野田地図「逆鱗」 [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師の担当となり、
午後は石原が診療を担当します。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
NODA・MAPの第20回公演が、
野田秀樹さんの新作で今池袋で上演されています。
これはまあ、
最近のいつもの野田さんのパターンの芝居です。
水族館と人魚の話というので、
少しポエジーな話を期待するのですが、
巻頭10分も見ると、
「ああ、あれなのね…」
という感じになり、
後はただただ役者がパズルのピースのように動き、
ラストの構図が描かれるのを待つだけ、
という展開になるのです。
「エッグ」辺りと比較すると、
構造はかなりシンプルで、
演出もさすが野田さんという冴えた美しさがあります。
従って、見やすい作品に仕上がっているのですが、
駒場小劇場時代から野田さんの作品を観続けている観客としては、
昔の意味不明で訳が全く分からず、
何のオチも説明もなく、
それでいて何処か切なく、
奇妙に感情が揺さぶられるような、
かつてのあの作品群は、
一体何だったのだろうか、
と複雑な思いに因われるのです。
以下ネタバレを含む感想です。
観劇予定の方は必ず観劇後にお読みください。
最初に人魚役の松たか子さんが出て来て、
海の底にいる人魚が、
どうしても声にしたい思いがあって、
海面へと上がって来た、
というようなモノローグを語ります。
それから舞台は現代の水族館になり、
野田さんが演じるいかがわしい人魚学者の口車に乗り、
水族館長の池田成志さんが、
人魚を捕えて人魚ショーを水族館の目玉にしよう、
という企画に乗り出します。
その水族館には、
イルカ大好きな飼育員の満島真之介さんや、
純朴でいつものテンションの、
飼育員の阿部サダヲさんがいます。
イワシの水槽の前にいつも姿を現す、
銀粉蝶さん演じる謎の老婆もいます。
そして、妙にレトロな感じの郵便配達の瑛太さんが、
電報を届けに水族館を訪れます。
瑛太さんには見えない物が見えるような、
不思議な能力があり、
何かの強い思いを、
その電報に託しているようです。
しかし、その電報の受け取りを、
自分が責任者ではないと、
阿部サダヲさんは拒絶して、
水族館長の娘で、
人魚捕獲作戦の黒幕でもある、
井上真央さん演じるリケジョに、
その電報を取られてしまうことから、
瑛大さんも、
人魚騒動に巻き込まれてしまいます。
人魚を海底から連れてくるために、
決死隊のようなダイバーが組織され、
阿部さんも満島さんも瑛大さんも、
その一員になってしまい、
減圧室とか覚悟はあるか、
というような言葉が出てくる辺りから、
何となく裏が透けて見えて来るような感じになります。
松たか子さんの人魚は86歳で、
16歳の時に瑛太さんに会った、
というような台詞があるので、
70年前という露骨な伏線が、
ご丁寧にも提示されます。
要するに「人魚」というのは、
太平洋戦争末期の人間魚雷「回天」のことで、
そこで魚雷をバラバラにして張り合わされた「人魚」の創造には、
当時の科学者が手を貸していて、
瑛太さん演じる青年は、
その時に海中に沈み戦死したのですが、
そこで人魚は生命を持ち、
瑛太さんの思いを陸地の人間達に、
伝えようとしていたのです。
そしてその電報というのは、
母親に宛てた戦死の報告であると共に、
戦時中に魚雷の特攻が無力で無意味であることを、
瑛太さんが命がけで上層部に打電した、
その暗号でもあったのです。
クライマックスでは特攻隊が2人ずつ出撃してゆく様が、
延々と描かれ、
銀粉蝶さん演じる誰かの母親に、
戦死の報が瑛太によって届くという、
象徴的な場面が挟まれて、
ラストは海底で死んだ瑛太さんを抱く人魚のモノローグの後、
思いが形になった塩の柱が、
海底から海上まで届くという光景で終わります。
物語は反戦ものとして悪くありません。
ただ、前半は昔の遊眠社のようなタッチで、
コミカルなキャラクターが言葉遊びを演じたりしていながら、
後半ではそれが全て人間魚雷の伏線ということになり、
戦死した若者の思いが、
人魚と化した魚雷の残骸によって今の日本に運ばれる、
というだけの話になるのであれば、
一体前半のやり取りや、
登場人物の人間関係らしきものには、
どのような意味があるのか、
という点がはなはだ疑問になります。
この物語にはロマンスのような要素は皆無です。
人魚と人間との愛情の交流や、
水族館の人間模様のようなものが、
もっと展開を持って描かれているのであれば、
舞台としてもっと観客に喚起するものがあるのでは、
というように思うのですが、
役者の感情によって物語が動く、
という演劇という表現に最も基本的な要素が殆どなく、
全てはコミカルでありながら、
謎めいた展開と謎めいた台詞や言葉遊びが、
「実は人魚は人間魚雷のことなんだよ」
という絵解きのためだけに用意され、
それが明らかになって以降は、
野田さんが観客に強要したいと思われるテーマの、
一方的な主張があってそれで終わるのです。
結末には希望の欠片もなく、
建設的な台詞もなく、
ただ陰陰滅滅とした気分だけが、
残るような感じがあります。
昔の游眠社時代の野田さんの作品は、
前半のコミカルでシュールな感じが、
別に絵解きなどされないままにラストまで続き、
戦争も原爆も学生運動も天皇も出て来ません。
ただ、振られた少年が世界を終わりにしたいと思う感情とか、
死んだ妹の肉を食べないと生きることが出来ない状況で、
どんな妄想に身を任せれば良いのか、
というような思春期に特有の強烈な感情が、
舞台を反転させるような瞬間があり、
それが良く分からないけれど切なく得体の知れない情感に、
観客を誘うようなところがあったのです。
野田作品にも屈折したロマンスや、
歪んだ愛情は存在していたのですが、
NODA・MAPを開始してしばらくくらいの時期から、
そうした要素は彼の作品からは完全に消え去りました。
今回のような作品であるなら、
別に作品の前半は要らないのではないかと思うのです。
最初から人間魚雷の話で良かったのではないでしょうか?
それがファンタジー的な要素や言葉遊びやシュールな展開を、
前半に置くことで、
作品は不必要に長大になり、
役者さんは感情や意識の流れといった要素とは無縁の、
何か段取りのみの芝居を、
渡された設計図の通りに、
機械のように演じることになるのです。
何処かテーマと形式が、
絶望的に乖離しているように僕には思えます。
演出は光が屈折する半透明のシートを、
水槽や海底に見立てた演出が効果的で、
美的センスには見るべきものがありました。
役者は特に池田成志さんの大芝居と、
瑛太さんの純粋な立ち姿が印象に残りました。
松たか子さんは悪くはなかったのですが、
役柄に振幅が乏しいので、
あまりグッと来るものがなく、
人魚の衣装もセンスを感じませんでした。
井上真央さんは、
悪役で段取りのみのために存在しているような役なので、
しどころが少なくて気の毒に思いました。
いずれにしても、
この数年と同傾向の野田作品なので、
そうしたものがお好きな方にはお勧め出来ますし、
最近の野田芝居はなあ…という向きには、
想像の通りの出来ですよ、
とだけお伝えしたおきたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師の担当となり、
午後は石原が診療を担当します。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
NODA・MAPの第20回公演が、
野田秀樹さんの新作で今池袋で上演されています。
これはまあ、
最近のいつもの野田さんのパターンの芝居です。
水族館と人魚の話というので、
少しポエジーな話を期待するのですが、
巻頭10分も見ると、
「ああ、あれなのね…」
という感じになり、
後はただただ役者がパズルのピースのように動き、
ラストの構図が描かれるのを待つだけ、
という展開になるのです。
「エッグ」辺りと比較すると、
構造はかなりシンプルで、
演出もさすが野田さんという冴えた美しさがあります。
従って、見やすい作品に仕上がっているのですが、
駒場小劇場時代から野田さんの作品を観続けている観客としては、
昔の意味不明で訳が全く分からず、
何のオチも説明もなく、
それでいて何処か切なく、
奇妙に感情が揺さぶられるような、
かつてのあの作品群は、
一体何だったのだろうか、
と複雑な思いに因われるのです。
以下ネタバレを含む感想です。
観劇予定の方は必ず観劇後にお読みください。
最初に人魚役の松たか子さんが出て来て、
海の底にいる人魚が、
どうしても声にしたい思いがあって、
海面へと上がって来た、
というようなモノローグを語ります。
それから舞台は現代の水族館になり、
野田さんが演じるいかがわしい人魚学者の口車に乗り、
水族館長の池田成志さんが、
人魚を捕えて人魚ショーを水族館の目玉にしよう、
という企画に乗り出します。
その水族館には、
イルカ大好きな飼育員の満島真之介さんや、
純朴でいつものテンションの、
飼育員の阿部サダヲさんがいます。
イワシの水槽の前にいつも姿を現す、
銀粉蝶さん演じる謎の老婆もいます。
そして、妙にレトロな感じの郵便配達の瑛太さんが、
電報を届けに水族館を訪れます。
瑛太さんには見えない物が見えるような、
不思議な能力があり、
何かの強い思いを、
その電報に託しているようです。
しかし、その電報の受け取りを、
自分が責任者ではないと、
阿部サダヲさんは拒絶して、
水族館長の娘で、
人魚捕獲作戦の黒幕でもある、
井上真央さん演じるリケジョに、
その電報を取られてしまうことから、
瑛大さんも、
人魚騒動に巻き込まれてしまいます。
人魚を海底から連れてくるために、
決死隊のようなダイバーが組織され、
阿部さんも満島さんも瑛大さんも、
その一員になってしまい、
減圧室とか覚悟はあるか、
というような言葉が出てくる辺りから、
何となく裏が透けて見えて来るような感じになります。
松たか子さんの人魚は86歳で、
16歳の時に瑛太さんに会った、
というような台詞があるので、
70年前という露骨な伏線が、
ご丁寧にも提示されます。
要するに「人魚」というのは、
太平洋戦争末期の人間魚雷「回天」のことで、
そこで魚雷をバラバラにして張り合わされた「人魚」の創造には、
当時の科学者が手を貸していて、
瑛太さん演じる青年は、
その時に海中に沈み戦死したのですが、
そこで人魚は生命を持ち、
瑛太さんの思いを陸地の人間達に、
伝えようとしていたのです。
そしてその電報というのは、
母親に宛てた戦死の報告であると共に、
戦時中に魚雷の特攻が無力で無意味であることを、
瑛太さんが命がけで上層部に打電した、
その暗号でもあったのです。
クライマックスでは特攻隊が2人ずつ出撃してゆく様が、
延々と描かれ、
銀粉蝶さん演じる誰かの母親に、
戦死の報が瑛太によって届くという、
象徴的な場面が挟まれて、
ラストは海底で死んだ瑛太さんを抱く人魚のモノローグの後、
思いが形になった塩の柱が、
海底から海上まで届くという光景で終わります。
物語は反戦ものとして悪くありません。
ただ、前半は昔の遊眠社のようなタッチで、
コミカルなキャラクターが言葉遊びを演じたりしていながら、
後半ではそれが全て人間魚雷の伏線ということになり、
戦死した若者の思いが、
人魚と化した魚雷の残骸によって今の日本に運ばれる、
というだけの話になるのであれば、
一体前半のやり取りや、
登場人物の人間関係らしきものには、
どのような意味があるのか、
という点がはなはだ疑問になります。
この物語にはロマンスのような要素は皆無です。
人魚と人間との愛情の交流や、
水族館の人間模様のようなものが、
もっと展開を持って描かれているのであれば、
舞台としてもっと観客に喚起するものがあるのでは、
というように思うのですが、
役者の感情によって物語が動く、
という演劇という表現に最も基本的な要素が殆どなく、
全てはコミカルでありながら、
謎めいた展開と謎めいた台詞や言葉遊びが、
「実は人魚は人間魚雷のことなんだよ」
という絵解きのためだけに用意され、
それが明らかになって以降は、
野田さんが観客に強要したいと思われるテーマの、
一方的な主張があってそれで終わるのです。
結末には希望の欠片もなく、
建設的な台詞もなく、
ただ陰陰滅滅とした気分だけが、
残るような感じがあります。
昔の游眠社時代の野田さんの作品は、
前半のコミカルでシュールな感じが、
別に絵解きなどされないままにラストまで続き、
戦争も原爆も学生運動も天皇も出て来ません。
ただ、振られた少年が世界を終わりにしたいと思う感情とか、
死んだ妹の肉を食べないと生きることが出来ない状況で、
どんな妄想に身を任せれば良いのか、
というような思春期に特有の強烈な感情が、
舞台を反転させるような瞬間があり、
それが良く分からないけれど切なく得体の知れない情感に、
観客を誘うようなところがあったのです。
野田作品にも屈折したロマンスや、
歪んだ愛情は存在していたのですが、
NODA・MAPを開始してしばらくくらいの時期から、
そうした要素は彼の作品からは完全に消え去りました。
今回のような作品であるなら、
別に作品の前半は要らないのではないかと思うのです。
最初から人間魚雷の話で良かったのではないでしょうか?
それがファンタジー的な要素や言葉遊びやシュールな展開を、
前半に置くことで、
作品は不必要に長大になり、
役者さんは感情や意識の流れといった要素とは無縁の、
何か段取りのみの芝居を、
渡された設計図の通りに、
機械のように演じることになるのです。
何処かテーマと形式が、
絶望的に乖離しているように僕には思えます。
演出は光が屈折する半透明のシートを、
水槽や海底に見立てた演出が効果的で、
美的センスには見るべきものがありました。
役者は特に池田成志さんの大芝居と、
瑛太さんの純粋な立ち姿が印象に残りました。
松たか子さんは悪くはなかったのですが、
役柄に振幅が乏しいので、
あまりグッと来るものがなく、
人魚の衣装もセンスを感じませんでした。
井上真央さんは、
悪役で段取りのみのために存在しているような役なので、
しどころが少なくて気の毒に思いました。
いずれにしても、
この数年と同傾向の野田作品なので、
そうしたものがお好きな方にはお勧め出来ますし、
最近の野田芝居はなあ…という向きには、
想像の通りの出来ですよ、
とだけお伝えしたおきたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2016-02-06 14:46
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コメント(3)
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逆鱗
私は胸が震えましたけどね
前半の軽さがなかったら、全編通して苦しすぎて観ていられない
役者も素晴らしかった
私はそう思います
職業柄、上から目線が当たり前のようになってるのでしょうか
良いところもみましょう
by YUI (2016-03-13 23:05)
おっしゃるとおりで胸がすっとしました。
役の情感が乏しく、物語で言わんとしている熱だけがグイグイくるので、仕掛けがわかってしまうと「わかったから結論を」という気持ちになってしまいます…。
仕掛けと主訴を取り除くと、まさに舞台の上には装置と装置としての役者しか残らない感じで、衝撃的ではあってもドラマがなく、多分、
「いまこれを言わねば」
という衝動ばかりが作り手の中に渦巻いているのだろうな…と思います。そういう意味では、若く未来を恐れたが故の混沌とした思いそのものの芝居がこのように年齢を重ねて変化しただけであり、とくに作り方は変わっていないのかも、しれないですね…。
ないものは出てきませんから…
還暦を迎えて今後の人生の方がいままでの人生より短いとはっきりわかる人には、ロマンスや若い葛藤や未来に対する漠然とした不安などとは縁遠くなるのだろう、…そう思いながら劇場を後にしました。
おそらくは、ご本人も自覚の元に作られたのではいか、…と思うほど、ある意味潔い作品という気もします。
意見を述べる場所をありがとうございました。
by あや (2016-04-10 09:16)
どんな作品も賛否両論あるのが当然で、全員が賞賛すること自体が不気味です。
駒場小劇場時代から野田作品を観続けている石原医師が、遊眠社時代と比較されるのは当然のことで、こうした記事は野田秀樹氏にとっても貴重だと思います。参考になるレビューをありがとうございました。
自分の意見と違うものは「上から目線」にしか見えないYUIさんは、残念な方ですね。
by 愛読者 (2016-04-17 21:50)