柳生街道と仏像岩 [仏像]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
診療所は8月15日まで休診です。
昨日の夜に奈良から戻りました。
朝からいつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
今日から数日、
奈良の石仏の話をさせて下さい。
柳生街道は奈良市内から、
北に延びる山間の街道で、
その全てではありませんが、
風情のある山道がまだ残っています。
本能寺の変の時に徳川家康は、
一部この山道を経由して、
三河に逃れたとされています。
今回は朝奈良市内を出て、
滝坂道から地獄谷の石窟を経て、
芳山の石仏まで道を辿って半日で奈良市内に戻りました。
新薬師寺のそばから山道に入りますが、
その近くにあるのがこちら。
以前テレビのバラエティで紹介された、
謎の「なめくぢ倶楽部」の看板です。
この少し先から街道に入ります。
柳生街道の登り口の石畳です。
いつもながら風情があります。
1年ぶりです。
柳生街道は日本屈指の優れた石仏の宝庫です。
まず石畳の山道を、
15分ほど登ったところにおられるのが、
こちらです。
寝仏(ねぼとけ)と呼ばれています。
智拳印を結んだ、
大日如来様だとされています。
このすぐ上の岩に刻まれていた仏様が、
転がり落ちたものだと考えられています。
ここからほんの10メートル程度登ったところに、
仏像岩があります。
まず全景をお示しします。
街道の看板は、
ただ「夕日観音」と記されています。
しかし、実際にはこれだけの仏様が、
一同に会しているのです。
そうと気付くと圧巻です。
仏様ごとに拝してゆくことにしましょう。
皆さま、どうか無粋なデジカメなどで、
ご尊顔を汚す無礼をお許し下さい。
ではまずこちらから。
街道から綺麗に見える地蔵菩薩様のお姿です。
多分鎌倉期のものだと思います。
浮き彫りとしての技術に優れ、
それより以前の時代のものより立体的になっています。
それでいて古態を保ち、
室町期以降の工芸品的な冷たさがありません。
これは実は昨年の同じ時期には綺麗に拝せませんでした。
去年の画像がこちら。
赤い矢印の先がそうなのですが、
草に覆われていて全然見えません。
一度人間の手が入って、
周囲の草木を払い、
手入れがされたようです。
それではここよりちょっと下の位置に目線を移します。
地蔵菩薩様が3体並んでおられます。
南北朝から室町期のものとされていますが、
タッチはもう少し古い気がします。
ただ、おそらくお地蔵様を3尊並べるという形式自体が、
新しいものだということかも知れません。
ここより少し南の位置に視線を移すと、
こちらの仏様がいらっしゃいます。
ご覧のように状態は一番悪いのです。
ほぼ風化して土になろうとされています。
かろうじて見えるのが地蔵菩薩様のお顔で、
その右に薬師如来、更に右に釈迦如来、
地蔵様の左が阿弥陀如来、
最初にご紹介した「寝仏」が大日如来で、
もともとはこの仏様の一番左に位置していたと、
考えられています。
つまり、五尊仏という様式です。
年代は室町時代とされていますが、
これは推測に過ぎません。
ただ、盛り上がりが強い時代を下った形式のもので、
そのために風化が早まったのだと考えると、
何となく納得はゆくのです。
では最後に僕の敬愛する、
夕日観音様のお姿です。
凄いでしょ。
木の根元とのマッチングが、
何とも言えません。
大変失礼ですが、
もう少し近付くことをお許し下さい。
この浮き彫りの平面的な感じが、
より古い時代の作品であることを証明しています。
観音ではなく実際には弥勒仏で、
一般的には鎌倉時代の作とされていますが、
僕は平安中期までさかのぼるのではないか、
という意見です。
1年の無事を感謝し、
傲慢にも思いましたが、
今後のことも含めてお祈りをしました。
次の画像は昨年のお姿です。
昨年よりちょっと風化が進んだようにもお思えます。
しかし、僕の方が確実に先に土に帰るのだと思います。
自然と藝術との丁度中間に、
こうした奇跡が生じていることに、
本当に感謝したいと思います。
それでは最後にもう一度仏像岩の全貌をご覧下さい。
それでは今日はこのくらいで。
明日は地獄谷の石窟を観て頂きます。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
あっ、施設の方、訪問看護の看護師さん、
救急医療に携わる皆さん、
ご苦労さまです。
休んでしまってすみません。
皆さんにとっても今日が良い日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
診療所は8月15日まで休診です。
昨日の夜に奈良から戻りました。
朝からいつものように駒沢公園まで走りに行って、
それから今PCに向かっています。
今日から数日、
奈良の石仏の話をさせて下さい。
柳生街道は奈良市内から、
北に延びる山間の街道で、
その全てではありませんが、
風情のある山道がまだ残っています。
本能寺の変の時に徳川家康は、
一部この山道を経由して、
三河に逃れたとされています。
今回は朝奈良市内を出て、
滝坂道から地獄谷の石窟を経て、
芳山の石仏まで道を辿って半日で奈良市内に戻りました。
新薬師寺のそばから山道に入りますが、
その近くにあるのがこちら。
以前テレビのバラエティで紹介された、
謎の「なめくぢ倶楽部」の看板です。
この少し先から街道に入ります。
柳生街道の登り口の石畳です。
いつもながら風情があります。
1年ぶりです。
柳生街道は日本屈指の優れた石仏の宝庫です。
まず石畳の山道を、
15分ほど登ったところにおられるのが、
こちらです。
寝仏(ねぼとけ)と呼ばれています。
智拳印を結んだ、
大日如来様だとされています。
このすぐ上の岩に刻まれていた仏様が、
転がり落ちたものだと考えられています。
ここからほんの10メートル程度登ったところに、
仏像岩があります。
まず全景をお示しします。
街道の看板は、
ただ「夕日観音」と記されています。
しかし、実際にはこれだけの仏様が、
一同に会しているのです。
そうと気付くと圧巻です。
仏様ごとに拝してゆくことにしましょう。
皆さま、どうか無粋なデジカメなどで、
ご尊顔を汚す無礼をお許し下さい。
ではまずこちらから。
街道から綺麗に見える地蔵菩薩様のお姿です。
多分鎌倉期のものだと思います。
浮き彫りとしての技術に優れ、
それより以前の時代のものより立体的になっています。
それでいて古態を保ち、
室町期以降の工芸品的な冷たさがありません。
これは実は昨年の同じ時期には綺麗に拝せませんでした。
去年の画像がこちら。
赤い矢印の先がそうなのですが、
草に覆われていて全然見えません。
一度人間の手が入って、
周囲の草木を払い、
手入れがされたようです。
それではここよりちょっと下の位置に目線を移します。
地蔵菩薩様が3体並んでおられます。
南北朝から室町期のものとされていますが、
タッチはもう少し古い気がします。
ただ、おそらくお地蔵様を3尊並べるという形式自体が、
新しいものだということかも知れません。
ここより少し南の位置に視線を移すと、
こちらの仏様がいらっしゃいます。
ご覧のように状態は一番悪いのです。
ほぼ風化して土になろうとされています。
かろうじて見えるのが地蔵菩薩様のお顔で、
その右に薬師如来、更に右に釈迦如来、
地蔵様の左が阿弥陀如来、
最初にご紹介した「寝仏」が大日如来で、
もともとはこの仏様の一番左に位置していたと、
考えられています。
つまり、五尊仏という様式です。
年代は室町時代とされていますが、
これは推測に過ぎません。
ただ、盛り上がりが強い時代を下った形式のもので、
そのために風化が早まったのだと考えると、
何となく納得はゆくのです。
では最後に僕の敬愛する、
夕日観音様のお姿です。
凄いでしょ。
木の根元とのマッチングが、
何とも言えません。
大変失礼ですが、
もう少し近付くことをお許し下さい。
この浮き彫りの平面的な感じが、
より古い時代の作品であることを証明しています。
観音ではなく実際には弥勒仏で、
一般的には鎌倉時代の作とされていますが、
僕は平安中期までさかのぼるのではないか、
という意見です。
1年の無事を感謝し、
傲慢にも思いましたが、
今後のことも含めてお祈りをしました。
次の画像は昨年のお姿です。
昨年よりちょっと風化が進んだようにもお思えます。
しかし、僕の方が確実に先に土に帰るのだと思います。
自然と藝術との丁度中間に、
こうした奇跡が生じていることに、
本当に感謝したいと思います。
それでは最後にもう一度仏像岩の全貌をご覧下さい。
それでは今日はこのくらいで。
明日は地獄谷の石窟を観て頂きます。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
あっ、施設の方、訪問看護の看護師さん、
救急医療に携わる皆さん、
ご苦労さまです。
休んでしまってすみません。
皆さんにとっても今日が良い日でありますように。
石原がお送りしました。
2011-08-13 10:03
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コメント(2)
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今年も行かれたのですね。
先生のおかげで、今年も居ながらにして拝見できたことに感謝です。
by yuuri37 (2011-08-16 00:20)
yuuri37 さんへ
今年はジャージの上下にウエストポーチを付けて、
デジカメは新しい小さなものに変えました。
なので、昨年よりかなり気分良く歩くことが出来ました。
by fujiki (2011-08-16 07:50)