モーツァルト「フィガロの結婚」(2015年野田秀樹演出版) [オペラ]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
朝から疲れ切っていてぼんやりとして、
それから今PCに向かっています。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
モーツァルトの「フィガロの結婚」を、
井上道弘さんが総監督となって野田秀樹さんが演出し、
国内外の一線級に近いオペラ歌手が集まり、
演劇アンサンブルまで加わった話題の公演が、
先日ミューザ川崎で上演されました。
チケット完売の盛況です。
公演は秋には東京芸術劇場でも2日行われます。
東北から九州まで、
全国10カ所で公演が行われ、
オーケストラや合唱は、
その土地の団体が参加する、
という特殊な形態です。
本来は合唱とオケは音楽の要ですから、
同じメンバーで担当するべきだと思いますが、
各地に予算面でも協力してもらい、
公演を成立されるために、
こうした形態が不可欠であったのだと推察されます。
関東圏の公演については、
東京交響楽団が担当しています。
ポイントは矢張り野田秀樹さんの演出が、
どのようなものになるのか、
というところにあって、
野田さんは以前、
新国立劇場でヴェルディの「マクベス」を演出し、
僕はこれは仰々しくて大好きだったのですが、
一般的には「音楽を理解していない演出」として、
音楽ファンの点は辛いものでした。
「マクベス」は野田さんのこれまでの舞台の中で、
最も潤沢に予算を使った、と言う点でも、
歴史に残る上演だったと思います。
黒子に操られる骸骨が山のように登場し、
ひまわりの花に埋め尽くされた巨大な舞台の彼方から、
ハウルの動く城のような、
巨大な鉄兜の城がせり出して来ます。
その圧倒的なビジュアルだけで、
個人的には大満足でした。
確かにヴェルディの音楽より、
原作のシェイクスピアの「マクベス」を元にした演出は、
音楽と乖離する感じのあったことは確かです。
しかし、欧米の今のオペラ演出は、
もっとヘンテコで無理筋のものが山のようにありますから、
引っ越し公演だとそうしたものでも有難がって、
野田さんの演出であると非難をする、
というのは筋違いのように当時は感じました。
それでは今回の演出はどのようなものだったのでしょうか?
以下ネタバレを含む感想です。
今回の演出はかなり内容に踏み込んだもので、
伯爵と伯爵夫人、そして小姓という3人の海外キャストが、
幕末の日本に黒船で乗り込んで来る、
という発端から、
舞台は一応長崎で展開される、
という趣向になっています。
原作の主従関係を、
欧米人と日本人の関係として、
読み替えようという趣向です。
台詞や歌詞も、
日本人のみの場面では、
野田さん自身のダイアログによる日本語が使用され、
海外キャストは基本的にイタリア語の原語版で歌います。
これは従者のみの場面では、
母国語で話すけれど、
主人がいる時には、
従者も主人の国の言葉で話す、
ということで辛うじて正当化されています。
訳詩の字幕も野田さんのものなので、
言葉には統一感があります。
ただ、日本語にし難いアリアは、
日本人の歌手でも原語で歌う場合もあり、
アンサンブルでは日本語とイタリア語が、
まぜこぜになっているところもあります。
つまり、趣向が貫徹されているのか、と言うと、
そうでもない部分もあるのです。
こうした趣向には事前の説明が必要なので、
原作にも2幕の終わりにちょこっとだけ登場する庭師の役を、
ナイロン100℃の役者である廣川三憲さんに演じさせ、
彼の説明台詞の後で、
彼が竹を2本鳴らすことにより、
その場面が始まる、という構成になっています。
それ以外にも演劇的な趣向は極めて盛り沢山です。
金屏風のような色彩が散りばめられた、
3個のマジックの剣刺しの道具のようなボックスが、
舞台には最初から置かれていて、
そのうちの1つは実際にネタで剣刺しにも使われます。
舞台からの入退場やその場面のドアなどは、
そのボックスを利用して行われます。
ボックスに開けられた穴から手が伸びて来て、
外にいる女性を抱き締めるというような、
「エッグ」を思わせるような趣向もあります。
アンサンブルのダンサーによって、
長い竹が運び込まれ、
それがラストには森の木々になりますし、
それ以外にも鳥居になったり、
また多くの場面で構図を切り取る「枠」の役割を果たします。
ばら撒かれた赤い花が処女喪失の出血を表現する、
つげ義春の「紅い花」みたいな趣向もありますし、
アンサンブルが竹竿に吊るされたような集団の動きをしたり、
文楽まがいの人形振りがあったりと、
如何にも野田演出という、
遊び心が全編に横溢しています。
衣装はいつものひびのこづえさんですから、
センスのあるポップで色彩豊かな世界です。
非常に面白い趣向だと思います。
ただ、それが成功しているかと言うと、
ちょっと疑問もあります。
まずそもそもの黒船云々の設定に関しては、
もろ「蝶々夫人」ですから、
「蝶々夫人」をアレンジするのであれば、
これで問題はないのですが、
「フィガロの結婚」を幕末(?)の長崎の話にするのは、
かなり強引であちこちに齟齬があるように感じました。
庭師を利用する、というアイデアは面白いのですが、
彼は基本的には殆ど筋に絡まない存在なので、
最初は良いのですが、
後半はあまり役割がなかったように思いました。
バルバリーナ(劇中バルバ里奈)が、
庭師の娘で、
3幕の終わりで伯爵に処女を奪われ、
4幕の初めに悲痛な面持ちで、
「大事なものをなくした」という定番のアリアを歌います。
ボックスから出た瞬間に、
赤い花がバッと散るのも印象的で、
非常に面白い読み替え演出なのですが、
せっかくの趣向も、
その後に繋がりがないので、
浮いてしまったように感じました。
演出は概ね歌をリスペクトして、
歌い難いような場面作りはしていないのですが、
モーツァルトの音楽以外の、
PAや効果音を沢山使用するのが、
個人的には納得の行かない点です。
色々な物を舞台に散乱させて、
きちんとお片付けをしないのは、
野田さんの演出の昔からの特徴ですが、
今回も矢鱈と竹を鳴らす音を立てたり、
2幕のラストも音楽の終わりと共に、
バンと一回竹で床を鳴らします。
これは、原作の楽譜に音を加える行為なので、
やるべきではないと感じました。
伯爵は姿を隠した女性を見付けるために、
チェーンソーを持ち出し、
それが舞台でけたたましい録音の音を出します。
2幕の素敵なアンサンブルの最中に、
こんな酷い雑音はないだろう、
とこれも納得が行きませんでした。
ただ、これは総監督の井上さんが、
「これは駄目だよ」と言えば良いだけの話ですから、
許した井上さんに、
その責任の多くはあるように思います。
2幕後半のアンサンブルは、
「フィガロの結婚」の白眉と言って良い見事な音楽ですが、
ただのドタバタのように捉えられがちで、
雑に上演されがちな部分でもあります。
今回の演出ではチェーンソーや竹の音、
歌の素人の庭師の登場や、
日本語とイタリア語のちゃんぽんのパートと、
やや軽く見たような趣向が多く、
それを総監督も認めているのが、
とても残念に思えました。
野田さんは伯爵夫人のアリアなどでは、
節度のある歌を活かす演出をしているので、
これはもう理解不足から生じたことであり、
その責任の多くは、
矢張り音楽の責任者にあるように感じました。
オケは丁寧な演奏で悪くありませんでした。
歌手陣では、
伯爵役に地方公演も含めて、
ナターレ・デ・カロリスが出演してくれているのは、
素晴らしいことだと思います。
歌はいつも通りボチボチです。
伯爵夫人役のテオドラ・ゲオルギューも、
世界の歌劇場に出演している注目の若手の1人で、
極め付けの美形です。
オペラ歌手でこれだけ美しい人は、
まあ極めて希少です。
歌はこの役には少し軽い感じなのですが、
旬の声で堪能出来ました。
もう1人の海外キャストはカウンターテナーで、
通常メゾ・ソプラノの歌うことが殆どのケルビーノを歌い、
非常に新鮮に感じました。
メゾより絶対良いと思います。
日本人歌手も充実した布陣で、
フィガロに演劇畑に近い大山大輔さんを置き、
マルチェリーナに森山京子さんもなかなか豪華です。
中でもハイカラさん的振袖姿で、
スザンナを演じ歌った、小林沙羅さんは、
如何にも野田芝居のヒロインと言った、
容姿と演技を体現していて、
この作品の核を成した快演でした。
羽野晶紀さんかと思いました。
野田さんもさぞご満悦だったことと推察します。
ただし、歌は今一つに感じました。
総じて非常に面白く刺激的な公演で、
一見、一聴の価値は確実にあります。
ただ、これが完成形とは思えず、
ただの思い付きに終わった部分もあり、
また音楽的な完成度は、
もっと高まった可能性があるので、
秋の公演にも期待したいと思います。
今日はもう1本、歌舞伎の話題に続きます。
六号通り診療所の石原です。
朝から疲れ切っていてぼんやりとして、
それから今PCに向かっています。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
モーツァルトの「フィガロの結婚」を、
井上道弘さんが総監督となって野田秀樹さんが演出し、
国内外の一線級に近いオペラ歌手が集まり、
演劇アンサンブルまで加わった話題の公演が、
先日ミューザ川崎で上演されました。
チケット完売の盛況です。
公演は秋には東京芸術劇場でも2日行われます。
東北から九州まで、
全国10カ所で公演が行われ、
オーケストラや合唱は、
その土地の団体が参加する、
という特殊な形態です。
本来は合唱とオケは音楽の要ですから、
同じメンバーで担当するべきだと思いますが、
各地に予算面でも協力してもらい、
公演を成立されるために、
こうした形態が不可欠であったのだと推察されます。
関東圏の公演については、
東京交響楽団が担当しています。
ポイントは矢張り野田秀樹さんの演出が、
どのようなものになるのか、
というところにあって、
野田さんは以前、
新国立劇場でヴェルディの「マクベス」を演出し、
僕はこれは仰々しくて大好きだったのですが、
一般的には「音楽を理解していない演出」として、
音楽ファンの点は辛いものでした。
「マクベス」は野田さんのこれまでの舞台の中で、
最も潤沢に予算を使った、と言う点でも、
歴史に残る上演だったと思います。
黒子に操られる骸骨が山のように登場し、
ひまわりの花に埋め尽くされた巨大な舞台の彼方から、
ハウルの動く城のような、
巨大な鉄兜の城がせり出して来ます。
その圧倒的なビジュアルだけで、
個人的には大満足でした。
確かにヴェルディの音楽より、
原作のシェイクスピアの「マクベス」を元にした演出は、
音楽と乖離する感じのあったことは確かです。
しかし、欧米の今のオペラ演出は、
もっとヘンテコで無理筋のものが山のようにありますから、
引っ越し公演だとそうしたものでも有難がって、
野田さんの演出であると非難をする、
というのは筋違いのように当時は感じました。
それでは今回の演出はどのようなものだったのでしょうか?
以下ネタバレを含む感想です。
今回の演出はかなり内容に踏み込んだもので、
伯爵と伯爵夫人、そして小姓という3人の海外キャストが、
幕末の日本に黒船で乗り込んで来る、
という発端から、
舞台は一応長崎で展開される、
という趣向になっています。
原作の主従関係を、
欧米人と日本人の関係として、
読み替えようという趣向です。
台詞や歌詞も、
日本人のみの場面では、
野田さん自身のダイアログによる日本語が使用され、
海外キャストは基本的にイタリア語の原語版で歌います。
これは従者のみの場面では、
母国語で話すけれど、
主人がいる時には、
従者も主人の国の言葉で話す、
ということで辛うじて正当化されています。
訳詩の字幕も野田さんのものなので、
言葉には統一感があります。
ただ、日本語にし難いアリアは、
日本人の歌手でも原語で歌う場合もあり、
アンサンブルでは日本語とイタリア語が、
まぜこぜになっているところもあります。
つまり、趣向が貫徹されているのか、と言うと、
そうでもない部分もあるのです。
こうした趣向には事前の説明が必要なので、
原作にも2幕の終わりにちょこっとだけ登場する庭師の役を、
ナイロン100℃の役者である廣川三憲さんに演じさせ、
彼の説明台詞の後で、
彼が竹を2本鳴らすことにより、
その場面が始まる、という構成になっています。
それ以外にも演劇的な趣向は極めて盛り沢山です。
金屏風のような色彩が散りばめられた、
3個のマジックの剣刺しの道具のようなボックスが、
舞台には最初から置かれていて、
そのうちの1つは実際にネタで剣刺しにも使われます。
舞台からの入退場やその場面のドアなどは、
そのボックスを利用して行われます。
ボックスに開けられた穴から手が伸びて来て、
外にいる女性を抱き締めるというような、
「エッグ」を思わせるような趣向もあります。
アンサンブルのダンサーによって、
長い竹が運び込まれ、
それがラストには森の木々になりますし、
それ以外にも鳥居になったり、
また多くの場面で構図を切り取る「枠」の役割を果たします。
ばら撒かれた赤い花が処女喪失の出血を表現する、
つげ義春の「紅い花」みたいな趣向もありますし、
アンサンブルが竹竿に吊るされたような集団の動きをしたり、
文楽まがいの人形振りがあったりと、
如何にも野田演出という、
遊び心が全編に横溢しています。
衣装はいつものひびのこづえさんですから、
センスのあるポップで色彩豊かな世界です。
非常に面白い趣向だと思います。
ただ、それが成功しているかと言うと、
ちょっと疑問もあります。
まずそもそもの黒船云々の設定に関しては、
もろ「蝶々夫人」ですから、
「蝶々夫人」をアレンジするのであれば、
これで問題はないのですが、
「フィガロの結婚」を幕末(?)の長崎の話にするのは、
かなり強引であちこちに齟齬があるように感じました。
庭師を利用する、というアイデアは面白いのですが、
彼は基本的には殆ど筋に絡まない存在なので、
最初は良いのですが、
後半はあまり役割がなかったように思いました。
バルバリーナ(劇中バルバ里奈)が、
庭師の娘で、
3幕の終わりで伯爵に処女を奪われ、
4幕の初めに悲痛な面持ちで、
「大事なものをなくした」という定番のアリアを歌います。
ボックスから出た瞬間に、
赤い花がバッと散るのも印象的で、
非常に面白い読み替え演出なのですが、
せっかくの趣向も、
その後に繋がりがないので、
浮いてしまったように感じました。
演出は概ね歌をリスペクトして、
歌い難いような場面作りはしていないのですが、
モーツァルトの音楽以外の、
PAや効果音を沢山使用するのが、
個人的には納得の行かない点です。
色々な物を舞台に散乱させて、
きちんとお片付けをしないのは、
野田さんの演出の昔からの特徴ですが、
今回も矢鱈と竹を鳴らす音を立てたり、
2幕のラストも音楽の終わりと共に、
バンと一回竹で床を鳴らします。
これは、原作の楽譜に音を加える行為なので、
やるべきではないと感じました。
伯爵は姿を隠した女性を見付けるために、
チェーンソーを持ち出し、
それが舞台でけたたましい録音の音を出します。
2幕の素敵なアンサンブルの最中に、
こんな酷い雑音はないだろう、
とこれも納得が行きませんでした。
ただ、これは総監督の井上さんが、
「これは駄目だよ」と言えば良いだけの話ですから、
許した井上さんに、
その責任の多くはあるように思います。
2幕後半のアンサンブルは、
「フィガロの結婚」の白眉と言って良い見事な音楽ですが、
ただのドタバタのように捉えられがちで、
雑に上演されがちな部分でもあります。
今回の演出ではチェーンソーや竹の音、
歌の素人の庭師の登場や、
日本語とイタリア語のちゃんぽんのパートと、
やや軽く見たような趣向が多く、
それを総監督も認めているのが、
とても残念に思えました。
野田さんは伯爵夫人のアリアなどでは、
節度のある歌を活かす演出をしているので、
これはもう理解不足から生じたことであり、
その責任の多くは、
矢張り音楽の責任者にあるように感じました。
オケは丁寧な演奏で悪くありませんでした。
歌手陣では、
伯爵役に地方公演も含めて、
ナターレ・デ・カロリスが出演してくれているのは、
素晴らしいことだと思います。
歌はいつも通りボチボチです。
伯爵夫人役のテオドラ・ゲオルギューも、
世界の歌劇場に出演している注目の若手の1人で、
極め付けの美形です。
オペラ歌手でこれだけ美しい人は、
まあ極めて希少です。
歌はこの役には少し軽い感じなのですが、
旬の声で堪能出来ました。
もう1人の海外キャストはカウンターテナーで、
通常メゾ・ソプラノの歌うことが殆どのケルビーノを歌い、
非常に新鮮に感じました。
メゾより絶対良いと思います。
日本人歌手も充実した布陣で、
フィガロに演劇畑に近い大山大輔さんを置き、
マルチェリーナに森山京子さんもなかなか豪華です。
中でもハイカラさん的振袖姿で、
スザンナを演じ歌った、小林沙羅さんは、
如何にも野田芝居のヒロインと言った、
容姿と演技を体現していて、
この作品の核を成した快演でした。
羽野晶紀さんかと思いました。
野田さんもさぞご満悦だったことと推察します。
ただし、歌は今一つに感じました。
総じて非常に面白く刺激的な公演で、
一見、一聴の価値は確実にあります。
ただ、これが完成形とは思えず、
ただの思い付きに終わった部分もあり、
また音楽的な完成度は、
もっと高まった可能性があるので、
秋の公演にも期待したいと思います。
今日はもう1本、歌舞伎の話題に続きます。
2015-06-20 08:05
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コメント(4)
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先生、こんにちは。
昨日、この「フィガロ」を、BS3チャンネルで放送していたのを見ました。
日本語で歌っているのや、楽譜にない爆音を聴いた時、残念さと違和感で、鳥肌が立ちました。
イタリア語の語感や押韻があってこそ、一つの音楽としてまとまって調和しているのに・・
完璧なものをいじって崩壊させて、堂々と公演されていることに、失望しました。
歌っている歌手も、大きな違和感を抱きながら歌っているのではないか?と、思いました。
でも、今まで見たことがない演出なので、これはこれで面白かったです。
こたつ や 鍋物 も登場していましたね。
ケルビーノ役の男性は、まさにケルビーノらしい雰囲気で良かったと思います。
ちょっと体が大きいですけどね・・(><)
石原先生の、お寺巡りの記事も、楽しく読んでいます。
また、コメント欄での相談者さんとのやりとりも、困っている人に安心を与えるアドバイスをされていて、
傍で読んでいて、癒されるというか、心が温かくなります。
毎日のブログ、ありがとうございます。これからも楽しみにしています。
by 恵子 (2015-12-15 00:45)
恵子さんへ
これはこれで面白かったと思うのですが、
正直音楽面では、
井上さんにもう少し締めるべきところを、
締めて欲しかったと思いました。
チェーンソーの音などは、
さすがに酷いと思いますが、
記事にも書きましたように、
野田さんは音楽のポイントを、
あまり理解はされずに演出をされていると思います。
by fujiki (2015-12-15 08:46)
素人が突然コメントしてすみません。
私もBS3の放送で見ました。
見始めて3分でテレビを消そうかと思ってしまいました。
でも続けて見ていると「芝居」だと思えば楽しくもあり、何とか頑張って最後まで見ました。
最後まで見はしましたが、とてもオペラとは言えませんでしたよね?
歌手陣も非常に歌いにくそうで、実力以下の出来だったのだろうと思えました。
音楽的には満足できるものではありませんでした。
やはり井上氏の責任は大きいと感じました。
唯一良かったのは「ケルビーノを男声で」という発想で、これは今後の(本物の)オペラに期待したいと思いました。(笑)
by 匿名 (2015-12-15 18:36)
匿名さんへ
実際に聴くと、
おそらくテレビで観るほどは不快に感じません。
ただ、音楽が切り刻まれていたことは事実です。
ご指摘のようにケルビーノのカウンターテナーは面白くて、
こちらが正当だ、
と強く感じさせるものがありました。
ハスキーな女性のメゾのズボン役というのは、
かなりモーツァルトを詰まらなくしていると思います。
by fujiki (2015-12-15 19:03)