ヴェルディ「リゴレット」(2019年ボローニャ歌劇場来日公演) [オペラ]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で、
午前中は中村医師が外来を担当し、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
震災の2011年にドタキャン続出の中で公演が行われ、
それ以来8年ぶりにボローニャ歌劇場が来日公演を行いました。
今回の演目はヴェルディの「リゴレット」と、
ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」で、
どちらも極めつきの名作ですが、
前回は3演目で舞台もとても豪華なものでしたから、
随分小粒になったなあ、というようには思いますが、
これも時代なのですから仕方がありません。
今回参加したソプラノのデジレ・ランカトーレと、
テノールのセルソ・アルベロは、
2011年の時にも「清教徒」で共演し、
凄味のある歌唱を披露してくれた名コンビで、
その時はファン・ディエゴ・フローレスがドタキャンしたことによる、
急遽の代打当番でした。
今回上演された「リゴレット」は、
ヴェルディ中期の名作で、
オープニングからエンディングまで、
1か所として音楽の緩みはなく、
全てが名曲の連続と言って過言ではない作品です。
内容は原作がユゴーの戯曲で、
せむし男の道化と傲慢で淫乱な国王との確執を描いた、
如何にもユゴーらしい物語です。
美と醜の対比に畸形を持ち出すところが、
「ノートルダム・ド・パリ」を彷彿とさせます。
全体にグロテスクでエロチックで危険な香りがしますし、
血みどろの復讐劇や倒錯的な部分も、
他のオペラ劇にはあまりない魅力です。
ただ、せむし男という設定が、
今ではあまり表現自体望ましくないものとされているので、
最近の上演では、
足や手が不自由というような設定にして、
せむしの演技はしないのが一般的です。
ただ、歌詞には「背中のこぶ」のような表現が複数ありますし、
そもそも身体的な障害をあざ笑って、
そうした人物を「道化」として娯楽の対象とする、
という行為のおぞましさ自体が、
作品のテーマの1つとなっているので、
それをやらないのでは、
この作品を「演劇として」上演することは、
放棄したと言って等しいようにも思います。
従って、通常で考えると、
現代の人権意識や倫理観からして、
容認できない性質の物語なので、
上演不可でも良いのですが、
それが今でも上演を重ねているのは、
その音楽があまりに素晴らしくて、
オペラ史上でも屈指の名作なので、
これを埋もれさせることは有り得ないからなのです。
勿論ユゴーは今の人権意識の元を作ったような作家なので、
「リゴレット」も決して身体障害者をあざ笑うような作品ではなく、
地位のある国王の方が、
人間としては下劣な存在として描かれているのですが、
現行は「せむし男」という設定自体が不可なので、
そこはいかんともしがたいところなのです。
リゴレットを手足の不自由なおじさん、
と表現する現行の演出では、
何故リゴレットがからかいの対象となっているのか、
「正常な人間」とリゴレットの違いが何なのか、
ということが分かりません。
リゴレットの娘が絶世の美少女で、
彼女を宝物のように家に閉じ込め秘匿している、
という倒錯的な設定も、
リゴレットの容貌があるからこそ意味を持つものです。
今回の演出は、
基本的には最近の流れを踏襲していて、
リゴレットは手足の少し不自由なおじさん、
のままなのですが、
全体的にはかなり倒錯的で退廃的な雰囲気が強く、
ゴスロリ風の衣装の美少女的ビジュアルのダンサーが複数登場して、
エロチックで倒錯的な雰囲気を盛り上げたり、
オープニングでは道化の珍妙な衣装で登場したリゴレットが、
畸形的な動きを少し見せて、
作品世界を可能な範囲で表現していました。
リゴレットの娘の美少女ジルダは、
コケティッシュなフランス人形の扮装をして、
本物の沢山の人形と共に、
化粧ダンスの中に棲んでいる、
という設定になっていて、
2幕では凌辱された下着姿で二重唱を歌い、
ラストはその姿のまま血みどろになって死んでゆきます。
ジルダ自身もまともなキャラではない、
ということをかなり明確に示している訳で、
あまりこれまでにない発想だと思いました。
2幕と3幕は幕間がなく、
2幕のラストでボロボロになったリゴレットとジルダが、
そのまま舞台に残ると、
背後から貨物船のようなボロ船が、
幽霊船のように現れて、
そこが3幕の売春宿になるという趣向です。
3幕において水が結構象徴的な意味を持つので、
それを船と海で表現しようという、
なかなか巧みな読み替え演出だと思いました。
全体に舞台装置はチープですが、
かなり考え抜かれた演出で、
B級怪奇映画的な趣向が、
全体の雰囲気に結構調和していました。
良い意味で上品さや気取ったところのない、
娯楽作風の「リゴレット」でした。
歌手陣は…凄かったですよ。
リゴレット役のアルベルト・カザーレと、
マントヴァ公爵役のセルソ・アルベロが抜群でした。
どちらもこれまでに聴いた、
最高の歌唱と言って大袈裟ではなく、
カザーレは迫力押しでありながら、
アジリタなどの精度も高く、
何より演技が説得力のあるものでした。
2幕の二重唱はアンコールに応えて、
ラストの部分を2回歌う大サービスでした。
セルソ・アルベロは、
伸びる高音と精度の高い端正な歌唱が素晴らしく、
今回はその演技においても、
退廃的な貴族の魅力を十全に表現していました。
楽譜にはないハイCを連発し、
それがバッチリ決まっていて、
極めて痛快で心浮き立つものがありました。
メインキャストの一角ソプラノのランカトーレは、
その未熟な感じを残したビジュアルが、
今回の演出のコケティッシュな感じに良く合っていました。
倒錯的でやや変態的で、これまでにないジルダ像です。
その歌唱も他の2人に負けずと、
とてもとても頑張っていました。
彼女が踏ん張ったからこそ、
この作品の眼目である多くの二重唱が、
高いレベルで実現されたのだと思います。
ただ、ジルダのアリアなどは、
正直そのアジリタなどの精度において、
不安定なところがあり、
以前と比べると高音も出ていませんでした。
それが一時的な調子の問題であったのかどうかは、
良く分かりません。
今回特に感銘を受けた歌唱は、
3幕の4重唱で、
通常は生で聴いてあまり良いと思ったことはないのですが、
今回はその精度の高いアンサンブルで、
とても素晴らしかったと感じました。
そんな訳で、
バブルの頃の引っ越し公演と比べると、
色々な部分でチープになったな、
というようには思うのですが、
密度と精度の高い「リゴレット」で、
久しぶりにオペラは良いな、
と思った舞台でした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で、
午前中は中村医師が外来を担当し、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
震災の2011年にドタキャン続出の中で公演が行われ、
それ以来8年ぶりにボローニャ歌劇場が来日公演を行いました。
今回の演目はヴェルディの「リゴレット」と、
ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」で、
どちらも極めつきの名作ですが、
前回は3演目で舞台もとても豪華なものでしたから、
随分小粒になったなあ、というようには思いますが、
これも時代なのですから仕方がありません。
今回参加したソプラノのデジレ・ランカトーレと、
テノールのセルソ・アルベロは、
2011年の時にも「清教徒」で共演し、
凄味のある歌唱を披露してくれた名コンビで、
その時はファン・ディエゴ・フローレスがドタキャンしたことによる、
急遽の代打当番でした。
今回上演された「リゴレット」は、
ヴェルディ中期の名作で、
オープニングからエンディングまで、
1か所として音楽の緩みはなく、
全てが名曲の連続と言って過言ではない作品です。
内容は原作がユゴーの戯曲で、
せむし男の道化と傲慢で淫乱な国王との確執を描いた、
如何にもユゴーらしい物語です。
美と醜の対比に畸形を持ち出すところが、
「ノートルダム・ド・パリ」を彷彿とさせます。
全体にグロテスクでエロチックで危険な香りがしますし、
血みどろの復讐劇や倒錯的な部分も、
他のオペラ劇にはあまりない魅力です。
ただ、せむし男という設定が、
今ではあまり表現自体望ましくないものとされているので、
最近の上演では、
足や手が不自由というような設定にして、
せむしの演技はしないのが一般的です。
ただ、歌詞には「背中のこぶ」のような表現が複数ありますし、
そもそも身体的な障害をあざ笑って、
そうした人物を「道化」として娯楽の対象とする、
という行為のおぞましさ自体が、
作品のテーマの1つとなっているので、
それをやらないのでは、
この作品を「演劇として」上演することは、
放棄したと言って等しいようにも思います。
従って、通常で考えると、
現代の人権意識や倫理観からして、
容認できない性質の物語なので、
上演不可でも良いのですが、
それが今でも上演を重ねているのは、
その音楽があまりに素晴らしくて、
オペラ史上でも屈指の名作なので、
これを埋もれさせることは有り得ないからなのです。
勿論ユゴーは今の人権意識の元を作ったような作家なので、
「リゴレット」も決して身体障害者をあざ笑うような作品ではなく、
地位のある国王の方が、
人間としては下劣な存在として描かれているのですが、
現行は「せむし男」という設定自体が不可なので、
そこはいかんともしがたいところなのです。
リゴレットを手足の不自由なおじさん、
と表現する現行の演出では、
何故リゴレットがからかいの対象となっているのか、
「正常な人間」とリゴレットの違いが何なのか、
ということが分かりません。
リゴレットの娘が絶世の美少女で、
彼女を宝物のように家に閉じ込め秘匿している、
という倒錯的な設定も、
リゴレットの容貌があるからこそ意味を持つものです。
今回の演出は、
基本的には最近の流れを踏襲していて、
リゴレットは手足の少し不自由なおじさん、
のままなのですが、
全体的にはかなり倒錯的で退廃的な雰囲気が強く、
ゴスロリ風の衣装の美少女的ビジュアルのダンサーが複数登場して、
エロチックで倒錯的な雰囲気を盛り上げたり、
オープニングでは道化の珍妙な衣装で登場したリゴレットが、
畸形的な動きを少し見せて、
作品世界を可能な範囲で表現していました。
リゴレットの娘の美少女ジルダは、
コケティッシュなフランス人形の扮装をして、
本物の沢山の人形と共に、
化粧ダンスの中に棲んでいる、
という設定になっていて、
2幕では凌辱された下着姿で二重唱を歌い、
ラストはその姿のまま血みどろになって死んでゆきます。
ジルダ自身もまともなキャラではない、
ということをかなり明確に示している訳で、
あまりこれまでにない発想だと思いました。
2幕と3幕は幕間がなく、
2幕のラストでボロボロになったリゴレットとジルダが、
そのまま舞台に残ると、
背後から貨物船のようなボロ船が、
幽霊船のように現れて、
そこが3幕の売春宿になるという趣向です。
3幕において水が結構象徴的な意味を持つので、
それを船と海で表現しようという、
なかなか巧みな読み替え演出だと思いました。
全体に舞台装置はチープですが、
かなり考え抜かれた演出で、
B級怪奇映画的な趣向が、
全体の雰囲気に結構調和していました。
良い意味で上品さや気取ったところのない、
娯楽作風の「リゴレット」でした。
歌手陣は…凄かったですよ。
リゴレット役のアルベルト・カザーレと、
マントヴァ公爵役のセルソ・アルベロが抜群でした。
どちらもこれまでに聴いた、
最高の歌唱と言って大袈裟ではなく、
カザーレは迫力押しでありながら、
アジリタなどの精度も高く、
何より演技が説得力のあるものでした。
2幕の二重唱はアンコールに応えて、
ラストの部分を2回歌う大サービスでした。
セルソ・アルベロは、
伸びる高音と精度の高い端正な歌唱が素晴らしく、
今回はその演技においても、
退廃的な貴族の魅力を十全に表現していました。
楽譜にはないハイCを連発し、
それがバッチリ決まっていて、
極めて痛快で心浮き立つものがありました。
メインキャストの一角ソプラノのランカトーレは、
その未熟な感じを残したビジュアルが、
今回の演出のコケティッシュな感じに良く合っていました。
倒錯的でやや変態的で、これまでにないジルダ像です。
その歌唱も他の2人に負けずと、
とてもとても頑張っていました。
彼女が踏ん張ったからこそ、
この作品の眼目である多くの二重唱が、
高いレベルで実現されたのだと思います。
ただ、ジルダのアリアなどは、
正直そのアジリタなどの精度において、
不安定なところがあり、
以前と比べると高音も出ていませんでした。
それが一時的な調子の問題であったのかどうかは、
良く分かりません。
今回特に感銘を受けた歌唱は、
3幕の4重唱で、
通常は生で聴いてあまり良いと思ったことはないのですが、
今回はその精度の高いアンサンブルで、
とても素晴らしかったと感じました。
そんな訳で、
バブルの頃の引っ越し公演と比べると、
色々な部分でチープになったな、
というようには思うのですが、
密度と精度の高い「リゴレット」で、
久しぶりにオペラは良いな、
と思った舞台でした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。