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ヴェルディ「マクベス」(2015英国ロイヤル・オペラ日本公演上演版) [オペラ]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。
何もなければ1日のんびり過ごす予定です。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
英国ロイヤル「マクベス」.jpg
もう先月の話なのですが、
英国ロイヤル・オペラの来日公演が行われました。
演目はヴェルディの「マクベス」と、
モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」で、
いずれもパッパーノの指揮による緻密な音楽と、
以前と比べると地味な感じはしますが、
充実した歌手陣の歌唱で、
まずまず観客の期待を裏切らない上演だったと思います。

演出は「ドン・ジョバンニ」が、
映像を駆使したかなり斬新なものであったのに対して、
「マクベス」は比較的オーソドックスな舞台でした。

ヴェルディの「マクベス」は、
シェイクスピアを原作としたヴェルディの最初の作品で、
基本的にはシェイクスピアの原作を、
ダイジェストの感じながら、
ほぼ忠実になぞるものになっています。

魔女は群衆で登場し、
戦火と圧政に苦しむ民衆も登場して、
民衆と魔女とが、
重ね合わされているような印象もあります。
魔女の集会でマクベスが予言を受けるところでは、
バレエが取り入れられています。

作品の核になるのはマクベス夫人で、
ドラマティックな迫力が必要とされる一方で、
コロラトゥーラのアリアもあり、
最後にはコンパクトながら狂乱の場も用意されています。

僕はこれまで新国立劇場での2回の上演と、
スカラ座の来日公演で「マクベス」を聴いていますが、
マクベス夫人の歌唱に関しては、
今回のリュドミラ・モナスティルスカというキエフ出身のソプラノが、
迫力と技巧双方を兼ね備えていて、
文句なくベストでした。

作品としても、
手紙を読むアリアから、
ダンカン王の暗殺に至る辺りの段取りを、
マクベス夫人の歌唱を主体に繋いで表現した部分が、
オペラとして最も良く出来ているように感じました。

主役のマクベスを歌った、
サイモン・キーンリサイドは、
以前と比べると大分枯れて来た印象で、
この役にはやや凄みが不足している感じはありましたが、
悪くない歌唱でした。

魔女は中途半端な衣装で、
迫力には乏しく、
ただの女声合唱というようにしか見えませんでした。
ただ、この作品の魔女の扱いは、
基本的にはこうしたものに近いのかも知れません。

ヴェルディの「マクベス」は、
バーナムの森が動く場面もありませんし、
マクベスの有名な独白も、
アリアにはなっていません。
シェイクスピアのストーリーに忠実でありながら、
印象としては「イル・トロヴァトーレ」に近いようなイメージです。

ただ、端から別物として考えれば、
聴きどころも多く、
長さも手頃なので、
最近は比較的気に入っている1本です。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

ワーグナー「ラインの黄金」(新国立劇場2015/2016シーズンオープニング) [オペラ]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は土曜日で、
午前中から2時までは石田医師が、
2時以降は石原が外来診療に当たる予定です。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
ラインの黄金.jpg
新国立劇場のシーズンオープニングとして、
ワーグナーのニーベルングの指環の第一作、
「ラインの黄金」が今上演されています。

新国立劇場の「ニーベルングの指環」は、
キース・ウォーナーによるオリジナルの演出が、
神の国をアメリカに見立てたポップで壮大な演出が面白く、
僕はとても気に入っていたのですが、
1回再演された時点で、
セットは廃棄されてしまったようです。

非常に残念です。

新たな上演となる今回は、
ドイツの演出家がフィンランドの歌劇場で上演したもののレンタルで、
オリジナルではありません。

少し残念な感じはしますが、
その一方新国立劇場のオリジナルの演出は、
正直酷いものが多いので、
ヨーロッパの二線級の歌劇場と、
新国立劇場は同レベルだと思いますから、
予算の問題も考えれば、
レンタルの方が間違いがない、
ということは言えそうです。

結論から言うと、
なかなか見応え、聴き応えのある、
娯楽性に富んだ、
面白い上演だったと思います。

演出は何処かで見たような感じで、
可もなく不可もなくというところがあります。
ベルリンのクプファー版に、
蛍光灯が上下するセットは似ていますし、
衣装も部分的に似ていますが、
巨大な書割みたいなセットは、
ウォーナーの新国立版にも似ています。
妖精の衣装などは結構エロチックで良い感じな反面、
エルダの衣装は古めかしい魔女の感じなど、
統一感には欠けています。

ただ、大ぜりを使って、
地下の世界と地上と天界とを表現するのは、
分かりやすくて良いと思いますし、
舞台機構が上手く機能しています。
地下の小人の群れなどは、
人数も多くて迫力があります。

総じて、作品に書かれていることを、
そのまま実現しよう、
という姿勢が好感が持てます。

たとえば、
フライアの姿が見えなくなるまで黄金を積み上げろ、
と巨人が命じるところなど、
普通はきちんとやらないのですが、
今回の演出では、
ちゃんと黄金を積み上げて、
フライアの姿を隠しています。

雷神がラストで雲を呼ぶと、
実際に上空で白いスモークが盛大に出現します。
こうしたことも、
最近の無理矢理読み替え演出ではやらないので、
面白く感じました。

唯一、アルベリヒが変身した大蛇は、
ただの幕が下りて来るだけなので、
ガッカリさせられました。
ただ、このパートが満足の行く演出というのは、
未だかつて観たことがありません。

音楽もなかなかで、
スローなテンポの中にメリハリがあり、
歌手陣も頑張っていたと思います。

かなり通俗的な解釈なのですが、
キャストがしっかり芝居をしているので、
見ていて面白く、内容に引き込まれます。

特にアルベリヒのトーマス・ガゼリと、
風格充分のローゲのステファン・グールドは、
抜群の歌役者ぶりを見せていて、
作品のテーマを、
非常に明晰に見せていたと思います。
歌もなかなかでした。

前回の新国立リングでも歌った、
ヴォータンのラジライネンは、
堅実な歌い廻しでしたが、
大分年を取ったなあ、という感じはありました。

総じて娯楽性のある分かり易いリングで、
少し安っぽい感じはありますが、
今の新国立劇場にはフィットしていると思います。
楽しく聴けましたし、
来年以降も非常に楽しみです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

モーツァルト「フィガロの結婚」(2015年野田秀樹演出版) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から疲れ切っていてぼんやりとして、
それから今PCに向かっています。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
フィガロの結婚.jpg
モーツァルトの「フィガロの結婚」を、
井上道弘さんが総監督となって野田秀樹さんが演出し、
国内外の一線級に近いオペラ歌手が集まり、
演劇アンサンブルまで加わった話題の公演が、
先日ミューザ川崎で上演されました。
チケット完売の盛況です。
公演は秋には東京芸術劇場でも2日行われます。

東北から九州まで、
全国10カ所で公演が行われ、
オーケストラや合唱は、
その土地の団体が参加する、
という特殊な形態です。
本来は合唱とオケは音楽の要ですから、
同じメンバーで担当するべきだと思いますが、
各地に予算面でも協力してもらい、
公演を成立されるために、
こうした形態が不可欠であったのだと推察されます。

関東圏の公演については、
東京交響楽団が担当しています。

ポイントは矢張り野田秀樹さんの演出が、
どのようなものになるのか、
というところにあって、
野田さんは以前、
新国立劇場でヴェルディの「マクベス」を演出し、
僕はこれは仰々しくて大好きだったのですが、
一般的には「音楽を理解していない演出」として、
音楽ファンの点は辛いものでした。

「マクベス」は野田さんのこれまでの舞台の中で、
最も潤沢に予算を使った、と言う点でも、
歴史に残る上演だったと思います。
黒子に操られる骸骨が山のように登場し、
ひまわりの花に埋め尽くされた巨大な舞台の彼方から、
ハウルの動く城のような、
巨大な鉄兜の城がせり出して来ます。

その圧倒的なビジュアルだけで、
個人的には大満足でした。
確かにヴェルディの音楽より、
原作のシェイクスピアの「マクベス」を元にした演出は、
音楽と乖離する感じのあったことは確かです。

しかし、欧米の今のオペラ演出は、
もっとヘンテコで無理筋のものが山のようにありますから、
引っ越し公演だとそうしたものでも有難がって、
野田さんの演出であると非難をする、
というのは筋違いのように当時は感じました。

それでは今回の演出はどのようなものだったのでしょうか?

以下ネタバレを含む感想です。

今回の演出はかなり内容に踏み込んだもので、
伯爵と伯爵夫人、そして小姓という3人の海外キャストが、
幕末の日本に黒船で乗り込んで来る、
という発端から、
舞台は一応長崎で展開される、
という趣向になっています。

原作の主従関係を、
欧米人と日本人の関係として、
読み替えようという趣向です。

台詞や歌詞も、
日本人のみの場面では、
野田さん自身のダイアログによる日本語が使用され、
海外キャストは基本的にイタリア語の原語版で歌います。
これは従者のみの場面では、
母国語で話すけれど、
主人がいる時には、
従者も主人の国の言葉で話す、
ということで辛うじて正当化されています。
訳詩の字幕も野田さんのものなので、
言葉には統一感があります。

ただ、日本語にし難いアリアは、
日本人の歌手でも原語で歌う場合もあり、
アンサンブルでは日本語とイタリア語が、
まぜこぜになっているところもあります。
つまり、趣向が貫徹されているのか、と言うと、
そうでもない部分もあるのです。

こうした趣向には事前の説明が必要なので、
原作にも2幕の終わりにちょこっとだけ登場する庭師の役を、
ナイロン100℃の役者である廣川三憲さんに演じさせ、
彼の説明台詞の後で、
彼が竹を2本鳴らすことにより、
その場面が始まる、という構成になっています。

それ以外にも演劇的な趣向は極めて盛り沢山です。

金屏風のような色彩が散りばめられた、
3個のマジックの剣刺しの道具のようなボックスが、
舞台には最初から置かれていて、
そのうちの1つは実際にネタで剣刺しにも使われます。

舞台からの入退場やその場面のドアなどは、
そのボックスを利用して行われます。
ボックスに開けられた穴から手が伸びて来て、
外にいる女性を抱き締めるというような、
「エッグ」を思わせるような趣向もあります。

アンサンブルのダンサーによって、
長い竹が運び込まれ、
それがラストには森の木々になりますし、
それ以外にも鳥居になったり、
また多くの場面で構図を切り取る「枠」の役割を果たします。

ばら撒かれた赤い花が処女喪失の出血を表現する、
つげ義春の「紅い花」みたいな趣向もありますし、
アンサンブルが竹竿に吊るされたような集団の動きをしたり、
文楽まがいの人形振りがあったりと、
如何にも野田演出という、
遊び心が全編に横溢しています。

衣装はいつものひびのこづえさんですから、
センスのあるポップで色彩豊かな世界です。

非常に面白い趣向だと思います。

ただ、それが成功しているかと言うと、
ちょっと疑問もあります。

まずそもそもの黒船云々の設定に関しては、
もろ「蝶々夫人」ですから、
「蝶々夫人」をアレンジするのであれば、
これで問題はないのですが、
「フィガロの結婚」を幕末(?)の長崎の話にするのは、
かなり強引であちこちに齟齬があるように感じました。

庭師を利用する、というアイデアは面白いのですが、
彼は基本的には殆ど筋に絡まない存在なので、
最初は良いのですが、
後半はあまり役割がなかったように思いました。

バルバリーナ(劇中バルバ里奈)が、
庭師の娘で、
3幕の終わりで伯爵に処女を奪われ、
4幕の初めに悲痛な面持ちで、
「大事なものをなくした」という定番のアリアを歌います。
ボックスから出た瞬間に、
赤い花がバッと散るのも印象的で、
非常に面白い読み替え演出なのですが、
せっかくの趣向も、
その後に繋がりがないので、
浮いてしまったように感じました。

演出は概ね歌をリスペクトして、
歌い難いような場面作りはしていないのですが、
モーツァルトの音楽以外の、
PAや効果音を沢山使用するのが、
個人的には納得の行かない点です。

色々な物を舞台に散乱させて、
きちんとお片付けをしないのは、
野田さんの演出の昔からの特徴ですが、
今回も矢鱈と竹を鳴らす音を立てたり、
2幕のラストも音楽の終わりと共に、
バンと一回竹で床を鳴らします。
これは、原作の楽譜に音を加える行為なので、
やるべきではないと感じました。
伯爵は姿を隠した女性を見付けるために、
チェーンソーを持ち出し、
それが舞台でけたたましい録音の音を出します。
2幕の素敵なアンサンブルの最中に、
こんな酷い雑音はないだろう、
とこれも納得が行きませんでした。

ただ、これは総監督の井上さんが、
「これは駄目だよ」と言えば良いだけの話ですから、
許した井上さんに、
その責任の多くはあるように思います。

2幕後半のアンサンブルは、
「フィガロの結婚」の白眉と言って良い見事な音楽ですが、
ただのドタバタのように捉えられがちで、
雑に上演されがちな部分でもあります。

今回の演出ではチェーンソーや竹の音、
歌の素人の庭師の登場や、
日本語とイタリア語のちゃんぽんのパートと、
やや軽く見たような趣向が多く、
それを総監督も認めているのが、
とても残念に思えました。

野田さんは伯爵夫人のアリアなどでは、
節度のある歌を活かす演出をしているので、
これはもう理解不足から生じたことであり、
その責任の多くは、
矢張り音楽の責任者にあるように感じました。

オケは丁寧な演奏で悪くありませんでした。

歌手陣では、
伯爵役に地方公演も含めて、
ナターレ・デ・カロリスが出演してくれているのは、
素晴らしいことだと思います。
歌はいつも通りボチボチです。
伯爵夫人役のテオドラ・ゲオルギューも、
世界の歌劇場に出演している注目の若手の1人で、
極め付けの美形です。
オペラ歌手でこれだけ美しい人は、
まあ極めて希少です。
歌はこの役には少し軽い感じなのですが、
旬の声で堪能出来ました。
もう1人の海外キャストはカウンターテナーで、
通常メゾ・ソプラノの歌うことが殆どのケルビーノを歌い、
非常に新鮮に感じました。
メゾより絶対良いと思います。

日本人歌手も充実した布陣で、
フィガロに演劇畑に近い大山大輔さんを置き、
マルチェリーナに森山京子さんもなかなか豪華です。

中でもハイカラさん的振袖姿で、
スザンナを演じ歌った、小林沙羅さんは、
如何にも野田芝居のヒロインと言った、
容姿と演技を体現していて、
この作品の核を成した快演でした。
羽野晶紀さんかと思いました。
野田さんもさぞご満悦だったことと推察します。
ただし、歌は今一つに感じました。

総じて非常に面白く刺激的な公演で、
一見、一聴の価値は確実にあります。

ただ、これが完成形とは思えず、
ただの思い付きに終わった部分もあり、
また音楽的な完成度は、
もっと高まった可能性があるので、
秋の公演にも期待したいと思います。

今日はもう1本、歌舞伎の話題に続きます。

ヴェルディ「椿姫」(2015年新国立劇場上演版) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日の3本目の記事はオペラの話題です。

今日はこちら。
椿姫.jpg
今週まで新演出の「椿姫」が、
新国立劇場のレパートリーとして上演されました。

これは新国立劇場開場後、
最初の「椿姫」の上演が、
アンドレア・ロストとインヴァ・ムーラという、
タイトルロールの豪華ダブルキャストで開幕し、
その後数回上演されましたが、
演出は変わりませんでした。

比較的スタンダードなものでしたが、
特に1幕で舞台が横移動してスライドするのが、
あまりスマートな感じではなく、
また全編紗幕を使っていました。
これは要するに、
全てPAを使用した舞台になっていたことを、
意味しています。

そんな訳で僕もこの演出は嫌いだったので、
変わるのは良いのですが、
今回はまたかなりの変化球で、
正直あまり感心した演出では、
なかったように感じました。

「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」というのは、
ヴィオレッタという高級娼婦が、
純な若者と恋に落ちて、
田舎暮らしをするものの、
その若者の父親から、
家名に関わるので別れてくれと言われて、
「愛想尽かし」をし、
最後は結核のために寂しく死んで行く、
という物語です。

1幕は高級娼婦の華やかな生活と、
若者と恋に落ちるまでを描き、
2幕1場では田舎での楽しい生活と、
恋人の父親の登場による破局と愛想尽かし、
2場では社交界に戻った娼婦を若者が追いかけて来て、
波乱の悲劇になり、
3幕は死の間際の娼婦の孤独が描写されます。

これがヴェルディの代表作かと言うと、
ちょっと疑問の点もあるのですが、
最も知られた作品の1つであることは間違いがなく、
聴きどころの多い、
完成度の高い作品であることも間違いがありません。

最後に孤独の中で死に瀕する主人公の元に、
若者とその父親が駆け付け、
2人に看取られながら、
主人公は昇天するのですが、
そこがちょっと唐突な感じもあるので、
「いやいやこれは主人公の妄想であって、
本当はたった1人で死んだのではないか」
という、個人的には下らない考えで演出する人がいて、
今回の新演出はそのパターンです。

ラスト、中央にいるヴィオレッタの背後には青い紗幕があって、
他の人物は全て紗幕の向こうからしか歌いません。
最後は本当はバタリと倒れて死ぬ筈なのに、
オケピットに張り出した舞台まで出て来て、
手を上に差し上げて終わります。

要するに紗幕より前は死の世界で、
そこからヴィオレッタはこれまでを回想していた、
という趣向です。

こういうのが好きな方もいると思うので、
これはもう趣味の問題ですが、
3幕はただでさえ動きの少ない場面なのに、
ヴィオレッタ以外のキャストは紗幕の後ろなので、
面白みが乏しく、
最後は死なないといけないのに、
腕など振り上げているのですから、
頭でっかちで、
如何にもまずいというのが個人的な感想です。

オークストラピットへの張り出し舞台は、
上手く使えばとても面白いと思うのですが、
ヴィオレッタ役のソプラノは、
慣れない演出にやや戸惑い気味で、
堂々と前に出て歌う、という感じではないので、
何か見ている方が恥ずかしい感じになってしまいました。

キャストはヴィオレッタ役のヴェルナルダ・ポプロが、
若手の注目株ということで期待したのですが、
水準的な歌唱ではあるものの、
コロラトゥーラもボチボチくらいの出来で、
興奮を感じるようなものではありませんでした。
3幕は悪くなかったと思います。

総じてこんな演出ならない方がまし、
という感じの作品で、
ガッカリした思いで劇場を後にすることになりました。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

プッチーニ「マノン・レスコー」(2015年新国立劇場上演版) [オペラ]

今日2本目の記事はオペラの話題です。

それがこちら。
マノン・レスコー.jpg
新国立劇場のレパートリーとして、
プッチーニの初期の出世作で、
それほど上演頻度の多くない「マノン・レスコー」が上演されました。

これは元々は2011年の3月に上演の予定で、
直前まで準備が進んでいたのですが、
震災の直後であったため、
直前で中止となりました。
それが4年後にほぼ同じキャストとスタッフの元に、
再度の上演に漕ぎ着けた、という、
ある種の因縁のある公演だったのです。

歌手のメインはソプラノとテノール、バリトンの3人ですが、
いずれも海外で主に活躍している海外キャストで、
一流歌劇場のプレミエというクラスではありませんが、
それに次ぐくらいのメンバーが揃っていて、
なかなか充実した布陣です。
それが再結集した、というだけで、
かなり奇跡的なことで、
その裏にはスタッフの執念のようなものが感じられます。

今回特にテノールのグスターヴォ・ポルタさんは
非常に頑張りを見せていて、
会見の画像でもバリトンのダリボール・イェニスさんと共に、
前回の上演中止が如何に無念であって、
今回に掛ける意気込みが如何に強いものであるのかを、
熱っぽく語っていました。
そして、公演での圧倒的な熱演は、
その言葉を明確に証明するものだったと思います。

一方でソプラノのスヴェトラ・ヴァッシレヴァは、
2001年のフィレンツェ歌劇場の来日公演で、
グルヴェローヴァとダブルキャストで「椿姫」のヴィオレッタを歌った、
当時気鋭のソプラノで、
その時は「その割には…」という歌唱でした。
その後もコンスタントに活躍をされていますが、
当初の期待ほどは、
花形にはならなかった、という感じがあります。
何か貪欲さに欠けるところがあるのかも知れません。
彼女は舞台宣伝の画像でも、
前回の中止の件には、
あまり触れたくない、という印象でした。

作品の「マノン・レスコー」は、
プレヴォーによるフランスロマン主義の文学の代表作で、
発表当時から、
演劇、オペラ、バレーなどとして、
何度も舞台化がされている作品ですが、
現在も上演がされているのは、
このプッチーニ版とフランスのマスネ版の2種のオペラ、
そしてバレーの3種類のみです。

オペラの成立はフランスのマスネによるオペラの方が早く、
それから数年後に今回のプッチーニ版が上演されました。

マスネ版の方がより原作には忠実ですが、
ラストはアメリカの荒野にまでは行きません。
フランスのままで終わりになります。
一方でプッチーニ版は登場人物を減らして、
シンプルな3角関係めいたものに再構成し、
その代わりラストはアメリカの荒野を彷徨います。

原作の面白みは、
マノンが次々と相手を変えて恋愛を繰り返し、
それにお間抜けで純粋な青年が、
何度も裏切られながら、ストーカー的に後を追う、
というところにあるのですが、
プッチーニ版は金持ちと一旦は一緒になったマノンが、
その後は青年との純愛に身を捧げる、
というニュアンスのものになっています。

つまり、基本的には原作とは別物です。

作品の魅力はともかく2人のカップルが、
全編歌いまくるというところにあり、
特にその後のプッチーニの作品と比較すると、
テノールの歌が多いのが特徴です。

そんな訳で今回の上演では、
乗っているテノールのポルタが、
頑張って歌いまくるのが聴きどころで、
彼の熱唱が舞台を支えていました。

相手役のヴァッシレヴァも堅実な歌で悪くなく、
ワーグナーの影響も窺える、
肉食系の2重唱の連続が、
とても心地良く感じました。

舞台装置は海外からのレンタルで、
かなり貧相な感じのものなので、
何とも言いようがないのですが、
低予算化した新国立では、
この路線で止むを得ないように思いますし、
お金を掛けたオリジナルの新制作と称するものが、
極めて低レベルの成果にしか終わっていないので、
むしろ今回のような方が、
安心して聴くことが出来ます。

新国立劇場のオペラ上演の水準作としては、
悪くない上演だったように思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

ヴィヴァルディ「メッセニアの神託」(ビオンディ再構成版日本初演) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から意見書など書いて、
それから今PCに向かっています。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
メッセニアの神託.jpg
先日神奈川県立音楽堂の開館60周年記念公演として、
ヴィヴァルディのバロック・オペラ「メッセニアの神託」が、
2回のみ上演されました。

これは本当に待望の公演で、
個人的には今年一番の楽しみでした。

神奈川県立音楽堂は、
横浜の丘の上にある古いホールで、
上野の文化会館をうんと小ぶりにしたような雰囲気ですが、
時々思い切った魅力的な企画を実現させてくれます。

中でも2006年にたった1回のみ上演された、
ヴィヴァルディの「バヤゼット」は、
イタリアの気鋭のバロック音楽アンサンブル「エウローパ・ガランテ」が、
音楽監督ファビオ・ビオンディの采配による、
ワクワクするような躍動感ある演奏を聴かせ、
ジュノーやバルチェローナを始めとする、
綺羅星の如き歌手陣が、
名唱を披露しました。

僕がこれまで生で聴いた中では、
日本のオペラ上演で最高の舞台だったと断言出来ます。

今回の「メッセニアの神託」は、
同じビオンディの「エウローパ・ガランテ」が音楽監督を務め、
「バヤゼット」で最高の歌唱を聴かせたヴィヴィカ・ジュノーが、
2006年以来の再登板。
それに、若手では最高のアジリタ歌いと世評の高い、
ロシアのメゾ、ユリア・レーシネヴァが加わります。

ジュノーは最近あまり活躍の噂を聞かないので、
9年の歳月でどう変わったか変わっていないのかは心配でしたが、
レーシネヴァの前評判は抜群なので、
それだけでも期待は高まります。

実際の観劇後の感想は微妙なところで、
前回のジュノーを彷彿とさせる、
レーシネヴァの超絶技巧の歌唱は、
予想を上回る興奮がありましたが、
ジュノー自身は主役ではあるものの、
超絶技巧の披露はありませんでしたし、
頑張っていましたが、
ブランクを感じさせる歌唱でした。

作品自体はヴィヴァルディの完全なオリジナルということではなく、
バロックアリアの名曲を、
あちこちから集めて来て、
残っている資料から再構成したもののようです。
ストーリーは分かっていて、
どういうアリアが使われていたのか、
というような点についての資料は残っているのですが、
オリジナルの台本も楽譜も失われているので、
あちこちの曲をアレンジして、
ビオンディさんがパッチワークのように繋ぎ合わせて、
それらしい作品にしているのです。

先代猿之助が創作した復活狂言に良く似ています。
あれも一応原作は古典にあるのですが、
実際には多くの場面は有名な作品からアレンジして流用し、
繋ぎ合わせて1つの作品にしたものなのです。

ビオンディさんのプレトークでは、
こうしたオペラはそのまま上演すれば5時間くらい掛かり、
それでは現代人の生理には合わないので、
こうしたアレンジをして上演しているのだ、
というような話があり、
猿之助も同じようなことを常日頃言っていたことを思い出しました。

洋の東西を問わず、
古典を愛しそれを現代に復活させようと考える藝術家の心性というものは、
変わりがないということかも知れません。

こうした藝術家を僕は敬愛します。

ポイントは「古典への愛」に尽きるので、
それを基本に置いた上で、
後は極めて大胆に作品をアレンジするのです。

今回の作品はただ、オペラ・セリアとしての骨格が明確にあり、
演劇的な要素が強いので、
それが個々の歌手のアリアの技巧を楽しむ、という、
バロックオペラの愉楽と、
必ずしもうまく癒合していない、
という欠点があります。

前回の「バヤゼット」は、
もっとストーリー性の薄い、
はっきり言えば、どうでも良いような物語しかないので、
純粋な歌手の歌合戦的な妙味があり、
それに徹していた感じがあって面白かったのですが、
今回の作品はストーリーに合わせて歌がある、
というスタイルで、
ストーリー重視の後年のオペラに近いので、
歌合戦にするのか、ストーリー重視でいくのかが、
不鮮明になっていました。

前回の「バヤゼット」では、
歌手はアリアの時は、
基本的に棒立ちで正面を向いて歌うのです。
物語はアリアの間にあって、
その間はお芝居をするのですが、
アリアになれば、
その歌手のソロステージになる訳です。
アリアが終わると歌手は退場しますが、
拍手が多ければ、歌手は再び舞台に戻って来て、
カーテンコールが行われ、
それが終わってから、
次のお芝居パートに進む、という構成でした。

それが今回はアリアの途中でも、
それが舞台にいる相手に向けられたものであれば、
芝居をしながら歌を歌いますし、
アリアの後で拍手があっても、
再登場してカーテンコールをする、
というようなことはしません。

アリアがお芝居の一部である、
というスタイルが一貫していれば、
それはそれで良いのですが、
2幕7場でレーシネヴァが、
技巧を駆使した超難易度のアリアを歌い、
それがまあ今回のメインイベントなのですが、
そのアリア自体は作品からは完全に浮いています。

つまり、そのパートだけは、
「バヤゼット」と同じ歌合戦のスタイルなのです。

このパートが一番盛り上がったという事実は、
観客が求めているのも、
結局歌合戦である、ということを示しているように、
僕は思います。

ストーリーに歌が従属するオペラは、
そうしたオペラに任せておけば良いので、
このバロックオペラの企画は、
もっとその趣旨を鮮明にし、
心浮き立つ一流歌手の歌合戦で、
良かったのではないかと思うのです。

ビオンディさん率いるエウローパ・ガランテの演奏も、
レーシネヴァの超絶技巧アリアのサポートをする部分が、
最もその資質が良く現れ、
即興性を含んだ、
心躍るような演奏を聴かせてくれました。
リズムが歌手と演奏で要所でバシッと合うのですが、
その小気味よさなど、
他にはない快感です。

その一方で演技の感情を表現するような音としては、
あまり雄弁ではなかったように思います。

演出は能の様式を取り入れて、
登場人物が全て扇を持ち、
それを感情表現に使用するような、
和洋折衷のスタイルですが、
衣装などなかなか綺麗に美的センスのある仕上がりで、
そう悪くありませんでした。

こういう試みは大抵は大失敗するので、
その意味では稀有の成功例と言って良いかも知れません。

歌手の評価は、
この作品をどう捉えるのかによっても、
違って来るように思います。

レシーネヴァのアジリタは本当に素晴らしくて、
それだけで元は取って充分にお釣りが来るものだったと思います。
メゾというより、完全にソプラノの音域で、
本当に若い頃のグルヴェローヴァに遜色ない感じがあります。
実に自然で全く力むことなく、
精妙微細な音楽が、
口から心地良く、
神の泉の如くに流れ出て来ます。

現役最高のアジリタ歌いと言って、
間違いはないと思います。

ただ、作品からは彼女の歌は浮いています。

「バヤゼット」でのジュノーの超絶技巧は、
今回のレシーネヴァに遜色ない圧倒的な盛り上がりを生みましたが、
彼女の歌が、
全体から浮き上がっているような感じはありませんでした。

レシーネヴァは声質も今回の歌手陣では、
完全に1人異質ですし、
アリア自体も非常に唐突で作品世界から遊離しています。

この辺りに今回の上演の一番の問題があると思います。

「バヤゼット」の立役者のジュノーは、
かつてのアジリタの女王ですが、
ビジュアル的には充分まだ若々しく、
往年の女豹のような肢体も変わりがありませんでした。
その声質もかつてのカストラーテの役柄を歌うに相応しい美声です。
ただ、声の伸びは明らかになくて、
あまり最近は歌い込んでいない感じです。
また、演じた役柄は、
どちらかと言えばドラマチックな表現が求められ、
装飾歌唱は少ないものなのですが、
所々のアジリタのパートは、
明らかに音が粒だっていませんでした。

ただ、役柄的には及第点ではあったように思います。

最も今回の上演に合っていたのは、
女王メロペを歌ったマリアンヌ・キーランドというメゾで、
感情をしっかり入れたドラマチックな歌唱が、
アリアでも持続され、
それでいて歌のフォルムは崩れておらず、
技術的にもまずまずでした。

総じて優れた上演で堪能することが出来たのですが、
全体のスタイルが未統一で、
「バヤゼット」の時のような類い稀な興奮には至りませんでした。

個人的には是非手練を揃えての、
藝術的な歌合戦のようなバロックオペラを、
また誰か上演してくれないかな、
と改めて思いました。

それでは今日は次に続きます。

2014年のオペラを振り返る [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は休みですが、
日中は仕事でした。
慌ただしく、体調は悪いので、
少し憂鬱な年の瀬です。

休みの日は趣味の話題です。

今日は今年のオペラを振り返ります。

今年は次のオペラ(演奏会形式を含む)に足を運びました。

①藤原歌劇団「オリー伯爵」
②新国立劇場「死の都」
③東京春音楽祭「ラインの黄金」
④新国立劇場「ヴォツェック」
⑤ローマ歌劇場「シモン・ボッカネグラ」
⑥ローマ歌劇場「ナブッコ」
⑦リヨン歌劇場「ホフマン物語」
⑧新国立劇場「パルジファル」
⑨ラ・ヴェネクシアーナ「ポッペーアの戴冠」
⑩マリインスキー劇場管弦楽団「サロメ」
⑪新国立劇場「ドン・ジョバンニ」
⑫新国立劇場「ドン・カルロ」

以上の12作品です。

私的ベストファイブはこちら。
①リヨン歌劇場「ホフマン物語」
http://blog.so-net.ne.jp/rokushin/2014-07-12
これは大野和士さんの芸術監督としての凱旋公演で、
大野さんのオペラは、
どうもこれまで歌手との呼吸が悪く、
今一つの感じがあったのですが、
今回はそうしたぎくしゃくしたところがなく、
大野さんの優れた音楽性が、
非常に理想的な形で、
活かされた公演になっていたように思います。

歌手陣もタイトルロールのダブルキャストの2人、
1人で4役を演じ歌った超人的な活躍のチョーフィー、
凄みのある悪党4役のアルバロと、
いずれも名歌唱と名演技で、
ロラン・ペリーの演出も冴えていたと思います。

特に3幕のアントニアのパートは、
サイコロジカルで表現主義的な演出も冴え、
歌のアンサンブルも抜群で、
圧倒的な名演だったと思います。

②ローマ歌劇場「シモン・ボッカネグラ」
http://blog.so-net.ne.jp/rokushin/2014-05-31
名指揮者ムーティの、
久しぶりの日本でのオペラ演奏で、
キャストもフリットリの降板は残念でしたが、
アンサンブルは良く、
ムーティの調教の元、
怒涛の歌い廻しを見せるオケとの丁丁発止の遣り取りが最高でした。
「ナブッコ」も大いに期待したのですが、
タチアナ・セルジャンの体調不良による降板で、
素人さんのような歌手が出て来たので、
失望の底に沈みました。
ムーティはもうローマは辞められたようですから、
貴重な機会に本物の血沸き肉踊るヴェルディに接したことは、
この上もない幸せでした。

③東京春音楽祭「ラインの黄金」
http://blog.so-net.ne.jp/rokushin/2014-04-12
演奏会形式でN響がワーグナーを上演するようになってからの、
この音楽祭は最高です。
期待した新国立の「パルジファル」の演出が酷かったので、
ワーグナーは演奏会形式に限る、
というようにすら思います。
ヤノフスキの指揮でN響が奏でるワーグナーは、
至福の時間を約束してくれます。
これからも本当に楽しみです。

④マリインスキー劇場管弦楽団「サロメ」
これはNHK音楽祭の企画として上演されたもので、
演奏会形式の「サロメ」です。
ブログでは記事にはしていませんが、
意外な拾い物で、
緊迫感のある、それでいて荒々しさを表に出した、
乱暴な感じの「サロメ」は、
この方が本筋ではないかしら、
と素直に思えるような凄みと迫力がありました。
この作品は豪快にかっ飛ばすくらいが、
丁度良いのかも知れません。
歌手陣もなかなかでした。
変なセミヌードもどきを見せられて、
失望と後悔の海に沈んだり、
SMまがいのインチキ演出を、
日本歌手の先生方が、
何か恥ずかしそうに控え目に演じる素人芸を見るくらいなら、
こうした演奏会形式の方が、
余程ましだと思いました。
生で聴いた中では、
ベストに近い「サロメ」です。

⑤新国立劇場「ドン・カルロ」
http://blog.so-net.ne.jp/rokushin/2014-12-06
今年の新国立劇場は意外に馬鹿に出来ません。
円安に不景気で、
海外からの大掛かりな引っ越し公演も、
それほど期待は出来ない昨今では、
むしろ一番期待出来るのは新国立かも知れません。
お客さんはマナーの最悪な方が沢山いらっしゃるのですが、
ノイズは頭の中で取り除いて、
脳内環境で補填します。
「ドン・カルロ」はヴェルディの大作で、
なかなか良い上演がないのですが、
今回はキャストも揃い、
アキレス腱のオケも、
どうにかこうにか踏ん張っていたので、
個人的には生で聴いたこの作品の中では、
ベストの上演でした。

以上が私的ベスト5です。

来年も良い舞台に出逢えれば人生の幸せです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い年の瀬をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

ヴェルディ「ドン・カルロ」(2014年新国立劇場上演版) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
ドンカルロ.jpg
ヴェルディの傑作で大作の部類に入る「ドン・カルロ」が、
今新国立劇場のレパートリーとして上演されています。

これは意外に拾い物だと思いました。
なかなかキャストの揃うことがないこの作品で、
最上とは言えないものの、
かなり満足の行くアンサンブルの妙味があり、
オケも意外に健闘していました。

今シーズンの新国立劇場は、
意外にあなどれません。

「ドン・カルロ」はヴェルディの傑作の1つですが、
なかなか満足の行く上演には出逢えない難物です。

元はパリ・オペラ座のために、
5幕の大作オペラとして完成されましたが、
その後当初の1幕をカットして、
作者自身が手を加えた短縮版が、
専ら上演されるようになりました。
しかし、最近では当初の5幕版も、
復活上演される機会が増えました。

今回の上演は、
スタンダードな4幕のイタリア語版です。

4幕版は短いのは良いのですが、
主人公である筈のドン・カルロのロマンスの場面を、
ばっさり切ってしまっているので、
予備知識を持って観賞しないと、
主人公がいきなり恋人を失った悲しみに、
打ちひしがれている場面から始まるので、
「何のこっちゃ」という感じになってしまいます。

一方で5幕版はかなり長大になるので、
余程キャストが揃って充実した公演でないと、
途中で気力が続かなくなってしまうのです。

作品はシラーの戯曲を元にしていて、
16世紀半ばの無敵艦隊時代のスペインの宮廷が舞台です。

スペイン国王フィリッポ2世(史実はフェリペ2世)は、
フランスの王女であったエリザベッタを、
年下の妃に迎えるのですが、
実は彼女はフィリッポの息子のドン・カルロと恋仲になっています。
つまり、父親に愛する女性を寝とられた格好となるので、
ドン・カルロは憔悴し、
父親である国王を恨みに思います。
フィリッポ2世はフランドール地方に圧政を敷いているので、
それを父に二重の意味で支配されている、
自分の運命になぞらえたカルロは、
フランドール地方の救済を、
自分の使命のように考え、
親友の侯爵ロドリーゴと、
そのための活動を開始します。
そこにカルロに愛されていると思いこんだ、
エボリ公女と、
ある意味国王以上の権力者である、
盲目の宗教裁判長が絡み、
主だった登場人物の全てが不幸になる、
かなりダークな物語が展開されます。

ストーリーは複雑で、
かなり練り上げられています。

四角関係的な愛憎のドラマに、
宗教と政治の絡む権力闘争と、
圧政からの民衆の解放のドラマまでが絡み、
それぞれが重ね合わされているのですから、
非常にスケールが大きく、
人物の動きも巧みに出来ています。

しかし、オペラとしてはストーリーが複雑過ぎる、
という言い方も出来ます。

実際に予備知識なく舞台を観ると、
各人物の聴きどころの部分は、
非常に良く出来ていて聴き応えがあるのですが、
全体の流れは唐突な部分が多く、
特にエボラ公女とロドリーゴのパートは、
ラストが駆け足であまり納得出来る感じにはなりません。

先帝の亡霊が現れて霊廟にカルロを引き込むというラストも、
如何にも唐突な感じを受けます。

それでいて、
歌手が揃った上演となると、
そうしたドラマの瑕は気にならないのですから、
オペラは不思議です。

ヴェルディでも、
たとえば「椿姫」はソプラノ、テノール、バリトンの、
3人の歌手がいればOKですが、
この「ドン・カルロ」は、
テノール、バリトン、バスが2人、
ソプラノとメゾ・ソプラノと、
6人が揃わないと良いアンサンブルにはならないので、
この1点を取っても、
この作品が滅多に成功しない所以があるのです。

僕は今回の以前に、
4回のプロダクションで生の「ドン・カルロ」を聴いていますが、
一度も大満足の上演には出逢ったことはありません。

最初は新国立の最初の上演で、
これは演出はかつての名演出として名高い、
ヴィスコンティ版をそのまま持って来たものですが、
キャストはかなり凸凹のあるもので、
正直眠気に抗うのに苦労しました。

新国立はもう1回、
今回の演出の初演を聴いていますが、
これもあまり感心しませんでした。

後はスカラ座とメトロポリタンオペラの来日公演で聴きましたが、
いずれもキャスト交代などがあって、
特にエボラ公女とロドリーゴ、
ドン・カルロの歌がブレーキになっていました。

特にメトロポリタン版は、
5幕版を使用して、
ヨナフ・カウフマン、オルガ・ボロディナ、
ホロフトフスキー、ルネ・パーペ、
バルバラ・フリットリが揃う、という豪華版の筈でしたが、
震災と重なってしまったため、
実際に予定通りだったのは、
パーペとホロストフスキーのみ、
という結果でした。

今回の上演では、
まずタイトルロールのドン・カルロ役の、
セルジオ・スコバルというテノールが、
如何にもヴェルディの声と思える極め付けの美声で、
主役の割には歌いどころが少ない同役を、
見事に主役にしていました。

ヒロインのエリザベッタは、
スカラ座版のフリットリがベストでしたが、
今回のファルノッキアも、
正統派の美形で、
端正な歌がぴったりです。
彼女はサントリーのホールオペラのモーツァルトが、
豊饒な響きで忘れ難いのですが、
今回もソツのないところを見せていました。
少し以前よりお痩せになった印象です。

フィリッポ2世のシヴェクというバスは、
歌はボチボチですが、
風格のある容姿はこの役にはピッタリです。

一番の問題のエボラ公女は、
今回ベテランのソニア・ガナッシで、
この役は登場でコロラトゥーラのアリアがあり、
後半ではダイナミックな感情を全開にしたアリアがあるので、
歌の振幅が大きくて、
なかなか両方をこなす歌手がおらず、
どちらの歌も中途半端に終わることが殆どなのですが、
今回のガナッシは、
かつてはロッシーニ歌いとしてアジリタを得意とし、
最近ではグルヴェローヴァの相手役として、
ドラマチックなメゾが印象深い歌手なので、
この役には持ってこいで、
正直もうちょっと出来ても…
という感じはありましたが、
少なくとも生で聴いたこれまでのエボラ公女の中では、
ダントツでした。
ただ、アジリタはかつての彼女の技量を考えると、
ちょっと残念な精度です。

もう1つ特筆すべきは、
妻屋秀和さんの宗教裁判長で、
妻屋さんは8年前のこの演出の初演時にも、
同役を歌ったのですが、
前回より格段に腕を上げていて、
欧米人とは違うアングラ芝居のような役作りで、
杖を持った舞踏のような動きにしても、
仰々しい手の使い方にしても、
途中で咳を挟むような、
自由度の高い歌唱にしても、
もう他の追随を許さないもので、
この役に関しては、
変化球ですが、
何処に出しても恥ずかしくないものだと思います。

日本のオペラ歌手は、
西洋人の物まね歌唱ではなく、
こうした独自性を、
もっと磨くべきではないでしょうか?

最後にロドリーゴは、
頑張ってはいましたが、
声が弱いのでややブレーキの感じでした。
ただ、良いロドリーゴを、
僕は生では聴いたためしがありません。

この作品は演出も難しくて、
ヴィスコンティ版のように重厚な舞台にすると、
群衆のスペクタクルは抜群になるのですが、
全体に古めかしい感じで、
舞台が重くなり過ぎるきらいがあります。

一方で抽象的にしたり、
時代を変えたりしてスタイリッシュな舞台にすると、
確かに少人数の場面は良い感じになるのですが、
少なくとも火刑の場のスペクタクルは、
かなり間抜けな感じになってしまいます。

今回の演出はスタイリッシュで抽象的な感じですが、
衣装は伝統的な感じを残した落ち着いたものなので、
少人数の場面は意外に違和感はなく、
落ち着いて歌に集中することが出来ます。
また、1幕と2幕、
3幕と4幕をそのまま幕間なくつなげているので、
全体がスピーディーになるのも利点です。

ただ、矢張り火刑の場面や、
最後の亡霊にカルロが引き込まれる場面は、
予め筋を知っていなければ、
とてもそうとは見えない間抜けな感じのものでした。

オケは東京フィルとしては健闘していて、
随所にヴェルディらしさがありました。

そんな訳で、
トータルにはこの作品の日本での上演としては、
かなり特筆するべきもので、
少なくとも僕が生で聴いた中ではベストの舞台でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。

下記書籍引き続き発売中です。
よろしくお願いします。

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モーツァルト「ドン・ジョバンニ」(2014年新国立劇場上演版) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今さっき奈良から帰って来たところです。

明日からは診療所もいつも通りの診療となります。
体調は思わしくありませんが、
仕方がありません。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ドンジョバンニ.jpg
もう上演は終了していますが、
新国立劇場のレパートリーとして、
モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」が上演されました。

新国立劇場では、
これまでにも幾つかの演出の「ドン・ジョバンニ」を上演していて、
今回の演出は2008年に初演され、
2012年に再演、そして今回が3回目の上演となります。

僕は新国立劇場のオペラは、
何か異様な演出が多く、
キャストはかなり公演によって凹凸が激しく、
お客さんは概ね非常に淡白で、
アンコールなど待たずにそそくさと帰る方の比率が、
非常に高いので、
あまり熱心に足を運ぶ気分にはなれません。

ただ、このプロダクションは、
3回とも聴いていて、
演出自体も割としゃれていて奇麗で、
毎回キャストも揃っているので、
新国立劇場のレパートリーとしては、
珍しく割と気に入っているものです。

今回の上演では、
タイトルロールのアドリアン・エレートは、
これまでの2回の同役と比較すると、
迫力には欠けるのですが、
気品のある歌と演技で悪くなく、
ロレンツォ・レガッツォのレボレッロは、
歌はボチボチですが演技と雰囲気は良く、
ドンナ・アンナにカルミア・レミージョ、
ドンナ・エルヴィーラに再登板のアガ・ニコライ、
ドン・オッターヴィオにパオロ・ファナーレと、
なかなか歌える歌手を揃えていて、
マゼットとツェルリーナ、
お馴染み妻屋さんの騎士長と、
日本人キャストも結構アンサンブルに溶け込んで良い感じです。

モーツァルトのオペラは、
有名な割に実際に聴くと、
意外に長くて単調な感じとなり、
初心者のハードルは高いのですが、
このプロダクションは入門編として、
悪くないものとして控え目に推奨したいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

もう夜ですが皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。

ワーグナー「パルジファル」(2014年新国立劇場上演版) [オペラ]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から処方など書いて、
それから今PCに向かっています。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
パルジファル.jpg
ワーグナー最後のオペラ「パルジファル」が、
今新国立劇場の2014/2015シーズン オープニング公演として、
今月14日まで上演されています。

「パルジファル」はある意味、
ワーグナーの集大成とも言える傑作ですが、
3幕のうち1幕と3幕は、
長大な上に動きが少なく、
初心者がその世界に浸るには、
かなりハードルの高い演目でもあります。

僕が生で聴いたのは、
2010年の東京・春・音楽祭の舞台で、
この時は演奏会形式の上演でしたが、
非常な感銘を受けました。
少しも退屈はしませんでしたし、
「ワーグナーではこれが一番じゃん」と素直に思えたのです。

その後二期会が取り上げましたが、
僕は二期会のワーグナーは聴いていると胃もたれがするようで、
正直好みではない上に、
ひいき筋の観客が多くて、
大したことがなくても「ブラボー」の嵐になるので、
足を運ぶことはしませんでした。

今回の新国立劇場の上演は、
キャストも揃っていますし、
演出が老いたりとは言え、
ワーグナーの演出で多くの傑作を送り出した、
鬼才ハリー・クプファーであったので、
非常に期待して出掛けました。

しかし、実際に上演された舞台は、
歌手陣は非常にレベルが高く、
欧米の一流歌劇場のプレミエに、
決してひけは取らない充実した歌唱でありメンバーでしたが、
演出ははなはだ疑問の残る不可思議なもので、
特にラストや第二幕の花の乙女の部分では、
作品を台無しにしていると強く感じました。

音楽も、ひょっとしたら、これこそ王道であり、
僕の耳が付いていけなかっただけなのかも知れませんが、
メリハリのないスローテンポなだけの演奏で、
歌手の声に明らかに聴き劣りがして、
とても納得が行くものではありませんでした。
あのオケでワーグナーは、
基本的に厳しいのではないでしょうか。

いつも思いますが、
何故誰が演出をしても、
新国立劇場のオリジナル演出のオペラは、
ああもセンスがなく、
無国籍のような奇怪さで、
誰に何を伝えたいのか、
まるっきり分からないようなものばかりになるのでしょうか?
誰が悪いのでしょうか?
時に何かの裏のメッセージを、
観客に伝えたいようにも思えるのは、
陰謀論の妄想でしょうか?

以下、少し演出の悪口を書かせて下さい。
ネタばれがあります。

この作品はキリスト教の聖杯伝説を元にし、
魔女の誘惑に負けて聖なる槍を奪われた上に、
その槍によって治癒しない傷を負った聖杯騎士団長が、
パルジファルという謎の若者に救われ、
その若者が聖杯の王になる、
という物語です。

ただ、誘惑する魔女が魔界では魔女であると共に、
聖杯城ではその召使として働くという二面性を持ち、
十字架上のキリストを嘲笑ったために、その罰を受け、
未来永劫2つの世界で奉仕する、呪われた存在と化している、
という単純な悪役ではない造形となっています。

ラストではパルジファルにより、
騎士団長はその傷を癒されて彼の僕となり、
魔女クンドリーは輪廻の呪いを解かれて、
安らかな死を迎えます。

晩年のワーグナーは東洋思想に興味を持っており、
自らの呪いにより滅びの途上にあるキリスト教が、
別個の世界から来た「聖なる愚者」により救われる、
という筋立ては、
旧来のキリスト教を否定したもののようにも思われます。

そこに焦点を当てた今回の演出では、
袈裟を来たお坊さんが3人、最初から登場し、
光り輝く道が舞台に造られているのですが、
その上方に常に現れます。
つまり、キリスト教より上に仏教がある、というように見えます。

ラストに至っては、
原典では傷が治癒する筈の騎士団長が死んでしまい、
その代わりに死ぬ筈だった魔女は死なず、
パルジファルと共に坊主の袈裟を着て、
光の道を上へと歩いて行きます。
聖杯騎士の皆さんも、自分の白い上着を脱ぎ捨て、
それに続いて行くように見えます。

キリスト教の時代は終わり、
皆仏教徒になってめでたしめでたしなのでしょうか?
まるで、何かの新興宗教のPR舞台のようです。

見ていて悪い意味で鳥肌が立ち、
あまりに呆然として美しい音楽も耳に入りませんでした。

こんな改変をするくらいなら、
ワーグナーの上演ではなく、
新作の宗教オペラでも作曲してやって欲しいと思います。
新垣さんに設計図を描いて、
お願いすれば良いのではないでしょうか。

このラストの台無し感に比べれば、
小さなことと言えなくもないのですが、
2幕でパルジファルを、
花の乙女と称される魔女の子分が、
誘惑する場面があり、
ちょっと官能的で面白い場面なのですが、
そこで乙女役の歌手を舞台には出さず、
声だけオフステージで流して、
舞台にはダンサーを出した、
という酷い演出にも、
本当にガッカリしました。

これは演奏会形式で聴いた時には、
ソプラノ歌手の皆さんが、
ドレス姿でズラッと並ぶので、
非常にウキウキするような場面だったのですが、
今回は魅力的な歌手を揃えておきながら、
その姿が実際に見られるのは、
アンコールの時のみなのには、
非常に失望しました。
クプファーがどう言ったって、
日本の観客は今回のキャストであれば、
絶対に本人が舞台で歌ってくれた方が良いのですから、
責任者やスタッフの方も、
断固として「否」と言って頂きたかったと思います。

総じてこんな演出ならない方がましです。

僕は音楽を聴きたいのです。

今の正直な感想としては、
現状の上演形態であれば、
醜悪な演出に落胆するくらいなら、
演奏会形式の方が100倍いい、と強く感じました。

ワーグナーは演奏会形式に限りますね。
来年の東京・春・音楽祭を、
楽しみに待ちたいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。