余命告知と人間精神の脆弱性をどう考えるか? [仕事のこと]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
ちょっとバタバタしていて、
メールのご返信なども遅れていることをお詫びします。
今日が過ぎれば少し楽かと思いますが、
どうなるか分かりません。
それでは今日の話題です。
先日こんな報道がありました。
【余命告知で治療できず死亡 遺族が○○大提訴】
医師から余命告知をされた母親が精神不安定になり、がん治療を受けられず死亡したとして、遺族が4日までに、○○大病院を運営する大学に慰謝料など4500万円の損害賠償を求め、○○地裁に提訴した。
訴状によると、2011年3月、○○県内の70代の女性が余命数カ月と診断され、○○大病院に入院。子どもたちは余命を知らせないよう病院側に申し出たが、医師が本人に「このままだと数カ月。完治することはまずない」と伝えた。
女性は深夜徘徊など精神的に不安定になり、病院にいる方が危険だと医師が判断。通院で治療を続けたが、十分な治療を受けられず12年4月に死亡したとしている。
皆さんはこの記事をお読みになり、
どのようにお考えになりますか?
この報道を取り上げた医療関係の方の意見は、
概ね、
本人に自分のご病気の正確な病状を伝えることは、
適切なことであり、
家族がそれに反対したとしても、
伝えたこと自体は誤った判断ではなかった、
というものです。
そうした見解自体は、
僕も誤りではないと思います。
ただ、人間の精神というものは、
時に非常に脆弱なものであり、
それを考えると、
この問題はそう単純ではないようにも思います。
僕の経験した事例で、
印象に残っているものをご紹介します。
実際の事例ですが、
守秘義務及び患者さんの特定を避ける観点から、
必ずしも事実をそのままお示しするものではないことを、
予めお断りしておきます。
患者さんは70代の男性で、
慢性胃炎などで時々診療所に掛かられていました。
少し神経質なところはあり、
若干の物忘れは時々ありましたが、
病的なレベルのものではありませんでした。
採血で前年の健診結果と比較して、
ヘモグロビンが11程度の軽度の貧血があり、
同じ頃から腰痛を訴えるようになりました。
それで整形外科を受診すると、
レントゲンで背骨に年齢に伴う軽い変化があり、
それが原因の腰痛なのではないか、
という判断です。
痛み止めや湿布が処方され、
電気を患部に当てるような、
あまりその効果が科学的に確認されている訳でもない、
その場しのぎのような治療が継続されました。
貧血に関しては大学病院の血液内科に紹介しましたが、
その時点の診断は、
特に心配はなさそうだ、
というものでした。
しかし、
患者さんの腰痛は更に悪化するばかりです。
それで整形外科で腰椎のMRIを撮ると、
多発性骨髄腫に典型的な骨の破壊像が見付かりました。
通常多発性骨髄腫の検査としては、
血液の蛋白分画を測定して、
Mピークと呼ばれる所見をチェックするのが一般的で、
この検査は当然診療所でもやっていて、
結果は問題ありませんでした。
それで、
血液内科でも、
より詳しい検査である、
骨髄穿刺などは行なわなかったのですが、
骨のMRIの結果を受けて、
再度血液内科にコンサルトすると、
重い腰を上げるようにして、
骨髄検査の日程が組まれました。
しかし、
結果として診断が出たのは、
数か月後のことで、
それまでの間、
患者さんは耐え難い腰痛のために苦しみ抜きました。
診断はIgD型の多発性骨髄腫です。
この病気は骨髄の形質細胞という細胞の異常な増殖による、
血液の一種の腫瘍なのですが、
他のタイプの骨髄腫と比較して、
あまり多くの免疫グロブリンという蛋白質を作らないので、
蛋白分画のMピークが検出されないことが多いのです。
その診断は、
病気の存在を疑って、
骨髄穿刺をするしかありません。
診断が出た時点で、
患者さんに血液内科の担当医から、
告知がされました。
その内容は、
病名はIgD型の多発性骨髄腫という、
稀な血液の病気で、
その予後は悪く、
「治癒の方法はない」というものでした。
治癒の方法はないけれども治療自体は必要で、
それには入院が必要だけれど、
その大学病院ではベッドがないので、
他の病院を紹介する、
という段取りになりました。
その宣告から数日後に、
患者さんのご家族から呼ばれて、
患者さんのご自宅に伺いました。
介護保険の申請の診察のためでした。
まだ入院はされておらず、
患者さんはご自宅にいらっしゃいましたが、
そのご様子の変化に、
僕はショックを受けました。
患者さんは見る影もなくやつれ果て、
僕のことも分かりませんでした。
うわごとのように意味不明のことを呟いているだけで、
自分が何処にいて、
何をしているのかも、
分からないようでした。
この状況については、
色々な説明が可能でしょう。
僕の解釈は、
元々脆弱な部分のあった患者さんの精神が、
身体的な苦痛で長期間苦しめられた上に、
治癒しない、という捉えようによっては、
死刑宣告のようにも取れる告知を受け、
一気に崩壊に至った、
というものです。
この患者さんの場合、
ベースに軽度の認知機能の低下がおそらくはあり、
ストレスの負荷による、
急激な認知症症状の悪化、
というように考えることも出来ます。
身体状況の悪化による「せん妄」と呼ばれる意識障害、
と捉えることも可能だと思いますが、
脱水により意識レベルが低下する、
というようなことではなく、
持続する痛み以外の患者さんの状態は、
決して悪くはなかったので、
その判断はこの場合は誤りのように思います。
この方以外にも、
80代の肺癌の患者さんで、
手術適応であったため、
手術目的で病院をご紹介し、
患者さんもその時点では消極的ではあっても、
同意の意思を示したのですが、
手術が成功後に、
認知症症状の急激な悪化を見て、
癌とは無関係に肺炎などを併発して、
亡くなった患者さんもいました。
その方も、
手術前には、
目立った認知症症状はなく、
長年外来で拝見していたので、
ストレスへの脆弱性は感じ、
心の片隅に危惧を覚えてはいたのですが、
その不安が最悪の形で、
現実になってしまったのでした。
上記の報道には不明の点が多く、
断定的なことは言えないのですが、
僕は印象としては、
僕の経験した事例と、
同じようなことが起こったのではないかと、
思えてなりません。
勿論癌の治療を行なうためには、
その病状が患者さんご本人に、
正確に伝わり、
その内容が一定レベル以上、
理解されている必要があります。
それは勿論当然のことです。
従って、
その意味では大学病院の主治医の判断は、
妥当なものであったのだと思います。
ただ、
その患者さんのご家族が、
余命告知を本人にはしないように、
と言ったのは、
長年患者さんのことを知っている家族として、
「この人に事実通りの告知をしたら、
精神の崩壊に至る可能性が高い」
という確信的な理解があったからではないか、
と推察します。
ご家族の感覚としては、
「癌はありますが治療をすれば必ず良くなりますよ」
というような説明をして、
患者さんに希望を持ってもらい、
その上で治療を受けてもらいたかったのではないかと思います。
ご家族がそうした考えを持つことは誤りでしょうか?
決してそうではないと、
僕は思います。
ただ、
現実問題として、
癌の治療には全てリスクが付き物で、
それにより却って余命を縮めることもありますから、
治療をする側としては、
そのリスクについても正確に説明する必要があり、
進行癌や難治性の癌に関しては、
治療をしなければ予後はこれこれくらいで、
それが治療により、
これこれくらいになる可能性がある、
というような表現が出て来ることになるのです。
ただ、
明確に余命がこれくらいで、
完治することはない、
というような言い方になると、
そのインパクトは非常に大きく、
患者さんには当然受け止められずに、
精神のバランスを大きく崩す事態が、
起こり得るのではないかと思います。
以前にも書いたことがありますが、
今でも癌の専門的な治療に携わる先生の中でも、
ご家族の意思を汲んだ上で、
余命を若干伸ばす程度の効果しか望めなくても、
抗癌剤などの治療を行ない、
患者さんにまるっきりの嘘は言いませんが、
「これで良くなるといいですね」
と言う程度の言い方に留めて、
余命の宣告などは、
敢えて行なわない先生もいらっしゃいます。
こうした対応は、
少し前まではむしろ一般的なものだったと思いますが、
今では保険でも余命半年の診断書でお金が下りる、
というようなものがありますし、
明確にリスクを告げず、
やや甘い予想のみを説明して治療を行ない、
結果が良くなかったために、
ご家族から訴えられる、
というようなケースもあるので、
余命の告知を患者さんご本人にした上で、
その治療を行なう、
という方針が主流になっているのだと思います。
今回の報道の場合、
「そのままの内容を告知すれば、
この人は精神的に壊れてしまう」
というご家族の判断は正しかったのです。
しかし、その場合には、
癌そのものに対する治療は、
事実上は不可能なのであり、
その認識が、
患者さんのご家族と病院の担当医師との間に、
共有されていなかった、
という点が一番の問題ではなかったかと思います。
病状の正確な告知は、
確かに行なわれるべきです。
ただ、
それに耐えられない精神というものが、
存在することは事実で、
超高齢化社会においては、
そのことの重みは、
更に大きくなるようにも思います。
完治はしない癌に対して、
治療のリスクをどのように説明するかの問題は、
そう簡単に割り切れるものではなく、
医療者もそうではない一般の方も、
等しく真剣に考えるべき事項のように、
僕には思えてなりません。
僕が経験した事例に即したことで言えば、
最初の骨髄腫の患者さんについては、
患者さんが脆弱な精神を抱えていたことを、
知ることが出来たのは僕自身だけであったので、
骨髄腫の可能性を、
MRIで察知した段階で、
根治の可能性が低いとすれば、
それにあまり触れない形で、
患者さんの痛みを、
効果的に取る方法が何かないか、
という点に重点を置くことが出来なかったのか、
という反省を強く感じていますし、
血液内科の先生に診断とその説明を丸投げするのではなく、
何らかの形で患者さんの精神の不安定さを、
血液内科の先生にお伝えし、
サポートの方法を一緒に考えるような対策が、
取れなかったのか、
という点にも強い悔悟の念を持っています。
まだ考えとしてうまくまとまりませんが、
告知が困難な事例に対しても、
何らかの形で患者さんにメリットがあるなら、
治療は行なわれるという選択肢も、
あって良いのではないかと思いますし、
そうした観点での告知や治療のあり方も、
検討されるべきではないかと思います。
この方のケースでは、
痛みの取れる可能性のある治療が、
患者さんにとって良い治療であったのです。
「治癒しない」という宣告は、
身体と心の双方に、
致命的な影響をもたらしたのです。
こうしたことは矢張り、
たとえ行為として正しくとも、
あってはならないことだと思います。
2つ目の事例については、
高齢の患者さんの肺癌に関しては、
手術などの治療が可能な段階であっても、
矢張り患者さんの精神的な負荷と、
治療により患者さんの予後に、
どのようなメリットがあるのか、
治療をしない場合にどの程度の違いがあるのかについて、
まず掛かり付け医の立場で、
患者さんの代わりに検討し、
自分なりの結論が得られた時点で、
患者さんのご紹介をどうするかを初めて検討する、
という方針を、
極力取るようにその後は考えています。
医療に関しては色々な議論があり、
救急医療を行なっているような勤務医の先生や、
高度な手術を行なう外科医の先生は、
どんな状況でも必要だけれど、
ただ患者さんの顔を見て薬を出すだけのような、
僕のような末端の診療所の医者は、
いるだけ無駄なので全てなくしてしまえ、
というような意見もお聞きすることがあります。
僕も概ねその通りだと思いますし、
不必要なものは、
いずれ消滅するのだと思いますが、
日本人の4割以上の方はいずれは癌になるのですし、
その時には精神的に大きなショックを受けることになるので、
現状患者さんの精神の脆弱性と、
その危機を回避するために、
僕のような者にも、
おそらく若干の役割は有り得るのではないかと思うので、
日々目の前の患者さんと、
世の中に必要不可欠な勤務医で専門医の先生との、
幸福な橋渡しの手助けが出来るように、
努力だけは続けたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
ちょっとバタバタしていて、
メールのご返信なども遅れていることをお詫びします。
今日が過ぎれば少し楽かと思いますが、
どうなるか分かりません。
それでは今日の話題です。
先日こんな報道がありました。
【余命告知で治療できず死亡 遺族が○○大提訴】
医師から余命告知をされた母親が精神不安定になり、がん治療を受けられず死亡したとして、遺族が4日までに、○○大病院を運営する大学に慰謝料など4500万円の損害賠償を求め、○○地裁に提訴した。
訴状によると、2011年3月、○○県内の70代の女性が余命数カ月と診断され、○○大病院に入院。子どもたちは余命を知らせないよう病院側に申し出たが、医師が本人に「このままだと数カ月。完治することはまずない」と伝えた。
女性は深夜徘徊など精神的に不安定になり、病院にいる方が危険だと医師が判断。通院で治療を続けたが、十分な治療を受けられず12年4月に死亡したとしている。
皆さんはこの記事をお読みになり、
どのようにお考えになりますか?
この報道を取り上げた医療関係の方の意見は、
概ね、
本人に自分のご病気の正確な病状を伝えることは、
適切なことであり、
家族がそれに反対したとしても、
伝えたこと自体は誤った判断ではなかった、
というものです。
そうした見解自体は、
僕も誤りではないと思います。
ただ、人間の精神というものは、
時に非常に脆弱なものであり、
それを考えると、
この問題はそう単純ではないようにも思います。
僕の経験した事例で、
印象に残っているものをご紹介します。
実際の事例ですが、
守秘義務及び患者さんの特定を避ける観点から、
必ずしも事実をそのままお示しするものではないことを、
予めお断りしておきます。
患者さんは70代の男性で、
慢性胃炎などで時々診療所に掛かられていました。
少し神経質なところはあり、
若干の物忘れは時々ありましたが、
病的なレベルのものではありませんでした。
採血で前年の健診結果と比較して、
ヘモグロビンが11程度の軽度の貧血があり、
同じ頃から腰痛を訴えるようになりました。
それで整形外科を受診すると、
レントゲンで背骨に年齢に伴う軽い変化があり、
それが原因の腰痛なのではないか、
という判断です。
痛み止めや湿布が処方され、
電気を患部に当てるような、
あまりその効果が科学的に確認されている訳でもない、
その場しのぎのような治療が継続されました。
貧血に関しては大学病院の血液内科に紹介しましたが、
その時点の診断は、
特に心配はなさそうだ、
というものでした。
しかし、
患者さんの腰痛は更に悪化するばかりです。
それで整形外科で腰椎のMRIを撮ると、
多発性骨髄腫に典型的な骨の破壊像が見付かりました。
通常多発性骨髄腫の検査としては、
血液の蛋白分画を測定して、
Mピークと呼ばれる所見をチェックするのが一般的で、
この検査は当然診療所でもやっていて、
結果は問題ありませんでした。
それで、
血液内科でも、
より詳しい検査である、
骨髄穿刺などは行なわなかったのですが、
骨のMRIの結果を受けて、
再度血液内科にコンサルトすると、
重い腰を上げるようにして、
骨髄検査の日程が組まれました。
しかし、
結果として診断が出たのは、
数か月後のことで、
それまでの間、
患者さんは耐え難い腰痛のために苦しみ抜きました。
診断はIgD型の多発性骨髄腫です。
この病気は骨髄の形質細胞という細胞の異常な増殖による、
血液の一種の腫瘍なのですが、
他のタイプの骨髄腫と比較して、
あまり多くの免疫グロブリンという蛋白質を作らないので、
蛋白分画のMピークが検出されないことが多いのです。
その診断は、
病気の存在を疑って、
骨髄穿刺をするしかありません。
診断が出た時点で、
患者さんに血液内科の担当医から、
告知がされました。
その内容は、
病名はIgD型の多発性骨髄腫という、
稀な血液の病気で、
その予後は悪く、
「治癒の方法はない」というものでした。
治癒の方法はないけれども治療自体は必要で、
それには入院が必要だけれど、
その大学病院ではベッドがないので、
他の病院を紹介する、
という段取りになりました。
その宣告から数日後に、
患者さんのご家族から呼ばれて、
患者さんのご自宅に伺いました。
介護保険の申請の診察のためでした。
まだ入院はされておらず、
患者さんはご自宅にいらっしゃいましたが、
そのご様子の変化に、
僕はショックを受けました。
患者さんは見る影もなくやつれ果て、
僕のことも分かりませんでした。
うわごとのように意味不明のことを呟いているだけで、
自分が何処にいて、
何をしているのかも、
分からないようでした。
この状況については、
色々な説明が可能でしょう。
僕の解釈は、
元々脆弱な部分のあった患者さんの精神が、
身体的な苦痛で長期間苦しめられた上に、
治癒しない、という捉えようによっては、
死刑宣告のようにも取れる告知を受け、
一気に崩壊に至った、
というものです。
この患者さんの場合、
ベースに軽度の認知機能の低下がおそらくはあり、
ストレスの負荷による、
急激な認知症症状の悪化、
というように考えることも出来ます。
身体状況の悪化による「せん妄」と呼ばれる意識障害、
と捉えることも可能だと思いますが、
脱水により意識レベルが低下する、
というようなことではなく、
持続する痛み以外の患者さんの状態は、
決して悪くはなかったので、
その判断はこの場合は誤りのように思います。
この方以外にも、
80代の肺癌の患者さんで、
手術適応であったため、
手術目的で病院をご紹介し、
患者さんもその時点では消極的ではあっても、
同意の意思を示したのですが、
手術が成功後に、
認知症症状の急激な悪化を見て、
癌とは無関係に肺炎などを併発して、
亡くなった患者さんもいました。
その方も、
手術前には、
目立った認知症症状はなく、
長年外来で拝見していたので、
ストレスへの脆弱性は感じ、
心の片隅に危惧を覚えてはいたのですが、
その不安が最悪の形で、
現実になってしまったのでした。
上記の報道には不明の点が多く、
断定的なことは言えないのですが、
僕は印象としては、
僕の経験した事例と、
同じようなことが起こったのではないかと、
思えてなりません。
勿論癌の治療を行なうためには、
その病状が患者さんご本人に、
正確に伝わり、
その内容が一定レベル以上、
理解されている必要があります。
それは勿論当然のことです。
従って、
その意味では大学病院の主治医の判断は、
妥当なものであったのだと思います。
ただ、
その患者さんのご家族が、
余命告知を本人にはしないように、
と言ったのは、
長年患者さんのことを知っている家族として、
「この人に事実通りの告知をしたら、
精神の崩壊に至る可能性が高い」
という確信的な理解があったからではないか、
と推察します。
ご家族の感覚としては、
「癌はありますが治療をすれば必ず良くなりますよ」
というような説明をして、
患者さんに希望を持ってもらい、
その上で治療を受けてもらいたかったのではないかと思います。
ご家族がそうした考えを持つことは誤りでしょうか?
決してそうではないと、
僕は思います。
ただ、
現実問題として、
癌の治療には全てリスクが付き物で、
それにより却って余命を縮めることもありますから、
治療をする側としては、
そのリスクについても正確に説明する必要があり、
進行癌や難治性の癌に関しては、
治療をしなければ予後はこれこれくらいで、
それが治療により、
これこれくらいになる可能性がある、
というような表現が出て来ることになるのです。
ただ、
明確に余命がこれくらいで、
完治することはない、
というような言い方になると、
そのインパクトは非常に大きく、
患者さんには当然受け止められずに、
精神のバランスを大きく崩す事態が、
起こり得るのではないかと思います。
以前にも書いたことがありますが、
今でも癌の専門的な治療に携わる先生の中でも、
ご家族の意思を汲んだ上で、
余命を若干伸ばす程度の効果しか望めなくても、
抗癌剤などの治療を行ない、
患者さんにまるっきりの嘘は言いませんが、
「これで良くなるといいですね」
と言う程度の言い方に留めて、
余命の宣告などは、
敢えて行なわない先生もいらっしゃいます。
こうした対応は、
少し前まではむしろ一般的なものだったと思いますが、
今では保険でも余命半年の診断書でお金が下りる、
というようなものがありますし、
明確にリスクを告げず、
やや甘い予想のみを説明して治療を行ない、
結果が良くなかったために、
ご家族から訴えられる、
というようなケースもあるので、
余命の告知を患者さんご本人にした上で、
その治療を行なう、
という方針が主流になっているのだと思います。
今回の報道の場合、
「そのままの内容を告知すれば、
この人は精神的に壊れてしまう」
というご家族の判断は正しかったのです。
しかし、その場合には、
癌そのものに対する治療は、
事実上は不可能なのであり、
その認識が、
患者さんのご家族と病院の担当医師との間に、
共有されていなかった、
という点が一番の問題ではなかったかと思います。
病状の正確な告知は、
確かに行なわれるべきです。
ただ、
それに耐えられない精神というものが、
存在することは事実で、
超高齢化社会においては、
そのことの重みは、
更に大きくなるようにも思います。
完治はしない癌に対して、
治療のリスクをどのように説明するかの問題は、
そう簡単に割り切れるものではなく、
医療者もそうではない一般の方も、
等しく真剣に考えるべき事項のように、
僕には思えてなりません。
僕が経験した事例に即したことで言えば、
最初の骨髄腫の患者さんについては、
患者さんが脆弱な精神を抱えていたことを、
知ることが出来たのは僕自身だけであったので、
骨髄腫の可能性を、
MRIで察知した段階で、
根治の可能性が低いとすれば、
それにあまり触れない形で、
患者さんの痛みを、
効果的に取る方法が何かないか、
という点に重点を置くことが出来なかったのか、
という反省を強く感じていますし、
血液内科の先生に診断とその説明を丸投げするのではなく、
何らかの形で患者さんの精神の不安定さを、
血液内科の先生にお伝えし、
サポートの方法を一緒に考えるような対策が、
取れなかったのか、
という点にも強い悔悟の念を持っています。
まだ考えとしてうまくまとまりませんが、
告知が困難な事例に対しても、
何らかの形で患者さんにメリットがあるなら、
治療は行なわれるという選択肢も、
あって良いのではないかと思いますし、
そうした観点での告知や治療のあり方も、
検討されるべきではないかと思います。
この方のケースでは、
痛みの取れる可能性のある治療が、
患者さんにとって良い治療であったのです。
「治癒しない」という宣告は、
身体と心の双方に、
致命的な影響をもたらしたのです。
こうしたことは矢張り、
たとえ行為として正しくとも、
あってはならないことだと思います。
2つ目の事例については、
高齢の患者さんの肺癌に関しては、
手術などの治療が可能な段階であっても、
矢張り患者さんの精神的な負荷と、
治療により患者さんの予後に、
どのようなメリットがあるのか、
治療をしない場合にどの程度の違いがあるのかについて、
まず掛かり付け医の立場で、
患者さんの代わりに検討し、
自分なりの結論が得られた時点で、
患者さんのご紹介をどうするかを初めて検討する、
という方針を、
極力取るようにその後は考えています。
医療に関しては色々な議論があり、
救急医療を行なっているような勤務医の先生や、
高度な手術を行なう外科医の先生は、
どんな状況でも必要だけれど、
ただ患者さんの顔を見て薬を出すだけのような、
僕のような末端の診療所の医者は、
いるだけ無駄なので全てなくしてしまえ、
というような意見もお聞きすることがあります。
僕も概ねその通りだと思いますし、
不必要なものは、
いずれ消滅するのだと思いますが、
日本人の4割以上の方はいずれは癌になるのですし、
その時には精神的に大きなショックを受けることになるので、
現状患者さんの精神の脆弱性と、
その危機を回避するために、
僕のような者にも、
おそらく若干の役割は有り得るのではないかと思うので、
日々目の前の患者さんと、
世の中に必要不可欠な勤務医で専門医の先生との、
幸福な橋渡しの手助けが出来るように、
努力だけは続けたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2013-03-11 08:30
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Dr.Ishiharaとても興味深い記事、どうも有り難うございます。
私の様に双極性障害と言う精神疾患に罹っているものにも、
現代の医学でも双極Ⅰ型障害が寛解はあっても完治がない
病で有る事を自分自身で受け入れる事が中々出来ず、
然し漸く最近少しは出来る様に成って来ました。
末期癌の様な致死的な病を受け入れる事が出来る
自己を持つ事は容易では無いとは思います。
然し、当たり前の事ですが、生きている人間は何れ全て死にます。
今生きて居る人間は幾ら医学が進歩しても何時かは死ぬので、
それまでに如何に生きるかを考えるのが哲学で有ると思います。
人間の精神が如何に脆弱で有る事を認識する事に依り、
自らと他人にも優しく成れるだと思います。
是非Dr.も此れからも患者側の心を感じる事の出来る、人間的な
触れ合いを重要視した医師を続けて下さい。
お願い致します!
by MDISATOH (2013-03-11 11:09)
そのニュースは気になっていました
いろいろ難しいですね
by chima (2013-03-11 12:56)
精神疾患というのは、どの場合も「現実逃避」の表れだと思います。自分の身に降りかかる何かがとても耐えがたく、自らを傷つけ命をなくしてしまう危険があるときに、脳が危険を察知し、現実を認識不可能にしてしまう・・・。脳の認識の部分に一時ふたをする格好で、やり過ごす。
襲い掛かる現実に耐えられるのかどうか、それは自分が一番よく知っています。なんでもない、な時に、それとなく「いざというときは、こういう方法で伝えてください」と、近い人たちに伝えていくといいでしょうね。
by あい。 (2013-03-11 20:50)
MDISATOHさんへ
コメントありがとうございます。
究極的に言えば完全に治る病気もないのですが、
「治癒の見込みがない」
「完全には治す方法がない」
のような言葉には、
言葉本来の意味以上に残酷な意味合いがあり、
言葉の選び方にも、
もう少し思案が必要なように思います。
by fujiki (2013-03-12 08:10)
chima さんへ
コメントありがとうございます。
by fujiki (2013-03-12 08:11)
あいさんへ
コメントありがとうございます。
確かにそうした事前の確認が、
重要なことのように思います。
by fujiki (2013-03-12 08:12)