ロベール・ルパージュ「887」 [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
何もなければ1日のんびり過ごす予定です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
6月23日から26日まで、
東京芸術劇場のプレイハウスにて、
ロベール・ルパージュさんの自伝的1人芝居、
「887」が上演されました、
その初日に足を運びました。
ロベール・ルパージュさんはカナダ出身の舞台演出家で、
プロジェクション・マッピングなどを先駆的に使用して、
映像の魔術師と称され、
シルク・ドソレイユの舞台の演出や、
メトロポリタン・オペラの演出なども手がけています。
大掛かりな舞台の演出も得意なルパージュさんですが、
その一方で今回のような、
ミニマムな演劇の上演も続けています。
今回の作品はルパージュさん本人の出演する1人芝居で、
上記の映像を見るだけでも、
何か幻想的で美しい舞台が期待出来そうです。
そんな訳で結構期待をして出掛けたのですが、
英語とフランス語を織り交ぜた台詞に日本語の字幕が付く、
という形式での上演で、
その全体を深く理解するには、
そもそもハードルが高いのですが、
内容自体もあまり僕好みの作品ではなく、
その演出自体も、
「映像の魔術師」と言うほどではない、
という気がして、
あまり乗れない観劇となりました。
これはそもそも「ポエトリー・リーディング」のお芝居です。
この場合は自作ではないのですが、
ある詩の朗読を依頼された、
というのが発端になっていて、
そこから所謂「想い出巡り」が始まるのですが、
クライマックスはその詩の朗読風景を、
特にケレン味なく演じて終わるのです。
欧米の演劇というのは、
言葉を韻を踏んで語るということ自体を、
演劇の到達点のように考えている節があって、
何か客席に向かって朗々と語り出すのですが、
正直その「情感の押し売り」のような押し付けがましく仰々しい感じには、
勿論その微妙なニュアンスは分からない、ということが大きいのですが、
いつもうんざりするような思いがして、
面白いと思ったことがありません。
先日大好きなパティ・スミスの公演に行きましたが、
彼女ですら、
ポエトリー・リーディングの部分は退屈に感じ、
旋律のある歌になると、
これはもう最高に感じました。
僕は演劇というのは、
もう少し屈折した部分や、
さりげない部分が良いと思っているので、
仰々しく前を向いて、
大声で詩を朗読し、
その世界に陶酔する、
というようなものが、
演劇とは到底思えないのです。
ただ、そう思わない方も多いと思いますし、
今回のような作品に、
感銘を受ける方もいらっしゃると思うので、
それを否定するつもりは全くありません。
作品は想い出巡りの部分で色々と仕掛けがあります。
大きなミニチュアのアパートのセットがあって、
それが回転すると別の部屋が広がります。
小さいカメラでミニチュアを写したりする趣向もあります。
セットの構造は庭劇団ペニノに非常に良く似ていましたが、
どちらかがどちらかに影響を受けた、
ということもあるのかも知れません。
多くの黒子が見えないようにセットチェンジをする、
というような趣向も欧米の演劇でお馴染みの感じです。
日本では歌舞伎や文楽の影響が大きいので、
黒子は舞台に見えるようにすることの方が多いのですが、
欧米演劇では敢くまで見えないことの方が多いと思います。
ただ、それほどびっくりするような趣向や、
新鮮に感じるものはありませんでした。
舞台セット自体ももっと小劇場向けのものなので、
プレイハウスの大きな空間には、
マッチしていない気がしましたし、
遠くの席からでは、
何をやっているのか分からない場面が多かったと思います。
これはもっと小劇場で上演するべき芝居だと思いました。
内容はルパージュさんがフランス系のカナダ人で、
カナダではマイノリティのために、
色々と差別に遭った、
というような個人的な恨みつらみのようなものが主体で、
あまりに主観的で一方的に思えたので、
これも何となくゲンナリしました。
個人的なそうした恨みつらみを、
世界中で上演するという姿勢自体にも、
何となく疑問を感じました。
そんな訳でとても乗り切れない上演だったのですが、
日本の演劇にはない新鮮さもあり、
それなりに楽しんで劇場を後にしました。
今日はもう1本演劇の記事があります。
それでは次に続きます。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
何もなければ1日のんびり過ごす予定です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
6月23日から26日まで、
東京芸術劇場のプレイハウスにて、
ロベール・ルパージュさんの自伝的1人芝居、
「887」が上演されました、
その初日に足を運びました。
ロベール・ルパージュさんはカナダ出身の舞台演出家で、
プロジェクション・マッピングなどを先駆的に使用して、
映像の魔術師と称され、
シルク・ドソレイユの舞台の演出や、
メトロポリタン・オペラの演出なども手がけています。
大掛かりな舞台の演出も得意なルパージュさんですが、
その一方で今回のような、
ミニマムな演劇の上演も続けています。
今回の作品はルパージュさん本人の出演する1人芝居で、
上記の映像を見るだけでも、
何か幻想的で美しい舞台が期待出来そうです。
そんな訳で結構期待をして出掛けたのですが、
英語とフランス語を織り交ぜた台詞に日本語の字幕が付く、
という形式での上演で、
その全体を深く理解するには、
そもそもハードルが高いのですが、
内容自体もあまり僕好みの作品ではなく、
その演出自体も、
「映像の魔術師」と言うほどではない、
という気がして、
あまり乗れない観劇となりました。
これはそもそも「ポエトリー・リーディング」のお芝居です。
この場合は自作ではないのですが、
ある詩の朗読を依頼された、
というのが発端になっていて、
そこから所謂「想い出巡り」が始まるのですが、
クライマックスはその詩の朗読風景を、
特にケレン味なく演じて終わるのです。
欧米の演劇というのは、
言葉を韻を踏んで語るということ自体を、
演劇の到達点のように考えている節があって、
何か客席に向かって朗々と語り出すのですが、
正直その「情感の押し売り」のような押し付けがましく仰々しい感じには、
勿論その微妙なニュアンスは分からない、ということが大きいのですが、
いつもうんざりするような思いがして、
面白いと思ったことがありません。
先日大好きなパティ・スミスの公演に行きましたが、
彼女ですら、
ポエトリー・リーディングの部分は退屈に感じ、
旋律のある歌になると、
これはもう最高に感じました。
僕は演劇というのは、
もう少し屈折した部分や、
さりげない部分が良いと思っているので、
仰々しく前を向いて、
大声で詩を朗読し、
その世界に陶酔する、
というようなものが、
演劇とは到底思えないのです。
ただ、そう思わない方も多いと思いますし、
今回のような作品に、
感銘を受ける方もいらっしゃると思うので、
それを否定するつもりは全くありません。
作品は想い出巡りの部分で色々と仕掛けがあります。
大きなミニチュアのアパートのセットがあって、
それが回転すると別の部屋が広がります。
小さいカメラでミニチュアを写したりする趣向もあります。
セットの構造は庭劇団ペニノに非常に良く似ていましたが、
どちらかがどちらかに影響を受けた、
ということもあるのかも知れません。
多くの黒子が見えないようにセットチェンジをする、
というような趣向も欧米の演劇でお馴染みの感じです。
日本では歌舞伎や文楽の影響が大きいので、
黒子は舞台に見えるようにすることの方が多いのですが、
欧米演劇では敢くまで見えないことの方が多いと思います。
ただ、それほどびっくりするような趣向や、
新鮮に感じるものはありませんでした。
舞台セット自体ももっと小劇場向けのものなので、
プレイハウスの大きな空間には、
マッチしていない気がしましたし、
遠くの席からでは、
何をやっているのか分からない場面が多かったと思います。
これはもっと小劇場で上演するべき芝居だと思いました。
内容はルパージュさんがフランス系のカナダ人で、
カナダではマイノリティのために、
色々と差別に遭った、
というような個人的な恨みつらみのようなものが主体で、
あまりに主観的で一方的に思えたので、
これも何となくゲンナリしました。
個人的なそうした恨みつらみを、
世界中で上演するという姿勢自体にも、
何となく疑問を感じました。
そんな訳でとても乗り切れない上演だったのですが、
日本の演劇にはない新鮮さもあり、
それなりに楽しんで劇場を後にしました。
今日はもう1本演劇の記事があります。
それでは次に続きます。
2016-07-03 11:47
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