SSブログ

ユング博士と偏屈な医者の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日はショックなことが朝からあって、
今はまだあまり普通の状態ではありません。
でも、仕事はしないといけないし、
時間はいつもと同じに流れて行きます。
今までにも何度かこういうことはあって、
そんな時、
不思議と思考は明晰になります。

今日はちょっと変なことを書くかも知れません。
どうかお許し下さい。

それでは今日の話題です。

ユング博士の話は、
これまでにも何度か書きました。

フロイト博士と共に、
精神分析という学問概念を打ち立て、
やがてはフロイト博士と袂を分かち、
自らの学問には「分析心理学」という名前を付けました。

後年アメリカに渡り、
その後のアメリカの心理学と精神医学とに、
大きな影響を与えました。

たとえば、「多重人格」というのが、
ありますよね。
現在のより正確な用語は、
「解離性同一性障害」です。
1つの人間の心の中に、
幾つかの人格が共存していて云々という、
フィクションでもお馴染みのあれです。

「多重人格」を治療するには、
個々の人格と対話をしながら、
それを1つに統合して行くのだ、
と物の本には書いてあります。
あれは元々ユング心理学の考え方です。

ユング博士の概念では、
人間の心はコンプレックスという、
一種の観念の集まりから出来ていて、
そのうちで最も力のあるのが、
「自我コンプレックス」です。
ユング博士の理論によれば、
それが意識というものの本質ですね。
ただ、心が病んだ状態になると、
「自我コンプレックス」の働きが弱くなり、
相対的に他のコンプレックスが力を増します。
所謂精神病の殆どが、
そのシンプルな構図で説明されます。

また、稀に2つ以上の「自我コンプレックス」に似た構造が、
出来ることがあって、
それが所謂「多重人格」です。

ユング博士による精神疾患の治療は、
弱まった「自我コンプレックス」を強化して、
他のコンプレックスを、
自我に統合して行く過程なのです。
ねっ、
これは今の「多重人格」と言われるものの、
治療にそっくりでしょう。
これは偶然ではなく、
そもそも「多重人格」という概念自体が、
ユング心理学を大元に、
捻り出されたものなのです。

しかし、ユング博士自身が、
「多重人格」のような現象は、
滅多に起こらないものだと断言しています。
僕も多分その通りだと思います。
ただ、ひょっとしたら、このブログを読まれている方の中に、
「解離性同一性障害」と診断されている方がいらっしゃって、
その方のお気持ちに混乱を生じさせてもいけないので、
このことはこれ以上は掘り下げません。

ええと、ここまでは前置きです。

ユング博士は、
患者さんを診る臨床の医者でもありました。
ただ、かなり偏屈な先生でもあったのだと、
僕は思います。

博士の臨床例の記述を読む限り、
博士の患者さんは、
大抵あまり良い経過を辿ってはいません。

ある人は博士に何年にも渡って、
分析と治療とを受けましたが、
結局博士と仲違いをして、
それから数年後に癌で亡くなりました。
博士はその患者さんの分析を、
本にされていますが、
患者さんが最後に書いた絵の分析で、
ここには自分の中に潜んでいる、
癌の存在が描かれている、
と分析されています。

もし、分かっていたなら、
本人に言ってあげなよ、
という感じですよね。
絵を見ただけで、
癌があることが分かったのに、
その場ではそういう指摘はせず、
患者さんが博士の元を去り、
闘病の末亡くなった後で、
そんなことを言うのです。

酷いですよね。
今なら多分、ネットで袋叩きにされています。

また、ある社会的に地位のある患者さんの夢を、
数年に亘り分析しますが、
その結果その患者さんが、
無理な仕事を続けていて、
早晩自殺するだろうことが分かっていながら、
それも何一つ忠告はせず、
患者さんが実際に自殺された後、
その症例を論文にしています。

これまた、かなり酷いですね。

ある患者さんは、
自分が潜在的に兄を殺したのではないか、
というトラウマに捉われていて、
それが身体の症状となって、
苦しんでいたのですが、
ユング博士はそれを知ると、
「君はお兄さんを殺したんだよ」、
と平然と言い放ち、
ショックを受けたその患者さんは、
そのままユング博士の前から姿を消します。
博士は後に「こう言った時、
患者が立ち直るかどうかは五分五分である」、
と他人事のように講演会で語っています。

博士の後年の研究テーマの1つは、
「マンダラ」でした。
世界の構造を示す「マンダラ」は、
人類共通のシンボルの1つであり、
それの意味するものは、
人間の心の中心である、
「セルフ」という原型なのです。

博士はどんな人間でも、
状況によっては「マンダラ」を描くのだ、
という仮説を立証するため、
多くの患者さんに、
夢や自分の心の絵を描かせ、
それをまとめて一冊の本にしました。
それが「個性化とマンダラ」という名著です。

この本を書くまで、
博士は患者さんに対して、
マンダラの絵を描いたことを、
絶対に他言無用にするように話しました。
もし、患者さんが「先生にこんな絵を描かされたよ」、
何て言ったとすれば、
何の予備知識もなく、
共通性もない人々が、
同じイメージを描いた、
という研究テーマが無に帰してしまうからです。

もしその約束を守らず、
他の人に吹聴した患者さんがいたとしたら、
博士は多分非常に「大人気なく」、
その患者さんを罵倒し、
二度と診察はしないでしょう。

ユング博士が現代にいたとしたら、
どうでしょうね。

患者さんが、
「あのね、今日ユング先生の診察を受けたんだよ、
そこでこう言われたんだ」、
なんてブログで書きますよね。
その度にユング博士は「大人気なく」、
怒り狂い、そのブログを片端から、
削除させてまわることだと、
僕は思います。

何故今日こんなことを話題にしたかと言えば、
診察室の会話は誰がどう守るべきものなのか、
ということについて、
ちょっと考えさせる事例に出くわしたからです。

先日、ブログを書かれていた癌治療専門の医師が、
自分の診ていた患者さんに、
無断で診療中の出来事を、
ネットで公表された、
と怒りのコメントを自分のブログで公表され、
僕はたまたまその医師と患者さんの、
両方の記事を読んでいたので、
色々と考えさせられました。

癌の専門病院へ行って、
酷いことを言われたとか、
診療所で不快な思いをしたとか、
想像を絶するようなとんでもない医者に遭ったとか、
色々な記事が巷には溢れていますよね。
ある意味個人攻撃めいた書き込みも散見されます。
でも、悪口を書かれたからと言って、
通常はそれを正面から問題にしたり、
逆に攻撃したりする医者はあまりいません。

ある近隣の先生で、
自分のクリニックに対する批判めいたコメントを見付けると、
そのサイトの管理者やプロバイダーに、
逐一抗議して、消去させるという人がいます。
それはそれで、
何か偏執狂的なものを感じて僕は嫌悪していますが、
多分そうした医者は例外で、
通常は無視しているのが一般的だと思います。

ただ、ある意味そうした「取り合わない」という態度は、
自分の方が患者さんより上の立場にある、
という考えの裏返しという気が、
しなくもありません。

ブログで患者さんの記事を非難した医師には、
「大人気ない」といった意味合いのコメントが、
多く寄せられたのですが、
それはその医師があくまで対等の立場で、
患者さんと向き合う、
という意思の表れと考えることも出来ます。
「大人気なく」怒るのは、
相手の存在を、
大きく捉えているからですね。
患者さんを下に見ていたら、
そういう怒り方はしません。
「大人気なく」怒るのは、
本気で信じていたものに、
裏切られた、と感じたからです。

ブログで怒ったりせずに、
直接その患者さんに話せばいいじゃないか、
という意見を言う方もいます。

でも、そうでしょうか?
勿論相手の患者さんへの、
配慮には欠けている行為ですが、
遥かに勇気の要ることです。
非難を浴びるのは分かりきっていることですからね。

その一方で、
非難された患者さんの、
書いている日記を読みますと、
これが本当に心に響くものなんです。
所謂「闘病日記」というタイプのもので、
人生にちょっと余裕の出て来た丁度その時に、
癌が見付かって、
治療が困難なことが次第に分かって来て、
それでも必死に生きようと模索を繰り返して。
切なくて胸が苦しくなりますし、
人間が生きるとはどういうことかと、
本当の意味で深く考えさせられます。

文章は人柄を表わしますよね。
ちょっと偏屈だけれど、
誠実で真摯な人柄が、
その行間から漂って来ます。

ただ、この患者さんは、
医師を自分と同じ生身の人間とは、
多分考えてはいないですね。
自分が主人公のドラマの脇役として、
自分の病気に対して、
貢献出来る医師が善玉の脇役で、
貢献しない医師は悪玉の脇役です。
それが多分、この問題の本質的な部分ですね。
でも、それは勿論当然のことです。
病院とはそういうところで、
サービスを提供する場所です。
お金を払うのも自分なのです。
こんなことを書いたら、
それを読んだ医者はどう思うだろうかなんて、
そんなことは考える方が多分おかしなことなのでしょう。

ただ、反発された医師にとっては、
そうではなかった、
とそういうことなのかも知れません。
それが多分「大人気ない」ということの中身です。

この医師も、
ユング博士ほどではないにしても、
かなり偏屈な方だと僕は思います。
直接お会いしたことはないのですが、
多分お会いしたら、
話は全く合わないと思います。
でも、僕が今癌になって、
治療が困難な状態だったら、
多分この人に治療を頼みたいと思います。
これは掛け値なしの僕の気持ちです。
それと少し似た意味合いで、
僕はユング博士のことも好きだし、
尊敬しています。
でも、患者さんにとっては、
時には最悪の医者でもありました。

表面的に物分りのいい人や、
表面的に欠点のない人、
妙に初対面なのに愛想のいいような人が、
僕は嫌いです。
まあ、偏屈ならいい、
という訳でもないんですけどね。

ちょっと話が横に逸れましたね。

闘病日記の作者のことについて、
もう一点だけ触れます。

この方は日記の中で、
匿名の医師や病院の記載と、
実名の記載とを、
混ぜて文章にされています。
ニュアンスからすると、
相手に対して、
若干非難の気持ちがある場合には、
個人攻撃にならないようにと、
配慮されて匿名とし、
相手に対して感謝する気持ちのある場合には、
実名を用いる方針のようです。

ただ、厳しい言い方をすれば、
もしその方針で、
実名を記載するとすれば、
その場合には相手に了解を取るべきです。
全員を実名にするとすれば、
それは1つの見識であり、
1つの覚悟だと思います。
ただ、その場合は日記に出て来る自分の名前も、
家族や友人の名前も、
全て実名にするべきです。
全員匿名にするのも、
1つの見識です。
(僕は基本的にはその方針で、
医療関連の記事は書いています)
ただ、ある程度恣意的な判断で、
実名と匿名とを分けるのであれば、
出来れば相手に断わって、
許可を得てから実名で公開するのが、
望ましい形ではあると思います。

でもまあ、こうしたことは個人の感覚の問題なので、
どうするのが絶対的に正しい、
ということはないのだと思います。
個人の感覚と責任の問題ですよね。
言ってみれば、プライベートな倫理観の問題です。

ひょっとしたら、
多くの闘病記を書かれている方の心の中には、
僕の想像を絶するような医療や医者への不信や怒りがあって、
全て実名を挙げて、
本当はもっと怒りや恨みをぶちまけたいのだけれど、
人間としての品性が、
それを必死で抑え付け、
何とか理性を保って書き上げた結果が、
こうしたアンバランスな実名と匿名との、
混合になっているのではないか、
とそんな風にも思うこともあります。

僕も、
こんな雑文ですけれど、
色々な立場の人が、
それぞれの立場でこの文章を読んだら、
どういう風に感じるだろう、
不用意に不快感を与えるようなことは避けよう、
と考えながら書いているつもりではあるのですが、
それでもなかなか思うようには行きません。

以前書いたある記事で、
不快な感じを持たれた方がいて、
その方のブログで、
「こんなひどい医者がいることが信じられない」と、
書かれたこともあります。
僕としては、
ある種の権威に対する非難を込めた、
エントリーだったのですけれど、
そのことより、
患者さんの症状に対する表現の仕方が、
その方の心を傷付けてしまったようです。
僕の想像力が足りなかったのだと思います。
改めて読み直してみると、
ある種の悪意のようなものが確かに感じられて、
自分の文章の未熟さを感じました。
手を入れようと思いながら、
それも却って良くないか、
と思ったりもして、
今の所そのまま記事は残しています。
難しいものですね。

長くなりましたので、
今日はこのくらいで。

最後に念のため書き添えますが、
闘病記を非難するような意味合いは全くありませんので、
その点は是非誤解のないように読んで頂ければ幸いです。
それから、勿論ユング博士を非難するつもりもありません。
それから、最初に書いたショックなことと、
今日の記事の内容には、
全く関係はありません。

今日は何か説明がくどいですね。

診療は今日もいつも通りです。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0