三谷幸喜「国民の映画」 [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
朝からいつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
駒沢公園の桜は5分咲きくらい。
少し寒いですが、
桜の下を走るのは気分が良いですね。
昨日は「すべらない話」の傑作選を見ながら、
寝てしまったのですが、
僕はあれは苦手で、
あまり面白さが分かりません。
いつもチラ見して詰まらなくなり、
昨日はそれでも真髄を掴もうと思って、
真面目に見たのですが、
矢張り眠くなってしまいました。
確かに昔コンパなどに行くと、
ああいう座談というのか、
「これ面白いだろ」
みたいな話を、
脂ぎった顔をして、
唾を飛ばしながら話すような人がよくいて、
それなりに人気者でもあったのですが、
僕はそうした人が嫌いだったので、
そんなことを思い出してしまうからかも知れません。
話芸というのは、
ああいうものとは違うよね。
でも、企画としては成立して、
面白いと思う方も多いと思うので、
それで良いのかも知れません。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
三谷幸喜の新作が、
パルコ劇場で今日まで上演されています。
僕は先週見に行きました。
この作品は第二次大戦中、
ナチの宣伝大臣ゲッペルスが、
当時のドイツの映画人を総動員して、
ナチの思想に合致しながら、
国威を高揚し、
それでいてアメリカのハリウッド映画に負けない、
娯楽大作映画を企画し、
そのお披露目の会を自邸で開く、
その一夜の出来事を描いたものです。
日本人主体のキャストで外国人を演じる、
要するに洋物で歴史物です。
日本人の1人も出て来ない、
三谷幸喜の劇作品は、
多分初めてだと思います。
あ、でもサンシャインボーイズ時代の初期に、
アメリカを舞台にしたコメディがあったような…
定かではありません。
ただ、少なくとも最近はなかったと思います。
(付記)
コメントでご指摘頂きましたように、
「コンフィデント・絆」がありました。
すいません、訂正します。
(4月4日追加)
以下、ネタバレを含む感想です。
これからご観劇の予定の方は、
注意してお読み下さい。
作品の構成はサンシャインボーイズ時代の、
快作の1つ、
「彦馬がゆく」に似ています。
「彦馬がゆく」は幕末もので、
竜馬などの写真を撮った、
長崎の写真師の一家が主人公です。
写真師は竜馬も近藤勇も、
分け隔てなく写真を撮った訳で、
その視点から、
本当の人間の生活とは何か、
という大きな問題をコミカルに描いているのです。
劇中坂本竜馬が登場するのですが、
こいつが女たらしの嫌な奴で、
写真師一家の息子が思いを寄せる町娘を、
竜馬は手玉に取り、捨ててしまうのです。
「俺はこの国にとって必要な人間なんだ」
と言う竜馬に対し、
「それは分からないが、この娘を不幸にするお前は許せない」
と写真師の息子は言います。
ポイントは嫌な奴の竜馬が、
それでいて英雄でもある、
ということが分かるように描かれていることです。
こうした所に、
三谷幸喜の才能を感じます。
英雄も権力者も偉人も、
ロクな奴じゃない。
でも、そういう嫌な奴の力で、
人間の社会は進歩し、
安定し、そして一般の多くの人達の生活がある。
嫌な奴に従わなければ、
自分達のささやかな生活も守れない。
この矛盾が三谷作品には、
色濃く匂っています。
そうした所が僕は好きです。
坂本竜馬をね、
嫌な奴に描くのは難しいのです。
下手をすれば袋叩きです。
それをサラリと成し遂げて、
それでいて竜馬の英雄性を否定していない。
この辺は非常に見事だと僕は思います。
それで今回の「国民の映画」は、
これもコメディとして取り上げるのは非常に難しい、
ナチの話を敢えて取り上げています。
ナチの宣伝大臣のゲッペルスが主役で、
ゲーリングとヒムラーが脇で登場します。
ナチの高官を主役にして、
コメディを作る。
これは普通に考えると不可能事に思えます。
ナチは旧日本軍と一緒で、
フィクションにおいては、
悪役にせざるを得ません。
彼らをフィクションの中とは言え、
そう悪い奴じゃないよ、
と言えば、
それはもう袋叩きになってしまうからです。
その問題を三谷幸喜はどう解決したのでしょうか?
主役のゲッペルスは小日向文世が演じ、
女たらしで悪党でもあるけれど、
無類の映画好きで、
映画のためなら主義主張も簡単に変え、
処罰すべき人間も、
映画人であるなら許してしまう、
という人間として描かれます。
この作品にはナチと、
そこに協力した映画人が次々と登場し、
そしてナチに迫害された作家のエーリヒ・ケストナーが、
裏の主役として登場します。
登場人物の全てが、
映画好きという一点では、
強く繋がっています。
その事実が、
絶望的な時代でも藝術が全ての人を結び付ける可能性がある、
という三谷幸喜の一貫した主張の現われなのだと思います。
ケストナーは昔会ったファンのことなど、
すっかり忘れてしまっている、
かなり嫌な奴に描かれていて、
これは「彦馬がゆく」の竜馬と一緒です。
三谷幸喜は一面的な英雄というものに、
基本的な懐疑を持っているのです。
オープニングの場面は印象的です。
ゲッペルスが自分の邸宅で、
8ミリ(もしくは16ミリ)の映写機を、
実はユダヤ人の執事に操作させ、
チャップリンのコメディを、
楽しそうに見ています。
つまり、ナチの悪党とユダヤ人と、
チャップリンが、
同じ空間で同じ映画愛では結ばれているのです。
互いに憎悪するこの3人が、
映画愛で奇跡的に結ばれているのです。
映画の素晴らしさは、
藝術の素晴らしさは、
まさにそこにあるのだよ、
と言うそのことが、
台詞がないのに、
雄弁に語られているのです。
僕はこの趣向はとても好きで、
三谷幸喜の何と言うのか、
精神的な高みを見る思いがしました。
ただ、正直作品全体としては、
「彦馬がゆく」にはかなり劣ります。
まず、長過ぎます。
1幕が60分で休憩を挟んで2幕が100分弱。
前半はワクワクするのですが、
後半がダレます。
2幕は60分なら傑作になったと思います。
更にはラストになると、
ユダヤ人であった執事の正体にヒムラーが気付き、
執事が収容所に送られる悲劇になります。
何の捻りもなくユダヤ人の迫害と虐殺の、
悲劇が語られます。
これは構成上止むを得ないことだと思いますが、
正直結果としてこうした物語に集束するのであれば、
それまで人間的に描かれて来たナチの高官は、
一体何だったのか、ということになります。
特にヒムラーの役柄に関しては、
三谷幸喜自身、
少し迷いがあるように感じました。
ナチを素材にした作品は、
決められた構成を乱せば、
非難を浴びる可能性が高いので、
矢張り鬼門の部分があるのだな、
と感じました。
ユダヤ人の身になって考えるなどと言うことは、
日本人にとっては不可能なことのように、
思えるからです。
役者は皆過不足のない好演でした。
特に小日向文世は見事で、
映画の話を聞く時の表情が、
ちょっと作為的過ぎると思いますが、
彼の代表作と言って良い出来栄えです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
朝からいつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
駒沢公園の桜は5分咲きくらい。
少し寒いですが、
桜の下を走るのは気分が良いですね。
昨日は「すべらない話」の傑作選を見ながら、
寝てしまったのですが、
僕はあれは苦手で、
あまり面白さが分かりません。
いつもチラ見して詰まらなくなり、
昨日はそれでも真髄を掴もうと思って、
真面目に見たのですが、
矢張り眠くなってしまいました。
確かに昔コンパなどに行くと、
ああいう座談というのか、
「これ面白いだろ」
みたいな話を、
脂ぎった顔をして、
唾を飛ばしながら話すような人がよくいて、
それなりに人気者でもあったのですが、
僕はそうした人が嫌いだったので、
そんなことを思い出してしまうからかも知れません。
話芸というのは、
ああいうものとは違うよね。
でも、企画としては成立して、
面白いと思う方も多いと思うので、
それで良いのかも知れません。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
三谷幸喜の新作が、
パルコ劇場で今日まで上演されています。
僕は先週見に行きました。
この作品は第二次大戦中、
ナチの宣伝大臣ゲッペルスが、
当時のドイツの映画人を総動員して、
ナチの思想に合致しながら、
国威を高揚し、
それでいてアメリカのハリウッド映画に負けない、
娯楽大作映画を企画し、
そのお披露目の会を自邸で開く、
その一夜の出来事を描いたものです。
日本人主体のキャストで外国人を演じる、
要するに洋物で歴史物です。
日本人の1人も出て来ない、
三谷幸喜の劇作品は、
多分初めてだと思います。
あ、でもサンシャインボーイズ時代の初期に、
アメリカを舞台にしたコメディがあったような…
定かではありません。
ただ、少なくとも最近はなかったと思います。
(付記)
コメントでご指摘頂きましたように、
「コンフィデント・絆」がありました。
すいません、訂正します。
(4月4日追加)
以下、ネタバレを含む感想です。
これからご観劇の予定の方は、
注意してお読み下さい。
作品の構成はサンシャインボーイズ時代の、
快作の1つ、
「彦馬がゆく」に似ています。
「彦馬がゆく」は幕末もので、
竜馬などの写真を撮った、
長崎の写真師の一家が主人公です。
写真師は竜馬も近藤勇も、
分け隔てなく写真を撮った訳で、
その視点から、
本当の人間の生活とは何か、
という大きな問題をコミカルに描いているのです。
劇中坂本竜馬が登場するのですが、
こいつが女たらしの嫌な奴で、
写真師一家の息子が思いを寄せる町娘を、
竜馬は手玉に取り、捨ててしまうのです。
「俺はこの国にとって必要な人間なんだ」
と言う竜馬に対し、
「それは分からないが、この娘を不幸にするお前は許せない」
と写真師の息子は言います。
ポイントは嫌な奴の竜馬が、
それでいて英雄でもある、
ということが分かるように描かれていることです。
こうした所に、
三谷幸喜の才能を感じます。
英雄も権力者も偉人も、
ロクな奴じゃない。
でも、そういう嫌な奴の力で、
人間の社会は進歩し、
安定し、そして一般の多くの人達の生活がある。
嫌な奴に従わなければ、
自分達のささやかな生活も守れない。
この矛盾が三谷作品には、
色濃く匂っています。
そうした所が僕は好きです。
坂本竜馬をね、
嫌な奴に描くのは難しいのです。
下手をすれば袋叩きです。
それをサラリと成し遂げて、
それでいて竜馬の英雄性を否定していない。
この辺は非常に見事だと僕は思います。
それで今回の「国民の映画」は、
これもコメディとして取り上げるのは非常に難しい、
ナチの話を敢えて取り上げています。
ナチの宣伝大臣のゲッペルスが主役で、
ゲーリングとヒムラーが脇で登場します。
ナチの高官を主役にして、
コメディを作る。
これは普通に考えると不可能事に思えます。
ナチは旧日本軍と一緒で、
フィクションにおいては、
悪役にせざるを得ません。
彼らをフィクションの中とは言え、
そう悪い奴じゃないよ、
と言えば、
それはもう袋叩きになってしまうからです。
その問題を三谷幸喜はどう解決したのでしょうか?
主役のゲッペルスは小日向文世が演じ、
女たらしで悪党でもあるけれど、
無類の映画好きで、
映画のためなら主義主張も簡単に変え、
処罰すべき人間も、
映画人であるなら許してしまう、
という人間として描かれます。
この作品にはナチと、
そこに協力した映画人が次々と登場し、
そしてナチに迫害された作家のエーリヒ・ケストナーが、
裏の主役として登場します。
登場人物の全てが、
映画好きという一点では、
強く繋がっています。
その事実が、
絶望的な時代でも藝術が全ての人を結び付ける可能性がある、
という三谷幸喜の一貫した主張の現われなのだと思います。
ケストナーは昔会ったファンのことなど、
すっかり忘れてしまっている、
かなり嫌な奴に描かれていて、
これは「彦馬がゆく」の竜馬と一緒です。
三谷幸喜は一面的な英雄というものに、
基本的な懐疑を持っているのです。
オープニングの場面は印象的です。
ゲッペルスが自分の邸宅で、
8ミリ(もしくは16ミリ)の映写機を、
実はユダヤ人の執事に操作させ、
チャップリンのコメディを、
楽しそうに見ています。
つまり、ナチの悪党とユダヤ人と、
チャップリンが、
同じ空間で同じ映画愛では結ばれているのです。
互いに憎悪するこの3人が、
映画愛で奇跡的に結ばれているのです。
映画の素晴らしさは、
藝術の素晴らしさは、
まさにそこにあるのだよ、
と言うそのことが、
台詞がないのに、
雄弁に語られているのです。
僕はこの趣向はとても好きで、
三谷幸喜の何と言うのか、
精神的な高みを見る思いがしました。
ただ、正直作品全体としては、
「彦馬がゆく」にはかなり劣ります。
まず、長過ぎます。
1幕が60分で休憩を挟んで2幕が100分弱。
前半はワクワクするのですが、
後半がダレます。
2幕は60分なら傑作になったと思います。
更にはラストになると、
ユダヤ人であった執事の正体にヒムラーが気付き、
執事が収容所に送られる悲劇になります。
何の捻りもなくユダヤ人の迫害と虐殺の、
悲劇が語られます。
これは構成上止むを得ないことだと思いますが、
正直結果としてこうした物語に集束するのであれば、
それまで人間的に描かれて来たナチの高官は、
一体何だったのか、ということになります。
特にヒムラーの役柄に関しては、
三谷幸喜自身、
少し迷いがあるように感じました。
ナチを素材にした作品は、
決められた構成を乱せば、
非難を浴びる可能性が高いので、
矢張り鬼門の部分があるのだな、
と感じました。
ユダヤ人の身になって考えるなどと言うことは、
日本人にとっては不可能なことのように、
思えるからです。
役者は皆過不足のない好演でした。
特に小日向文世は見事で、
映画の話を聞く時の表情が、
ちょっと作為的過ぎると思いますが、
彼の代表作と言って良い出来栄えです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2011-04-03 09:43
nice!(29)
コメント(10)
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私は、三谷の作品を見たことはありません。
でも、先生のお話を読んで面白そうだなあと思いました。と言うかきっと私は好きです。私ってそういうところを持った、ある種不思議ちゃんなんですよ(笑)
by yuuri37 (2011-04-03 12:27)
私は、個人的に戸田恵子さんが大好きなので、彼の作品にはよく出演されていて、うれしいです。
彦馬ですが、三谷さんがちょび出されていた作品ですよね。歴史の偉人たちが随分親しみやすくなっていて、独特の世界観に圧倒されたように覚えています。
by ゆうな (2011-04-03 21:27)
yuuri37さんへ
コメントありがとうございます。
今年は三谷幸喜は大活躍の筈だったのですが、
この震災で水を差された感はあります。
この作品もこんな時代になるなら、
ハッピーエンドにしてた筈だと思います。
by fujiki (2011-04-03 21:53)
ゆうなさんへ
コメントありがとうございます。
サンシャインボーイズの初期は、
普通に役者で出ていましたね。
戸田恵子さんは、
ごめんなさい、僕はどちらかと言うと苦手です。
でも、三谷作品にはベストフィットですね。
by fujiki (2011-04-03 22:02)
はじめまして。
最近でも、2007年に
コンフィダント・絆という作品で
赤毛物(全員)をやられてますよ(PARCO)。
by masa (2011-04-04 10:10)
masa さんへ
ご指摘ありがとうございます。
あれもパルコでしたね。
僕は見ていなかったので忘れていました。
訂正させて頂きます。
後はなかったですよね…
by fujiki (2011-04-04 22:08)
初めてコメントいたします。
先生のブログ、楽みながら勉強させて頂いております。
三谷幸喜作品が大好きな私といたしましてはコメントを我慢できませんでした。
先生のご指摘の坂本龍馬を悪役にという部分、私も同感であります。
三谷作品では、勧善懲悪の趣向があまりなく
悪人だって笑ったり、家族がいたり、恋愛したり、うんちしたり
ヒーローもまた然り
という描かれ方をしている気がします。
それはある種の価値観の多様性を認め、そうした価値の中でも共感を呼ぶのは『生活』すなわち『生命活動』だと語りかけてきている気がしています。
これからもブログ楽しみにしております。
長文失礼いたしました。
by しもくすぞの (2011-04-11 21:17)
しもくすぞのさんへ
コメントありがとうございます。
ご指摘の通りですね。
僕は今の演劇人では、
三谷幸喜と井上ひでのり(+中島かずき)の、
この世界に関するバランス感覚には、
ある程度の信頼を置いています。
今年は比較的好調のようで、
残り2本も楽しみですね。
by fujiki (2011-04-11 21:49)
初めまして。今日 森ノ宮ピロティホールで見てきました。余韻覚めやらないところ、このブログを読ませて頂き嬉しくなりました。聞いて下さい。先行予約で申し込みましたが、抽選で後ろから3番目 右端から3番目というあんまりといえばあまりの席でした。席の等級はなく一律9500円。役者さんの表情どころか顔も良く見えず 舞台独特の臨場感も醍醐味も希薄。これまで舞台をこんな席で見たことがなかったので、座席でこんなに違うのかと、役者さんがよかっただけにそれを堪能できず、ちょっとがっかり。それでも三谷幸喜ワールドはさすがでした。 人間的に書かれてきたヒムラーに関して、歴史として見る私たちからは異常なこの時代ですが、カイガラムシの生命には愛を注ぐ人間的な面もある、そんなヒムラーがこの時代の空気のただなかでは、制服に象徴される立場で、いくらでも残忍になることができる、しかも本人はその異常さに気づいていない 今の私たちにも通じる不気味さを三谷幸喜は確信的に書いたような気がして、あっぱれと感じたのですが。救えない話だからこそユーモアが説得力を持つような。フリッツを最後に優しく労わった天然のような妻が後で「~にしては感じがよかった。」という短い台詞。小さなどんでん返し。怖かった。でもこれが異常な時代を生んだ、(あるいはこれからも別の形でありうるかもしれない)本当の怖さと明確に示してくれた さすが三谷幸喜。
例え最悪の席でもまた見に行きたくなりました。
by パンジー (2011-04-18 21:43)
パンジーさんへ
コメントありがとうございます。
舞台は矢張り席でも大分違いますね。
僕も先行予約では、
何度も痛い目を見ています。
ゲッペルスの奥さんはあの台詞を、
階段を登りながら、
舞台から消える寸前に言うんですよね。
ちょっと作為的過ぎる気もしましたが、
ああいう計算はさすがに上手いと思いました。
by fujiki (2011-04-18 22:24)