法華寺「十一面観音立像」 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で、
診療所は休診です。
今奈良から戻ったところです。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
奈良にある法華寺のご本尊、
十一面観音菩薩様のお姿です。
春と秋の一定期間のみ拝観可能な秘仏で、
秘仏の中では比較的開扉の期間が長いのですが、
これまで拝する機会がありませんでした。
今回初めて拝観することが出来ました。
法隆寺が救世観音をお守りするために存在している、
という一面があるように、
法華寺はこの十一面観音様を、
お祀りするために存在している、
という側面のある寺院です。
法華寺は仏教の女神として、
半ば神格化されている、
光明皇后の宮寺として建立された寺院で、
光明皇后のお姿を刻んだとされる、
観音像を本尊として祀っています。
現在の本尊は平安初期に造立されたものと考えられていますが、
伝説としては、
光明皇后が生きていらっしゃった時に、
そのお姿を刻んだものとされています。
つまり、
この観音様の前に、
当初のご本尊のあった可能性もあり、
またそうではない可能性もあります。
いずれにしても、
この仏像が1000年以上に渡り、
光明皇后の移し身の姿として、
守られて来たことは間違いがありません。
仏像は実際に目にすると、
ガッカリすることも多いのですが、
この観音様は本当に素晴らしく、
さすが1000年以上の思いが積み重なっただけのことはあります。
実際の色調は、
もう少しくすんだ感じにはなりますが、
唇の朱色などは、
鮮やかに残っています。
平安初期の仏像には、
密教の入って来た時代の、
一種の「魔的」なものがあり、
この観音様にもそうした心的な深さが感じられるのですが、
同時に写実的な技術としての精緻さも併せ持っています。
像高は1メートルほどなので、
小ぶりなのですが、
実際に拝むと小さいという印象はありません。
包み込まれるような感じがありますし、
この像の精緻さは、
この大きさだからこそ発揮されるように思います。
天衣の端を掴んだ右手と、
踏み出した右足の動的なポーズが、
他の仏像には殆ど見られない特徴で、
流れる天衣の襞の1つ1つの美しさは、
見飽きることがありませんし、
その動的な流れの中に、
深淵な思想が、
秘められているようにも感じます。
お顔は写真ではきつく見えますが、
実際に少し離れた位置から、
見上げるようにして拝むと、
気品を持ってやわらかな印象があり、
これは写真では表現が出来ない部分のようです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごしく下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で、
診療所は休診です。
今奈良から戻ったところです。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
奈良にある法華寺のご本尊、
十一面観音菩薩様のお姿です。
春と秋の一定期間のみ拝観可能な秘仏で、
秘仏の中では比較的開扉の期間が長いのですが、
これまで拝する機会がありませんでした。
今回初めて拝観することが出来ました。
法隆寺が救世観音をお守りするために存在している、
という一面があるように、
法華寺はこの十一面観音様を、
お祀りするために存在している、
という側面のある寺院です。
法華寺は仏教の女神として、
半ば神格化されている、
光明皇后の宮寺として建立された寺院で、
光明皇后のお姿を刻んだとされる、
観音像を本尊として祀っています。
現在の本尊は平安初期に造立されたものと考えられていますが、
伝説としては、
光明皇后が生きていらっしゃった時に、
そのお姿を刻んだものとされています。
つまり、
この観音様の前に、
当初のご本尊のあった可能性もあり、
またそうではない可能性もあります。
いずれにしても、
この仏像が1000年以上に渡り、
光明皇后の移し身の姿として、
守られて来たことは間違いがありません。
仏像は実際に目にすると、
ガッカリすることも多いのですが、
この観音様は本当に素晴らしく、
さすが1000年以上の思いが積み重なっただけのことはあります。
実際の色調は、
もう少しくすんだ感じにはなりますが、
唇の朱色などは、
鮮やかに残っています。
平安初期の仏像には、
密教の入って来た時代の、
一種の「魔的」なものがあり、
この観音様にもそうした心的な深さが感じられるのですが、
同時に写実的な技術としての精緻さも併せ持っています。
像高は1メートルほどなので、
小ぶりなのですが、
実際に拝むと小さいという印象はありません。
包み込まれるような感じがありますし、
この像の精緻さは、
この大きさだからこそ発揮されるように思います。
天衣の端を掴んだ右手と、
踏み出した右足の動的なポーズが、
他の仏像には殆ど見られない特徴で、
流れる天衣の襞の1つ1つの美しさは、
見飽きることがありませんし、
その動的な流れの中に、
深淵な思想が、
秘められているようにも感じます。
お顔は写真ではきつく見えますが、
実際に少し離れた位置から、
見上げるようにして拝むと、
気品を持ってやわらかな印象があり、
これは写真では表現が出来ない部分のようです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごしく下さい。
石原がお送りしました。
滝坂道の石仏と春日山石窟 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
それでは今日の話題です。
今日は診療日ですが、
趣味の話題とさせて下さい。
今日は奈良北方柳生街道の石仏を見て頂きます。
まずはこちら。
何度かご紹介している夕日観音様です。
実際には弥勒仏のようで、
平安末期から鎌倉初期の石仏と思われます。
彫り込まれてから700年を過ぎ、
山の精霊と一体化しているかのようです。
近接をもう一枚。
浅い浮き彫りですが、
この形式のものが、
長くその姿を留めます。
もう少し立体的になると、
長い年月の間に剥落してしまうのです。
非常に技術的にも優れたものですし、
お顔の柔らかな印象も特徴的です。
同じ岩肌に刻まれているのがこちら。
地蔵菩薩の磨崖仏で、
地蔵菩薩を並べるのは、
鎌倉末期以降の特徴です。
次はこちら。
この仏様も同じ岩の別の場所に彫り込まれているものです。
これも鎌倉末期以降の作でしょうか。
非常に洗練された技巧が感じられ、
この保存状態は、
かなり奇跡的です。
次は比較的知られていない仏様です。
首切り地蔵のほど近く、
滝坂道の本道を少し外れたところにおられます。
おそらくは室町期くらいの作で、
阿弥陀如来と思われます。
技術的にそう優れたものではありませんが、
苔むした感じがなかなか趣があります。
ここから間もなく、
春日山の石窟があります。
その全景がこちら。
崩れ掛けた石窟に応急処置的な補強をして、
金網を張ってあります。
少なくとも30年以上はこの状態のようです。
当時の写真を見ると、
意外に風化は進んでいません。
金網越しですが、
その内部は、
比較的クリアに見ることが出来ます。
こちらをご覧下さい。
2つの石窟が並んでいて、
これはその左側の、
密教系の仏様です。
平安後期の作品で、
立体的な彫りなので、
破損し易く、
それにしては彩色を含めて、
よく残っていると思います。
では次を。
これは右側の石窟で、
傷みは激しいですが、
地蔵菩薩が彫り込まれています。
日本のこうした石窟というと、
大分県の臼杵のものが有名で、
あちらの方が遥かに大規模で、
綺麗に修復され観光地化されています。
ただ、この春日山の石窟も、
その藝術的価値では遜色のないもので、
それがやや無雑作に放置され、
あまり訪れる人もない、
という辺りにも僕はむしろ趣を感じます。
これは以前一度行って感銘を受けた、
インドのエローラの石窟などと比べれば、
数万分の一のスケールで、
その意味では物凄くしょぼいのですが、
これはこれである種の侘び寂びの良さを感じるのが、
不思議なところです。
何度かに分けて、
これで一渡り滝坂道界隈の石仏を、
廻ったことになります。
石仏は本当に儚い藝術であり、
それだけに愛おしく、
今尚静かに手を合わせたくなる、
魅力に満ちているのです。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
それでは今日の話題です。
今日は診療日ですが、
趣味の話題とさせて下さい。
今日は奈良北方柳生街道の石仏を見て頂きます。
まずはこちら。
何度かご紹介している夕日観音様です。
実際には弥勒仏のようで、
平安末期から鎌倉初期の石仏と思われます。
彫り込まれてから700年を過ぎ、
山の精霊と一体化しているかのようです。
近接をもう一枚。
浅い浮き彫りですが、
この形式のものが、
長くその姿を留めます。
もう少し立体的になると、
長い年月の間に剥落してしまうのです。
非常に技術的にも優れたものですし、
お顔の柔らかな印象も特徴的です。
同じ岩肌に刻まれているのがこちら。
地蔵菩薩の磨崖仏で、
地蔵菩薩を並べるのは、
鎌倉末期以降の特徴です。
次はこちら。
この仏様も同じ岩の別の場所に彫り込まれているものです。
これも鎌倉末期以降の作でしょうか。
非常に洗練された技巧が感じられ、
この保存状態は、
かなり奇跡的です。
次は比較的知られていない仏様です。
首切り地蔵のほど近く、
滝坂道の本道を少し外れたところにおられます。
おそらくは室町期くらいの作で、
阿弥陀如来と思われます。
技術的にそう優れたものではありませんが、
苔むした感じがなかなか趣があります。
ここから間もなく、
春日山の石窟があります。
その全景がこちら。
崩れ掛けた石窟に応急処置的な補強をして、
金網を張ってあります。
少なくとも30年以上はこの状態のようです。
当時の写真を見ると、
意外に風化は進んでいません。
金網越しですが、
その内部は、
比較的クリアに見ることが出来ます。
こちらをご覧下さい。
2つの石窟が並んでいて、
これはその左側の、
密教系の仏様です。
平安後期の作品で、
立体的な彫りなので、
破損し易く、
それにしては彩色を含めて、
よく残っていると思います。
では次を。
これは右側の石窟で、
傷みは激しいですが、
地蔵菩薩が彫り込まれています。
日本のこうした石窟というと、
大分県の臼杵のものが有名で、
あちらの方が遥かに大規模で、
綺麗に修復され観光地化されています。
ただ、この春日山の石窟も、
その藝術的価値では遜色のないもので、
それがやや無雑作に放置され、
あまり訪れる人もない、
という辺りにも僕はむしろ趣を感じます。
これは以前一度行って感銘を受けた、
インドのエローラの石窟などと比べれば、
数万分の一のスケールで、
その意味では物凄くしょぼいのですが、
これはこれである種の侘び寂びの良さを感じるのが、
不思議なところです。
何度かに分けて、
これで一渡り滝坂道界隈の石仏を、
廻ったことになります。
石仏は本当に儚い藝術であり、
それだけに愛おしく、
今尚静かに手を合わせたくなる、
魅力に満ちているのです。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
南山城(みなみやましろ)仏像賛 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
いつものように、
駒沢公園まで走りに行って、
帰りに強烈な便意に襲われ、
「もう駄目か…」
と何度か思いながら、
漸く家に辿り着いてトイレに駆け込みました。
過敏性腸症候群の方は、
毎日こうした症状と闘っているのだな、
と思うと、
つくづくその辛さが心に響きます。
休みの日は趣味の話題です。
先日奈良に行きましたが、
今回最も感銘を受けたのは、
京都の奈良県との境に近い、
南山城と呼ばれる地域の、
小さなお寺の古い仏像を拝観したことでした。
南山城は木津川という川が流れ、
勿論今のことですから、
同志社大学が忽然と姿を現したり、
巨大なショッピングモールが、
潤いなくそそり立っていたりもするのですが、
全体としては、
狭い県道の周辺に、
のんびりとした田園が広がっている、
郷愁を誘うような地域です。
南山城は奈良の東大寺や興福寺に、
川を利用して大量の木材を送る、
建材調達所のような役割を果たし、
一時は古代の都が置かれたこともあります。
そして、東大寺や興福寺に、
関連のあるお寺が昔からあり、
そこには古い仏像があって、
都市部よりむしろ大切に、
その仏様が守られています。
奈良からも近いこともあって、
仏像の藝術作品としての質も高く、
年代が古くは奈良前期の白鳳時代から、
平安初期の作例が多いのもその特徴です。
こうした地方の古寺はあちこちにあっても、
これほど古い時代の優れた仏像が、
揃っている場所はそうはありません。
まず拝観させて頂いたのが、
寿宝寺というお寺です。
ここは田舎の住宅地にあって、
本当に小じんまりとしたお寺です。
予めお電話をしておいてお寺のご都合を伺い、
本堂の傍の小さな収蔵庫の扉を開けて頂きます。
そこにいらっしゃる仏様がこちら。
画像はお寺で購入したパンフレットのものです。
飛鳥園さんのお写真です。
勝手な引用なので、
差し障りのあるようでしたら、
ご指摘頂ければ削除します。
平安中期の作とされています。
手が千本揃った千手観音で、
作例は唐招提寺や大阪の藤井寺のものくらいしかなく、
非常に珍しいものです。
その両側には2躯の五大明王像が、
脇侍のように並んでいます。
ただ、勿論そんな組み合わせはないので、
これは後から並べたものです。
ちょっと厳しい面立ちをしていますが、
これは光の当たり具合によって、
表情が変化するのです。
ご住職がその変化を実演して頂けます。
非常に保存が良く、
勿論ある程度の補修はされているのしょうが、
千本の腕の1つ1つまで、
見事に揃っていますし、
木肌をそのまま活かした色彩も美しいのです。
金箔も漆も貼らないこうした様式は、
地方仏の特徴ですが、
この仏様は都の仏様に負けない気品と繊細さがあります。
幸先がよいので気を良くして、
次のお寺に廻ります。
寿宝寺から車で南に5分ほどで、
蟹満寺に至ります。
田園の中にひっそりとある、
これも小さなお寺です。
本堂の写真がこちら。
本当にこじんまりとしていて、
このくらいの規模のお寺は、
都会にもよくあります。
しっかりとその土地と結び付いた感じがあって、
法隆寺のような、
骨董品か博物館のようなお寺とは違います。
最近建て直されたという本堂は、
ちょっとガッカリの雰囲気ですが、
お堂に一歩足を踏み入れると驚きます。
堂々たるご本尊がこちら。
これもパンフレットからのお写真です。
奈良前期、白鳳時代の金銅仏のご本尊、
釈迦如来様です。
勿論国宝に指定されています。
この時代に建立された身の丈を超える金銅仏で、
藝術性にも優れ、
ほぼそのままの形で残っているのは、
他には薬師寺のご本尊くらいしかありません。
そのお方が、
片田舎の小さなお堂に、
鎮座していること自体が、
もうただ事ではありません。
薬師寺のご本尊とは違い、
こちらは本当に間近に静かに拝観することが出来ます。
僕達が訪れた時も、
しばらくは他に拝観者はなく、
老夫婦が1組後から訪れただけでした。
ほんの10センチくらいの間近で手を合わせます。
まさに至福の時間です。
しかし、驚くなかれこの蟹満寺からそれほど離れていない場所に、
もう1箇所、矢張り見事な国宝に指定されたご本尊を頂く、
古寺が存在します。
その全景がこちら。
これがまた田園の中に忽然とあるのです。
かつては大寺であったのですが、
今はそれほど古くもない、
ひなびたお堂を1つ残すのみです。
隣にご住職のお宅があり、
そこで拝観のお願いをすると、
本堂に案内して頂けます。
薄暗いお堂の奥に厨子があります。
まずお堂に入ってお焼香をして、
ご住職がご本尊に拝観者の来た旨を告げると、
厨子の扉を開き、
本当に数センチの間近で、
拝ませて頂くことが出来ます。
その後本尊がこちら。
奈良中期天平時代の十一面観音様です。
勿論国宝です。
奈良時代の十一面観音と言えば、
聖林寺の観音様くらいしか、
思い付く仏様はなく、
あちらも傑作ですが、
この仏様も決してひけは取りません。
それをこのように間近に拝むことの出来る時間は、
これもまさに至福のひと時です。
この画像は当日お寺で買ったブロマイドですが、
実際にこの通りのお姿で、
頭の上の小さなお顔も、
その多くは奈良時代のままです。
風格に溢れた素晴らしいフォルムで、
うっとりと見惚れるしかないのです。
今日は京都の南山城にひっそりとおられる、
日本の誇る藝術作品の話でした。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
いつものように、
駒沢公園まで走りに行って、
帰りに強烈な便意に襲われ、
「もう駄目か…」
と何度か思いながら、
漸く家に辿り着いてトイレに駆け込みました。
過敏性腸症候群の方は、
毎日こうした症状と闘っているのだな、
と思うと、
つくづくその辛さが心に響きます。
休みの日は趣味の話題です。
先日奈良に行きましたが、
今回最も感銘を受けたのは、
京都の奈良県との境に近い、
南山城と呼ばれる地域の、
小さなお寺の古い仏像を拝観したことでした。
南山城は木津川という川が流れ、
勿論今のことですから、
同志社大学が忽然と姿を現したり、
巨大なショッピングモールが、
潤いなくそそり立っていたりもするのですが、
全体としては、
狭い県道の周辺に、
のんびりとした田園が広がっている、
郷愁を誘うような地域です。
南山城は奈良の東大寺や興福寺に、
川を利用して大量の木材を送る、
建材調達所のような役割を果たし、
一時は古代の都が置かれたこともあります。
そして、東大寺や興福寺に、
関連のあるお寺が昔からあり、
そこには古い仏像があって、
都市部よりむしろ大切に、
その仏様が守られています。
奈良からも近いこともあって、
仏像の藝術作品としての質も高く、
年代が古くは奈良前期の白鳳時代から、
平安初期の作例が多いのもその特徴です。
こうした地方の古寺はあちこちにあっても、
これほど古い時代の優れた仏像が、
揃っている場所はそうはありません。
まず拝観させて頂いたのが、
寿宝寺というお寺です。
ここは田舎の住宅地にあって、
本当に小じんまりとしたお寺です。
予めお電話をしておいてお寺のご都合を伺い、
本堂の傍の小さな収蔵庫の扉を開けて頂きます。
そこにいらっしゃる仏様がこちら。
画像はお寺で購入したパンフレットのものです。
飛鳥園さんのお写真です。
勝手な引用なので、
差し障りのあるようでしたら、
ご指摘頂ければ削除します。
平安中期の作とされています。
手が千本揃った千手観音で、
作例は唐招提寺や大阪の藤井寺のものくらいしかなく、
非常に珍しいものです。
その両側には2躯の五大明王像が、
脇侍のように並んでいます。
ただ、勿論そんな組み合わせはないので、
これは後から並べたものです。
ちょっと厳しい面立ちをしていますが、
これは光の当たり具合によって、
表情が変化するのです。
ご住職がその変化を実演して頂けます。
非常に保存が良く、
勿論ある程度の補修はされているのしょうが、
千本の腕の1つ1つまで、
見事に揃っていますし、
木肌をそのまま活かした色彩も美しいのです。
金箔も漆も貼らないこうした様式は、
地方仏の特徴ですが、
この仏様は都の仏様に負けない気品と繊細さがあります。
幸先がよいので気を良くして、
次のお寺に廻ります。
寿宝寺から車で南に5分ほどで、
蟹満寺に至ります。
田園の中にひっそりとある、
これも小さなお寺です。
本堂の写真がこちら。
本当にこじんまりとしていて、
このくらいの規模のお寺は、
都会にもよくあります。
しっかりとその土地と結び付いた感じがあって、
法隆寺のような、
骨董品か博物館のようなお寺とは違います。
最近建て直されたという本堂は、
ちょっとガッカリの雰囲気ですが、
お堂に一歩足を踏み入れると驚きます。
堂々たるご本尊がこちら。
これもパンフレットからのお写真です。
奈良前期、白鳳時代の金銅仏のご本尊、
釈迦如来様です。
勿論国宝に指定されています。
この時代に建立された身の丈を超える金銅仏で、
藝術性にも優れ、
ほぼそのままの形で残っているのは、
他には薬師寺のご本尊くらいしかありません。
そのお方が、
片田舎の小さなお堂に、
鎮座していること自体が、
もうただ事ではありません。
薬師寺のご本尊とは違い、
こちらは本当に間近に静かに拝観することが出来ます。
僕達が訪れた時も、
しばらくは他に拝観者はなく、
老夫婦が1組後から訪れただけでした。
ほんの10センチくらいの間近で手を合わせます。
まさに至福の時間です。
しかし、驚くなかれこの蟹満寺からそれほど離れていない場所に、
もう1箇所、矢張り見事な国宝に指定されたご本尊を頂く、
古寺が存在します。
その全景がこちら。
これがまた田園の中に忽然とあるのです。
かつては大寺であったのですが、
今はそれほど古くもない、
ひなびたお堂を1つ残すのみです。
隣にご住職のお宅があり、
そこで拝観のお願いをすると、
本堂に案内して頂けます。
薄暗いお堂の奥に厨子があります。
まずお堂に入ってお焼香をして、
ご住職がご本尊に拝観者の来た旨を告げると、
厨子の扉を開き、
本当に数センチの間近で、
拝ませて頂くことが出来ます。
その後本尊がこちら。
奈良中期天平時代の十一面観音様です。
勿論国宝です。
奈良時代の十一面観音と言えば、
聖林寺の観音様くらいしか、
思い付く仏様はなく、
あちらも傑作ですが、
この仏様も決してひけは取りません。
それをこのように間近に拝むことの出来る時間は、
これもまさに至福のひと時です。
この画像は当日お寺で買ったブロマイドですが、
実際にこの通りのお姿で、
頭の上の小さなお顔も、
その多くは奈良時代のままです。
風格に溢れた素晴らしいフォルムで、
うっとりと見惚れるしかないのです。
今日は京都の南山城にひっそりとおられる、
日本の誇る藝術作品の話でした。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
頭塔 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日まで診療所は休診です。
色々とやることがあるので、
今日は朝から事務作業の予定です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
奈良市内にある、
非常に風変わりな史跡「頭塔(ずとう)」を拝観して来ました。
これは方形7段の土の塔で、
その1辺は32メートルあり、
高さは10メートルになります。
ピラミッドのようにも見えますね。
奈良時代の僧侶の頭を埋めたとの伝説から、
頭塔と呼ばれましたが、
実際には仏舎利を納める仏塔の特殊な様式のようです。
ただ、いずれにしても、
現存するこうした史跡の中では、
類例のないものであることは確かです。
こちらをご覧下さい。
頭塔の全景です。
どのような角度から写真を撮っても、
それほど変わりがありません。
面白い形状ですよね。
ただ、部分的に瓦が付いていますが、
これは後から付けられたもので、
一種の雨避けです。
当初も屋根のようなものが付いていた可能性はありますが、
その形状ははっきりしません。
部分的な屋根の下には、
規則的な配列の元に、
石仏が安置されています。
発掘調査の結果、
28基の石仏が確認されていて、
当初は44基の石仏があったと、
推測されています。
失われた石仏のうちの一基は、
郡山城の石垣の石に転用されていたことが、
後に判明しています。
ある種の魔除けでしょうか?
非常に奇妙なことに、
こうした転用が、
かつては行なわれていたようです。
こちらをご覧下さい。
これは頂上にある五輪塔を見上げたものです。
それでは次を。
これは頭塔の東側で、
画像の左側にはこんもりとした樹木が見えますが、
そちらはまだ手付かずの森になっています。
土の中から、
何基かの石仏が覗いている状態です。
赤い矢印の先に、
石仏が見えます。
それでは次を。
赤い矢印の部分を拡大すると、
このようになります。
如来の3尊が刻まれています。
如来様、
ぶしつけにカメラなど向ける失礼をお許し下さい。
これは奈良後期の時代に刻まれたことが、
ほぼ明確に分かっていて、
時代の確定した、
これだけ古い石仏というのは、
実際には殆ど現存していないので、
その意味で非常に貴重なものです。
この石仏単独で、
重要文化財に指定されています。
奈良時代の石仏とは、
このようなものかとその描線を辿ると、
ちょっと神秘的なものすら感じます。
以前芳山の石仏をご紹介しましたが、
その描線は頭塔の石仏に近いもので、
矢張りかなり時代の古いものだと、
今回そんなことも感じました。
今日は奈良市内の特徴的な史跡を見て頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日まで診療所は休診です。
色々とやることがあるので、
今日は朝から事務作業の予定です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
奈良市内にある、
非常に風変わりな史跡「頭塔(ずとう)」を拝観して来ました。
これは方形7段の土の塔で、
その1辺は32メートルあり、
高さは10メートルになります。
ピラミッドのようにも見えますね。
奈良時代の僧侶の頭を埋めたとの伝説から、
頭塔と呼ばれましたが、
実際には仏舎利を納める仏塔の特殊な様式のようです。
ただ、いずれにしても、
現存するこうした史跡の中では、
類例のないものであることは確かです。
こちらをご覧下さい。
頭塔の全景です。
どのような角度から写真を撮っても、
それほど変わりがありません。
面白い形状ですよね。
ただ、部分的に瓦が付いていますが、
これは後から付けられたもので、
一種の雨避けです。
当初も屋根のようなものが付いていた可能性はありますが、
その形状ははっきりしません。
部分的な屋根の下には、
規則的な配列の元に、
石仏が安置されています。
発掘調査の結果、
28基の石仏が確認されていて、
当初は44基の石仏があったと、
推測されています。
失われた石仏のうちの一基は、
郡山城の石垣の石に転用されていたことが、
後に判明しています。
ある種の魔除けでしょうか?
非常に奇妙なことに、
こうした転用が、
かつては行なわれていたようです。
こちらをご覧下さい。
これは頂上にある五輪塔を見上げたものです。
それでは次を。
これは頭塔の東側で、
画像の左側にはこんもりとした樹木が見えますが、
そちらはまだ手付かずの森になっています。
土の中から、
何基かの石仏が覗いている状態です。
赤い矢印の先に、
石仏が見えます。
それでは次を。
赤い矢印の部分を拡大すると、
このようになります。
如来の3尊が刻まれています。
如来様、
ぶしつけにカメラなど向ける失礼をお許し下さい。
これは奈良後期の時代に刻まれたことが、
ほぼ明確に分かっていて、
時代の確定した、
これだけ古い石仏というのは、
実際には殆ど現存していないので、
その意味で非常に貴重なものです。
この石仏単独で、
重要文化財に指定されています。
奈良時代の石仏とは、
このようなものかとその描線を辿ると、
ちょっと神秘的なものすら感じます。
以前芳山の石仏をご紹介しましたが、
その描線は頭塔の石仏に近いもので、
矢張りかなり時代の古いものだと、
今回そんなことも感じました。
今日は奈良市内の特徴的な史跡を見て頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
大門仏谷磨崖仏 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
診療所は今日まで休診です。
レセプトが間に合わないので、
今日は終日レセプト作業の予定です。
夜には歯医者に行きます。
色々と憂鬱ですが、
仕方がありません。
いつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
それでは今日の話題です。
今回一押しの石仏を見て頂きます。
大門仏谷磨崖仏(だいもんほとけだにまがいぶつ)です。
この石仏は奈良県の北方、
当尾と呼ばれる地域におられます。
当尾は田園の広がる奈良の中でも魅力的な地域ですが、
浄瑠璃寺や岩船寺のような魅力的なお寺がある一方で、
石仏の宝庫でもあります。
大門仏谷磨崖仏は、
その中でも最大のもので、
出来栄えも良く、
何よりそのロケーションが非常に魅力的な仏様です。
それではまずこちらをご覧下さい。
これが舗装された山道の標識から、
遥か彼方の山腹に、
磨崖仏を遠見したものです。
ちょっと分かり難いかも知れませんが、
画像の中央辺りの、
青く光る岩肌に、
仏様が刻まれています。
天気はほぼ快晴でした。
では次を。
これくらいが、
山道から見える限界です。
でも、なかなか趣きがありますよね。
ちょっと映画の「大魔神」の変身前のようにも見えます。
少し舗装道路を行くと、
下へと降りる踏み分け道が下っています。
迷わずその道を下りました。
最初は階段らしきものがついていたのですが、
すぐに途切れて、
辛うじて道らしきもの、という感じになります。
草を分けるようにして進むと、
今度は地面が酷いぬかるみになっています。
そして、しばらく進むと、
前方上方に仏様が見えます。
こんな感じです。
これは感動しますよね。
大きさは写真からは分かり難いと思いますが、
この岩の高さは6メートルくらいはあるのです。
日本の石仏としてはかなり大きなものです。
そこからこの岩場を這い上ると、
仏様の正面に出ます。
磨崖仏様、
お写真など撮らせて頂くことをお許し下さい。
こちらです。
ギリギリまで近付いて、
見上げるとこんな感じです。
阿弥陀如来か弥勒仏か釈迦如来か、
と諸説あります。
東を向いているので、
多分阿弥陀如来だと思うのですが、
確証はありません。
タッチはおおらかで、
時代は結構古そうです。
平安後期から鎌倉前期に掛けてかな、
というのが僕の推論です。
ただ、様式自体は奈良時代から平安前期でも良さそうです。
それがないな、と思うのは、
現存する作品が実際には殆どないからです。
時代に洗われ、良い感じに角が取れて、
自然と一体化しているのです。
トータルな印象は九州の熊野磨崖仏に近く、
あちらの方がスケールは大きいのですが、
観光地として整備されているので、
感動は少ないのです。
大門仏谷磨崖仏は、
あまり知名度もなく、
観光地として整備もされていないところが、
独り占めにしているような気分で、
グッと来るのです。
こんな言い方は仏様に失礼ですが、
僕のことをこうして待っていてくれたような、
そんな気分になるのです。
仏様から最初の展望した舗装道路を見ると、
こんな具合です。
ああ、仏様からは先刻の僕が、
こんな風に見えていたんだな、
と思うと感慨深いのです。
自然というものが、
非常にダイナミックに反転し、
別種の物に見えてくる、
それがこうした古い信仰の生み出した、
時空を超えた1つの奇跡です。
仏様にお参りし、
またの参拝を約して、
ゆっくりと帰りの山道を登りました。
今日は大門仏谷磨崖仏を拝して頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
今日からお仕事の方は頑張って下さいね。
お休みの方はのんびりと。
今日が皆さんにとっていい日になりますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
診療所は今日まで休診です。
レセプトが間に合わないので、
今日は終日レセプト作業の予定です。
夜には歯医者に行きます。
色々と憂鬱ですが、
仕方がありません。
いつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
それでは今日の話題です。
今回一押しの石仏を見て頂きます。
大門仏谷磨崖仏(だいもんほとけだにまがいぶつ)です。
この石仏は奈良県の北方、
当尾と呼ばれる地域におられます。
当尾は田園の広がる奈良の中でも魅力的な地域ですが、
浄瑠璃寺や岩船寺のような魅力的なお寺がある一方で、
石仏の宝庫でもあります。
大門仏谷磨崖仏は、
その中でも最大のもので、
出来栄えも良く、
何よりそのロケーションが非常に魅力的な仏様です。
それではまずこちらをご覧下さい。
これが舗装された山道の標識から、
遥か彼方の山腹に、
磨崖仏を遠見したものです。
ちょっと分かり難いかも知れませんが、
画像の中央辺りの、
青く光る岩肌に、
仏様が刻まれています。
天気はほぼ快晴でした。
では次を。
これくらいが、
山道から見える限界です。
でも、なかなか趣きがありますよね。
ちょっと映画の「大魔神」の変身前のようにも見えます。
少し舗装道路を行くと、
下へと降りる踏み分け道が下っています。
迷わずその道を下りました。
最初は階段らしきものがついていたのですが、
すぐに途切れて、
辛うじて道らしきもの、という感じになります。
草を分けるようにして進むと、
今度は地面が酷いぬかるみになっています。
そして、しばらく進むと、
前方上方に仏様が見えます。
こんな感じです。
これは感動しますよね。
大きさは写真からは分かり難いと思いますが、
この岩の高さは6メートルくらいはあるのです。
日本の石仏としてはかなり大きなものです。
そこからこの岩場を這い上ると、
仏様の正面に出ます。
磨崖仏様、
お写真など撮らせて頂くことをお許し下さい。
こちらです。
ギリギリまで近付いて、
見上げるとこんな感じです。
阿弥陀如来か弥勒仏か釈迦如来か、
と諸説あります。
東を向いているので、
多分阿弥陀如来だと思うのですが、
確証はありません。
タッチはおおらかで、
時代は結構古そうです。
平安後期から鎌倉前期に掛けてかな、
というのが僕の推論です。
ただ、様式自体は奈良時代から平安前期でも良さそうです。
それがないな、と思うのは、
現存する作品が実際には殆どないからです。
時代に洗われ、良い感じに角が取れて、
自然と一体化しているのです。
トータルな印象は九州の熊野磨崖仏に近く、
あちらの方がスケールは大きいのですが、
観光地として整備されているので、
感動は少ないのです。
大門仏谷磨崖仏は、
あまり知名度もなく、
観光地として整備もされていないところが、
独り占めにしているような気分で、
グッと来るのです。
こんな言い方は仏様に失礼ですが、
僕のことをこうして待っていてくれたような、
そんな気分になるのです。
仏様から最初の展望した舗装道路を見ると、
こんな具合です。
ああ、仏様からは先刻の僕が、
こんな風に見えていたんだな、
と思うと感慨深いのです。
自然というものが、
非常にダイナミックに反転し、
別種の物に見えてくる、
それがこうした古い信仰の生み出した、
時空を超えた1つの奇跡です。
仏様にお参りし、
またの参拝を約して、
ゆっくりと帰りの山道を登りました。
今日は大門仏谷磨崖仏を拝して頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
今日からお仕事の方は頑張って下さいね。
お休みの方はのんびりと。
今日が皆さんにとっていい日になりますように。
石原がお送りしました。
天岩立神社と一刀石 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
診療所はまだ年末年始の休診中です。
休みの日は趣味の話題をお届けします。
今日は奈良北方柳生にある、
巨石を御神体とする、
特異な神社を見て頂きます。
天岩立神社(あまのいわたてじんじゃ)と言い、
柳生家の菩提寺の芳徳寺というお寺の横の山道を、
1キロ弱ほど登ったところにあります。
森閑とした山の中ですが、
道は整備されているので、
迷うような場所ではありません。
では最初の画像です。
これは山道を登って行くと忽然と出現する、
神社の鳥居です。
比較的新しく造られたもののようです。
一礼して鳥居を潜り、
数十メートル道を登ると、
目の前に大きな苔むした巨石が姿を現わします。
それがこちら。
大変不敬なこととは思いますが、
神様、お写真など数枚撮らせて頂くことをお許し下さい。
これが古事記の天岩戸(あまのいわと)が、
吹き飛んで地面に刺さった姿なのだとされています。
それが年を経て、
神となったのです。
このアングルは、
入江泰吉先生の写真にあるものを真似たのですが、
この場所に来ると、なるほどな、
と思います。
この岩は普通に写真に撮ると、
あまり神秘的な感じにならないのです。
このアングルがおそらくベストポジションです。
さすが入江先生は凄いと思います。
岩の前にはこのように注連縄が張られています。
岩を一旦通り越すと、
そこに粗末な拝殿があります。
それがこちら。
ちょっと不思議なのですが、
一旦神様を横目に通り過ぎて、
それから振り返って見下ろす格好になるのです。
よく見て頂くと、
拝殿を押し潰すようにして、
もう1つの巨石が画像の左上に見えます。
その部分を拡大します。
これも神様です。
手を清めて参拝をします。
柏手の音が、
人っ子一人いない、
静寂の中に響きます。
ご神体は、
概ね4つの巨石が、
集まった形で神域を形成しているのです。
少し裏側に廻ってみます。
これは天岩戸の扉石を、
最初の画像とは反対の方向から拝したものです。
非常に神秘的な感じで青い苔が、
岩の表面を覆っていて、
その息吹が聞こえて来そうです。
「もののけ姫」の山に紛れ込んだ思いもします。
この神社の拝殿の先を、
もう少し進みます。
特に道はなく、
古木の根が剥き出しになった登り坂があって、
そこを少し登ると、
更に神秘的な光景が待っています。
それが一刀石です。
こちらをご覧下さい。
森閑とした森の中で、
7メートルほどもある巨石が、
その中央で真っ二つに割れています。
柳生新陰流の祖、
柳生石舟斉がこの山で剣の修行をしていた時、
天狗が現れたので一刀の元に斬り捨てたところ、
翌日この岩が真っ二つに割れていた、
と言うのです。
もう少し傍に寄ります。
昔撮られた写真を見ると、
岩の周囲には青々と草が生えているのですが、
僕の訪れた時には、
一面のぬかるみになっていて、
傍ではずぶずぶと足が泥にめり込み、
これ以上近寄ることが出来ません。
これは季節的な現象なのでしょうか?
それとも僕達が神を恐れぬ行為を繰り返すために、
土が病んで穢れてしまったのでしょうか?
よく分かりません。
正直、この一刀石の醸し出すオーラのようなものは、
御神体の岩より圧倒的に感じます。
この岩こそ神のように、
僕は思いましたが、
真っ二つに割れた神様ではさすがにまずいので、
そうはならなかったのではないでしょうか?
しかし、今のような世の中においては、
人間によって真っ二つにされた自然こそが、
神なのかも知れないとも思うのです。
この岩の向こうの崖に、
石舟斉を模したと思われる、
陶器の像が置かれています。
それがこちらです。
静かに参拝し、
その場を後にしました。
今日はお正月の静謐な空気を感じて頂きたく、
神様の岩を拝して頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良いお正月をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
診療所はまだ年末年始の休診中です。
休みの日は趣味の話題をお届けします。
今日は奈良北方柳生にある、
巨石を御神体とする、
特異な神社を見て頂きます。
天岩立神社(あまのいわたてじんじゃ)と言い、
柳生家の菩提寺の芳徳寺というお寺の横の山道を、
1キロ弱ほど登ったところにあります。
森閑とした山の中ですが、
道は整備されているので、
迷うような場所ではありません。
では最初の画像です。
これは山道を登って行くと忽然と出現する、
神社の鳥居です。
比較的新しく造られたもののようです。
一礼して鳥居を潜り、
数十メートル道を登ると、
目の前に大きな苔むした巨石が姿を現わします。
それがこちら。
大変不敬なこととは思いますが、
神様、お写真など数枚撮らせて頂くことをお許し下さい。
これが古事記の天岩戸(あまのいわと)が、
吹き飛んで地面に刺さった姿なのだとされています。
それが年を経て、
神となったのです。
このアングルは、
入江泰吉先生の写真にあるものを真似たのですが、
この場所に来ると、なるほどな、
と思います。
この岩は普通に写真に撮ると、
あまり神秘的な感じにならないのです。
このアングルがおそらくベストポジションです。
さすが入江先生は凄いと思います。
岩の前にはこのように注連縄が張られています。
岩を一旦通り越すと、
そこに粗末な拝殿があります。
それがこちら。
ちょっと不思議なのですが、
一旦神様を横目に通り過ぎて、
それから振り返って見下ろす格好になるのです。
よく見て頂くと、
拝殿を押し潰すようにして、
もう1つの巨石が画像の左上に見えます。
その部分を拡大します。
これも神様です。
手を清めて参拝をします。
柏手の音が、
人っ子一人いない、
静寂の中に響きます。
ご神体は、
概ね4つの巨石が、
集まった形で神域を形成しているのです。
少し裏側に廻ってみます。
これは天岩戸の扉石を、
最初の画像とは反対の方向から拝したものです。
非常に神秘的な感じで青い苔が、
岩の表面を覆っていて、
その息吹が聞こえて来そうです。
「もののけ姫」の山に紛れ込んだ思いもします。
この神社の拝殿の先を、
もう少し進みます。
特に道はなく、
古木の根が剥き出しになった登り坂があって、
そこを少し登ると、
更に神秘的な光景が待っています。
それが一刀石です。
こちらをご覧下さい。
森閑とした森の中で、
7メートルほどもある巨石が、
その中央で真っ二つに割れています。
柳生新陰流の祖、
柳生石舟斉がこの山で剣の修行をしていた時、
天狗が現れたので一刀の元に斬り捨てたところ、
翌日この岩が真っ二つに割れていた、
と言うのです。
もう少し傍に寄ります。
昔撮られた写真を見ると、
岩の周囲には青々と草が生えているのですが、
僕の訪れた時には、
一面のぬかるみになっていて、
傍ではずぶずぶと足が泥にめり込み、
これ以上近寄ることが出来ません。
これは季節的な現象なのでしょうか?
それとも僕達が神を恐れぬ行為を繰り返すために、
土が病んで穢れてしまったのでしょうか?
よく分かりません。
正直、この一刀石の醸し出すオーラのようなものは、
御神体の岩より圧倒的に感じます。
この岩こそ神のように、
僕は思いましたが、
真っ二つに割れた神様ではさすがにまずいので、
そうはならなかったのではないでしょうか?
しかし、今のような世の中においては、
人間によって真っ二つにされた自然こそが、
神なのかも知れないとも思うのです。
この岩の向こうの崖に、
石舟斉を模したと思われる、
陶器の像が置かれています。
それがこちらです。
静かに参拝し、
その場を後にしました。
今日はお正月の静謐な空気を感じて頂きたく、
神様の岩を拝して頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良いお正月をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
当尾石仏の道と「笑い仏」 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
今日は診療日ですが、
先日奈良に行った時の石仏参りの画像が、
結構残っているので、
今日は先日の奈良で拝した、
石仏の話の続きです。
奈良の北部、
実際の番地は京都府に属する辺りに、
魅力的な山里があり、
浄瑠璃寺、岩船寺という、
魅力的な寺院と共に、
当尾の石仏巡りと呼ばれる、
散歩道が整備されています。
浄瑠璃寺より少し山を登った所に、
岩船寺という山寺があり、
そこから山道が浄瑠璃寺の方向に下っています。
その道沿いに石仏があり、
ゆっくりと歩きながら、
30分くらいで浄瑠璃寺に達します。
当初はそんなつもりはなかったのですが、
岩船寺に行ったら、
非常に魅力的な石仏の写真があったので、
これはお姿を拝まねば後悔する、
と思って道を下りました。
まず、こちらを。
これが岩船寺の境内です。
十三重の石塔が手前に見え、
向こうに三重塔が見えます。
いずれも鎌倉時代に造られた重要文化財です。
ご本尊は平安時代中期の阿弥陀如来で、
重要文化財に指定されたなかなかの仏様です。
僕はこのお寺を参拝するのは、
小学校の時以来ですが、
その時とそれほど変わらない気持ちで、
訪れることが出来ました。
このくらいの規模のお寺が、
ある意味一番いいんですよね。
非常に心地良い気分で境内を巡りました。
そこから、
参道を少し離れて石仏巡りの山道に入ります。
こんな具合です。
道は非常に整備されていて、
このように手すりも付けられています。
歩き易くて快適なのですが、
もう少し不親切でも良いかな、
という気もします。
柳生街道の無愛想な歩き辛さが、
懐かしく思えます。
ただ、勿論こちらもありです。
では次を。
こんな岩が所々にあって、
なかなか趣きのある感じです。
こんな道を数分歩くと、
すぐに石仏が現われます。
こちらです。
大きな岩に彫り込まれた、
不動明王の磨崖仏です。
もう少し近付きましょう。
浅い彫り込みですが、
等身大のなかなか見事な造形です。
鎌倉時代後半の作との銘がありますが、
様式はもう少し古いもののように感じます。
ここからもう少し山道を歩くと、
この道筋の石仏のメインである、
「笑い仏」にすぐに達します。
こちらです。
「笑い仏」の掘り込まれた岩の全景です。
道筋のちょっと開けた場所にあります。
もう少し近付きましょう。
こんな具合です。
阿弥陀三尊の磨崖仏です。
元の岩が地盤の変動で傾いているのですが、
その傾き具合が、
非常に絶妙で、
ちょっとユーモラスな感じがするのです。
そのお顔に近付きます。
この特徴的な笑顔が、
「笑い仏」という通称の由来です。
鎌倉時代後半の作という銘があるのですが、
どうなのでしょうか?
端正で立体的な造形と、
その工芸品的な仕上がりは、
もう少し時代が下るように、
僕には思えます。
ただ、非常に心の和む仏様であることには、
間違いがありません。
お参りをして先に進みます。
そこから少し進むと、
山道から里に入り、
美しい山里が広がります。
こんな感じです。
もう1枚。
田畑の所々に、
道標と共に石仏がいらっしゃいます。
こちらは阿弥陀如来で、
南北朝時代の作です。
「笑い仏」は矢張りこれに近い造形のように、
僕には思えます。
では最後の画像です。
「藪の中三尊」と呼ばれ、
中央は地蔵菩薩で右が十一面観音、
そして左が阿弥陀如来です。
この雰囲気は割と典型的な、
鎌倉期の石仏だと思います。
ここから少し歩くと、
道が開けて九体阿弥陀で有名な、
浄瑠璃寺に至るのです。
仏像好きには絶対に外せないお寺です。
今日は当尾の石仏の道を巡りました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
今日は診療日ですが、
先日奈良に行った時の石仏参りの画像が、
結構残っているので、
今日は先日の奈良で拝した、
石仏の話の続きです。
奈良の北部、
実際の番地は京都府に属する辺りに、
魅力的な山里があり、
浄瑠璃寺、岩船寺という、
魅力的な寺院と共に、
当尾の石仏巡りと呼ばれる、
散歩道が整備されています。
浄瑠璃寺より少し山を登った所に、
岩船寺という山寺があり、
そこから山道が浄瑠璃寺の方向に下っています。
その道沿いに石仏があり、
ゆっくりと歩きながら、
30分くらいで浄瑠璃寺に達します。
当初はそんなつもりはなかったのですが、
岩船寺に行ったら、
非常に魅力的な石仏の写真があったので、
これはお姿を拝まねば後悔する、
と思って道を下りました。
まず、こちらを。
これが岩船寺の境内です。
十三重の石塔が手前に見え、
向こうに三重塔が見えます。
いずれも鎌倉時代に造られた重要文化財です。
ご本尊は平安時代中期の阿弥陀如来で、
重要文化財に指定されたなかなかの仏様です。
僕はこのお寺を参拝するのは、
小学校の時以来ですが、
その時とそれほど変わらない気持ちで、
訪れることが出来ました。
このくらいの規模のお寺が、
ある意味一番いいんですよね。
非常に心地良い気分で境内を巡りました。
そこから、
参道を少し離れて石仏巡りの山道に入ります。
こんな具合です。
道は非常に整備されていて、
このように手すりも付けられています。
歩き易くて快適なのですが、
もう少し不親切でも良いかな、
という気もします。
柳生街道の無愛想な歩き辛さが、
懐かしく思えます。
ただ、勿論こちらもありです。
では次を。
こんな岩が所々にあって、
なかなか趣きのある感じです。
こんな道を数分歩くと、
すぐに石仏が現われます。
こちらです。
大きな岩に彫り込まれた、
不動明王の磨崖仏です。
もう少し近付きましょう。
浅い彫り込みですが、
等身大のなかなか見事な造形です。
鎌倉時代後半の作との銘がありますが、
様式はもう少し古いもののように感じます。
ここからもう少し山道を歩くと、
この道筋の石仏のメインである、
「笑い仏」にすぐに達します。
こちらです。
「笑い仏」の掘り込まれた岩の全景です。
道筋のちょっと開けた場所にあります。
もう少し近付きましょう。
こんな具合です。
阿弥陀三尊の磨崖仏です。
元の岩が地盤の変動で傾いているのですが、
その傾き具合が、
非常に絶妙で、
ちょっとユーモラスな感じがするのです。
そのお顔に近付きます。
この特徴的な笑顔が、
「笑い仏」という通称の由来です。
鎌倉時代後半の作という銘があるのですが、
どうなのでしょうか?
端正で立体的な造形と、
その工芸品的な仕上がりは、
もう少し時代が下るように、
僕には思えます。
ただ、非常に心の和む仏様であることには、
間違いがありません。
お参りをして先に進みます。
そこから少し進むと、
山道から里に入り、
美しい山里が広がります。
こんな感じです。
もう1枚。
田畑の所々に、
道標と共に石仏がいらっしゃいます。
こちらは阿弥陀如来で、
南北朝時代の作です。
「笑い仏」は矢張りこれに近い造形のように、
僕には思えます。
では最後の画像です。
「藪の中三尊」と呼ばれ、
中央は地蔵菩薩で右が十一面観音、
そして左が阿弥陀如来です。
この雰囲気は割と典型的な、
鎌倉期の石仏だと思います。
ここから少し歩くと、
道が開けて九体阿弥陀で有名な、
浄瑠璃寺に至るのです。
仏像好きには絶対に外せないお寺です。
今日は当尾の石仏の道を巡りました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
芳山の石仏を訪ねて [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日まで診療所は休診で、
明日からはいつも通りの診療になります。
いつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
走った帰りにナチュラルローソンに寄って、
クロワッサンを2個と、
充実野菜と飲むヨーグルトを買ったのですが、
お金を出した時に手に少し土が付いていて、
それを拭いながら待っていると、
レジの男の子が、
「お手拭もお付けしましょうか?」
と聞いて来たので、
0.2秒ほどの即答で、
「いいです。いいです。要りません」
と言ってしまい、
それから1秒くらいの時間差で、
よく気の付く子だな、ありがとう、
と思ったのですが、
それは言葉にせずに店を出てしまいました。
お手拭と言われた時、
僕はそのまま歩いて家に戻るつもりだったので、
家に帰ってから手を洗えばそれで良いので、
即坐に「要らない」という考えが頭に浮かび、
そのままに口にしてしまったのですが、
レジの男の子は僕の様子を見て、
すぐに気を遣ってくれたのですから、
そのことに対する感謝の気持ちが、
先に頭に浮かんでも良かった筈です。
僕は小さい頃から、
色々な人に、
「お前は自分勝手な奴だ」
と言われて来たので、
こういう時に地が出ると言うか、
自分の頭の中の回路が、
まず自分の都合だけを考えて動いているのが、
クリアに確認出来た感じがして、
何となく辛い気分になりました。
まあ、こういう時に、
気の利いたことが即坐に言えれば、
多分そういう人が偉い人や有名な人になるのでしょうし、
人間関係というのは、
結局そうしたある種の反射神経の、
積み重ねのようなものなのかも知れません。
今日も昨日に引き続いて、
奈良の石仏の話です。
今回の奈良行きで、
どうしても拝したかったのが、
柳生街道の芳山(ほやま)の石仏です。
芳山の石仏というのは、
柳生街道から春日山の山中に分け入ったところにおられる、
奈良時代に刻まれたという説もあるほど、
極めて古い時代の石仏で、
その後長く人間の目からは忘れ去られ、
昭和37年に再発見されたといういわくのある仏様です。
石仏の写真集などには、
必ずそのお姿が掲載されてはいますが、
ガイドブックや観光案内の類には、
その名前はありません。
これは観光スポットとしての整備が、
全くなされてはいないからで、
現在でも相当の石仏マニアか、
余程信心深い方以外は、
そのお姿を拝むことはありません。
僕は小学校の頃から、
入江泰吉の写真が掲載された、
カラーブックスの「柳生の里」がバイブルで、
夕日観音と共に、
そのお写真でも最も魅かれたのが、
芳山の石仏のお姿でした。
今回初めて拝むことが出来たので、
そのお姿を今日はご紹介します。
まず、その道筋です。
こちらをご覧下さい。
柳生街道に峠の茶屋という、
有名なお茶屋さんがありますが、
そのすぐ先が集落の入り口になっています。
そこを少し下ると、
奈良市内から向かって右側に、
真新しい公衆便所があり、
その数メートル先の左手に小じんまりとした神社に向かう石段があります。
この画像に左にあるのがそれです。
その右手に細い未舗装の道があります。
何の看板も目印もありませんが、
これが芳山の石仏への入り口です。
ここをズンズンと入って行きます。
道はしばらく竹林の中を進みます。
竹が道の幅だけ切り開かれています。
更に進むと右手に荒れた畑が見え、
その先に山へと入る鉄の扉があります。
扉は錠が外されています。
おそらくお山を管理されている方が、
昼間だけ開けておかれるようです。
その先を進むと、
最初は普通のお踏み分けの山道が続き、
それから道が二手に分かれます。
それがこちら。
手作りの看板があって、
左側の道が石仏への道であることを示しています。
ここから先が、
ぐっと道が険しくなります。
杉の林の斜面を、
ひたすらに登って行くのですが、
かろうじて道の痕跡が分かるという程度です。
濃厚な杉の匂いはむせるようで、
花粉症の方には、
まあ絶対にお勧めは出来ません。
途中で道は何度も途切れそうになり、
おやと思うと木の幹や枝に、
赤いテープが目印に巻きつけてあるので、
ああ、こっちだな、
と探りながら登ります。
途中で1か所、道が左右に分かれて迷う場所があり、
僕は左に行きました。
これはおそらくしばらく左右に分かれてから、
合流しているものと思われますが、
もし迷われた方は、
取り敢えず左に行くことをお勧めします。
多分登りは1キロはないと思うのですが、
感覚的には永遠のようにすら思えます。
少し登りが緩やかになったところで、
道は再び左右に分かれ、
そこにまた手書きの看板があります。
それに沿って今度は右に進むと、
ほどなく石仏様のおられる広場に達します。
朝の7時40分に市内を出て、
夕日観音様に達したのが8時20分くらい。
地獄谷の石窟に9時半くらい。
そしてこの芳山の石仏様に、
10時20分くらいに到達しました。
ご覧下さい。
こちらです。
石仏様のいらっしゃる広場の全景です。
画像の左手からここに達する感じです。
辺りは森閑とした山の中で、
勿論僕以外に人はいません。
石仏様に近付きます。
申し訳ありません。
無粋なデジカメ如きもので、
ご尊顔を汚す無礼をお許し下さい。
こちらです。
説法印という印相を結び、
釈迦如来だとされています。
ただ、これはそういう言い伝えがある訳ではなく、
昭和37年の再発見以降、
そうした解釈をする人が、
多かった、というだけの話です。
如何にも古拙で趣があり、
古そうだ、ということは分かります。
最も古いとされる解釈が奈良時代。
いやいや鎌倉期のものだ、
という夢のない説もあります。
僕の感触としては、鎌倉期よりは確実に古いもので、
平安初期のものではないかしら、
という感じです。
こうしたスタイルの如来像というのが、
平安中期以降では考え難いからです。
もう少し近付きます。
これが丁度お姿を間近で見上げた感じです。
美しいですよね。
手を合わせてお祈りをします。
それではちょっと角度を変えて横に廻ります。
それがこちら。
このように石の2面にそれぞれ仏様が彫り込まれています。
正面が南を向かれていて、
もうおひとりは西を向かれています。
では次を。
これが西向きのお姿で、
こちらは阿弥陀如来とされています。
ただ、これも推測に過ぎません。
もう一度正面に廻ると丁度陽が差し込みました。
金色に輝くお姿をもう一度拝んで、
静かに山を降りました。
お参りをされる方は、
充分ご注意の上お進み下さい。
雨の翌日などは危険なのでお勧めは出来ません。
僕も来年また拝せれば良いな、
とは思いますが、
その機会はないかも知れません。
今日は芳山の石仏のお姿を、
観て頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日まで診療所は休診で、
明日からはいつも通りの診療になります。
いつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
走った帰りにナチュラルローソンに寄って、
クロワッサンを2個と、
充実野菜と飲むヨーグルトを買ったのですが、
お金を出した時に手に少し土が付いていて、
それを拭いながら待っていると、
レジの男の子が、
「お手拭もお付けしましょうか?」
と聞いて来たので、
0.2秒ほどの即答で、
「いいです。いいです。要りません」
と言ってしまい、
それから1秒くらいの時間差で、
よく気の付く子だな、ありがとう、
と思ったのですが、
それは言葉にせずに店を出てしまいました。
お手拭と言われた時、
僕はそのまま歩いて家に戻るつもりだったので、
家に帰ってから手を洗えばそれで良いので、
即坐に「要らない」という考えが頭に浮かび、
そのままに口にしてしまったのですが、
レジの男の子は僕の様子を見て、
すぐに気を遣ってくれたのですから、
そのことに対する感謝の気持ちが、
先に頭に浮かんでも良かった筈です。
僕は小さい頃から、
色々な人に、
「お前は自分勝手な奴だ」
と言われて来たので、
こういう時に地が出ると言うか、
自分の頭の中の回路が、
まず自分の都合だけを考えて動いているのが、
クリアに確認出来た感じがして、
何となく辛い気分になりました。
まあ、こういう時に、
気の利いたことが即坐に言えれば、
多分そういう人が偉い人や有名な人になるのでしょうし、
人間関係というのは、
結局そうしたある種の反射神経の、
積み重ねのようなものなのかも知れません。
今日も昨日に引き続いて、
奈良の石仏の話です。
今回の奈良行きで、
どうしても拝したかったのが、
柳生街道の芳山(ほやま)の石仏です。
芳山の石仏というのは、
柳生街道から春日山の山中に分け入ったところにおられる、
奈良時代に刻まれたという説もあるほど、
極めて古い時代の石仏で、
その後長く人間の目からは忘れ去られ、
昭和37年に再発見されたといういわくのある仏様です。
石仏の写真集などには、
必ずそのお姿が掲載されてはいますが、
ガイドブックや観光案内の類には、
その名前はありません。
これは観光スポットとしての整備が、
全くなされてはいないからで、
現在でも相当の石仏マニアか、
余程信心深い方以外は、
そのお姿を拝むことはありません。
僕は小学校の頃から、
入江泰吉の写真が掲載された、
カラーブックスの「柳生の里」がバイブルで、
夕日観音と共に、
そのお写真でも最も魅かれたのが、
芳山の石仏のお姿でした。
今回初めて拝むことが出来たので、
そのお姿を今日はご紹介します。
まず、その道筋です。
こちらをご覧下さい。
柳生街道に峠の茶屋という、
有名なお茶屋さんがありますが、
そのすぐ先が集落の入り口になっています。
そこを少し下ると、
奈良市内から向かって右側に、
真新しい公衆便所があり、
その数メートル先の左手に小じんまりとした神社に向かう石段があります。
この画像に左にあるのがそれです。
その右手に細い未舗装の道があります。
何の看板も目印もありませんが、
これが芳山の石仏への入り口です。
ここをズンズンと入って行きます。
道はしばらく竹林の中を進みます。
竹が道の幅だけ切り開かれています。
更に進むと右手に荒れた畑が見え、
その先に山へと入る鉄の扉があります。
扉は錠が外されています。
おそらくお山を管理されている方が、
昼間だけ開けておかれるようです。
その先を進むと、
最初は普通のお踏み分けの山道が続き、
それから道が二手に分かれます。
それがこちら。
手作りの看板があって、
左側の道が石仏への道であることを示しています。
ここから先が、
ぐっと道が険しくなります。
杉の林の斜面を、
ひたすらに登って行くのですが、
かろうじて道の痕跡が分かるという程度です。
濃厚な杉の匂いはむせるようで、
花粉症の方には、
まあ絶対にお勧めは出来ません。
途中で道は何度も途切れそうになり、
おやと思うと木の幹や枝に、
赤いテープが目印に巻きつけてあるので、
ああ、こっちだな、
と探りながら登ります。
途中で1か所、道が左右に分かれて迷う場所があり、
僕は左に行きました。
これはおそらくしばらく左右に分かれてから、
合流しているものと思われますが、
もし迷われた方は、
取り敢えず左に行くことをお勧めします。
多分登りは1キロはないと思うのですが、
感覚的には永遠のようにすら思えます。
少し登りが緩やかになったところで、
道は再び左右に分かれ、
そこにまた手書きの看板があります。
それに沿って今度は右に進むと、
ほどなく石仏様のおられる広場に達します。
朝の7時40分に市内を出て、
夕日観音様に達したのが8時20分くらい。
地獄谷の石窟に9時半くらい。
そしてこの芳山の石仏様に、
10時20分くらいに到達しました。
ご覧下さい。
こちらです。
石仏様のいらっしゃる広場の全景です。
画像の左手からここに達する感じです。
辺りは森閑とした山の中で、
勿論僕以外に人はいません。
石仏様に近付きます。
申し訳ありません。
無粋なデジカメ如きもので、
ご尊顔を汚す無礼をお許し下さい。
こちらです。
説法印という印相を結び、
釈迦如来だとされています。
ただ、これはそういう言い伝えがある訳ではなく、
昭和37年の再発見以降、
そうした解釈をする人が、
多かった、というだけの話です。
如何にも古拙で趣があり、
古そうだ、ということは分かります。
最も古いとされる解釈が奈良時代。
いやいや鎌倉期のものだ、
という夢のない説もあります。
僕の感触としては、鎌倉期よりは確実に古いもので、
平安初期のものではないかしら、
という感じです。
こうしたスタイルの如来像というのが、
平安中期以降では考え難いからです。
もう少し近付きます。
これが丁度お姿を間近で見上げた感じです。
美しいですよね。
手を合わせてお祈りをします。
それではちょっと角度を変えて横に廻ります。
それがこちら。
このように石の2面にそれぞれ仏様が彫り込まれています。
正面が南を向かれていて、
もうおひとりは西を向かれています。
では次を。
これが西向きのお姿で、
こちらは阿弥陀如来とされています。
ただ、これも推測に過ぎません。
もう一度正面に廻ると丁度陽が差し込みました。
金色に輝くお姿をもう一度拝んで、
静かに山を降りました。
お参りをされる方は、
充分ご注意の上お進み下さい。
雨の翌日などは危険なのでお勧めは出来ません。
僕も来年また拝せれば良いな、
とは思いますが、
その機会はないかも知れません。
今日は芳山の石仏のお姿を、
観て頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
奈良地獄谷聖人窟 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日も診療所は休診です。
朝からいつのように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
今日も昨日に引き続いて、
奈良の柳生街道の石仏の話です。
仏像岩から結構急な坂道を15分ほど登り詰めると、
朝日観音に達します。
こちらです。
僕はこの仏様は、
大好きというほどではないのですが、
丁度朝日の差し込む時間で、
金色に輝くお姿には、
崇高なものを感じました。
これは銘文が横に刻まれていて、
年代は鎌倉後期であることがほぼ明らかです。
ただ、銘文が正しいとも、
実際には限らないのです。
他の場所にあった仏様の、
復刻のようなものである可能性もあるからです。
夕日観音と同じ作者のものである、
という説がありますが、
タッチも異なり、
藝術性には格段の相違があるので、
僕はその意見には納得がゆきません。
中央には弥勒菩薩でその両側に地蔵菩薩様、
という三尊の形式です。
僕は個人的には夕日観音はもっと古い時代のものだ、
という意見です。
ここから更にもう少し山道を登ると、
首切り地蔵に出ます。
それがこちら。
ここは昔からの三叉路で、
その目印にこのお地蔵様がおられます。
そばにはベンチとトイレがあります。
柳生街道の最初の休憩どころという格好です。
首の部分が切れていて、
荒木又衛門が試し切りにした、
という伝説のあるものです。
まあ、実際には年月による自然の亀裂と思われます。
年代は鎌倉期のもので、
こうした地蔵尊の道標としては、
非常に古いものです。
良く見ると浮き彫りの形式であることが分かります。
ここから、地獄谷への道に入ります。
すぐに現れるのがこの謎のポンプ小屋で、
人気のないのが非常に不気味です。
ホラー映画なら、
鉄の扉が急に開いて、
仮面の殺人鬼が出て来そうな迫力があります。
それからしばらく山を登ると、
今度はこちらに出ます。
この池がまた不気味で、
ホラー映画のロケ地に推薦したいくらいです。
地獄谷石窟まで600メートルと書いてあったのですが、
丁度そのくらい歩くと、
一旦舗装された車道に出て、
そこにある看板には、
再び山道への入り口に、
今度も地獄谷石窟まで600メートルと書いてあります。
ええっ、ここまでの距離は何だったの、
とがっかりしますが仕方がありません。
その後は再び山道になります。
こんな具合です。
地獄谷というのは、
もともと風葬の地で、
そう言われると何となく不気味で、
これまでの鬼気迫る雰囲気もなるほどな、
という感じです。
それほどの苦労はなく、
やがて山頂に近い場所に、
石窟が見えて来ます。
次をご覧下さい。
これが石窟の全景です。
岩屋の中に、線描の磨崖仏が彫り込まれています。
ただ、ご覧のように厳重に鉄条網と鉄の扉で守られているので、
外から透かし見て、
かろうじて内部の様子が分かる、
という感じのものです。
ただ、扉の中央部に覗けるようなスペースがあるので、
何とか様子は窺うことが出来ます。
では次を。
これが石窟の全景で、
奥に奈良の大仏を思わせる、
線描の三尊仏が彫り込まれています。
中央は盧舎那仏です。
実際には近寄れませんが、
カメラをズームするとこんな感じです。
平安時代の後期の作とされています。
現存するこうした線描の磨崖仏としては、
非常に古いものです。
技巧的にも優れ、彩色が残っていて、
その朱と周囲の岩壁の苔の緑とが、
なかなか鮮やかな対比を成しています。
ただ、これはカメラで撮ったものを後で見て分かることで、
実際に肉眼では、
もっと朧にしか確認出来ません。
仏様を拝する、という感じとは、
かなり程遠いものです。
なかなか見事な作品なのですが、
インドのアジャンタの石窟を以前一度訪問したことがあって、
そうした線描の磨崖仏の宝庫です。
この1万倍はスケールの大きなものなので、
それを思うとこういうタイプのものは、
ちょっと弱いな、
という感じがします。
ただ、単独の作品としては、
アジャンタと遜色は全くないレベルの高いものです。
それでは今日はこのくらいで。
明日は芳山の石仏の話です。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日も診療所は休診です。
朝からいつのように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
今日も昨日に引き続いて、
奈良の柳生街道の石仏の話です。
仏像岩から結構急な坂道を15分ほど登り詰めると、
朝日観音に達します。
こちらです。
僕はこの仏様は、
大好きというほどではないのですが、
丁度朝日の差し込む時間で、
金色に輝くお姿には、
崇高なものを感じました。
これは銘文が横に刻まれていて、
年代は鎌倉後期であることがほぼ明らかです。
ただ、銘文が正しいとも、
実際には限らないのです。
他の場所にあった仏様の、
復刻のようなものである可能性もあるからです。
夕日観音と同じ作者のものである、
という説がありますが、
タッチも異なり、
藝術性には格段の相違があるので、
僕はその意見には納得がゆきません。
中央には弥勒菩薩でその両側に地蔵菩薩様、
という三尊の形式です。
僕は個人的には夕日観音はもっと古い時代のものだ、
という意見です。
ここから更にもう少し山道を登ると、
首切り地蔵に出ます。
それがこちら。
ここは昔からの三叉路で、
その目印にこのお地蔵様がおられます。
そばにはベンチとトイレがあります。
柳生街道の最初の休憩どころという格好です。
首の部分が切れていて、
荒木又衛門が試し切りにした、
という伝説のあるものです。
まあ、実際には年月による自然の亀裂と思われます。
年代は鎌倉期のもので、
こうした地蔵尊の道標としては、
非常に古いものです。
良く見ると浮き彫りの形式であることが分かります。
ここから、地獄谷への道に入ります。
すぐに現れるのがこの謎のポンプ小屋で、
人気のないのが非常に不気味です。
ホラー映画なら、
鉄の扉が急に開いて、
仮面の殺人鬼が出て来そうな迫力があります。
それからしばらく山を登ると、
今度はこちらに出ます。
この池がまた不気味で、
ホラー映画のロケ地に推薦したいくらいです。
地獄谷石窟まで600メートルと書いてあったのですが、
丁度そのくらい歩くと、
一旦舗装された車道に出て、
そこにある看板には、
再び山道への入り口に、
今度も地獄谷石窟まで600メートルと書いてあります。
ええっ、ここまでの距離は何だったの、
とがっかりしますが仕方がありません。
その後は再び山道になります。
こんな具合です。
地獄谷というのは、
もともと風葬の地で、
そう言われると何となく不気味で、
これまでの鬼気迫る雰囲気もなるほどな、
という感じです。
それほどの苦労はなく、
やがて山頂に近い場所に、
石窟が見えて来ます。
次をご覧下さい。
これが石窟の全景です。
岩屋の中に、線描の磨崖仏が彫り込まれています。
ただ、ご覧のように厳重に鉄条網と鉄の扉で守られているので、
外から透かし見て、
かろうじて内部の様子が分かる、
という感じのものです。
ただ、扉の中央部に覗けるようなスペースがあるので、
何とか様子は窺うことが出来ます。
では次を。
これが石窟の全景で、
奥に奈良の大仏を思わせる、
線描の三尊仏が彫り込まれています。
中央は盧舎那仏です。
実際には近寄れませんが、
カメラをズームするとこんな感じです。
平安時代の後期の作とされています。
現存するこうした線描の磨崖仏としては、
非常に古いものです。
技巧的にも優れ、彩色が残っていて、
その朱と周囲の岩壁の苔の緑とが、
なかなか鮮やかな対比を成しています。
ただ、これはカメラで撮ったものを後で見て分かることで、
実際に肉眼では、
もっと朧にしか確認出来ません。
仏様を拝する、という感じとは、
かなり程遠いものです。
なかなか見事な作品なのですが、
インドのアジャンタの石窟を以前一度訪問したことがあって、
そうした線描の磨崖仏の宝庫です。
この1万倍はスケールの大きなものなので、
それを思うとこういうタイプのものは、
ちょっと弱いな、
という感じがします。
ただ、単独の作品としては、
アジャンタと遜色は全くないレベルの高いものです。
それでは今日はこのくらいで。
明日は芳山の石仏の話です。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
柳生街道と仏像岩 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
診療所は8月15日まで休診です。
昨日の夜に奈良から戻りました。
朝からいつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
今日から数日、
奈良の石仏の話をさせて下さい。
柳生街道は奈良市内から、
北に延びる山間の街道で、
その全てではありませんが、
風情のある山道がまだ残っています。
本能寺の変の時に徳川家康は、
一部この山道を経由して、
三河に逃れたとされています。
今回は朝奈良市内を出て、
滝坂道から地獄谷の石窟を経て、
芳山の石仏まで道を辿って半日で奈良市内に戻りました。
新薬師寺のそばから山道に入りますが、
その近くにあるのがこちら。
以前テレビのバラエティで紹介された、
謎の「なめくぢ倶楽部」の看板です。
この少し先から街道に入ります。
柳生街道の登り口の石畳です。
いつもながら風情があります。
1年ぶりです。
柳生街道は日本屈指の優れた石仏の宝庫です。
まず石畳の山道を、
15分ほど登ったところにおられるのが、
こちらです。
寝仏(ねぼとけ)と呼ばれています。
智拳印を結んだ、
大日如来様だとされています。
このすぐ上の岩に刻まれていた仏様が、
転がり落ちたものだと考えられています。
ここからほんの10メートル程度登ったところに、
仏像岩があります。
まず全景をお示しします。
街道の看板は、
ただ「夕日観音」と記されています。
しかし、実際にはこれだけの仏様が、
一同に会しているのです。
そうと気付くと圧巻です。
仏様ごとに拝してゆくことにしましょう。
皆さま、どうか無粋なデジカメなどで、
ご尊顔を汚す無礼をお許し下さい。
ではまずこちらから。
街道から綺麗に見える地蔵菩薩様のお姿です。
多分鎌倉期のものだと思います。
浮き彫りとしての技術に優れ、
それより以前の時代のものより立体的になっています。
それでいて古態を保ち、
室町期以降の工芸品的な冷たさがありません。
これは実は昨年の同じ時期には綺麗に拝せませんでした。
去年の画像がこちら。
赤い矢印の先がそうなのですが、
草に覆われていて全然見えません。
一度人間の手が入って、
周囲の草木を払い、
手入れがされたようです。
それではここよりちょっと下の位置に目線を移します。
地蔵菩薩様が3体並んでおられます。
南北朝から室町期のものとされていますが、
タッチはもう少し古い気がします。
ただ、おそらくお地蔵様を3尊並べるという形式自体が、
新しいものだということかも知れません。
ここより少し南の位置に視線を移すと、
こちらの仏様がいらっしゃいます。
ご覧のように状態は一番悪いのです。
ほぼ風化して土になろうとされています。
かろうじて見えるのが地蔵菩薩様のお顔で、
その右に薬師如来、更に右に釈迦如来、
地蔵様の左が阿弥陀如来、
最初にご紹介した「寝仏」が大日如来で、
もともとはこの仏様の一番左に位置していたと、
考えられています。
つまり、五尊仏という様式です。
年代は室町時代とされていますが、
これは推測に過ぎません。
ただ、盛り上がりが強い時代を下った形式のもので、
そのために風化が早まったのだと考えると、
何となく納得はゆくのです。
では最後に僕の敬愛する、
夕日観音様のお姿です。
凄いでしょ。
木の根元とのマッチングが、
何とも言えません。
大変失礼ですが、
もう少し近付くことをお許し下さい。
この浮き彫りの平面的な感じが、
より古い時代の作品であることを証明しています。
観音ではなく実際には弥勒仏で、
一般的には鎌倉時代の作とされていますが、
僕は平安中期までさかのぼるのではないか、
という意見です。
1年の無事を感謝し、
傲慢にも思いましたが、
今後のことも含めてお祈りをしました。
次の画像は昨年のお姿です。
昨年よりちょっと風化が進んだようにもお思えます。
しかし、僕の方が確実に先に土に帰るのだと思います。
自然と藝術との丁度中間に、
こうした奇跡が生じていることに、
本当に感謝したいと思います。
それでは最後にもう一度仏像岩の全貌をご覧下さい。
それでは今日はこのくらいで。
明日は地獄谷の石窟を観て頂きます。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
あっ、施設の方、訪問看護の看護師さん、
救急医療に携わる皆さん、
ご苦労さまです。
休んでしまってすみません。
皆さんにとっても今日が良い日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
診療所は8月15日まで休診です。
昨日の夜に奈良から戻りました。
朝からいつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
今日から数日、
奈良の石仏の話をさせて下さい。
柳生街道は奈良市内から、
北に延びる山間の街道で、
その全てではありませんが、
風情のある山道がまだ残っています。
本能寺の変の時に徳川家康は、
一部この山道を経由して、
三河に逃れたとされています。
今回は朝奈良市内を出て、
滝坂道から地獄谷の石窟を経て、
芳山の石仏まで道を辿って半日で奈良市内に戻りました。
新薬師寺のそばから山道に入りますが、
その近くにあるのがこちら。
以前テレビのバラエティで紹介された、
謎の「なめくぢ倶楽部」の看板です。
この少し先から街道に入ります。
柳生街道の登り口の石畳です。
いつもながら風情があります。
1年ぶりです。
柳生街道は日本屈指の優れた石仏の宝庫です。
まず石畳の山道を、
15分ほど登ったところにおられるのが、
こちらです。
寝仏(ねぼとけ)と呼ばれています。
智拳印を結んだ、
大日如来様だとされています。
このすぐ上の岩に刻まれていた仏様が、
転がり落ちたものだと考えられています。
ここからほんの10メートル程度登ったところに、
仏像岩があります。
まず全景をお示しします。
街道の看板は、
ただ「夕日観音」と記されています。
しかし、実際にはこれだけの仏様が、
一同に会しているのです。
そうと気付くと圧巻です。
仏様ごとに拝してゆくことにしましょう。
皆さま、どうか無粋なデジカメなどで、
ご尊顔を汚す無礼をお許し下さい。
ではまずこちらから。
街道から綺麗に見える地蔵菩薩様のお姿です。
多分鎌倉期のものだと思います。
浮き彫りとしての技術に優れ、
それより以前の時代のものより立体的になっています。
それでいて古態を保ち、
室町期以降の工芸品的な冷たさがありません。
これは実は昨年の同じ時期には綺麗に拝せませんでした。
去年の画像がこちら。
赤い矢印の先がそうなのですが、
草に覆われていて全然見えません。
一度人間の手が入って、
周囲の草木を払い、
手入れがされたようです。
それではここよりちょっと下の位置に目線を移します。
地蔵菩薩様が3体並んでおられます。
南北朝から室町期のものとされていますが、
タッチはもう少し古い気がします。
ただ、おそらくお地蔵様を3尊並べるという形式自体が、
新しいものだということかも知れません。
ここより少し南の位置に視線を移すと、
こちらの仏様がいらっしゃいます。
ご覧のように状態は一番悪いのです。
ほぼ風化して土になろうとされています。
かろうじて見えるのが地蔵菩薩様のお顔で、
その右に薬師如来、更に右に釈迦如来、
地蔵様の左が阿弥陀如来、
最初にご紹介した「寝仏」が大日如来で、
もともとはこの仏様の一番左に位置していたと、
考えられています。
つまり、五尊仏という様式です。
年代は室町時代とされていますが、
これは推測に過ぎません。
ただ、盛り上がりが強い時代を下った形式のもので、
そのために風化が早まったのだと考えると、
何となく納得はゆくのです。
では最後に僕の敬愛する、
夕日観音様のお姿です。
凄いでしょ。
木の根元とのマッチングが、
何とも言えません。
大変失礼ですが、
もう少し近付くことをお許し下さい。
この浮き彫りの平面的な感じが、
より古い時代の作品であることを証明しています。
観音ではなく実際には弥勒仏で、
一般的には鎌倉時代の作とされていますが、
僕は平安中期までさかのぼるのではないか、
という意見です。
1年の無事を感謝し、
傲慢にも思いましたが、
今後のことも含めてお祈りをしました。
次の画像は昨年のお姿です。
昨年よりちょっと風化が進んだようにもお思えます。
しかし、僕の方が確実に先に土に帰るのだと思います。
自然と藝術との丁度中間に、
こうした奇跡が生じていることに、
本当に感謝したいと思います。
それでは最後にもう一度仏像岩の全貌をご覧下さい。
それでは今日はこのくらいで。
明日は地獄谷の石窟を観て頂きます。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
あっ、施設の方、訪問看護の看護師さん、
救急医療に携わる皆さん、
ご苦労さまです。
休んでしまってすみません。
皆さんにとっても今日が良い日でありますように。
石原がお送りしました。