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続・著作権の話 [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日も診療所は休診です。
7時前に起きて、駒沢公園まで走りに行きました。
昨日もちょっとお酒を飲んだので、
そのせいなのかどうか、
足がだるくて、どうも調子が出ません。
1周いつものコースを走ったら、
こりゃ駄目だ、という感じだったのですが、
ベンチで休憩してから、
これじゃと思い、
どうにかもう1周走りました。

いつもは歩いて汗を掻くだけで、
非常に嫌な気分になるのですが、
汗を掻いても良い服装で運動して汗を掻くと、
気分が良いのが不思議です。
要するに汗を掻けないような生活が、
人間的なものではないのだなと、
運動されている方や、
肉体労働をされている方なら、
至極当たり前に感じていることを、
今更ながら気付いたような気がします。

今日は午後から英国ロイヤル・オペラの、
「マノン」を聴きに行く予定です。

それでは今日の話題です。

今日は昨日の補足のような話です。

著作権という制度は必要なものだとは思いますが、
藝術的価値を守る、という意味合いにおいて、
あまり実効性のあるものではなく、
また不祥事隠しなどに、
しばしば利用されるケースがあります。

よくテレビの生放送で問題のある発言などがあると、
直ちにその存在はないものとされ、
そうした画像がサイトにアップされると、
すぐにそれはテレビ局などの手によって消去されます。
その場合に持ち出される理屈が、
著作権や肖像権です。
生放送でなくても、
後から番組の中の不適切な発言などが問題視されると、
たちまちその画像や作品も同じ運命を辿ります。

これは本来の著作権の行使と言えるのでしょうか?

ただの不祥事隠しの便法のように、
僕には思えます。

三島由紀夫の著作権はまだ切れてはいませんが、
それでは著作権があるために、
その作品は守られていると言えるでしょうか?

三島由紀夫は生涯旧仮名遣いの表現に拘っていました。

しかし、三島が亡くなった直後に刊行された全集では、
確かに旧仮名遣いが守られていますが、
その後刊行された書籍や全集は、
全て現代仮名遣いに書き直されています。
彼が生きていたら、絶対にそんな行為は認めなかった筈です。
勿論源氏物語には現代語の翻訳が存在するように、
三島作品も現代語に翻訳されたものが存在しても、
それはそれで意義のあることかも知れません。

しかし、もし三島が今生きていたとして、
彼は現代の若者に、
現代仮名遣いに書き直された自分の作品を読むことを、
決して希望はしなかったと思います。
現在では古書に頼らなければ、
本来の三島由紀夫の作品を読むことは出来ません。

古書には著作権は及びません。
つまり、著作権に守られた範囲では、
三島由紀夫の作品を、
そのままの形で読むことは出来ないのです。

これで著作権が作品を守っていると言えるでしょうか?

著作権は財産権であって、
著作権者とその遺族に、
お金を払う、と言う点においては意味のあるものですが、
作品の価値を守る、という点においては、
必ずしも機能していない、
と僕は思います。

つまり、作品を守るという仕組みは、
著作権ではなく、
他の仕組みなり皆さんの同意形成なりが、
その役目を果たすものなのです。

藝術の価値を守るという仕組みがなく、
財産権のみが存在する、という点に、
僕は大きな問題があると思います。

本当に優れた藝術作品は、
僕はその作者のものではないと思います。

それは人間全ての共有の財産であるべきもので、
だからこそ価値のあるものです。

本当に優れた作品は、
その最初の創造者である作者の手を離れ、
それ自体が独自の存在となって、
たとえばそれから100年後に生まれる、
誰かの運命を変えたりもするのです。

よく自分の作品に何度も何度も手を入れる作者がいます。

しかし、20代で書いた作品を60代で書き直すと、
概ねそれは改悪になり、
元の作品の方が優れている、ということが多いのです。

唐十郎は最近では過去の作品を、
しばしば大幅に書き直して上演しますが、
それが明らかに過去の作品より出来の悪いものになっていて、
観客としは本当に落胆を感じることがあります。
オペラも何度も書き直されたものがあり、
それが意外と書き直される前のものの方が出来が良く、
敢えて過去のヴァージョンを、
上演して成功を収めることがあります。

僕が言いたいことは何かと言えば、
本当に優れた藝術作品においては、
作者はその作品に従属する存在なのであり、
作者であっても、その作品を汚すことが有り得る、
と言う事実です。

もし作者がその作品を、
著作権の名の元に汚したとしたら、
著作権など剥ぎ取っても、
その作品を守らなければならない場合も、
あるのではないでしょうか?

著作権という言葉が独り歩きすると、
その著作権者でありさえすれば、
何をしても良いということになり、
その藝術作品を場合によっては自分のエゴのために、
封印しても問題はない、ということになってしまいます。

それは誤りではないか、というのが僕の立場です。

色々な理由で読めない小説があり、
見られない映画があり、
見られないドラマがあり、
読めない漫画があります。

勿論封印されて已む無しのものもありますが、
著作権のトラブルや著作権者のエゴで、
封印された作品というのも無数に存在します。

過去に放映されていながら、
現在見ることの出来ないドラマなどが、
画像サイトにアップされると、
これも直ちに著作権法の名の元に削除されます。
しかし、これはあるべき姿でしょうか?

ととえば、DVDなどお金を払えば見ることの可能なものの、
海賊版を作る行為は処罰されて然るべきだと思います。
こうした場合にお金を払って見ることは、
その作者に対する最低限の礼儀だと思います。

しかし、現在どのようにしても見ることの出来ないものに関しては、
それを見たい人が多いのに、
それを見られる状況を作らない、
と言う点において、
これは著作権者の怠慢であり、落ち度ではないでしょうか?

こうした場合には、
僕は海賊版は一方的に排除するべきではないと思います。

著作権者はその作品を産み落とした、
母親ではあるかも知れません。
しかし、成長したその子をいつまでも独占することは、
母親のエゴであり、子供の成長を妨げることにも繋がります。
また、母親が時にはその子を虐待する場合もあるのです。

そして、子供は皆の共有の財産でもあり、
将来の希望でもある訳です。

資本主義社会においては、
藝術的価値もお金で測られ、
法律で規制された上で、
お金で保護されることは、
勿論仕方のないことかも知れません。

しかし、藝術作品の価値というのは本来そうしたものではなく、
そうした尺度だけが1人歩きすると、
確実にそこで失われるものもあるのです。

著作権では藝術は守られないのです。
それが守っているものは著作権者の財産権だけです。
つまり、お金に換わる商品としての作品の値打ちだけです。
それは藝術作品の価値と言うべきものではなく、
もっとそれ自体の価値を守るための、
皆の合意による仕組みが必要なのだと僕は思います。

皆さんはどうお考えになりますか?

それではそろそろ出掛けます。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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コメント 2

Mayumi Azuma

ダンスをしているので著作権は買えばいいと思っていました。考え直します、素晴らしいご意見、ありがとうございました。
by Mayumi Azuma (2010-09-24 10:11) 

fujiki

Mayumi Azuma さんへ
コメントありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
by fujiki (2010-09-25 08:18) 

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