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依存と自立の心理学 [仕事のこと]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から依頼あり、
往診に行って今戻って来たところです。
事務仕事が溜まっているのですが、
なかなか手が付きません。

それでは今日の話題です。

黒澤明の映画「赤ひげ」に、
加山雄三演じる青年医師が、
心を閉ざした少女を治療する場面があります。

献身的な医師の治療に、
やがて少女は青年医師を愛するようになるのですが、
医師は少女の気持ちを、
そのまま受け取ることが出来ず、
当惑します。
そこで、三船敏郎演じる赤ひげは、
巧みにその少女の愛情を、
浮浪児の少年への、姉としての愛情に、
転換させるのです。
少女は医師に失恋して苦しみますが、
その愛情は無くなることはないので、
次の対象が現われれば、
そこに移動する訳です。
少女はこのことによって、
生きる力を取り戻します。

観たのは随分以前のことなので、
ひょっとしたら違っている点があるかも知れません。
でも、アウトラインはこの通りだった筈です。
そのままサンプルにしたいような、
心理療法のお手本がここにありますね。

病名を書くと、
誤解を招くことが多いことを僕なりに学んだので、
ちょっと曖昧な書き方になることをお許し下さい。

強いストレスを受けたり、
社会とうまく折り合っていくことが出来なくて、
それをきっかけとして、
精神の均衡を崩し、
心療内科や精神科で治療を受けている方がいらっしゃいますね。
そうした方の多くが、
周囲に心を閉ざし、
やや偏った自分でも納得のいかない形でしか、
外界と接触出来ない、
という状況にあります。

内面に向かい、閉ざされた心を開くには、
まずその心の注意を、
外に向けなければいけません。
内に向かう自我は脆弱で、
ちょっとした刺激にも壊れやすく出来ています。
そうした自我が外に向ける感情は、
通常は強い依存の鎧を身に纏っています。
要するに、外の何かに強く依存し、
身を任せ、
それに頼ることで自分を捨てようとするのです。

従って、まずその感情を受け止める、
何らかの器が必要です。
上の「赤ひげ」の例で言えば、
病んだ少女は身体的にまず完全に青年医師に依存し、
次に自分の全てを任せるような形で、
医師に愛情を振り向けます。
この「愛情」は対等なものではなく、
あくまで愛情の衣を被った依存なのです。

病名は必ずしも特定のものに限らないのですが、
精神的な症状が遷延すると、
人は外界と折り合うことを止め、
内向きの自我に籠り、
外界には依存という形でしか、
感情を振り向けなくなりがちです。
依存が受け入れられないと、
その人は「傷付けられた」と言います。
依存が受け入れられると、
その傾向はエスカレートし、
自分の全ての欲求を、
依存する対象に求めようとすることがあります。

治療現場に限定してお話すると、
僕の知っている精神科の医者は、
通常患者さんからの依存を嫌い、
一定の距離と取り、時に突き放した態度を取る事が、
一般的には多いようです。
逆にカウンセラーは、
もう少し濃密な関係を持とうとする傾向があるようです。
ただ、依存は人間に対してだけのものではありません。
医者に依存が困難であると、
今度は薬に依存したり、
「病名」に依存したりすることがあります。

薬の依存症では、
薬に100パーセントの効果を求め、
「この薬を飲んでも効かなかった。
あの薬を飲んでも効かなかった」と、
処方する医者に要求を繰り返し、
結果的に薬の量はどんどんと増えて、
身体自身も薬に依存するようになります。

病名の依存症は、
なかなか適切な診断が付かなかった事例が多いのですが、
ある医療機関で診断名が付くと、
その病名に過度に同化しようとします。
その病気についての情報を、
執拗に収集し、
「〇〇病なのだから、わたしはこういう状態でも仕方がない」、
とか、
「〇〇病のわたしにそういう言い方をするのは、
非常識だし勉強不足で信じられない」、
とかと言って、
自分の行動や感情を、
その診断基準の範囲に収めることが、
正しいことのように振舞います。
ポイントはそれまでは内向きの感情だった、
自分の症状への対応が、
外向きの依存に変わっている、
ということです。
自分の症状に名前が付けられたことで納得したのだ、
と考えるのは誤りです。
自分の内面の症状を、
自分の外にある病名という言葉に、
置き換え、そこに依存しているのです。
それはむしろ自分の症状を、
忘れるための方策なのです。

ちょっと分かり難いでしょうか。

誤解はされないで頂きたいのですが、
僕は依存することが悪いと言っている訳ではありません。
治療の過程でむしろ必要なプロセスなのです。
しかし、そこに留まったままでは意味がありません。
問題は依存による感情を、
真の自立した感情に変換して行くことです。

治療者への依存は、
治療者本人にとっては、
かなりの精神的な負担になるのがきついところですが、
治療状況を共有することにより、
依存からの脱却は、
意外にスムースにいくことが多いのです。
治療者との依存関係が、
それ以上に進展しないことが冷静に理解されると、
外向きの感情は別の対象を、
自然に求めるようになるからです。

問題は薬や病名への依存の場合ですね。
人間としての関係に距離を取りながら、
治療を進めていくと、
治療が進むに従って、
却って依存は進んでしまう、
という悪循環が生じるからです。
病名への依存を強めると、
その症状も、最初とは変化し、
あまり典型的ではないものに変わっていくのです。
それをまた、新しい病気であるかのように、
診断基準を作り、発表する治療者があるのではないか、
というのが、
僕の基本的な問題意識です。

認知行動療法の実例の話のつもりが、
ちょっと観念的な話になりました。
ただ、1人の治療者として、
今一番悩んでいることを文字にしたら、
こんな感じになりました。
何となく、ニュアンスだけ感じて頂ければ幸いです。

それでは今日はこのくらいで。

明日はもう少し分かり易い話をします。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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