ手を付けていません。
駄目ですね。
休みになると、普段以上に、
意思が弱くなってしまうようです。

ある人に、
「あなたのブログには、食べ物の話が一度も出てこないのね」
と言われたので、
今日は食べ物の話をします。

昔話ですが、
フィクションとしてお読み下さい。

大学時代から10年ほど、
長野県にいたのですが、
長野の鰻の蒲焼というのは、
今はどうかは分かりませんが、
当時はもう、何と言うのか、
僕がそれまで食べていた、
鰻という食べ物とは、
全く別の代物でした。

これは勿論良かったという意味ではなく、
長野の鰻が尋常でなく不味かった、
という意味です。

鰻の蒲焼というのは、
ふわっとした感触がないといけないでしょ。
長野の鰻にはそうしたふんわり感は皆無で、
その腹側の青い皮は、
噛み切れないほどに固いか、
そうでなければ、
脂身に乏しく、
ぱさぱさに千切れてしまうのです。

僕に言わせれば、
こんなものは鰻ではありません。

それでも、市内には2つの有名な鰻屋があり、
そのうちの1つは古い蔵を改造した店構えで、
いかにも外見は格式のある老舗の雰囲気です。
仲居さんの態度も、何と言うか、
「ここは老舗なのよ」みたいな感じを、
ちょっと鼻に付くようなくらいまで、
強く押し出していました。

その店の1人娘に、僕は恋をしたことがあります。

きっかけは何か非常に単純なもので、
彼女は僕が入っていたマジックのサークルの後輩で、
大学祭で「マジック喫茶」というのをやったのですが、
その打ち上げで居酒屋に飲みに行った時、
衝動的に彼女にキスをしたのです。

その時は、実は何とも思わなかったのです。

ただ、翌日起きてみて、
顔を洗って鏡の前に立った時に、
僕ははたと前夜彼女にキスをしたことを思い出し、
そこから類推して、
彼女に恋をしたことを知りました。

僕が人を好きになる時というのは、
いつもこんな具合で、
まず行動が先にあるのです。
その時は無意識なのですが、
後になってからその行為を思い出す時に、
意識下の想いが、
不意に意識化するのです。

人を好きになる時というのは、
皆さんでもそうしたものですか?
それともこれは僕の特殊な感情でしょうか?
誰かに教えてもらいたいような気もします。

意識下の抑え付けられていた感情が、
ばっと解放されると、
これはもう居ても立ってもいられません。
寝ても醒めても彼女のこと以外は、
何一つ考えられない状態になります。

泡坂妻夫に「11枚のトランプ」という、
マジックサークルを扱ったミステリーがあって、
その中に後輩の女性が、
先輩の男性に向けた、
秘めたる愛情が出て来るのですが、
僕はその女性に、鰻屋の彼女の姿を重ね合わせ、
その本をむさぼるように何度も読みました。

それから何度か僕は機会を狙い、
彼女と二人きりになることが出来たのですが、
彼女は笑顔は見せながらも、
僕との距離を縮めようとはしてくれません。

酔った席とは言え、僕は彼女にキスをしたのですし、
その意味合いは彼女も分かってくれているとは思うのですが、
そうした僕の思いに接近しようとすると、
彼女は巧みにその矛先をかわすのです。

それは要するに脈がないのだと、
今ならすぐそう思うところですが、
当時はそうは思えません。

話しても埒が明かないならと、
今度はプレゼント攻勢に打って出ました。
クリスマスだ、誕生日だと、
当時の僕にとっては高価な贈り物を、
一方的に送り付けるのです。

そうしたことが、
結果的には彼女に負担になったのでしょう。

彼女は次第に僕と距離を取るようになりました。
サークルの会合にも、
色々と都合を付けて、
滅多に出ては来なくなりました。

彼女がそうすることで、
僕との関係を自然消滅させようと、
思っていることは理解出来ました。

ただ、僕の気持ちはそれでは収まりが付きません。

意を決した僕は、
彼女の実家の鰻屋に手紙を送り、
とある日曜日に日を指定して、
彼女を近くの神社に呼び出したのです。
神社の名前は四柱神社と言いました。

僕が指定した時間に5分遅れで彼女は来てくれました。
「ありがとう」
僕は一言だけそう言うと、
夜の街を並んで歩きました。
精一杯お洒落な感じの居酒屋に入り、
取りとめのない話をしていると、
1時間もしないうちに沈黙になり、
彼女はもう出ようという素振りをしました。
店を出ると、彼女は帰ろうという雰囲気だったのですが、
それでは何のために呼び出したのか、
分かりません。

僕はただ一言彼女に、「好きだ」と言いたかったのです。
それが僕の唯一の希望でした。

それで、「鰻を食べに行こう」
と僕は言ったのです。
彼女の足が、実家の方向に向いているのに、
何となく気が付いたからです。
「長野の鰻は石原さんは嫌いなんでしょ」
と彼女は言いました。
僕は何度も彼女の前でそう公言して、
一度も彼女の店で鰻を食べたことがなかったのです。
「食べてみなけりゃ分からないよ」
と僕は言って、
半ば無理矢理のように彼女の店に入りました。

舞い上がっていた僕は、
店の従業員の態度など、
全く気にも留めませんでした。
しかし、そこは店とは言え彼女の実家なのです。
(正確には店とは別の近くに彼女の家はあります)
どんな雰囲気だったかは想像が付きますし、
今考えると赤面する思いです。

僕達は店の奥まった角に座り、
僕1人だけ鰻の蒲焼きを頼みました。

長野の鰻というのは、
不味い癖に時間だけはいっぱしに掛かります。
出て来る代物は、
どう見ても冷凍の出来合いのものを、
レンジで温めたとしか思えません。
それで30分以上掛かるなど、
殆ど有り得ない話ですし、
仮にまっとうに蒸したり焼いたりしているとすれば、
それで何故あんな冷凍と見分けの付かないものが登場するのか、
それこそ理解に苦しみます。

でも、その時はその時間が僕に幸いしたのです。

その30分ほどの時間に、
僕は漸く彼女にはっきり「好きだ」と言いました。

彼女はその瞬間は俯いていて、
それから正面を向いて、
ニコリと笑いました。
ただ、その後に特に続く言葉はありませんでした。

ちょっと沈黙があって、
それを図るように鰻が運ばれて来ました。
「食べてみて」
と彼女が言って、
僕は蒲焼きに箸を付けました。

「どう?」
と彼女が言って、
僕は「うーん。やっぱり今イチだね」
と愚にも付かない感想を口にしました。
実際には何かゴムのようなものが、
口の中に入っている、という感触だけでした。
「嘘ばっかり。やっぱり長野の鰻は不味いな、って顔してるわ」
と普段より距離を縮めたような口調で、
彼女は言いました。

それからちょっとして、
僕達は鰻屋を出て、
玄関の植え込みの所で、
別れの挨拶をしました。

彼女は額の広いのを気にしていて、
いつも前髪を垂らしていたので、
僕は前髪を上げてくれるように彼女に言い、
その額の上の方にキスをしました。

それから本当に、
最後のさよならをしました。

その時の彼女の笑顔は、
今でもありありと心に浮かびます。
間違いなく、僕の見た彼女の最高の表情でした。
多分、僕とのことが一区切り付いて、
ほっとした表われなのだと今は思います。

それから僕は今までに彼女に3回会っていますが、
いずれも一言挨拶をしただけです。
2回目に会った後で暑中見舞いの葉書が一度届き、
そこには「お元気そうでなによりです」
みたいな愚にも付かないことが書かれていました。

ただ、僕は基本的には、彼女に感謝しています。
恋と呼ぶのも憚られるような、
酷く未熟な感情の発露だったのですが、
気持ちに区切りを付けたい、
という僕の想いを、
彼女はあの日しっかりと受け止めてくれたからです。
彼女がそうしてくれなかったら、
僕は一種のストーカーと化していたかも知れません。

「想い」というのは、
ちょっと怖い側面を持つものだからです。

最初の強い感情というのは、
何にせよ周囲にしっかりと受け止められないと、
心に強い傷を残し、
その後の人生を大きく変えます。
僕は実はそのすぐ後で、
ある別な人を好きになり、
今度は目茶苦茶に酷い別れ方をしたのですが、
それでも何とか持ち堪えられたのは、
鰻屋の彼女が、
あの時僕の気持ちを、
受け止めてくれたからだと感謝しています。
多分相当嫌々ながらだったんだと、
今は思いますけれどね。

僕は東京で食べる鰻が好きですが、
あまりに歯ごたえがないと、
美味しいとは思いながら、
何となく不安に思うことがあります。
長野の鰻が僕の一番の急所に絡み付いているのを、
はたと感じるせいかも知れません。

今日は懐かしく切なく不味い、
長野の鰻の話でした。

それでは今日はこのくらいで。

もうお休みの方が多いでしょうか?
年の瀬に、今年一番の良いことがあるといいですね。
そんなことはない、って?
いや、存外あるかも知れませんよ。
少なくとも僕はそう信じます。
そうでないと、人間なんてやってられないですよね。

石原がお送りしました。
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まみしゃん

初恋の彼と、2年前に同窓会で再会しました。

普通に話せたことが驚きであり、同級生には「アタマが寂しくなったでしょう?」とヤイノヤイノ言われましたが・・・

あぁ、私はこの人のこと本当に好きだったんだと改めて思ったものです。

今日、夫が帰ってきます。

25年前の気持ちを思い出してみようと思います^^;

昨日、新聞記事で先生のお名前を発見して「おぉ~」と叫ぶほど、ビックリしました!

石原先生、今年もいろいろとお世話になりました。
どうぞ、診療所がお休みの間にゆっくりとお休みになってくださいね。

by まみしゃん (2009-12-29 09:36) 

iyashi

先生の素の部分の片鱗が伺えて何か嬉しくなりました。

私はアナログな人が好きです。

先生にとって素晴らしい新年を迎えられることを切に願っています。

これからも色々とご指導お願い致します<m(__)m>


by iyashi (2009-12-29 15:37) 

a-silk

大掃除は進みましたか?
私は玄関と8畳間の治療室と、トイレを掃除して
後は諦めました。
お時間がありましたら、明日の私の記事のクイズを、
解いてみて下さい。
整形外科の先生なら、わかるかな~?
老健のスタッフの方で、今までに、わかった人はいません。
正解は母のみぞ知るなのですが?

by a-silk (2009-12-29 20:54) 

もふもふ

初めてコメントします。長野の鰻はお口に合いませんか。
それにしても、診療所の入っているビルの地下に鰻屋さんがあるというのも何か因縁めいている気がして、ちょっと笑ってしまいました(ごめんなさい)。
by もふもふ (2009-12-30 00:35) 

fujiki

まみしゃんさんへ
コメントありがとうございます。

新聞は24日に電話で取材を受けました。
いつ載るのか、とも聞いていなかったので、
知っていれば買っておけばな、
とちょっと残念です。

それではまた…
by fujiki (2009-12-30 09:22) 

fujiki

iyashi さんへ
コメントありがとうございます。

iyashi さんも良いお年をお迎え下さい。
by fujiki (2009-12-30 09:23) 

fujiki

a-silk さんへ
コメントありがとうございます。

昨日は結局何もしませんでした。
今日は頑張ります。
by fujiki (2009-12-30 09:24) 

fujiki

もふもふさんへ
コメントありがとうございます。

あの鰻屋さんからは、
時々お弁当を作ってもらい、
家で食べます。

長野の鰻も、多分今は美味しいと思います。
by fujiki (2009-12-30 09:29) 

A・ラファエル

私はマインド優先型ですので、感情の動きに気づくのは、
決して早くはありませんが、行動が先ということはありません。
人間はつくづく千差万別と思いました。
by A・ラファエル (2009-12-30 10:21) 

まみしゃん

石原先生、お疲れ様です!

私が拝見したのは、サイトですね・・・

ttp://sankei.jp.msn.com/life/body/091227/bdy0912272337003-n1.htm

あんまり頑張らないでくださいね!(^^)!
by まみしゃん (2009-12-30 14:18) 

fujiki

A・ラファエルさんへ
コメントありがとうございます。

矢張りおかしいでしょうか?
そうかも知れません。
by fujiki (2009-12-31 10:45) 

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