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続・肉声の芸術の危機について [演劇]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は診療所は日曜日で休診です。

朝から駒沢公園まで走りに行って、
さっき戻って来たところです。
しょぼいファミリーコースを、
今日は2周しました。
こういうのは今まであまり続いたことがないのですが、
ブログに書いているので、
今回は続けたいと思っています。
ただ、来週の日曜日は集団健診の診察に朝から行くので、
無理のようで残念です。

今日は休みなので趣味の話題です。

滅びつつある「肉声の芸術」について、
先週に引き続いて話を進めます。

現実には今完全に生の声で行なう、
中規模クラス以上の会場での演劇の公演は、
実際には殆ど存在しない、
という話です。

フットマイク(この名称が正確かどうか分かりません)が普及し始めたのが、
おそらく80年代の後半からです。
舞台の床に置いてある、黒い直方体の箱のような機械です。
パルコ劇場でも本多劇場でも、
シアターコクーンでも紀伊国屋ホールでも、
以前は肉声で公演をしていた多くのホールで、
実際に見て頂くと、
舞台のあちこちにこのマイクが仕込まれているのが分かります。
舞台上の声をこれで拾い、
如何にも舞台上の役者が発したかのように、
調整してスピーカーから音を出す訳です。

300人から1000人クラスの劇場には、
瞬く間にこれが普及して、
純粋な肉声の使用は、
数年のうちにはこのクラスの劇場のパフォーマンスからは、
ほぼ絶滅したのです。

音量の調節は、
おそらく音響のオペレイターか、
音響デザイナーと称するような方が、
行なっているのではないかと思います。

本来は舞台の演出家はこうしたPAの使用について、
敏感であるべきです。

しかし、おそらく多くの演出家は、
そうしたことには鈍感なのではないか、
場合によっては自分の舞台が電気的に拡声されていること自体を、
知らないか、知らない振りをしているように、
僕には思えます。

この方法では別に役者は身体にはマイクを付けていないのです。
従って、あたかも生でやっているように見掛け上は見えます。
演じている役者本人も、
生の声でやっているように誤解しているかも知れません。

ただ、実際に音を聴いて頂ければ、
その聞こえ方は非常にのっぺりしていて、
役者が後ろを向いても横を向いても、
同じようにクリアに聴こえることに、
お気付きになると思います。

また、クライマックスになって音効が高まると、
それに伴って役者の声も不自然に大きくなります。

声は大きいのにちっとも感動を呼ばない、
こうしたクライマックスを、
皆さんも劇場で体感されることは多いのではないかと思います。

役者は熱演しているのに、
何故こうした場面が感動を呼ばないのかと言えば、
それは音響のオペレイターが、
「観客を感動させようと」詰まらぬ知恵を出し、
感動的な場面では役者の声の音量を上げているからです。
つまり、音響のオペレイターが真の演出家なのです。
本来そうした場面では、
音効が高まるにつれ、
役者が声を調整し、「演技で」大きくするのです。
人間のそうした感情の高まりこそが、
本当の感動を生むのです。
しかし、それを部外者に姑息に調節されてしまうのですから、
その舞台が感動を呼ばないのは、
これはもう当然のことなのです。

90年代になると、更に技術は進歩し、
客席からは見えない位置にマイクをセットしての拡声も可能となります。
これは多分、当初はオペラの舞台用に考案されたのでしょう。
オペラはマイクを使わないことを、
一応の建前としているのですが、
実際には大劇場でマイクの使用が一般的となった頃から、
拡声は行われていたのです。

ただ、見える位置に露骨にマイクやスピーカーが見えるのはまずいし、
肉声だという幻想は聞いている人にもってもらいたい、という観点から、
技術がより進化を遂げたのです。

この辺りのことについては、
ある音響デザイナーと称する、
僕にとっては「悪魔的人物」による、
「オペラと音響デザイナー」という本があるので、
それをお読み頂くのが最適だと思います。

これは恐るべき本で、
観客から聴いて自然に聴こえることが「生声」なのだ、
という解釈の元に、
音を調整して加工することは、当然のこととして、
あらゆる公演でPAの使用が行なわれているという実体が、
恥ずかしげもなく開示されています。

たとえばモーツァルトの「魔笛」の舞台で、
夜の女王のアリアが、
舞台の後方の上方で歌われることがあります。
こんな音響の悪い位置から、
生の音が響く訳がありません。
従って、そうした舞台中央正面以外の歌唱は、
基本的に全て電気的に加工されているのです。

歌手の調子が悪いと、
PAでサポートするのも音響担当者の得意技です。

たとえばオペラの「椿姫」で、
3幕ではヒロインは病床にあります。
歌手は概ね蚊の鳴くような声で、
歌を歌うのですが、
その歌が妙に大きく聴こえるのを、
不自然に思われた方は多いかと思います。
あれは3幕になるとスピーカーからも声を出して、
全体の声のボリュームを上げているのです。
こうしたことは現在では当然のように行なわれています。

よく音楽評論家と称する人が、
「ヒロインのソプラノ歌手は1幕は声の調子が今ひとつだったが、
後半になるにつれ調子を上げ、ラストのアリアは堂々たる歌唱だった」
というような批評をされますが、
あれは大半はその歌手が調子を上げたのではなく、
調子の悪さを見た音響オペレイターが、
後半では声のボリュームを上げたためなのです。
こういう馬鹿な批評があるので、
音響デザイナーという悪魔は、
更に頭に乗るのだと思います。

拡声することの是非はともかくとして、
音響デザイナーに役者や歌手の演出をさせてはいけないのです。

歌手や役者の皆さんも、
あなたの大切な財産である声が、
あなたに無断で大きくされたり小さくされたりエコーを掛けられたりしている、
という事実にもっと敏感であるべきです。
感動的な場面では、
あなたの実力で声を大きくして下さい。
無断でその声を加工させることには、
はっきり「否」と言うべきなのです。

数年前、ナイロン100℃の舞台を紀伊国屋ホールで見て、
びっくりしました。

役者はマイクを付けていないし、
舞台にフットマイクも見当たらないのですけれど、
声は全て明らかに電気的に拡声されたものなのですね。

客席から見えない位置に収音マイクを仕掛けているのだと思うのですが、
ここまでくればもう何でもありで、
舞台の内容よりもそちらの方に、僕は恐怖を感じました。

今日、オペラと称するものの99%は、
何らかの電気的拡声(PAという言葉はあまり好きじゃないんです)が、
施されていると思います。

歌舞伎も今は同じですね。
能楽堂での能は、数年前までは間違いなく肉声でしたが、
今は場所によっては怪しいと思います。

古典芸能というのは、
「肉声の芸術」の代表ですよね。
声の出し方、その表現の仕方に、
それぞれ生声ならではの工夫が施されているんです。

ですから、電気的拡声とは基本的に相容れないものの筈です。

僕の個人的な見解から言えば、
拡声を受け入れた時点で、
それは古典芸能とは無縁のものになったのだと思います。

演者には、多分そこまでの意識はないのでしょう。
場合によっては自分の声が加工されていることさえ、
知らない場合もありそうです。

でも、演技の質は、そのことによって確実に変わっていくんです。

野獣は牙を抜かれ、飼い慣らされて家畜になります。

彼らは今や、音響技術という飼い主に飼われ、
消費され食べられる時を待つ家畜なのです。

ちょっとひどすぎる言い方でしょうか。

数年前、日生劇場で日本のオペラ団体によるオペラの公演が行われました。

この時の批評で、会場の音響が悪い、
というのが多くあったんです。

更には、オーケストラの音がうまく舞台に届かず、
歌手がタイミングを外すことが多くあった、
という批評もありました。

僕はこの舞台は実見していないので、
確定的なことは言えないんですが、
多分この公演は、かなり肉声に近い形で行われたのだと思います。

ご丁寧に音ムラをなくした加工された音響と比べれば、
実際の響きは悪く聞こえるのですね。

でも、それはみんなが加工された音に慣らされているからだと思うのです。

また、もう一つ、
歌手とオケのタイミングが合い難い、という件ですが、
これも舞台上にスピーカーを置いてオケの音を流すような、
人工的な処置をしていなかったからなんだと思うのです。

でもね、オケの音を電気的に加工して歌手に聞かせるなんて邪道ですよ。

歌手にオケの音が聞こえ難いのは当たり前なんです。
だからこそ感覚を研ぎ澄まして、聞こえない音を聞こうとするんです。
合わせるのが難しいタイミングが合うからこそ、感動が生まれるんです。
音響の技術者はね、歌手にオケの音を聞き易くすることを、親切だと思っているんです。

逆ですよ。
そんなことをして甘やかすから、歌も演技も痩せてしまうのです。

しかし、批評家も音が悪いのが会場の責任のように言うでしょう。
そうしたら、会場の担当者はどうするでしょうか。
当然音響に相談するでしょう。そして、
電気的な加工が施され、
「肉声の芸術」は、
ますます滅びの道を進んで行くのです。

誰か「肉声の芸術」を復活させてくれないでしょうか。

たとえば東京文化会館の大ホールに、
100%の肉声が響くのを、
一度くらいは聞きたいんですけど。

勿論、客席も舞台も全てにおいてですよ。
出来ない筈はないんです。昔は間違いなくやっていたんですから。
でも、無理なんでしょうね。

肉声の芸術は他の多くの得難い価値と共に、
もう実際には滅んでいるのだと僕は思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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Daddy恭男

日生劇場でのオペラ公演は上の階の最後列で頭の後ろから声(声のみを拾っている)が聞こえたのを覚えています、かなり昔ですが。最近は改善されていますが、以前の劇場は、客席を割いてのオケピット故、音響に配慮がなく楽器によっては舞台の歌手にもマイクで拾わないと聴こえないことが多かったようです。リュートの弾き語りのような単一楽器伴奏のシーンでもマイクを使っていましたから。できる限り、ありのままで実感したいですね、確かに!
by Daddy恭男 (2010-08-29 11:39) 

紺碧の書架

学校で行われる合唱コンクールは肉声のみです。
私は都内の公立中学で教員をしていた頃に、
そうした歌声を聴いていました。

 スイミングとフィン・スイミングは異なるものだと
思います。ただ、フィンは隠せませんが、マイクは
隠せますね。

 以前、板橋区でオペラ好きのオーナーが経営する
フランス料理店で『魔笛』や『蝶々夫人』を見ましたが、
30人ぐらいの広さなので、肉声を堪能できました。

 初台の新国立はどうなのでしょうか。

by 紺碧の書架 (2010-08-29 21:20) 

fujiki

Daddy恭男さんへ
コメントありがとうございます。
日生劇場は開場の記念公演は引越しオペラだったと思いますが、
どんな具合だったのか、
今思うとちょっと恥ずかしい感じもします。
by fujiki (2010-08-29 22:42) 

fujiki

紺碧の書架さんへ
コメントありがとうございます。

大空間に肉声というのが、
本当は一番感動的だと思うのですが、
なかなか現在では成立しません。

新国立は開場記念公演の「アイーダ」が、
紗幕を使った演出だったので、
当時からマイクは使っていると思います。
音響デザイナーの本にもあるように、
紗幕はどんな素材でも、
音を部分的には吸収してしまうので、
音のPAによる調節なしには、
成立しないのが現状だからです。
公には生音だと言っていますが、
それは露骨な拡声はしていない、
という程度の意味合いだと思います。
by fujiki (2010-08-29 22:48) 

ぼんぼちぼちぼち

あくまで非常に個人的な気持ちなのでやすが
あっしは マイクは使ってくれていたほうが嬉しいでやす。

たまに 全くマイクの無い小屋での公演を観に行くと
あっしはあまり耳がよくないので
両耳の後ろに掌を添えて「えええーーーーーー???」と
聴きとる という行為に集中することで もうぐったり疲れてしまうのでやす。
そうやって聴きとろうとしても 聞き取れない部分が多くて
何と言っていたのだろう?と ずーーっと気になってしまいやす。
by ぼんぼちぼちぼち (2010-08-30 11:05) 

fujiki

ぼんぼちぼちぼちさんへ
コメントありがとうございます。

言われることは分かります。
現状では演者もマイクに慣らされているので、
客席の隅々に自分の芸を伝える、
という技術に欠けているのではないかと僕は思います。
その状況であれば、
マイクを使った方がお互いのためでもあるのかも知れません。

ただ、僕は生声フェチなのかも知れませんが、
大きな空間に生の声が響いたり、
生の声を会場の隅々に響かせるような、
人間の技術の素晴らしさに対して、
期待する気持ちを捨てることが出来ないのです。
by fujiki (2010-08-31 08:32) 

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