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S先生のこと [フィクション]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は水曜日なので、
診療は午前中で終わり、
午後は終日事務仕事の予定です。

それでは今日の話題です。

今日の話は、昨日の続編のようなものです。
こちらもフィクションとしてお読み下さい。

大学病院を辞めてから、
僕は一時心療内科のS先生の所で、
1年ほど心療内科の研修を受けました。

S先生はその当時長野県の山間の村で、
精神医療の往診を、
積極的に行なっている、
という「変わり者」の開業医でした。

S先生は元々は内科の医者ですが、
日本海側の国立の大学医学部を卒業するとすぐに、
大学病院を離れて、
農協関連の中規模病院に就職しました。
その時点で既に先生は変わり種です。
その病院は内科学会の認定研修施設ではないので、
幾ら臨床のスキルを積んでも、
内科の認定医や専門医にはなれないからです。

S先生は地域医療に携わる中で、
心身相関に興味を持ちます。
たとえ身体の病気が原因であったとしても、
その患者さんの実際の症状、
その悩みや苦しみは、
心理的なものであり、
精神的なものであることが殆どだからです。

それでS先生はその県の大学病院の精神科に、
研修生のような形で席を置き、
精神科の研修を受けると、
まだ精神科のなかった、
その勤め先の病院に戻り、
精神科の診療を始めたのです。

S先生のユニークさは、
在宅医療に力を入れたことでした。
先生のいたその病院自体、
僻地医療に力を入れていて、
無医村の診療所に医師を派遣したり、
深夜でも急変があれば、
当直医が往診して、
時には死亡確認もする、
というような対応を続けていました。

S先生はその僻地医療の、
精神科版を始めました。
特に認知症のお年寄りは、
田舎の村では、医療機関に見せる、
というような習慣はなく、
むしろ身内の恥を晒すようで、
嫌う家族が多かったのです。
外来で待っていても、
本当に困っている患者さんは、
そこを訪れてはくれません。

それで先生は、まず家族の話をよく聴くところから始め、
少しずつ相手の警戒心を取っていって、
それから頃合いを見て、
往診の段取りを組みました。

そうした取り組みが、
数年経つとその土地にしっかり根付き、
先生は毎日のように無医村を飛び回り、
ただ言葉だけの診察を続けました。

僕がS先生に初めて会ったのは、
その病院に医局からのバイトで行った時のことです。

その時にはもう先生は病院の常勤は辞めて、
近くの山間に、自分の診療所を開設していました。
それでも、週に1回だけ古巣の病院でも外来に出ています。

糖尿病の専門外来をしていた僕は、
認知症の相談を患者さんからされて対処に困り、
その時にS先生に助言を請いました。

先生は僕の初歩的な質問に、
懇切丁寧に答えてくれました。
僕はそれでいっぺんに、
先生のファンになったのです。
その後何度か外来の時に先生に会い、
精神疾患の世界を垣間見て、
非常な興味を覚えました。
先生が僕に見せてくれたその世界は、
「年寄りのボケ」や「引き籠もり」といった、
ひどく身近な世界です。

先生はある時、
「一度ボクの診療所に遊びに来て見ませんか。
先生が非常勤で来てくれたら、
とても頼もしいんだけどな」
と言いました。
年の割に皺の多い丸顔には、
いつもの柔和な笑みが張り付いています。

今思えば、どう考えても社交辞令です。
僕は生意気盛りでしたが、
先生だって元は内科のトレーニングを受けた医者なのです。
僕が行ったところで、
役に立つとは到底思えません。

でも、僕はその社交辞令を真に受けて、
頭の中に沈めて置きました。

そして、医局を辞めてしばらく途方に暮れていた僕は、
S先生に連絡を取ったのです。

しばらく先生のところで働きたい、と言った僕に、
先生は珍しくちょっと困った顔をしました。
その瞬間に、僕はあれが社交辞令だったことに気付き、
赤面するような思いになりました。
でも、先生はすぐに気を取り直したようにこちらを向き、
「まともな給料は出せないですよ」
と言いました。

それからの1年余で、
僕は先生と共に、
非常に多くの経験をしました。
楽しいこともありましたが、
その数倍、辛い切ない思いにも向き合いました。
それはまた、差し障りのない範囲で、
いつかお話したいと思います。

先生はヘビースモーカーで、
お酒も毎日飲みます。
それは1日の区切りの儀式のようです。
心房細動の持病があり、
ワーファリンを飲んでいるので、
お酒の量は以前よりは減っているそうですが、
それでもかなりのものでした。
不思議と深酒をした翌日も、
酒臭い息にはなりませんが、
ちょっと呂律の廻らない話し方になります。
団塊の世代で、
バリバリの活動家で、
それが大学にいられなくなった理由のようでしたが、
そうした政治的な話を、
僕にすることは殆どありませんでした。

東京に戻ることを決めた僕が、
その話をすると、
「そうですか。うん、それがいいですね」
と言って、その夜はそれを肴に一緒にお酒を飲みました。

僕が今内科と小児科、心療内科の診療所をしているのは、
勿論それだけが理由ではありませんが、
間違いなくS先生との出会いがあったからです。

ここまでで話が終われば、
何となく美談のような感じになるのかも知れません。

ただ、実際には続きがあります。

僕が診療所を始めてから、
4年ほど経った時に、
S先生が僕の外来を予告なく受診されました。
5年ぶりの再会です。

先生は以前よりかなり痩せていて、
一回り縮んだような印象でした。
その両手は常に小刻みに震えています。
僕の顔を見ると、「いやあ、久しぶりですね」
と笑顔を見せ、それだけは以前と変わりはありませんでした。
でも、すぐに真顔に戻ると、
「先生、実は今日はボクのお薬を出してもらいたくて来たんです」
と言われました。
「どんな薬ですか?」
何か嫌な予感がします。
「色々ありましてね、眠れないんです」
「睡眠剤は何を?」
「ハルシオンとサイレースですね」
「じゃ、2週間分ずつ出しますね」
「それとリタリンを」
一瞬、息が止まりました。
先生の顔を見ると、
何か怯えるような色が見え隠れしています。
「でも先生もご存知のようにあの薬は…」
「ええ。でも最近あれしか効かなくなりましてね。
気持ちが全くまとまらんのです」

リタリンは依存性の強い薬です。
僕は先生がリタリン中毒になっていることに気付きました。

勿論リタリンは、
ある特定のご病気の患者さんやお子さんでは、
現在でも重要な薬であり、
適正使用であれば問題はありません。
ただ、気分が高揚する、とか、
目が醒めてすっきりする、
といった目的で、
安易に使用されると依存性が強く、
簡単に強い依存を形成します。

先生は勿論リタリンの適応になるような、
持病をお持ちだった訳ではなく、
色々な抗うつ剤や安定剤を大量に試した上で、
リタリンを常時大量に服用しないと、
気分の安定を保てないような状態になっていたのです。
そんなことは、しかし、
先生は誰よりもよくご存知の筈でした。

それで「1回きりですよ」と念を押して、
当座の分のリタリンを処方しました。
まだリタリンの処方の規制が、
今ほど厳しくはなかった頃の話です。

先生は困っておられたのだと思いますし、
僕はもう少し先生に出来る何かを、
その時するべきだったのだと今は思います。
ただ、その時はあまりのことに動揺してしまって、
何も言うことが出来ず、
先生はそのまま処方箋を受け取って、
何も言わずに帰ってしまわれました。

それから僕は今まで、
S先生に会ったことはありません。
先生の方から連絡のあることもありませんでしたし、
診療所を再度受診されることもなく、
こちらから連絡を取る手立てもありませんでした。

後から聞いた話では、
先生はその2年ほど前に診療所を閉め、
老人保健施設の施設長になったのですが、
入所者の家族から訴えられるというトラブルがあって、
その施設の経営が立ち行かなくなり、
悩んでいたのだという話でした。
その後の消息は聞いていません。

自分が「良心的な医者」であることに、
ある種の強いプライドを持っていた先生でしたから、
ご家族から訴えを起こされることで、
そのプライドがズタズタになり、
そのことに耐えられなくなったのかも知れません。

僕が研修を受けていた時には、
常用的な薬の依存には、
気が付きませんでしたが、
お酒に対するある種のだらしなさを見る時、
若干の危惧を感じていたことも事実です。
でも、その頃はお酒も適量は守っていたのです。

S先生のことを考えると、
僕は今でも堪らない気分になります。
それは1つには人間の弱さであり、
もう1つには薬というものの怖さです。
それから、良い医者とは一体どういうものなのだろう、
という自分にも通じる不安のようなものです。

ただ、僕は今でもS先生を尊敬していますし、
僕が今あるのはS先生のおかげだと思っています。

最後にもう一度念のために補足しますが、
リタリンは特定の患者さんにとっては、
使用に問題のない薬であり、
飲んでいる方が全て依存になる訳ではありませんので、
その点は誤解のようにお読み頂ければ幸いです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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シロ

先生のお話を聞いていて、僕の飲んでる、レキソタンは依存性は強いですか?

前受診していた精神科の先生とよく相談して、レキソタン1mgを1日3回、緊張した時はプラス1回で飲んでいます。(それ以外も前かいた分を飲んでいます)

先生の意見をお聞かせ願えますか?
ちなみに調子は徐々に良くなってきていると思います
by シロ (2010-02-03 11:13) 

fujiki

シロさんへ
ご不安を感じたとすれば、
本当に申し訳ありません。
(ちょっと記載を補足しました)
リタリンも適正使用であれば、
問題はありませんし、
レキソタンに関しては、
今飲まれている量であれば、
全く心配はないと思います。
主治医の先生とご相談の上、
量を守ってお飲みになるようにして下さい。
by fujiki (2010-02-03 12:30) 

midori

・・・たまらないですね.
泣けてしまいました.(会社なのに...コラ)



先生のブログはとても読み応えがありますが,
特に[フィクション]カテゴリーのものは,読後に余韻が残りますね.
なんだか,ポケットに大切なものをそっと忍ばせられたような気分になります.
by midori (2010-02-03 13:18) 

シロ

こちらこそ勝手に不安になり、すみませんでした。

先生の御返答を見て安心いたしました。ありがとうございます。

これからも、拝見させていただきます。

お身体に気をつけて、頑張って下さい。
by シロ (2010-02-03 15:45) 

シロクマ

はじめてコメント書かせていただきます。先生のブログではいつも勉強させていただいております。ありがとうございます。医学的な話題も大変興味深いものばかりですが、私は先生の所謂「フィクション」の大ファンです。私は村上春樹のファンですが、先日の「喪服の訪問・・・」で先生が村上春樹かぶれだった事を知り、納得してしまいまさた。「フィクション」シリーズには村上ワールドに通ずる匂いがあると思います。時々「フィクション」書いてください。楽しみにしています。
それにしても、今日のは切なすぎる・・・
by シロクマ (2010-02-03 16:51) 

fujiki

midori さんへ
コメントありがとうございます。
これからもお付き合いよろしくお願いします。
by fujiki (2010-02-03 22:00) 

fujiki

シロクマさんへ
コメントありがとうございます。
気に入って頂ければ大変嬉しいです。
これからもよろしくお願いします。
by fujiki (2010-02-03 22:02) 

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