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覚悟と責任の話 [仕事のこと]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。
今日の夜はサントリーホールに、
アーノンクールのハイドン「天地創造」を、
聴きに行く予定です。
アーノンクールとドロテア・レッシュマンは大好きなので、
ちょっと楽しみ。

それでは今日の話題です。
今日はちょっと雑文的な話です。

数日前、検査に受診された患者さんが、
急な腹痛から体調を崩され、
一時的なショック状態になりました。

お話をしているうちに、
「冷や汗が出る。苦しい」
と言われ、みるみる顔色は悪くなって、
脈は触れなくなり、
汗が額を筋を書いて流れます。
心拍数はむしろ低下します。

診療所は救急医療機関ではないので、
こうしたことは滅多にはないのですが、
逆にそうした時には、
僕1人しか責任を持てる者はいない、
という意識があるので、
プレッシャーは並ではありません。

ただ、僕も自分なりに、
これまで幾つかの修羅場は経験しているので、
頭の中では不安も抱えつつ、
表面的にはむしろ普段以上に、
不思議と冷静になれたりもします。

それで患者さんには、
「ちょっと横になった方が楽だね。
ゆっくりと隣に行こうか」
と言い、
検査室のベットに患者さんを寝かせます。

急な痛みなどのストレスで、
交感神経の緊張の後、
副交感神経が一時的に優位になり、
血圧が一気に低下することがあります。
迷走神経反射と呼ばれる現象です。

多分それで問題はないだろう、
それなら徐々に良くなる筈だ、
とは思いつつ様子を見るのですが、
横になって少ししても血圧は上がらず、
痛みの訴えもあると、
僕の回転の遅い頭でも、
限界の速さで様々な他の可能性に、
思いを巡らします。

酸素飽和度をチェックすると、
それが意外に低いので、
まさか肺塞栓か、などと、
思い付く限りの可能性について、
頭を巡らしつつ、
点滴をするべきだろうか、
酸素の準備は?
肺や心臓に他に病変がある可能性はないかしら、
お腹は本当にただ張っているだけなのか、
エコーをするべきか、
もし酸素飽和度が更に低下したら、
その時の対応は…、
などと、
患者さんの脈を取りながら、
段取りを思い描きます。

そのうちに脈が前より強く触れるようになったので、
ああ、これは多分大丈夫だな、
と心の何処かで安堵する部分があり、
酸素飽和度も少しずつ上がって来たので、
後は看護師に任せて、
自分は診療に戻ります。

こういう時は、最悪の可能性も頭には浮かびます。
ちょっと大っぴらには書けないような、
恥ずかしいことも考えます。
何と言うか、社会的な死のようなものが、
不意に今日訪れるかも知れない、
という恐怖と、
それでも、
「仕方がない、今自分に出来る最善のことをするしか、
他に道はないのだから」
というある種達観したような思いが交錯する部分に、
今存在しているのだ、という不思議を考えます。

臨床に携わっている殆どの医者は、
患者さんの急変に対して、
自分1人の覚悟と責任で、
立ち向かわざるを得ない、という、
そうした瞬間を体験している筈で、
その点だけは医者という人種を、
皆さんにも少しは人間として、
認めて欲しい、という気がします。

人間として最も重要なことの1つは、
僕の意見では、
自分1人で責任を担い、そこから逃げないことが出来るか、
ということで、
それが出来る人間と出来ない人間では、
人間の質が基本的に違うのだと、
僕はそう思います。

これを別の言葉で言えば、
修羅場を抜けた人間と、
そうではない人間とでは、
同じ人間でも別の生き物なのです。

すいません。
ちょっと偉そうな言い方に聞こえるかも知れません。
医者は偉いのだ、というニュアンスに読めるとすれば、
それは僕の本意ではありません。
医者どもなぞより、
もっと修羅場で生きている職種の方は、
沢山いらっしゃると思います。

ただ、僕は本当にリスクを避けるような生活をしていて、
日頃腑抜けのように生きているのですが、
それでも患者さんの全人生を、
一瞬だけ背負った、という覚悟を僕なりに抱く時、
その瞬間だけに見えるものがある、
という経験をお話したいのです。

僕は基本的には修羅場を抜けた人間しか、
信用するには値しないと思いますし、
人間とは矢張りそうしたことで成長してゆくものだ、
と感覚的に思います。

ただ、これはちょっと危険思想でもある、
というようにも思います。

修羅場というものを突き詰めて行けば、
人間同士の殺し合い、というものに、
極限では行き着くからです。

この間、司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読みましたが、
幕末の志士は、
伊藤博文や井上馨のような慎重な人間であっても、
殺すか殺されるか、という修羅場に、
何度も立ち会ってそこから生還しているのです。
彼らはおそらく、そうした時代ではなく、
現在に存在していたとしても、
出世はしたと思いますが、
その人間の質は、
矢張り大きく違っていたのではないかと思います。

つまり、何度か殺されかけて一人前、
というのが、あの時代の1つの常識ですし、
そうした修羅場を抜けていない人間は、
軽蔑の対象となっていた筈です。

偉い政治家の方が、
自分は現代の高杉晋作になりたい、とか、
竜馬を尊敬する、とかと、
言われることがありますが、
人を何人か殺したり、
殺されかけたりした経験くらいはないと、
そんなことはおいそれと言ってはならないと思いますし、
(勿論人を殺した方が良い、
という意味ではありません。念のため)
彼らの生き様の意味も、
その人間性についても、
論じることは出来ないのではないか、
と僕は思います。

生きるか死ぬかの修羅場を抜けた人間のことを、
生死の危険すらない人生を生きた人間が、
一体どのようにして分かるのか、
というのが僕の正直な思いです。

ただ、これは勿論どちらが偉い、
という話ではありません。
人を殺すことはいけないことなのだから、
人殺しなどせず、殺されかかることもない人間の方が、
より「進歩した」人類なのだ、
という考え方も出来るでしょうし、
その考えからいけば、
今の表現をすれば、
人殺しでテロリストの高杉晋作よりも、
今生きている政治家の皆さんの方が、
より高い人間性を、
持っているということになるのかも知れません。

ただ、おそらくは平和主義の皆さんも、
そうは思われないと思います。

勿論殺したり殺されかけたりすることが、
本質的なことなのではなく、
死を厭わないくらいの覚悟が必要だ、
ということなのですが、
それでは、生命の保証された状況で、
そうした覚悟を持つことが出来るのか、
と考えると、
人間のような基本的に柔な神経の生き物にとって、
それはなかなか難しいことなのではないかと思います。

僕達の身の周りで見る限り、
人間の質は確実に低下し、
劣化していて、
その理由の1つはそうした覚悟のなさだと、
僕は思います。
自分で責任を持とうという意志、
一瞬にせよ世界を1人で支えようとする覚悟がなければ、
人間は不良コピーを繰り返したビデオテープのように、
曖昧で不確かな存在になってしまうのです。
そんな劣化テープが、
「僕は何のために生きているのか分からない」
などと言うのですから、これは一種の喜劇で、
ダビングを繰り返したぼんやりとした画像に、
はなから生気などは存在せず、
生きる意味など見付かる筈もないのです。

現在の世界においても、
殺し合いや戦争は全く日常的に行なわれていて、
それのない日本のような環境の方が、
やや特殊だと言うことが出来るかも知れません。

国家や集団レベルの殺し合いや戦争が、
存在しない状況というのは、
真に素晴らしいことだとは思いますが、
それが却って人間性を劣化させ、
いじめや家族レベルの殺し合いのような、
陰湿な現象を代わりに生んでいるのだとしたら、
人間の本質とは果たして何であるのかと、
深刻に考えざるを得ません。

人間のみならず生物の成長というのは、
多分死というものを肌で感じ、
そこを一旦潜り抜けることにより成立するもので、
それは生物の種類に拠らず、
共通なのではないかと思うことがあります。
その成長の仕方というのは、
生々しく残酷なものなので、
人間はそうした通過儀礼を必要としない、
もっと穏当な成長を求めるのですが、
生き物というのは、
基本的に残酷なものなので、
なかなかそれを脱することは、
難しいのではないかと思います。

後半はちょっと大仰な話になりました。

医者の修羅場などは、
僕のような立場の医者では知れたものですが、
それでも矢張り、
ギリギリの場面で自分の存在を確認するかしないかは、
生きるということにおいて、
本質的な何かと、
繋がっているような気がするのです。

皆さんはどうお考えになりますか?

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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A・ラファエル

私は現在では世界的に有名になったあるロックヴォーカリストが
好きなのですが、彼を好きになったきっかけは、
プロモーションビデオに映るその顔を見た時に、
「この人死に目にあったことがある。」と、直感したことでした。
その直感は、その後アルバムに書かれていた本人の談で、
正しかったことがわかりました。
アフリカ難民の慰問に行って、爆撃にあったそうです。

本当は全ての人が生きるか死ぬかの責任を自分で荷っているのに、
そのことに気がつかない方ばかりと思うことがよくあります。
by A・ラファエル (2010-10-30 17:09) 

チェリー

私は今まで数回ドクターたちに
プレッシャーをかけた経験があります。

でも絶対忘れない経験のひとつ、
呼吸が止まって、意識が戻ってからみた
ほっとしたドクターの表情を
今でも忘れません。

私のこれからの時間を取り戻してもらった。

酸欠状態の体でいろんな思いを巡らしながら
朝を迎えました。

石原先生をこのように思っている
患者さんもきっと多いと思います。

雨のなかのサントリーホール行きですが、
アーノンクール羨ましいです。

by チェリー (2010-10-30 17:44) 

yuuri37

のほほんとした日々を送っている私でも、人生振り返れば、修羅場の一つや二つは、あるものです。まず、今の私は余生であるということを感じています。ある日母に、デパートのオモチャ売り場で、「何でも好きな物を欲しいだけ買っていい」と言われました。次の日から今はなき、国立こども病院での生活が始まりました。お友達が一人ずつ消えていくなかで、子供なりに死を意識しました。放射線を照射するときの、冷たい硬い台の感触は今でもトラウマです。
実家は、当時交通事故の救急を積極的に受け入れてました。父が留守で、兄が一人で当直の日、私に数時間代わって欲しいすぐ戻ってくるからと頼まれ、お小遣い欲しさに引き受けました。QQの連絡が入ったとき、時計を見たら、兄が帰ってくると約束した時間だったので受け入れたのに兄は帰ってきませんでした。私には、無理だとパニクっていると「先生がやらなければ、この患者さんは確実に死にます。さあ、私が言ったようにやって、お兄様が帰ってくるまでもたないから」血胸で開胸手術が必要な状態でした。数分でいろんなことを考えました。上手く逃げる方法を見つけられずに、緊張のあまり汗が出て来て、吐きそうになる。そのとき、ふと思いました。お前のやりたかった職業じゃないんだろう。だったら、逃げる必要はないだろう。やれよ!やってだめなら辞めればいい。手の震えもおさまって、しっかりメスを握れました。10分後に兄にバトンタッチ。。。あの日5時間、実家には大学病院の夜勤明けの研修医がたった一人だったんです。内緒の話だったけど、時効だからw^^
by yuuri37 (2010-10-30 19:32) 

acco

私は間違いなく、劣化テープの一員ですが・・・

生死の淵を彷徨う、朦朧とした意識の下で、
生命に宿る「仏性」の様なものを感じた事があります。

責任の欠片も無い私でさえそうなのですから、
さすが仏様、御心の広さが人智を超えていますね ♪

by acco (2010-10-31 01:28) 

fujiki

A・ラファエルさんへ
コメントありがとうございます。
死と生とは合わせ鏡のようなものなのかな、
と思うこともあります。
by fujiki (2010-10-31 20:42) 

fujiki

チェリーさんへ
コメントありがとうございます。
アーノンクールは以前よりふんわいとした仕上がりで、
良かったです。レッシュマンも熱唱でした。
ただ、客席はガラガラで驚きました。
by fujiki (2010-10-31 20:44) 

fujiki

yuuri37 さんへ
コメントありがとうございます。
医者は誰でも、
絶対言えないような修羅場を、
経験しているものですね。
by fujiki (2010-10-31 20:51) 

fujiki

accoさんへ
コメントありがとうございます。
本当に貴重な体験だと思うので、
大事にされて下さい。
by fujiki (2010-10-31 21:00) 

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