松井周「自慢の息子」 [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は祝日で診療所は休診です。
いつものように駒沢公園まで走りに行って、
ちょっと草取りをして、
それから今PCに向かっています。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
サンプルというユニットを率いる、
松井周の作・演出による、
2010年の岸田戯曲賞受賞作、
「自慢の息子」の再演を見て来ました。
松井周は平田オリザ率いる劇団「青年団」の出身で、
今回の作品でも、
サンプルと青年団の両方に所属する役者さんが多いなど、
完全に独立した存在、
ということでもなさそうです。
「青年団」は、
1990年代前半からの所謂「静かな演劇」の、
旗頭的存在で、
「東京ノート」、「家宅か修羅か」、
「冒険王」など過去に何本か観ています。
「静かな演劇」というのは、
松井周自身の言葉によれば、
「人間が『主体』でありつつ、
『主体』でないことの二重性を描く」
というものであるそうです。
難しいですね。
僕が観た頃の青年団の舞台は、
常に1幕1場の形式、
つまり舞台が始まると途中で暗転することなく、
そのままの日常のように場面が展開し、
そしてそのまま終わります。
ある場所に据え置きのカメラを置いて、
その画像をそのまま上映するようなものです。
基本的に自然の効果音以外の音効は使用されず、
地明かり以外の照明効果も使われません。
そんな芝居ですから、
役者さんの演技も、
通常の日常的なもので、
所謂「芝居がかった」ものではなく、
必要以上に大きな声を出すこともありません。
役者の視線は、
基本的に観客の方を意識的に向くことはありません。
本拠地の駒場アゴラ劇場では、
上演の始まった瞬間に、
場内のエアコンもスイッチがオフになります。
これはエアコンの作動音がすると、
小さな声が聞こえなくなるためです。
従って、夏場の観劇は結構きついのです。
それでは一体何が面白いのか、
と思われる方もいらっしゃるかと思います。
僕は正直あまり好きではないのですが、
それでも意外に面白いことは確かです。
「冒険王」という作品では、
バックパッカーの宿泊所が舞台なのですが、
舞台上は薄汚れたベットに、
日本人の若者がダラダラ寝ているだけなのです。
舞台の外には彼らが旅行している、
海外の風景がある筈ですが、
それが実際に舞台上に現われる訳ではありません。
舞台の外の世界で、
何事かが起こり、
それが舞台上に、
ある種の「空気」として持ち込まれるのです。
それが舞台上の台詞にも、
微妙な揺らぎのようなものを与え、
それが、登場人物の1人に、
「ある変化」を起こしたところで、
物語は終わります。
最初に引用した「主体云々」というのは、
舞台上での登場人物が、
主体的に話している台詞が、
舞台の外の何かによって、
ある種の強制的な変化を受けていて、
それを同時に表現しようとしている、
という意味合いです。
こうした芝居は、
役者が舞台上で、
日常には存在しないような過剰な役柄を、
時には絶叫したり歌ったりしながら、
自意識過剰にナルシスティックに演じ、
それを補完するように、
過剰な音効が高まり、
舞台が赤くなったり、
中央だけに絞り込まれたりする多くの芝居に、
辟易していると、
確かに新鮮に見えます。
何かより高級で、
文学的な感じがします。
ただ、舞台上で実際に起こることが減り、
舞台の外で起こることが増えれば、
当然ですが舞台面の視覚的な変化は乏しくなり、
日常の世界では滅多に起こらないか、
絶対に起こらないようなことが、
生身の役者によって眼前に実際に展開される、
という舞台特有のワクワクする感じが、
大幅に減少することは否めません。
そんな訳で、
やかましい自意識過剰の芝居で育った僕は、
正直青年団の芝居を、
今あまり観たいとは思いません。
さて、青年団から独立したサンプルの舞台は、
またちょっと肌合いは違います。
舞台は動きますし、
役者が観客に語りかけたりする場面もあります。
音効や照明も、
それほど多用される感じではありませんが、
少なくとも活用はされます。
ただ、舞台上の役者同士は、
ストレートに感情を交し合う、
という感じではなく、
その個々の人物の内的な世界が、
そのまま外部に歪に投射され、
その擦れ違いだけを、
見せ付けられているような感じがあります。
初期の別役実に似ているな、
というのが率直な印象で、
特に最初の擦れ違いの台詞の中に、
登場人物が紹介される件は、
「象」などを彷彿とさせる印象があります。
ただ、別役にはドラマがあり、
展開や秘密の開示や謎がありますが、
この作品にはそうした要素は殆どなく、
元々が何の進展もない不毛な妄想の世界を、
ただひたすらに彷徨うだけ、
という印象があります。
妄想や自意識というのは、
「主体」の最たるものですから、
松井周の意図は、
その「主体」を「静かな演劇」流に、
解体し客体化して見せる、
というところにあるのかも知れません。
以下、少しネタバレがあります。
作品は引き籠もりのオジサンが、
自分の家を独立国に見立てて生活していて、
そこに流れ着いた、
互いに愛し合う兄妹と、
そのオジサンを支配している母親、
いない息子を探す隣の女が、
交錯し破滅してゆく物語です。
オジサン役の演技が、
松尾スズキそっくりで、
これはもう少し若い頃に、
松尾スズキがやったらさぞ面白かったろうな、
と思いました。
ちょっとその出来の悪い、
コピーのような演技なのです。
団塊ジュニアとその母親の話として読むと、
もっと母親のいやらしさを、
リアルに出して欲しかったな、
と思いますし、
父親の不在の意味を、
もっと明確にして欲しかったな、
という気もします。
オジサンが経済的にどのようにして生活しているのかも、
描くべきではなかったかな、
と思います。
ただ、その描かれなかった部分、
父親の存在や経済的な問題、
母親のいやらしさなどが、
描けないという態度の中にこそ、
今の病根の本質を、
見るべきなのかも知れません。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は祝日で診療所は休診です。
いつものように駒沢公園まで走りに行って、
ちょっと草取りをして、
それから今PCに向かっています。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
サンプルというユニットを率いる、
松井周の作・演出による、
2010年の岸田戯曲賞受賞作、
「自慢の息子」の再演を見て来ました。
松井周は平田オリザ率いる劇団「青年団」の出身で、
今回の作品でも、
サンプルと青年団の両方に所属する役者さんが多いなど、
完全に独立した存在、
ということでもなさそうです。
「青年団」は、
1990年代前半からの所謂「静かな演劇」の、
旗頭的存在で、
「東京ノート」、「家宅か修羅か」、
「冒険王」など過去に何本か観ています。
「静かな演劇」というのは、
松井周自身の言葉によれば、
「人間が『主体』でありつつ、
『主体』でないことの二重性を描く」
というものであるそうです。
難しいですね。
僕が観た頃の青年団の舞台は、
常に1幕1場の形式、
つまり舞台が始まると途中で暗転することなく、
そのままの日常のように場面が展開し、
そしてそのまま終わります。
ある場所に据え置きのカメラを置いて、
その画像をそのまま上映するようなものです。
基本的に自然の効果音以外の音効は使用されず、
地明かり以外の照明効果も使われません。
そんな芝居ですから、
役者さんの演技も、
通常の日常的なもので、
所謂「芝居がかった」ものではなく、
必要以上に大きな声を出すこともありません。
役者の視線は、
基本的に観客の方を意識的に向くことはありません。
本拠地の駒場アゴラ劇場では、
上演の始まった瞬間に、
場内のエアコンもスイッチがオフになります。
これはエアコンの作動音がすると、
小さな声が聞こえなくなるためです。
従って、夏場の観劇は結構きついのです。
それでは一体何が面白いのか、
と思われる方もいらっしゃるかと思います。
僕は正直あまり好きではないのですが、
それでも意外に面白いことは確かです。
「冒険王」という作品では、
バックパッカーの宿泊所が舞台なのですが、
舞台上は薄汚れたベットに、
日本人の若者がダラダラ寝ているだけなのです。
舞台の外には彼らが旅行している、
海外の風景がある筈ですが、
それが実際に舞台上に現われる訳ではありません。
舞台の外の世界で、
何事かが起こり、
それが舞台上に、
ある種の「空気」として持ち込まれるのです。
それが舞台上の台詞にも、
微妙な揺らぎのようなものを与え、
それが、登場人物の1人に、
「ある変化」を起こしたところで、
物語は終わります。
最初に引用した「主体云々」というのは、
舞台上での登場人物が、
主体的に話している台詞が、
舞台の外の何かによって、
ある種の強制的な変化を受けていて、
それを同時に表現しようとしている、
という意味合いです。
こうした芝居は、
役者が舞台上で、
日常には存在しないような過剰な役柄を、
時には絶叫したり歌ったりしながら、
自意識過剰にナルシスティックに演じ、
それを補完するように、
過剰な音効が高まり、
舞台が赤くなったり、
中央だけに絞り込まれたりする多くの芝居に、
辟易していると、
確かに新鮮に見えます。
何かより高級で、
文学的な感じがします。
ただ、舞台上で実際に起こることが減り、
舞台の外で起こることが増えれば、
当然ですが舞台面の視覚的な変化は乏しくなり、
日常の世界では滅多に起こらないか、
絶対に起こらないようなことが、
生身の役者によって眼前に実際に展開される、
という舞台特有のワクワクする感じが、
大幅に減少することは否めません。
そんな訳で、
やかましい自意識過剰の芝居で育った僕は、
正直青年団の芝居を、
今あまり観たいとは思いません。
さて、青年団から独立したサンプルの舞台は、
またちょっと肌合いは違います。
舞台は動きますし、
役者が観客に語りかけたりする場面もあります。
音効や照明も、
それほど多用される感じではありませんが、
少なくとも活用はされます。
ただ、舞台上の役者同士は、
ストレートに感情を交し合う、
という感じではなく、
その個々の人物の内的な世界が、
そのまま外部に歪に投射され、
その擦れ違いだけを、
見せ付けられているような感じがあります。
初期の別役実に似ているな、
というのが率直な印象で、
特に最初の擦れ違いの台詞の中に、
登場人物が紹介される件は、
「象」などを彷彿とさせる印象があります。
ただ、別役にはドラマがあり、
展開や秘密の開示や謎がありますが、
この作品にはそうした要素は殆どなく、
元々が何の進展もない不毛な妄想の世界を、
ただひたすらに彷徨うだけ、
という印象があります。
妄想や自意識というのは、
「主体」の最たるものですから、
松井周の意図は、
その「主体」を「静かな演劇」流に、
解体し客体化して見せる、
というところにあるのかも知れません。
以下、少しネタバレがあります。
作品は引き籠もりのオジサンが、
自分の家を独立国に見立てて生活していて、
そこに流れ着いた、
互いに愛し合う兄妹と、
そのオジサンを支配している母親、
いない息子を探す隣の女が、
交錯し破滅してゆく物語です。
オジサン役の演技が、
松尾スズキそっくりで、
これはもう少し若い頃に、
松尾スズキがやったらさぞ面白かったろうな、
と思いました。
ちょっとその出来の悪い、
コピーのような演技なのです。
団塊ジュニアとその母親の話として読むと、
もっと母親のいやらしさを、
リアルに出して欲しかったな、
と思いますし、
父親の不在の意味を、
もっと明確にして欲しかったな、
という気もします。
オジサンが経済的にどのようにして生活しているのかも、
描くべきではなかったかな、
と思います。
ただ、その描かれなかった部分、
父親の存在や経済的な問題、
母親のいやらしさなどが、
描けないという態度の中にこそ、
今の病根の本質を、
見るべきなのかも知れません。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2012-04-30 09:07
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コメント(2)
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私は、なんとなく時間が空いたので、
劇団たいしゅう小説家 10 周年記念公演 Vol. 2
大塚の小劇場 萬劇場「フィンランド・サマ-」
を観に行ってみました。
劇団たいしゅう小説家も、役者さんも、演出家さんも誰も知りませんでした。
なぜ自分でこのお芝居を選んだのかもわかりません。
うーん。
設定は面白かったです。斬新な感じで、最後はどんでん返し!
でも、病気のシーンに無理があって、、そこだけ微妙で現実に引き戻されました(笑)
私が観るのはいつも軽いものばかりなので、
青年団や、その流れをある程度引き継いでいるようなお芝居、一度観にいってみたいと思います。
「自慢の息子」は日程的に厳しいので断念します。
また先生の演劇レポート楽しみにしています♪
by 竹 (2012-05-01 01:54)
竹さんへ
コメントありがとうございます。
確かに演劇を書く人は薀蓄が好きで、
病気の話などは入れたがるので、
その内容が「オヤオヤ」だと、
僕も現実に引き戻されます。
先日もセレソンデラックスの「ピリオド」はそうでした。
僕も保守的なので、
なかなか新しい才能に、
偶然出会う、ということがありません。
また、芝居というのは、
99%は絶望的に詰まらないものなので、
忙しい身だとどうしても安全策になります。
何か面白そうなものがあったら教えて下さい。
by fujiki (2012-05-01 08:14)