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KUDAN Project 「真夜中の弥次さん喜多さん」 [演劇]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

今日は土曜日なので趣味の話題です。

今日はこちら。
真夜中の弥次さん喜多さん.jpg
名古屋の才人、天野天街が脚本と演出を手掛け、
小熊ヒデジと寺十吾という2人の役者さんの2人芝居のシリーズ、
KUDAN Projectが2002年に初演した、
「真夜中の弥次さん喜多さん」が、
10月6日までこまばアゴラ劇場で上演されました。

このシリーズでは、「美藝公」という、
筒井康隆のグラビア本を原作とした作品を、
以前スズナリで観ているのですが、
あまり僕好みの作品ではなく、
同じ場面だけが再現なく繰り返され、
途中で嫌になってしまった記憶があります。

それで、今回も観るつもりはなかったのですが、
非常に評判が良いので、
気になって結局観に行きました。

結論的には「美藝公」よりは遥かに面白く、
特に前半はかなり興奮すら感じました。

ただ、それがラストまで持続する、と言う訳ではなく、
ラストに至るとやや物足りなさを感じたのも事実です。

以下ネタばれがあります。

原作はしりあがり寿の漫画です。
あまり漫画は読まない僕も、
これは続編の「弥次喜多in DEEP」を含めて、
全部読みました。

麻薬中毒の奇怪な妄想が、
次々と繰り出されて、
現実と幻覚の境目が完全に消失し、
そこを時空を越えて旅するゲイの2人組を描いた、
トラウマ化必至の怪作で、
特に続編は、
グロテスクな怪物が跳梁して、
世界が何度も滅亡してしまう壮絶なカタストロフです。

2005年には官藤官九郎により映画化もされましたが、
この作品はそれに先立つ2002年に舞台化されたものです。

舞台上で原作の世界を隈なく再現するのは、
勿論不可能なので、
この舞台では「弥次喜多in DEEP」の始めの頃のエピソードである、
「ふりだしの畳」をベースにして、
そこに他の幾つかのエピソードと、
オリジナルの設定をまぶして構成されています。

舞台は麻薬中毒でゲイの喜多さんが、
奥さんのいるパートナーの弥次さんを無理に誘って、
お伊勢参りに出掛ける旅の途上、
宿屋の1室に設定され、
障子に囲まれた畳の部屋の中央に布団が敷かれ、
喜多さんが目覚めるところから始まります。

そこに存在している、ということ自体を、
弥次さんも喜多さんも、リアルに感じることが出来ず、
実際には一方の夢や麻薬の禁断症状の幻覚の中に、
もう一方が取り込まれているのではないか、
という疑心暗鬼のうち、
畳のある場所を踏むと、
時間が少し前に戻る、という現象に気付き、
一方が舌を噛み切って死ぬと、
もう一方が畳を踏んで復活する、
という危険なゲームが、
いつ果てるともなく繰り返されます。

後半はそれに続いて、
喜多さんには見えて、弥次さんには見えないものが、
次々と現れ、最後に見えない刃物で、
弥次さんが刺されると、
再び同じ場面が最初から繰り返され、
今度は見えないものが見えるようになります。

「死」のイメージが不吉に現われ、
弥助さんが喜多さんに殺されたのか、
もしくは弥次さんが自分の奥さんを殺したことが、
言外に示唆されます。

弥次さんが奥さんを殺したのでは…
という捻りは映画のクドカン版でも一緒で、
クドカンのパクリではないのでしょうが、
原作にはそんなくだりはないので、
劇化する場合には、
どうしてもそうした発想になってしまうのかなあ、
とちょっと不思議な感じもしました。

ラストでは宿屋のセットも解体され、
何もない場所に立つ2人が、
忽然と消えて終幕になります。

あまり華のない2人の役者が、
しかし畳み掛ける台詞も小気味よい熱演で、
体技の数々もなかなかですし、
何より12年間に練り上げられた、
無駄のない演技が心地良く感じます。

演出も細部まで工夫が凝らされ、
天野演出の特徴である映像とのコラボ以外にも、
あの狭い空間で、
出口まで宙乗りでダイブしたり、
実際にうどん屋の出前が劇場の届けられたりと
(勿論演出ですが、登場するのは実際の出前です)、
最後までトリップ気分で楽しむことが出来ます。

ただ、幾つか不満もあります。

まず、初演当時は斬新であったであろう映像の使用が、
すっかり古めかしくなっていて、
最初の擬音の雨にはハッとしますが、
その後はどうもパッとしません。
これはリニューアルが必要ではないでしょうか?

それからマジックの仕掛けを利用した小ネタが多く、
僕がマジックマニアのせいかも知れませんが、
どうもこういうのは安直な気がして、乗れません。
出現するステッキの使用や、移動する穴の仕掛け、
ラストに障子2枚の背後で消える2人など、
いずれも古いマジックのトリックですが、
オリジナリティがなく安易なのです。

あと、構成的に前半は面白いのですが、
後半の繰り返しは矢張りダレます。

通常の小劇場演劇のパターンは、
弥次さんが死んでいるにせよ、奥さんを殺してしまったにせよ、
幻想に逃げ込むに至った現実の最後の風景を、
どんでん返し的にじっくりと描き、
ある意味シュールな泣かせの場面にして、
メリハリを付ける、というものです。

ただ、今回の作品では、
そうしたじめっとした水分が出るのを意図的に嫌っていて、
何となくほのめかしはあるものの、
それだけで終わっています。

それはそれで悪くないのですが、
その泣かせの代わりになる、
心棒のような部分がないと、
ちょっと作品がもたないように思うです。

端的に言えば、
役者2人の演技の展開から生まれる何か、
そこから現れる具体物以外の何かが、
演劇にはあるべきですが、
それがないのが、
この芝居の一番の問題なのではないかと思います。

勿論、何もない繰り返しだけの芝居があっても、
それはそれで良いのですが、
この作品では、2人のキャストは、
それなりに客席に何かを伝えようと奮闘しているので、
その「何か」にもっと深みが必要なように思うのです。

仕掛けで見せるシュールな風景、
というだけのことであれば、
フィリップ・ジャンティ・カンパニーみたいなものは、
それをもっと高度な洗練のもとにやっている訳です。

確かに今回のような泥臭い芝居で、
シュールな光景が現れるのも、
それはそれで楽しいのですが、
作品の密度がせっかく高いだけに、
もう少し高みを目指して欲しいな、
というのが僕の偽らざる感想です。

後、最後の部屋が消える場面は、
あんなに時間が掛かっては、
意味がないと思います。

ただ、総じて必見の舞台であることは間違いがなく、
次に東京に来るのはいつのことか分かりませんが、
今回見逃した方には、
是非にとお薦めしたいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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