「テラヤマキャバレー」 [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は祝日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
寺山修司が死の間際に最後の芝居を作る、
という構想の舞台が、
今日生劇場で上演されています。
寺山修司の天井桟敷は、
何とか最後に間に合った、という感じで、
1982年の紀伊国屋ホールの「レミング」を観ました。
同年には利賀山での「奴婢訓」もあったのですが、
それにはどうしても行けなかったのが、
今でも悔やまれてなりません。
同年には唐先生の紅テントも、
「二都物語(再演)」と「新二都物語」の同時公演で初体験し、
アングラの魅力に取り憑かれることになったのです。
「レミング」はその後に行われた横浜公演の録画が残っているのですが、
その時はもう寺山さん自身は立ち会っていなかったのだと思います。
正直かなり緊張感がない雰囲気が散見され、
こうした映像しか残っていない、
という点がとても残念に思います。
一生に一回だけ観た天井桟敷は、
本当に本当に素晴らしかったのですね。
特にオープニングに黒衣の異様な人物達が、
スローモーションを交えた独特の動きで集い、
その動きが次第に痙攣様の激しいものに変異して、
強烈なスモークと音楽と共に暗転する場面の素晴らしさは、
今でも脳裏に強く強く焼き付いています。
そして、暗転は完全暗転と言って、
全ての明かりを完全に消灯して、
劇場内は真の闇に包まれるのですね。
この完全暗転をあらゆる空間で実現させたのは、
これは空前絶後、唯一無二の寺山演劇のみの業績なのです。
完全な闇は、それだけで最高の舞台なんですね。
それも小さな空間ではなく、
ホールのような、普通は完全に闇になることのない大空間が、
完全な闇に包まれる、というのが素晴らしいのです。
そして、闇が去ると、
そこには奇蹟の如く、
それまでとは全く違った風景が出現しているのです。
最高です!
天井桟敷の映像は、
記録用に撮られたビデオが残ってはいるのですが、
それを見てもその雰囲気は全く分からないんですよね。
完全暗転とあの動きの感じ、
普通のスローモーションとは違う、
これはもう独自の動きなんですね。
今はもう当時の寺山芝居に実際に触れた人は、
高齢者しか残っていないので、
その情報自体がもう断絶し、
消滅しつつあるのだと思います。
さて、今回の舞台は寺山修司自身が主人公として登場して、
それを本人とは全くイメージの違う、
香取慎吾さんが演じています。
まあ生前の寺山さんに関わった人が、
寺山さん本人を登場人物として出演させよう、
というようなことはしないと思うのですね。
それはもうちょっと恐れ多いと言うか、
死後の世界から叱られそうな気がするからですね。
こうしたことが平気で出来るのは、
基本的に生前の寺山さんとは無関係で、
ある意味歴史上の人物としてしか、
寺山修司を感じていないからだと思います。
数年前に野田秀樹さんの作品でも、
寺山修司さんが役柄として登場して、
彼の未発表の作品を巡って物語が展開する、
というお芝居がありました。
これはある種野田さんとしての、
寺山さんへの決別宣言のように個人的には感じました。
寺山さんが生きていた時、
既に駒場小劇場での遊眠社の活動はあった訳ですが、
おそらく交流自体は殆どなかったと思います。
今回の作品はTPTでの活動で、
日本の演劇を変えたと言って良い、
デヴィット・ルヴォーさんが演出を勤めていて、
彼は「奴婢訓」のイギリス公演を観ているので、
寺山芝居に感銘を受けた1人であるルヴォーさんが、
どのように寺山演劇のエッセンスを再構成しようとするのか、
その点に一番の興味がありました。
その結果は…
うーん、言い方が難しいのですが、
寺山芝居的なものは、
あの興奮と驚きのようなものは、
今回の作品には全くありませんでした。
一番は台本を担当した池田亮さんという方が、
非常にお勉強をされた執筆されたのだと思うのですね。
それは良く分かるのです。
それから記録映像みたいなものにも全部目を通していると思うのですね。
それも理解は出来るのです。
でも、矢張り分かっていないんですね。
寺山芝居が本質的にどのようなものであったのか、
当時の観客が何を観て、何を感じ、何に興奮をしたのか、
それを全く理解はされていないんですね。
それからキャストの皆さんも、
寺山芝居の動きや演技、声の本質が、
どのようなものであったのかを、
矢張り理解はしていないんですね。
最初の方で黒衣の人達がスローモーションで集まって来るんですね。
あれは、明らかに「レミング」のビデオを見ての場面なのですが、
全然違うんだよね。
あれは言ってみれば、野田さんの芝居のスローモーションなんですね。
寺山芝居の動きはああしたものではないんですよ。
黒衣の人物がただ歩いているだけで、
「これはまともな人間の動きではない」という感じがするんですよ。
動きだけで観客の心に衝撃と戦慄を感じさせるのですね。
役者としても、もう命がけの動きなんですね。
それがああして再現されると、
もう切なくてたまらない気分になります。
一番はテンポかな、と思うんですね。
本物はもっと異常なスローテンポなんですね。
今の人が本物の寺山芝居を観ても、
多分そのテンポの遅さに、
耐えられないと思うのです。
でも、その異常な緊張、
現実離れしたスローテンポと異様な間合いこそが、
その本質の1つであったように思います。
その中に「大滅亡」のような激しい動きが挟み込まれるので、
その落差に衝撃性があった訳です。
舞踏の基本も「静止」でしょ。
これは能に通底するような考え方ですよね。
無限の動きが静止の中には含まれている、
というようなことなんですね。
それが今の人には絶対に分からないので、
「もっとテンポ良くやった方がいいじゃん」
ということになってしまうのだと思います。
ただ、こうして文句を言いましたが、
それはかつての寺山芝居の素晴らしさを、
是非分かって欲しいと思うからで、
今回のお芝居をけなしている訳ではないんですね。
これはこれでいいと思っているのです。
これは寺山演劇とは無関係です。
それを強調したいだけなのです。
今回のお芝居は、
オペラの「ホフマン物語」の雰囲気なんですね。
藝術家が過去を振り返る劇中劇の物語。
「死」という女性が登場して狂言回しになるのは、
「ホフマン物語」のミューズと一緒です。
最初に香取さんが1人で出て来て、
「レミング」の「世界の果てに連れてって」を歌い上げて、
それ以外にも寺山さんが作詞した曲の数々が、
歌われるのですね。
短歌も引用されますし、
縁の人物として三島由紀夫も登場し、
後半には唐先生も登場して、
「吸血姫」の劇中歌を歌いあげます。
唐先生には許可は取ったのかしら。
勿論取ったのでしょうが、
誰がどのように許可したのかに興味があります。
三島さんの遺族も、寺山さんの遺族も、
勿論許可したのでしょうが、
こんな風に扱われることを分かっていたのかしら。
その辺りにも興味はあります。
寺山さんのお母さんの挿話も出て来て、
寺山芝居を再現しようとした部分は、
見世物オペラの「身毒丸」がベースになっていますね。
舞台もそんな感じが少し匂っていて、
「お母さん、もう一度僕を妊娠して下さい」
という有名なフレーズも登場します。
ただ、寺山さんを巡る女性達を、
「ホフマン物語」のように再現して、
ラスボスとしてお母さんが登場する構図であるなら、
もっと踏み込んで欲しかった感じはあります。
多分分かっていても無理だったのかな。
今回の感じだと、寺山戯曲の母親の部分を、
ただなぞっただけのような感じがありました。
演出は総じてルヴォーさんとしては凡庸だな、
という印象はありました。
日本のスタッフや役者であれば、
もっと寺山修司のことを知っている筈だろう、
という思いがあったのかも知れません。
キャストは主役を演じた香取慎吾さんが、
とても良かったですね。
何度か香取さんの芝居は生で観ていますが、
今回が間違いなく一番気合が入っていたと思います。
意外にと言っては失礼ですが、
歌も上手いので驚きました。
そんな訳で寺山演劇がモチーフと言われると、
ちょっとイライラはしてしまうのですが、
そうしたことと無関係で鑑賞すれば、
舞台面はそれなりに美しく、
名曲の数々もノスタルジックで素敵なので、
これはこれで悪くないな、という思いで劇場を後にしました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごしく下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は祝日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
寺山修司が死の間際に最後の芝居を作る、
という構想の舞台が、
今日生劇場で上演されています。
寺山修司の天井桟敷は、
何とか最後に間に合った、という感じで、
1982年の紀伊国屋ホールの「レミング」を観ました。
同年には利賀山での「奴婢訓」もあったのですが、
それにはどうしても行けなかったのが、
今でも悔やまれてなりません。
同年には唐先生の紅テントも、
「二都物語(再演)」と「新二都物語」の同時公演で初体験し、
アングラの魅力に取り憑かれることになったのです。
「レミング」はその後に行われた横浜公演の録画が残っているのですが、
その時はもう寺山さん自身は立ち会っていなかったのだと思います。
正直かなり緊張感がない雰囲気が散見され、
こうした映像しか残っていない、
という点がとても残念に思います。
一生に一回だけ観た天井桟敷は、
本当に本当に素晴らしかったのですね。
特にオープニングに黒衣の異様な人物達が、
スローモーションを交えた独特の動きで集い、
その動きが次第に痙攣様の激しいものに変異して、
強烈なスモークと音楽と共に暗転する場面の素晴らしさは、
今でも脳裏に強く強く焼き付いています。
そして、暗転は完全暗転と言って、
全ての明かりを完全に消灯して、
劇場内は真の闇に包まれるのですね。
この完全暗転をあらゆる空間で実現させたのは、
これは空前絶後、唯一無二の寺山演劇のみの業績なのです。
完全な闇は、それだけで最高の舞台なんですね。
それも小さな空間ではなく、
ホールのような、普通は完全に闇になることのない大空間が、
完全な闇に包まれる、というのが素晴らしいのです。
そして、闇が去ると、
そこには奇蹟の如く、
それまでとは全く違った風景が出現しているのです。
最高です!
天井桟敷の映像は、
記録用に撮られたビデオが残ってはいるのですが、
それを見てもその雰囲気は全く分からないんですよね。
完全暗転とあの動きの感じ、
普通のスローモーションとは違う、
これはもう独自の動きなんですね。
今はもう当時の寺山芝居に実際に触れた人は、
高齢者しか残っていないので、
その情報自体がもう断絶し、
消滅しつつあるのだと思います。
さて、今回の舞台は寺山修司自身が主人公として登場して、
それを本人とは全くイメージの違う、
香取慎吾さんが演じています。
まあ生前の寺山さんに関わった人が、
寺山さん本人を登場人物として出演させよう、
というようなことはしないと思うのですね。
それはもうちょっと恐れ多いと言うか、
死後の世界から叱られそうな気がするからですね。
こうしたことが平気で出来るのは、
基本的に生前の寺山さんとは無関係で、
ある意味歴史上の人物としてしか、
寺山修司を感じていないからだと思います。
数年前に野田秀樹さんの作品でも、
寺山修司さんが役柄として登場して、
彼の未発表の作品を巡って物語が展開する、
というお芝居がありました。
これはある種野田さんとしての、
寺山さんへの決別宣言のように個人的には感じました。
寺山さんが生きていた時、
既に駒場小劇場での遊眠社の活動はあった訳ですが、
おそらく交流自体は殆どなかったと思います。
今回の作品はTPTでの活動で、
日本の演劇を変えたと言って良い、
デヴィット・ルヴォーさんが演出を勤めていて、
彼は「奴婢訓」のイギリス公演を観ているので、
寺山芝居に感銘を受けた1人であるルヴォーさんが、
どのように寺山演劇のエッセンスを再構成しようとするのか、
その点に一番の興味がありました。
その結果は…
うーん、言い方が難しいのですが、
寺山芝居的なものは、
あの興奮と驚きのようなものは、
今回の作品には全くありませんでした。
一番は台本を担当した池田亮さんという方が、
非常にお勉強をされた執筆されたのだと思うのですね。
それは良く分かるのです。
それから記録映像みたいなものにも全部目を通していると思うのですね。
それも理解は出来るのです。
でも、矢張り分かっていないんですね。
寺山芝居が本質的にどのようなものであったのか、
当時の観客が何を観て、何を感じ、何に興奮をしたのか、
それを全く理解はされていないんですね。
それからキャストの皆さんも、
寺山芝居の動きや演技、声の本質が、
どのようなものであったのかを、
矢張り理解はしていないんですね。
最初の方で黒衣の人達がスローモーションで集まって来るんですね。
あれは、明らかに「レミング」のビデオを見ての場面なのですが、
全然違うんだよね。
あれは言ってみれば、野田さんの芝居のスローモーションなんですね。
寺山芝居の動きはああしたものではないんですよ。
黒衣の人物がただ歩いているだけで、
「これはまともな人間の動きではない」という感じがするんですよ。
動きだけで観客の心に衝撃と戦慄を感じさせるのですね。
役者としても、もう命がけの動きなんですね。
それがああして再現されると、
もう切なくてたまらない気分になります。
一番はテンポかな、と思うんですね。
本物はもっと異常なスローテンポなんですね。
今の人が本物の寺山芝居を観ても、
多分そのテンポの遅さに、
耐えられないと思うのです。
でも、その異常な緊張、
現実離れしたスローテンポと異様な間合いこそが、
その本質の1つであったように思います。
その中に「大滅亡」のような激しい動きが挟み込まれるので、
その落差に衝撃性があった訳です。
舞踏の基本も「静止」でしょ。
これは能に通底するような考え方ですよね。
無限の動きが静止の中には含まれている、
というようなことなんですね。
それが今の人には絶対に分からないので、
「もっとテンポ良くやった方がいいじゃん」
ということになってしまうのだと思います。
ただ、こうして文句を言いましたが、
それはかつての寺山芝居の素晴らしさを、
是非分かって欲しいと思うからで、
今回のお芝居をけなしている訳ではないんですね。
これはこれでいいと思っているのです。
これは寺山演劇とは無関係です。
それを強調したいだけなのです。
今回のお芝居は、
オペラの「ホフマン物語」の雰囲気なんですね。
藝術家が過去を振り返る劇中劇の物語。
「死」という女性が登場して狂言回しになるのは、
「ホフマン物語」のミューズと一緒です。
最初に香取さんが1人で出て来て、
「レミング」の「世界の果てに連れてって」を歌い上げて、
それ以外にも寺山さんが作詞した曲の数々が、
歌われるのですね。
短歌も引用されますし、
縁の人物として三島由紀夫も登場し、
後半には唐先生も登場して、
「吸血姫」の劇中歌を歌いあげます。
唐先生には許可は取ったのかしら。
勿論取ったのでしょうが、
誰がどのように許可したのかに興味があります。
三島さんの遺族も、寺山さんの遺族も、
勿論許可したのでしょうが、
こんな風に扱われることを分かっていたのかしら。
その辺りにも興味はあります。
寺山さんのお母さんの挿話も出て来て、
寺山芝居を再現しようとした部分は、
見世物オペラの「身毒丸」がベースになっていますね。
舞台もそんな感じが少し匂っていて、
「お母さん、もう一度僕を妊娠して下さい」
という有名なフレーズも登場します。
ただ、寺山さんを巡る女性達を、
「ホフマン物語」のように再現して、
ラスボスとしてお母さんが登場する構図であるなら、
もっと踏み込んで欲しかった感じはあります。
多分分かっていても無理だったのかな。
今回の感じだと、寺山戯曲の母親の部分を、
ただなぞっただけのような感じがありました。
演出は総じてルヴォーさんとしては凡庸だな、
という印象はありました。
日本のスタッフや役者であれば、
もっと寺山修司のことを知っている筈だろう、
という思いがあったのかも知れません。
キャストは主役を演じた香取慎吾さんが、
とても良かったですね。
何度か香取さんの芝居は生で観ていますが、
今回が間違いなく一番気合が入っていたと思います。
意外にと言っては失礼ですが、
歌も上手いので驚きました。
そんな訳で寺山演劇がモチーフと言われると、
ちょっとイライラはしてしまうのですが、
そうしたことと無関係で鑑賞すれば、
舞台面はそれなりに美しく、
名曲の数々もノスタルジックで素敵なので、
これはこれで悪くないな、という思いで劇場を後にしました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごしく下さい。
石原がお送りしました。