青年団「さよならだけが人生か」 [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前午後とも石原が外来を担当します。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
平田オリザさんの作・演出による青年団の公演、
「さよならだけが人生か」を先日鑑賞しました。
僕は平田さんの劇作はそう沢山は観ていません。
最初に観たのが96年の「火宅か修羅か」で、
その後数年は毎回足を運んだのですが、
矢張りあまり好みではなくて足が遠のきました。
スズナリの再演で観た「東京ノート」は、
確かに悪くないと思いました。
でも先入観は良くないと思い、
最近はまた時々観るようになりました。
今回の作品は1992年の初演で、
平田さん自身の言葉によれば、
劇団の出世作ということです。
これは結構難しくて、
正直作品の内包しているものを、
その通りに受け止められたという自信がありませんでした。
以下ネタバレを含む感想です。
舞台はある工事現場の作業員の詰め所で、
工事の最中に遺跡が発見され、
工事は一時休止となって、
遺跡の発掘作業が行われています。
そこで、その日の詰め所には、
手持無沙汰な工事関係者と、
文化庁の職員の女性、
発掘に関わる大学関係者と学生など、
通常はあまり接触をしない立場や年齢の人々が、
たまたま集まるような状況が生じるのです。
これと言った出来事が起こる訳ではないのですが、
年長の作業主任が自分の娘の結婚に複雑な思いを抱いたり、
大学生同士の三角関係めいた恋愛模様があったりして、
世代やインテリジェンスの格差を、
年長者が嘆いたり、
饒舌で攻撃的な作業員が、
未来から現在を俯瞰して世界を憂えるという、
チェホフ劇のような台詞を披露したりもします。
平田さんの劇作では、
いつも舞台上ではなくその外の世界で起こっていることが、
作品中で大きな位置を占めているのですが、
この作品の場合には、
現場の責任者がその日は不在であったり、
登場人物の数人が「ミイラ男」を目撃したり、
詰め所の床に走る亀裂が、
放置されて外へとつながっていたりという、
何かの予感のようなものが明示はされないままに連鎖して、
ラストはある人物が異様な仮面を付けて現れ、
皆がミイラ男の再訪を、
期待と不安を織り交ぜて、
ゴドーのように待つところで終演となります。
演技も演出も練り上げられていて、
如何にも青年団らしい安定感があります。
劇作についても平田さんらしいテーマであり構成だと思うのですが、
矢張りかなり以前に書かれたということもあって、
作者が描こうとした、
舞台の外の世界の空気感のようなものが、
伝わりにくいというきらいはありました。
最後の宴会で皆が歌う、
「とび職暮らし」という歌をどのように聞けば良いのでしょうか?
この場面はある種のユートピアと考えて良いのですか?
世代を超えて皆がしがらみや立場を忘れてひと時飲み歌う、
という情景を、
「人間って悪くないな」というように、
微笑ましいものとして受け止めれば良いのですか?
それとも、薄っぺらな自意識過剰のオナニーのようなものと、
そう捉えるべきでしょうか?
外の世界で起こっているであろうことの深刻さを、
どの程度に受け止めて鑑賞するべきでしょうか?
それが「ミイラ男」と言われると、
とても戸惑う部分があります。
作品としては昨年の新作「日本サポートセンター」と、
同じような構図になっていて、
ラストが歌で締め括られるという辺りも同じです。
ただ、「日本サポートセンター」も最後の歌は蛇足の感じがして、
居心地の悪い気分にはなったのですが、
全体の中でそれほどの重要性を持っていなかったのに対して、
今回の歌はかなり大きな影響を、
作品全体に与えているという気がするので、
その意味合いに納得がいかないと、
どうも全体がモヤモヤとしてしまうのです。
それから、変な笑いというか、
ある程度意図的なものではあると思うのですが、
オヤジギャグ的なものであるとか、
しょうもない間合いで笑いを取るような場面が多くあって、
そこもどうもモヤモヤしてしまいました。
そんな訳で今回はどうも駄目だったのですが、
それは作品自体の問題ではなくて、
作品の空気感のようなものと、
僕の感覚があまり共鳴出来なかった、
というようなことなのではないかと思いました。
岩松了さんの劇作もそうですが、
こうした舞台上に表現されない部分にこそ意味がある、
というタイプの芝居については、
意外に同時代性が強く、
その時代に体験しないと、
ニュアンスが感じにくいという部分はあるように思いました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前午後とも石原が外来を担当します。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
平田オリザさんの作・演出による青年団の公演、
「さよならだけが人生か」を先日鑑賞しました。
僕は平田さんの劇作はそう沢山は観ていません。
最初に観たのが96年の「火宅か修羅か」で、
その後数年は毎回足を運んだのですが、
矢張りあまり好みではなくて足が遠のきました。
スズナリの再演で観た「東京ノート」は、
確かに悪くないと思いました。
でも先入観は良くないと思い、
最近はまた時々観るようになりました。
今回の作品は1992年の初演で、
平田さん自身の言葉によれば、
劇団の出世作ということです。
これは結構難しくて、
正直作品の内包しているものを、
その通りに受け止められたという自信がありませんでした。
以下ネタバレを含む感想です。
舞台はある工事現場の作業員の詰め所で、
工事の最中に遺跡が発見され、
工事は一時休止となって、
遺跡の発掘作業が行われています。
そこで、その日の詰め所には、
手持無沙汰な工事関係者と、
文化庁の職員の女性、
発掘に関わる大学関係者と学生など、
通常はあまり接触をしない立場や年齢の人々が、
たまたま集まるような状況が生じるのです。
これと言った出来事が起こる訳ではないのですが、
年長の作業主任が自分の娘の結婚に複雑な思いを抱いたり、
大学生同士の三角関係めいた恋愛模様があったりして、
世代やインテリジェンスの格差を、
年長者が嘆いたり、
饒舌で攻撃的な作業員が、
未来から現在を俯瞰して世界を憂えるという、
チェホフ劇のような台詞を披露したりもします。
平田さんの劇作では、
いつも舞台上ではなくその外の世界で起こっていることが、
作品中で大きな位置を占めているのですが、
この作品の場合には、
現場の責任者がその日は不在であったり、
登場人物の数人が「ミイラ男」を目撃したり、
詰め所の床に走る亀裂が、
放置されて外へとつながっていたりという、
何かの予感のようなものが明示はされないままに連鎖して、
ラストはある人物が異様な仮面を付けて現れ、
皆がミイラ男の再訪を、
期待と不安を織り交ぜて、
ゴドーのように待つところで終演となります。
演技も演出も練り上げられていて、
如何にも青年団らしい安定感があります。
劇作についても平田さんらしいテーマであり構成だと思うのですが、
矢張りかなり以前に書かれたということもあって、
作者が描こうとした、
舞台の外の世界の空気感のようなものが、
伝わりにくいというきらいはありました。
最後の宴会で皆が歌う、
「とび職暮らし」という歌をどのように聞けば良いのでしょうか?
この場面はある種のユートピアと考えて良いのですか?
世代を超えて皆がしがらみや立場を忘れてひと時飲み歌う、
という情景を、
「人間って悪くないな」というように、
微笑ましいものとして受け止めれば良いのですか?
それとも、薄っぺらな自意識過剰のオナニーのようなものと、
そう捉えるべきでしょうか?
外の世界で起こっているであろうことの深刻さを、
どの程度に受け止めて鑑賞するべきでしょうか?
それが「ミイラ男」と言われると、
とても戸惑う部分があります。
作品としては昨年の新作「日本サポートセンター」と、
同じような構図になっていて、
ラストが歌で締め括られるという辺りも同じです。
ただ、「日本サポートセンター」も最後の歌は蛇足の感じがして、
居心地の悪い気分にはなったのですが、
全体の中でそれほどの重要性を持っていなかったのに対して、
今回の歌はかなり大きな影響を、
作品全体に与えているという気がするので、
その意味合いに納得がいかないと、
どうも全体がモヤモヤとしてしまうのです。
それから、変な笑いというか、
ある程度意図的なものではあると思うのですが、
オヤジギャグ的なものであるとか、
しょうもない間合いで笑いを取るような場面が多くあって、
そこもどうもモヤモヤしてしまいました。
そんな訳で今回はどうも駄目だったのですが、
それは作品自体の問題ではなくて、
作品の空気感のようなものと、
僕の感覚があまり共鳴出来なかった、
というようなことなのではないかと思いました。
岩松了さんの劇作もそうですが、
こうした舞台上に表現されない部分にこそ意味がある、
というタイプの芝居については、
意外に同時代性が強く、
その時代に体験しないと、
ニュアンスが感じにくいという部分はあるように思いました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2017-07-01 10:51
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