三谷幸喜「オデッサ」 [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
三谷幸喜さんの新作「オデッサ」が、
今ホリプロステージとしての舞台で上演されています。
その東京芸術劇場での公演に足を運びました。
これは1時間45分ほどのキャストは3人のみの1幕劇です。
舞台は1999年のアメリカの田舎町オデッサに設定されていて、
宮澤エマさんが日系アメリカ人の警察官を、
迫田孝也さんが現地の老人を殺した容疑で、
重要参考人として聴取を受ける、
英語の全く話せない日本人男性を演じ、
主役と言って良い柿澤勇人さんは、
日本人の通訳がいないオデッサで、
地元で働いていた、
日本語と英語を話せる青年を演じます。
宮澤さんの依頼で、
柿澤さんは迫田さんの聴取の通訳をするのですが、
良かれと思った柿澤さんの暴走をきっかけとして、
事件は意外な方向に転がり始めます。
三谷さんとしては久しぶりの新作で、
かなり力を入れて書かれていることが分かります。
三谷さんの演劇好きが伝わって来る感じで、
ミステリーや刑事ドラマのニュアンスもありますし、
結構つかさんの「熱海殺人事件」を意識している感じもあり、
また言語とアイデンティティの関係を追求しているのは、
明らかに井上ひさしさんの名作「雨」が意識されていますよね。
何より全ての観客に面白く観て欲しい、
1人も置いてけぼりにはしたくない、
という強いサービス精神が感じられ、
小劇場を見慣れている観客には、
ややくどいなあ、そこまで丁寧にゆっくりやらなくても、
と思えるような部分もあります。
でも、それが三谷幸喜さんのお芝居ですよね。
これは割とオーソドックスな推理劇なんですね。
なので、鑑賞予定の方は予備知識なく鑑賞されるのが吉です。
以下ネタバレはありませんが、
何となく匂わせるような記述はありますので、
これ以降は是非鑑賞予定の方は鑑賞後にお読み下さい。
よろしいでしょうか?
それでは先に進みます。
三谷さんは古畑任三郎という、
推理ドラマの傑作シリーズを書いていますが、
演劇作品で本格的な推理劇というのは、
それほど多くありません。
多分オーソドックスなものは殆どないですよね。
今回はかなり純粋な推理劇に近いものになっていて、
犯人を示す伏線の隠し方や、
最後に犯人に罠を掛けるところなど、
古畑任三郎(更には元ネタの刑事コロンボ)を、
彷彿とさせる部分があります。
推理劇としては、あまりにオーソドックスなので、
ミステリー好きの方なら、
大半はこうした流れになるのだろうな、
と先読み出来てしまうようなところがありますし、
実際に物語はその通りに進んで行きます。
その点はちょっと物足りない部分ではあります。
ただ、この作品は単純な推理劇ではなくて、
言語とコミュニケーションの問題がテーマとなっていて、
それが複合的に提示されるという面白みがあります。
三谷さんらしくその辺りの仕掛けは非常に精妙で、
日本語も標準語と鹿児島の方言が対比されますし、
英語しか理解できない人物と、
日本語しか理解できない人物、
両方とも表層的な理解はできるけれど、
真に理解できているかは微妙という人物が、
同じ場所で対話を行うとどうなるのか、
という思考実験的な知的興奮があります。
それを活かすための演出も、
いつもながらとても念が入っていて、
英語を話す人物が2人だけの時は、
翻訳劇のように日本語で台詞が話され、
英語と日本語の飛び交う場面では、
両方の言語が入り混じりながら、
背景に大きく字幕が登場し、
その字幕も色々と演技をして場面を盛り上げます。
ただ、今回それが大成功であったのかと言うと、
ちょっと微妙な感じではありました。
まず、設定に無理があると思うのですね。
最初の設定として迫田さんの役柄は、
英語を全く解さないのに、
1人でアメリカを旅している、
ということになっているんですね。
1999年にそれはちょっとあり得ないでしょ。
少しは分かるけれど複雑なニュアンスは分からない、
ということなら納得なのですが、
一言も分からないというのは、
幾ら何でも無理矢理な設定と感じました。
鹿児島の方言もそれほど標準語と差がなく聞こえるので、
これもあまり有効に機能している、
という感じがありません。
たとえば、架空の東欧かアジアなどの国を舞台にして、
全く意味不明の言語と標準語、そして津軽方言が登場する、
というような設定にした方が、
作品の意図はより明確になったような気がします。
英語と日本人との関係が重要ということであるのなら、
もっとリアルな設定にして、
片言で理解した気になっていて、
実は全く別の内容だった、というような展開であった方が、
より説得力があったのではないでしょうか?
勿論三谷さんほどの人ですから、
そんなことは百も承知の上で、
色々試行錯誤はした上で、
こうした作品になったのだと思うのですが、
それが何故なのかは、
是非聞いてみたいという気がします。
それから、シンプルな生演奏が伴奏になっていて、
効果音のように機能しています。
まあ井上ひさしさんのお芝居から導入された、
いつもの手口ですが、
今回に関しては、
あまり有効でなかったように思うのです。
大声でキャストがオチの台詞を言って、
客席の笑いを待つ間があって、
それから音効が合いの手みたいに鳴る、
というようなリズムで進むんですね。
何と言うのかな、
吉本新喜劇みたいな間合いなんですね。
そこで起こる笑いが作品の主題であるのなら、
それで良いのだと思いますが、
この作品は基本的には推理劇で、
笑いの要素はアクセント程度のものなのに、
そこでいちいち笑いを待って、
チャンチャンみたいな音効を入れるのは、
全体のテンポを悪くするだけで、
あまり良い演出ではないように思いました。
今回の芝居は、もっとシャープに、
ストイックに展開させるべきではなかったのでしょうか?
キャストは3人とも勿論好演でしたが、
特に迫田さんの七変化は素晴らしかったと思います。
正直中段はかなりぼんやりしてしまいましたが、
後半の迫田さんの芝居で一気に覚醒させられました。
そんな訳で期待が大きかっただけに、
やや落胆を感じた今回のお芝居でしたが、
ホリプロのことですから再演もあると思うので、
よりブラッシュアップされて、
この作品が変貌する姿に期待をしたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
三谷幸喜さんの新作「オデッサ」が、
今ホリプロステージとしての舞台で上演されています。
その東京芸術劇場での公演に足を運びました。
これは1時間45分ほどのキャストは3人のみの1幕劇です。
舞台は1999年のアメリカの田舎町オデッサに設定されていて、
宮澤エマさんが日系アメリカ人の警察官を、
迫田孝也さんが現地の老人を殺した容疑で、
重要参考人として聴取を受ける、
英語の全く話せない日本人男性を演じ、
主役と言って良い柿澤勇人さんは、
日本人の通訳がいないオデッサで、
地元で働いていた、
日本語と英語を話せる青年を演じます。
宮澤さんの依頼で、
柿澤さんは迫田さんの聴取の通訳をするのですが、
良かれと思った柿澤さんの暴走をきっかけとして、
事件は意外な方向に転がり始めます。
三谷さんとしては久しぶりの新作で、
かなり力を入れて書かれていることが分かります。
三谷さんの演劇好きが伝わって来る感じで、
ミステリーや刑事ドラマのニュアンスもありますし、
結構つかさんの「熱海殺人事件」を意識している感じもあり、
また言語とアイデンティティの関係を追求しているのは、
明らかに井上ひさしさんの名作「雨」が意識されていますよね。
何より全ての観客に面白く観て欲しい、
1人も置いてけぼりにはしたくない、
という強いサービス精神が感じられ、
小劇場を見慣れている観客には、
ややくどいなあ、そこまで丁寧にゆっくりやらなくても、
と思えるような部分もあります。
でも、それが三谷幸喜さんのお芝居ですよね。
これは割とオーソドックスな推理劇なんですね。
なので、鑑賞予定の方は予備知識なく鑑賞されるのが吉です。
以下ネタバレはありませんが、
何となく匂わせるような記述はありますので、
これ以降は是非鑑賞予定の方は鑑賞後にお読み下さい。
よろしいでしょうか?
それでは先に進みます。
三谷さんは古畑任三郎という、
推理ドラマの傑作シリーズを書いていますが、
演劇作品で本格的な推理劇というのは、
それほど多くありません。
多分オーソドックスなものは殆どないですよね。
今回はかなり純粋な推理劇に近いものになっていて、
犯人を示す伏線の隠し方や、
最後に犯人に罠を掛けるところなど、
古畑任三郎(更には元ネタの刑事コロンボ)を、
彷彿とさせる部分があります。
推理劇としては、あまりにオーソドックスなので、
ミステリー好きの方なら、
大半はこうした流れになるのだろうな、
と先読み出来てしまうようなところがありますし、
実際に物語はその通りに進んで行きます。
その点はちょっと物足りない部分ではあります。
ただ、この作品は単純な推理劇ではなくて、
言語とコミュニケーションの問題がテーマとなっていて、
それが複合的に提示されるという面白みがあります。
三谷さんらしくその辺りの仕掛けは非常に精妙で、
日本語も標準語と鹿児島の方言が対比されますし、
英語しか理解できない人物と、
日本語しか理解できない人物、
両方とも表層的な理解はできるけれど、
真に理解できているかは微妙という人物が、
同じ場所で対話を行うとどうなるのか、
という思考実験的な知的興奮があります。
それを活かすための演出も、
いつもながらとても念が入っていて、
英語を話す人物が2人だけの時は、
翻訳劇のように日本語で台詞が話され、
英語と日本語の飛び交う場面では、
両方の言語が入り混じりながら、
背景に大きく字幕が登場し、
その字幕も色々と演技をして場面を盛り上げます。
ただ、今回それが大成功であったのかと言うと、
ちょっと微妙な感じではありました。
まず、設定に無理があると思うのですね。
最初の設定として迫田さんの役柄は、
英語を全く解さないのに、
1人でアメリカを旅している、
ということになっているんですね。
1999年にそれはちょっとあり得ないでしょ。
少しは分かるけれど複雑なニュアンスは分からない、
ということなら納得なのですが、
一言も分からないというのは、
幾ら何でも無理矢理な設定と感じました。
鹿児島の方言もそれほど標準語と差がなく聞こえるので、
これもあまり有効に機能している、
という感じがありません。
たとえば、架空の東欧かアジアなどの国を舞台にして、
全く意味不明の言語と標準語、そして津軽方言が登場する、
というような設定にした方が、
作品の意図はより明確になったような気がします。
英語と日本人との関係が重要ということであるのなら、
もっとリアルな設定にして、
片言で理解した気になっていて、
実は全く別の内容だった、というような展開であった方が、
より説得力があったのではないでしょうか?
勿論三谷さんほどの人ですから、
そんなことは百も承知の上で、
色々試行錯誤はした上で、
こうした作品になったのだと思うのですが、
それが何故なのかは、
是非聞いてみたいという気がします。
それから、シンプルな生演奏が伴奏になっていて、
効果音のように機能しています。
まあ井上ひさしさんのお芝居から導入された、
いつもの手口ですが、
今回に関しては、
あまり有効でなかったように思うのです。
大声でキャストがオチの台詞を言って、
客席の笑いを待つ間があって、
それから音効が合いの手みたいに鳴る、
というようなリズムで進むんですね。
何と言うのかな、
吉本新喜劇みたいな間合いなんですね。
そこで起こる笑いが作品の主題であるのなら、
それで良いのだと思いますが、
この作品は基本的には推理劇で、
笑いの要素はアクセント程度のものなのに、
そこでいちいち笑いを待って、
チャンチャンみたいな音効を入れるのは、
全体のテンポを悪くするだけで、
あまり良い演出ではないように思いました。
今回の芝居は、もっとシャープに、
ストイックに展開させるべきではなかったのでしょうか?
キャストは3人とも勿論好演でしたが、
特に迫田さんの七変化は素晴らしかったと思います。
正直中段はかなりぼんやりしてしまいましたが、
後半の迫田さんの芝居で一気に覚醒させられました。
そんな訳で期待が大きかっただけに、
やや落胆を感じた今回のお芝居でしたが、
ホリプロのことですから再演もあると思うので、
よりブラッシュアップされて、
この作品が変貌する姿に期待をしたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2024-01-14 08:25
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