「旧燈明寺蔵 五観音像」 [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
11月2日から奈良に行っていて、
今戻って来たところです。
今日はそんな訳で奈良・京都の話題です。
奈良では興福寺の中金堂が再建され、
一般拝観も始まっています。
真新しく無機的な感じで、
緑も多く伐採されて消えましたから、
あまり良い印象はありませんが、
1つの方向性として、
仕方のないことなのかも知れません。
お寺というのは昔は近代建築の都市であった訳で、
自然とはむしろ拮抗する存在であった部分も、
特に興福寺のような大寺ではあったので、
それが長い年月の中で次第に朽ちて、
自然と一体化したような雰囲気を、
僕達はかつての昭和の時代に興福寺において、
愛していたのですが、
お寺さんとしてはかつてのような「都市」に、
復活させたいというようなお気持ちを持つのも、
それもまあ無理からぬところなのかな、
というようには思います。
しかし、かつてのような政治や文化の中心には、
勿論なり得ないのですから、
あの昭和の懐かしい雰囲気が、
ほぼ一掃されたような今の興福寺を観るのは、
切ない思いがするのもまた確かなことなのです。
中金堂には少し前まで南円堂に安置されていた、
運慶の工房によると思われる見事な四天王像が、
1つの目玉として安置されています。
この仏様は僕は大好きで、
鎌倉期の四天王像としては、
仏像としても藝術作品としても技術的にも、
最高の仏様と思っているのですが、
明るい日差しの中で細部まで観られるのは嬉しい反面、
この無機的な空間にはあまりに場違いな感じがすることと、
須弥壇に配置されてしまうと、
後方の2駆の仏様が見づらくなってしまうので、
今回は少し残念に感じました。
まあこの興福寺の「薬師寺化」は、
もうストップは利かないものなのだと思いますから、
なるべく良い点に目を向けるようにして、
あまりにつらい感じになれば、
足を向けなければ良いのかな、
というようには思います。
さて、今日の話題は極めて地味な仏様です。
京都南方、奈良北方の木津川流域、南山城と呼ばれる地域には、
多くの人知れぬ社寺があり、
国宝から全く無名の地方仏まで、
仏像の宝庫のような場所です。
毎年秋には秘宝秘仏特別開扉という企画が、
木津川市の肝いりで行われていて、
多くの社寺がその時だけ、
文化財や仏様の一般拝観を許しています。
今回はその中から、
旧燈明寺の観音様を観て頂きます。
燈明寺(東明寺)は奈良時代に開山されたと伝わる古寺ですが、
紆余曲折を経て昭和27年に廃寺となっています。
本堂と三重塔が横浜の三渓園に移築されていて、
5駆の観音様の仏像(いずれも鎌倉期)が、
本堂跡に建てられた収蔵庫に保管されています。
ただ、通常の一般公開はされていません。
今のところ今回のような特別拝観時のみに、
周辺の方々の協力で公開されているようです。
こちらをご覧下さい。
こちらが旧燈明寺の本尊であったとされる、
鎌倉時代後期の千手観音様のお姿です。
収蔵庫の前で売られていた、
ブロマイド(絵はがき)の画像です。
この仏様のみ金箔が貼られていて、
特別だということが分かります。
当時の水準作という感じで、
文化財指定を受けてもおかしくはない出来映えですが、
かなり補修が入っていて、
しかもかなり適当な補修であるようなので、
そうならないのが地方仏の悲しさでもあり、
魅力でもあります。
「人知れぬ美」というようなものです。
次にこちらをご覧下さい。
こちらは不空羂索観音のお姿です。
こちらは如何にも地方仏というスタイルで、
金箔はなく木の素地を活かした仏像です。
画像はお示ししませんが、
他の3駆の観音様も同じスタイルです。
完成度はそう高いものではないのですが、
素朴な良さが地方仏の魅力です。
こうした地味な(失礼)仏様が、
地方でしっかり守られているのが、
日本の仏教美術の素晴らしさなのです。
今日はあまり話題にされることのない、
珍しい地方仏を観て頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
11月2日から奈良に行っていて、
今戻って来たところです。
今日はそんな訳で奈良・京都の話題です。
奈良では興福寺の中金堂が再建され、
一般拝観も始まっています。
真新しく無機的な感じで、
緑も多く伐採されて消えましたから、
あまり良い印象はありませんが、
1つの方向性として、
仕方のないことなのかも知れません。
お寺というのは昔は近代建築の都市であった訳で、
自然とはむしろ拮抗する存在であった部分も、
特に興福寺のような大寺ではあったので、
それが長い年月の中で次第に朽ちて、
自然と一体化したような雰囲気を、
僕達はかつての昭和の時代に興福寺において、
愛していたのですが、
お寺さんとしてはかつてのような「都市」に、
復活させたいというようなお気持ちを持つのも、
それもまあ無理からぬところなのかな、
というようには思います。
しかし、かつてのような政治や文化の中心には、
勿論なり得ないのですから、
あの昭和の懐かしい雰囲気が、
ほぼ一掃されたような今の興福寺を観るのは、
切ない思いがするのもまた確かなことなのです。
中金堂には少し前まで南円堂に安置されていた、
運慶の工房によると思われる見事な四天王像が、
1つの目玉として安置されています。
この仏様は僕は大好きで、
鎌倉期の四天王像としては、
仏像としても藝術作品としても技術的にも、
最高の仏様と思っているのですが、
明るい日差しの中で細部まで観られるのは嬉しい反面、
この無機的な空間にはあまりに場違いな感じがすることと、
須弥壇に配置されてしまうと、
後方の2駆の仏様が見づらくなってしまうので、
今回は少し残念に感じました。
まあこの興福寺の「薬師寺化」は、
もうストップは利かないものなのだと思いますから、
なるべく良い点に目を向けるようにして、
あまりにつらい感じになれば、
足を向けなければ良いのかな、
というようには思います。
さて、今日の話題は極めて地味な仏様です。
京都南方、奈良北方の木津川流域、南山城と呼ばれる地域には、
多くの人知れぬ社寺があり、
国宝から全く無名の地方仏まで、
仏像の宝庫のような場所です。
毎年秋には秘宝秘仏特別開扉という企画が、
木津川市の肝いりで行われていて、
多くの社寺がその時だけ、
文化財や仏様の一般拝観を許しています。
今回はその中から、
旧燈明寺の観音様を観て頂きます。
燈明寺(東明寺)は奈良時代に開山されたと伝わる古寺ですが、
紆余曲折を経て昭和27年に廃寺となっています。
本堂と三重塔が横浜の三渓園に移築されていて、
5駆の観音様の仏像(いずれも鎌倉期)が、
本堂跡に建てられた収蔵庫に保管されています。
ただ、通常の一般公開はされていません。
今のところ今回のような特別拝観時のみに、
周辺の方々の協力で公開されているようです。
こちらをご覧下さい。
こちらが旧燈明寺の本尊であったとされる、
鎌倉時代後期の千手観音様のお姿です。
収蔵庫の前で売られていた、
ブロマイド(絵はがき)の画像です。
この仏様のみ金箔が貼られていて、
特別だということが分かります。
当時の水準作という感じで、
文化財指定を受けてもおかしくはない出来映えですが、
かなり補修が入っていて、
しかもかなり適当な補修であるようなので、
そうならないのが地方仏の悲しさでもあり、
魅力でもあります。
「人知れぬ美」というようなものです。
次にこちらをご覧下さい。
こちらは不空羂索観音のお姿です。
こちらは如何にも地方仏というスタイルで、
金箔はなく木の素地を活かした仏像です。
画像はお示ししませんが、
他の3駆の観音様も同じスタイルです。
完成度はそう高いものではないのですが、
素朴な良さが地方仏の魅力です。
こうした地味な(失礼)仏様が、
地方でしっかり守られているのが、
日本の仏教美術の素晴らしさなのです。
今日はあまり話題にされることのない、
珍しい地方仏を観て頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
新薬師寺夜間拝観 [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日はもう1本奈良の話です。
新薬師寺は仏像好きには欠かせない名寺で、
本尊の薬師如来は貞観彫刻の傑作で凄みのある仏様ですし、
周辺で睨みを利かす天平時代の十二神将も、
東大寺戒壇院の四天王像や元法華堂の日光月光菩薩と並ぶ、
天平塑像の代表作です。
ただ、数年前までお堂の照明が、
全て蛍光灯という無粋なもので、
火災のリスクもあって昔のように蝋燭も殆ど点けませんから、
とても扁平な印象でガッカリでした。
それが1、2年前に遅ればせにLED照明となり、
面目が一新されました。
今年から更に夏の燈花会に合わせて、
夜間拝観が始まりました。
こちらをご覧下さい。
本堂前に190個の燈火が並べられ、
本堂正面の3枚の扉が開かれて、
外からご本尊を直接拝むことが可能となっています。
これまであまり新薬師寺ではなかった、
とても幽玄で素敵な光景です。
もう少し近づいてみます。
これはお寺の方に、
外からの撮影であればOKと、
確認して撮ったものです。
こうして見ると、
仏像というのは当たり前のことですが、
外からこうして拝むのが最も素晴らしい、
ということが分かります。
今回の夜間拝観では、
外からだけではなく、
いつものように堂内での拝観も、
同時に出来るようになっていました。
これは今回の奈良行きの中で、
最も感銘の深いひとときでした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日はもう1本奈良の話です。
新薬師寺は仏像好きには欠かせない名寺で、
本尊の薬師如来は貞観彫刻の傑作で凄みのある仏様ですし、
周辺で睨みを利かす天平時代の十二神将も、
東大寺戒壇院の四天王像や元法華堂の日光月光菩薩と並ぶ、
天平塑像の代表作です。
ただ、数年前までお堂の照明が、
全て蛍光灯という無粋なもので、
火災のリスクもあって昔のように蝋燭も殆ど点けませんから、
とても扁平な印象でガッカリでした。
それが1、2年前に遅ればせにLED照明となり、
面目が一新されました。
今年から更に夏の燈花会に合わせて、
夜間拝観が始まりました。
こちらをご覧下さい。
本堂前に190個の燈火が並べられ、
本堂正面の3枚の扉が開かれて、
外からご本尊を直接拝むことが可能となっています。
これまであまり新薬師寺ではなかった、
とても幽玄で素敵な光景です。
もう少し近づいてみます。
これはお寺の方に、
外からの撮影であればOKと、
確認して撮ったものです。
こうして見ると、
仏像というのは当たり前のことですが、
外からこうして拝むのが最も素晴らしい、
ということが分かります。
今回の夜間拝観では、
外からだけではなく、
いつものように堂内での拝観も、
同時に出来るようになっていました。
これは今回の奈良行きの中で、
最も感銘の深いひとときでした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
夕日観音再訪(2018年夏定点観測) [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日までクリニックは夏期の休診となります。
明日からはいつも通りの診療になります。
今日は僕が最も好きな石仏の話題です。
今年もお逢いして来ました。
こちらです。
奈良の北方柳生街道の滝坂道にいらっしゃる、
鎌倉期と思われる古い磨崖仏、
一般に夕日観音と呼ばれている仏様のお姿です。
この仏様には30年ほど前に初めてお逢いして、
間近に拝ませて頂いて非常な感銘を受けました。
それ以前に小学校の頃から、
カラーブックスの「柳生の里」を愛読していて、
いつかは柳生街道を歩いてみたいと思っていました。
それが初めて適ったのが大学生の時に春休みで、
それから大分時が経ってから、
2011年の夏に震災後で妻も入院して、
というようなタイミングで再訪することになりました。
それからは定期的に奈良に行くたびに再訪していたのですが、
2012年にはうっかり山道を駆け下りていて転倒し、
左肘の骨折と手首の靱帯損傷で、
生まれて初めて手術をすることになってしまいました。
それから数年はさすがに行かなかったのですが、
この数年は再び訪問を続けています。
もう1枚画像をアップで見て頂きます。
素晴らしいフォルムですよね。
この威厳と風格が、
室町以降の大量生産の石仏にはない、
古仏の味わいなのです。
ただ古い写真と比べると、
ここ数十年の間に、
岩自体に出来た亀裂や雨水の浸食による変色が増え、
風化自体も確実に進んでいることが分かります。
それ以上に深刻なのは、
ここ数年の豪雨による周辺の岩盤の崩落で、
この仏様が刻まれた岩のすぐ下でも、
新しい崩落が確認出来ました。
石仏特に岩に刻まれた磨崖仏というのは、
いつかはなく消えてなくなることが必定の、
はかなくも美しい藝術ですから、
これはもう仕方がないこととも言えるのですが、
最近の異常気象とそれに伴う多くの破壊や、
生活や文化、藝術の消滅については、
改めて暗澹たる思いに囚われざるを得ないのです。
最後にもう1つこの夕日観音と同じ岩の別の面にある、
もう1つの素晴らしい仏様を見て頂きます。
こちらです。
鎌倉時代後期から室町時代の、
非常に完成度の高い磨崖仏です。
ただ、これは2014年の写真です。
今はこちら。
周辺の木々が生い茂ってしまい、
おそらく2011年以降で、
最も街道から見えづらい状態となっています。
このように日々変わり続ける柳生街道ですが、
可能な限りこれからも再訪を繰り返したいと思います。
今日はもう1本奈良の記事が続きます。
北品川藤クリニックの石原です。
今日までクリニックは夏期の休診となります。
明日からはいつも通りの診療になります。
今日は僕が最も好きな石仏の話題です。
今年もお逢いして来ました。
こちらです。
奈良の北方柳生街道の滝坂道にいらっしゃる、
鎌倉期と思われる古い磨崖仏、
一般に夕日観音と呼ばれている仏様のお姿です。
この仏様には30年ほど前に初めてお逢いして、
間近に拝ませて頂いて非常な感銘を受けました。
それ以前に小学校の頃から、
カラーブックスの「柳生の里」を愛読していて、
いつかは柳生街道を歩いてみたいと思っていました。
それが初めて適ったのが大学生の時に春休みで、
それから大分時が経ってから、
2011年の夏に震災後で妻も入院して、
というようなタイミングで再訪することになりました。
それからは定期的に奈良に行くたびに再訪していたのですが、
2012年にはうっかり山道を駆け下りていて転倒し、
左肘の骨折と手首の靱帯損傷で、
生まれて初めて手術をすることになってしまいました。
それから数年はさすがに行かなかったのですが、
この数年は再び訪問を続けています。
もう1枚画像をアップで見て頂きます。
素晴らしいフォルムですよね。
この威厳と風格が、
室町以降の大量生産の石仏にはない、
古仏の味わいなのです。
ただ古い写真と比べると、
ここ数十年の間に、
岩自体に出来た亀裂や雨水の浸食による変色が増え、
風化自体も確実に進んでいることが分かります。
それ以上に深刻なのは、
ここ数年の豪雨による周辺の岩盤の崩落で、
この仏様が刻まれた岩のすぐ下でも、
新しい崩落が確認出来ました。
石仏特に岩に刻まれた磨崖仏というのは、
いつかはなく消えてなくなることが必定の、
はかなくも美しい藝術ですから、
これはもう仕方がないこととも言えるのですが、
最近の異常気象とそれに伴う多くの破壊や、
生活や文化、藝術の消滅については、
改めて暗澹たる思いに囚われざるを得ないのです。
最後にもう1つこの夕日観音と同じ岩の別の面にある、
もう1つの素晴らしい仏様を見て頂きます。
こちらです。
鎌倉時代後期から室町時代の、
非常に完成度の高い磨崖仏です。
ただ、これは2014年の写真です。
今はこちら。
周辺の木々が生い茂ってしまい、
おそらく2011年以降で、
最も街道から見えづらい状態となっています。
このように日々変わり続ける柳生街道ですが、
可能な限りこれからも再訪を繰り返したいと思います。
今日はもう1本奈良の記事が続きます。
大将軍神像と妖怪ストリート [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
クリニックは今日まで夏季の休診です。
また奈良と京都に行って来たので、
今日はその話です。
こちらをご覧下さい。
京都は北野天満宮にほど近い場所にある、
大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)という、
古い神社をお参りして来ました。
その本殿正面の写真です。
京都には六道珍皇寺など、
陰陽道に深い関わりのある場所がありますが、
こちらの神社もその1つで、
そもそもは西暦794年の平安京遷都の年に、
御所の天門の地に大将軍を祀る大将軍堂を開いたのが、
その始まりとされています。
大将軍というのは陰陽道の神様で、
星や方位をつかさどるとされています。
天文学に深い関わりを持つ星の神様です。
要するに仏教や神道とは全くの別物で、
別個の信仰として存在していたのですが、
明治になって陰陽道がはっきり異端とされたので、
多くのこうした信仰は失われ、
そもそもなきもののようにされたのです。
この神社は後付けで聖武天皇と桓武天皇をお祀りし、
辛くも存続することに成功して現在に至っています。
仏像好きとしては、
80体の大将軍神像群が残されていることが極めて貴重で、
元は大将軍堂の中に、
数百体の神像が立体曼荼羅を成していたということなのですが、
規模は小さいにしても宝物館の一室には、
立体曼荼羅が再現されていて、
その凄みと迫力は、
他に日本ではちょっと類のないものだと思います。
こちらをご覧下さい。
宝物館の入り口です。
神像のレプリカが安置されています。
中に入ると一階の殆どのスペースを使って、
80体余りの大将軍神像群が立体曼荼羅を構成していて、
2階には主に天文学関連の古い資料が展示されています。
「天地明察」で有名な江戸時代の天文学者澁川春海が作った、
天球儀の実物などもそこにあります。
こちらをご覧下さい。
内部の撮影は禁止ですので、
こちらは神社のパンフレットにある画像です。
こちらが中央でここから部屋を取り巻くようにして、
80体余りの姿かたちの異なる神像がズラリと並びます。
実際には照明は暗く、
朧に神像が浮かび上がるという感じで、
もっと凄みがあるのです。
次をご覧ください。
5号像とされている、
立体曼荼羅に中心に安置された神像です。
こちらは神社で購入した、
絵葉書の写真になります。
最も完成度が高く、
保存状態も良いものです。
次をご覧下さい。
44号像とされているものです。
西洋の悪魔を思わせるような、
かなり日本の古代彫刻としては特異な造形です。
一連の神像は平安時代から鎌倉時代に掛けて造られているのですが、
こうしたものを見ると、
今残っている仏像や神像は、
長い年月において「正統」とされたもののみで、
実際にはもっと自由自在な多くの仏や神の形が、
人間の手によって造られていたことが推測されます。
大将軍八神社もさることながら、
その周辺の街並みもなかなか個性的です。
こちらをご覧下さい。
周辺の商店街は、
その昔百鬼夜行が通ったらしく、
妖怪ストリートとなっています。
この看板をもう少し引きで見ます。
このように2階からは愛嬌のある妖怪が覗いています。
街を少し歩くとこんなところもあります。
イベントスペースのようですが閉まっていました。
こちらをご覧下さい。
百鬼夜行の資料館があるようなのですが、
そこも閉まっていました。
本来お盆には妖怪ストリートは、
開いていないといけないような気がするのですが、
人間様の都合の方が優先されているのかも知れません。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
クリニックは今日まで夏季の休診です。
また奈良と京都に行って来たので、
今日はその話です。
こちらをご覧下さい。
京都は北野天満宮にほど近い場所にある、
大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)という、
古い神社をお参りして来ました。
その本殿正面の写真です。
京都には六道珍皇寺など、
陰陽道に深い関わりのある場所がありますが、
こちらの神社もその1つで、
そもそもは西暦794年の平安京遷都の年に、
御所の天門の地に大将軍を祀る大将軍堂を開いたのが、
その始まりとされています。
大将軍というのは陰陽道の神様で、
星や方位をつかさどるとされています。
天文学に深い関わりを持つ星の神様です。
要するに仏教や神道とは全くの別物で、
別個の信仰として存在していたのですが、
明治になって陰陽道がはっきり異端とされたので、
多くのこうした信仰は失われ、
そもそもなきもののようにされたのです。
この神社は後付けで聖武天皇と桓武天皇をお祀りし、
辛くも存続することに成功して現在に至っています。
仏像好きとしては、
80体の大将軍神像群が残されていることが極めて貴重で、
元は大将軍堂の中に、
数百体の神像が立体曼荼羅を成していたということなのですが、
規模は小さいにしても宝物館の一室には、
立体曼荼羅が再現されていて、
その凄みと迫力は、
他に日本ではちょっと類のないものだと思います。
こちらをご覧下さい。
宝物館の入り口です。
神像のレプリカが安置されています。
中に入ると一階の殆どのスペースを使って、
80体余りの大将軍神像群が立体曼荼羅を構成していて、
2階には主に天文学関連の古い資料が展示されています。
「天地明察」で有名な江戸時代の天文学者澁川春海が作った、
天球儀の実物などもそこにあります。
こちらをご覧下さい。
内部の撮影は禁止ですので、
こちらは神社のパンフレットにある画像です。
こちらが中央でここから部屋を取り巻くようにして、
80体余りの姿かたちの異なる神像がズラリと並びます。
実際には照明は暗く、
朧に神像が浮かび上がるという感じで、
もっと凄みがあるのです。
次をご覧ください。
5号像とされている、
立体曼荼羅に中心に安置された神像です。
こちらは神社で購入した、
絵葉書の写真になります。
最も完成度が高く、
保存状態も良いものです。
次をご覧下さい。
44号像とされているものです。
西洋の悪魔を思わせるような、
かなり日本の古代彫刻としては特異な造形です。
一連の神像は平安時代から鎌倉時代に掛けて造られているのですが、
こうしたものを見ると、
今残っている仏像や神像は、
長い年月において「正統」とされたもののみで、
実際にはもっと自由自在な多くの仏や神の形が、
人間の手によって造られていたことが推測されます。
大将軍八神社もさることながら、
その周辺の街並みもなかなか個性的です。
こちらをご覧下さい。
周辺の商店街は、
その昔百鬼夜行が通ったらしく、
妖怪ストリートとなっています。
この看板をもう少し引きで見ます。
このように2階からは愛嬌のある妖怪が覗いています。
街を少し歩くとこんなところもあります。
イベントスペースのようですが閉まっていました。
こちらをご覧下さい。
百鬼夜行の資料館があるようなのですが、
そこも閉まっていました。
本来お盆には妖怪ストリートは、
開いていないといけないような気がするのですが、
人間様の都合の方が優先されているのかも知れません。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
石峰寺五百羅漢(若冲作) [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日も奈良京都のお土産的な話題です。
こちらをご覧ください。
京都の伏見稲荷にほど近いところにある石峰寺(せきほうじ)の、
有名な五百羅漢の石仏の一部です。
これは写真撮影は不可なので、
お寺のパンフレットから取った写真です。
最近人気の高い江戸時代中期の画家、伊藤若冲が、
その晩年を過ごしたお寺で、
若冲が下絵を描き、
それを元に石工が刻んだ石仏が、
寺の裏山に500体以上パノラマのように配置されています。
ちょっと崩した輪郭の、
デフォルメされた石仏が、
ズラリと並んだ様子はなかなかの圧巻で、
写真で見るより実際に見るとその素晴らしさに感銘を受けます。
内容は幾つかのパートに分かれて、
山を一回りすると、
お釈迦様の生涯が辿れるという趣向です。
静的な感じではなく、躍動感があって、
この新緑の頃に拝観すると、
青葉の息吹のようなものと、
石仏の動きが一体となって、
生命の賛歌を奏でるような思いがありました。
元々は1000体以上の石仏が存在していたとされていて、
盗まれたりして残っているのが半分ほどです。
実際、パノラマを構成せずに、
打ち捨てられているような石仏もあり、
物の哀れもまた感じられるのです。
境内には若冲のお墓もあり、
静かなたたずまいには味わいがあります。
石仏好きにはなかなかのお薦めです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日も奈良京都のお土産的な話題です。
こちらをご覧ください。
京都の伏見稲荷にほど近いところにある石峰寺(せきほうじ)の、
有名な五百羅漢の石仏の一部です。
これは写真撮影は不可なので、
お寺のパンフレットから取った写真です。
最近人気の高い江戸時代中期の画家、伊藤若冲が、
その晩年を過ごしたお寺で、
若冲が下絵を描き、
それを元に石工が刻んだ石仏が、
寺の裏山に500体以上パノラマのように配置されています。
ちょっと崩した輪郭の、
デフォルメされた石仏が、
ズラリと並んだ様子はなかなかの圧巻で、
写真で見るより実際に見るとその素晴らしさに感銘を受けます。
内容は幾つかのパートに分かれて、
山を一回りすると、
お釈迦様の生涯が辿れるという趣向です。
静的な感じではなく、躍動感があって、
この新緑の頃に拝観すると、
青葉の息吹のようなものと、
石仏の動きが一体となって、
生命の賛歌を奏でるような思いがありました。
元々は1000体以上の石仏が存在していたとされていて、
盗まれたりして残っているのが半分ほどです。
実際、パノラマを構成せずに、
打ち捨てられているような石仏もあり、
物の哀れもまた感じられるのです。
境内には若冲のお墓もあり、
静かなたたずまいには味わいがあります。
石仏好きにはなかなかのお薦めです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
古知谷阿弥陀寺感得阿弥陀如来立像 [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は連休狭間の土曜日ですが、
午前午後ともいつも通りの診療になります。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
古知谷阿弥陀寺というのは、
大原の三千院から更に少し北にある山寺です。
駐車場と山門が山の麓にあり、
そこから600メートルほど山道を登ります。
道はかなり整備されているので快適です。
こちらをご覧ください。
山道を登り、お寺のお堂を見上げるくらいの位置です。
樹齢800年以上という、
大きなケヤキが見事です。
この古知谷阿弥陀寺は、
1609年に彈誓上人(たんぜいしょうにん)様という方が、
独自の宗派として開かれたお寺だということで、
要するに江戸初期の新興宗教の教祖様のお寺、
ということのようです。
上人様は独自の悟りを体得され、
後に阿弥陀様の化身となられたということのようです。
何かきっかけがあったのだと思いますが、
皇室との関わりが深くその信仰を集め、
また周辺の金鉱の情報を江戸幕府に伝えるという、
隠密のような仕事もされていて、
江戸城への登城も許されていたそうです。
その証である鉄の履が宝物として残っています。
何かただならない感じのする方ですよね。
歴史小説の素材にはもってこいの感じです。
このお寺のご本尊は上人が自らを刻んだ、
70センチほどの開山彈誓佛立像で、
これは上人様がご自分で彫った上に、
自分の髪の毛を植えこんだという珍しいもので、
その髪の毛もまだわずかに残っています。
そして、最後に上人様は即身成仏され、
ミイラとなってお寺の奥にある石室の中の、
石棺の中に安置されているということになっています。
その石室を実際に見ることが出来ますが、
上人様のミイラは、
明治年間に一度その存在が確認されているだけで、
その後は石棺が開けられたことなく、
誰もそのお姿は見ていない、ということです。
なかなか凄みのある話です。
さて、今回の特別公開では、
石室やご本尊と共に、
開山当時に謎の老爺(実は阿弥陀様)から、
上人様が頂いたという逸話のある、
開山当時のご本尊である、
感得阿弥陀如来立像が初公開されています。
それが上の看板にあるお写真です。
桜の霊木から彫り上げられたもので、
いわゆる壇像です。
それほど出来の良い仏像ではないのですが、
粗削りで霊的な魅力があります。
そのお顔には貞観彫刻を思わせる雰囲気があり、
平安期のものという説もあるのですが、
もっと新しいような感じもあり、
はっきりとはしていません。
当日は連休中ということもあって、
ひなびた山寺は観光客でごった返していました。
柄の悪いマニアのような方もいて、
正直嫌な気分での拝観となりましたが、
非常に不思議で奇妙な寺院であり寺宝の数々で、
貴重な体験ではあったと思います。
初公開という言葉に騙されて、
思わず僕も山の中まで足を運んでしまいました。
それでは今日はこのくらいで。
今日は皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は連休狭間の土曜日ですが、
午前午後ともいつも通りの診療になります。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
古知谷阿弥陀寺というのは、
大原の三千院から更に少し北にある山寺です。
駐車場と山門が山の麓にあり、
そこから600メートルほど山道を登ります。
道はかなり整備されているので快適です。
こちらをご覧ください。
山道を登り、お寺のお堂を見上げるくらいの位置です。
樹齢800年以上という、
大きなケヤキが見事です。
この古知谷阿弥陀寺は、
1609年に彈誓上人(たんぜいしょうにん)様という方が、
独自の宗派として開かれたお寺だということで、
要するに江戸初期の新興宗教の教祖様のお寺、
ということのようです。
上人様は独自の悟りを体得され、
後に阿弥陀様の化身となられたということのようです。
何かきっかけがあったのだと思いますが、
皇室との関わりが深くその信仰を集め、
また周辺の金鉱の情報を江戸幕府に伝えるという、
隠密のような仕事もされていて、
江戸城への登城も許されていたそうです。
その証である鉄の履が宝物として残っています。
何かただならない感じのする方ですよね。
歴史小説の素材にはもってこいの感じです。
このお寺のご本尊は上人が自らを刻んだ、
70センチほどの開山彈誓佛立像で、
これは上人様がご自分で彫った上に、
自分の髪の毛を植えこんだという珍しいもので、
その髪の毛もまだわずかに残っています。
そして、最後に上人様は即身成仏され、
ミイラとなってお寺の奥にある石室の中の、
石棺の中に安置されているということになっています。
その石室を実際に見ることが出来ますが、
上人様のミイラは、
明治年間に一度その存在が確認されているだけで、
その後は石棺が開けられたことなく、
誰もそのお姿は見ていない、ということです。
なかなか凄みのある話です。
さて、今回の特別公開では、
石室やご本尊と共に、
開山当時に謎の老爺(実は阿弥陀様)から、
上人様が頂いたという逸話のある、
開山当時のご本尊である、
感得阿弥陀如来立像が初公開されています。
それが上の看板にあるお写真です。
桜の霊木から彫り上げられたもので、
いわゆる壇像です。
それほど出来の良い仏像ではないのですが、
粗削りで霊的な魅力があります。
そのお顔には貞観彫刻を思わせる雰囲気があり、
平安期のものという説もあるのですが、
もっと新しいような感じもあり、
はっきりとはしていません。
当日は連休中ということもあって、
ひなびた山寺は観光客でごった返していました。
柄の悪いマニアのような方もいて、
正直嫌な気分での拝観となりましたが、
非常に不思議で奇妙な寺院であり寺宝の数々で、
貴重な体験ではあったと思います。
初公開という言葉に騙されて、
思わず僕も山の中まで足を運んでしまいました。
それでは今日はこのくらいで。
今日は皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
夕日観音(2017年5月再訪) [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は祝日でクリニックは休診です。
明日土曜日では午前午後ともいつも通りの診療になります。
先刻、奈良京都から帰って来たところです。
今日はこれまでにも何度かご紹介したことがある、
僕の最も好きな奈良の石仏を見て頂きます。
その仏様のお姿がこちらです。
奈良の北方柳生街道の滝坂道の岩に刻まれた、
夕日観音のお姿です。
これは仏像岩と呼ばれる、
別々の場所に幾つかの石仏の刻まれた街道脇の崖があって、
その岩の最も上の部分に刻まれています。
街道からはかなり上方の見えづらい場所にあるので、
見逃がされる方も多いと思うのですが、
崖をよじ登るとそばで手を合わせることが出来ます。
一番最初に拝んだのは大学生の時で、
とてもとても感銘を受けました。
それから2010年の妻が入院している時に再訪、
妻と一緒に2011年にも訪問し、
翌年の2012年のお盆に再訪した時に手首を骨折して、
それからは行くのをやめていました。
今回が5年ぶりの再訪になります。
観音という名前ですが弥勒仏と考えられています。
一種の立体曼荼羅として、
その頂点に刻んだようにも思えます。
もう少し近づきましょう。
素晴らしいでしょ。
平安末期から鎌倉時代の作と考えられています。
描線やお顔の感じに古様があり、
確実に鎌倉は下ることがないと思います。
様式としてはおそらく鎌倉期の前半期かと推測されます。
古仏の風格があり、格調があり、
そして風化の途上にある儚さが漂っています。
こちらは向かって左側から撮った画像ですが、
右のお顔には補修らしき跡があり、
水の浸食による痛みと岩の変色も見られます。
入江泰吉先生の昔の写真では、
お顔の傷みはなく、
右手の先の描線も綺麗に残っていましたから、
風化は着実に進んでいるようです。
奈良の摩崖仏の私的ベストスリーは、
この夕日観音と和束弥勒摩崖仏、
そして当尾の大門仏谷摩崖仏ですが、
和束は最近整備されて岩の強度も安定していますし、
大門仏谷はかなり前に岩の上にある桜の巨木を切り倒していて、
岩盤は固く安定しているので、
この両者は長く残ると思うのですが、
この夕日観音に関しては、
彫られた岩自体がそれほど固くはないもので、
仏様のすぐ上に老木があり、
そこからひび割れも生じています。
老木が倒れたり、大雨で岩が浸食したりすれば、
全体が剥落する恐れは極めて大きいと思います。
いつまでこのお姿を拝見することが出来るのかが、
極めて不安でもあり、
そこがまた物の哀れを感じさせて、
心を揺さぶるところでもあります。
今回再訪にして本当に良かったと思いますし、
また折に触れて参拝を続けたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は祝日でクリニックは休診です。
明日土曜日では午前午後ともいつも通りの診療になります。
先刻、奈良京都から帰って来たところです。
今日はこれまでにも何度かご紹介したことがある、
僕の最も好きな奈良の石仏を見て頂きます。
その仏様のお姿がこちらです。
奈良の北方柳生街道の滝坂道の岩に刻まれた、
夕日観音のお姿です。
これは仏像岩と呼ばれる、
別々の場所に幾つかの石仏の刻まれた街道脇の崖があって、
その岩の最も上の部分に刻まれています。
街道からはかなり上方の見えづらい場所にあるので、
見逃がされる方も多いと思うのですが、
崖をよじ登るとそばで手を合わせることが出来ます。
一番最初に拝んだのは大学生の時で、
とてもとても感銘を受けました。
それから2010年の妻が入院している時に再訪、
妻と一緒に2011年にも訪問し、
翌年の2012年のお盆に再訪した時に手首を骨折して、
それからは行くのをやめていました。
今回が5年ぶりの再訪になります。
観音という名前ですが弥勒仏と考えられています。
一種の立体曼荼羅として、
その頂点に刻んだようにも思えます。
もう少し近づきましょう。
素晴らしいでしょ。
平安末期から鎌倉時代の作と考えられています。
描線やお顔の感じに古様があり、
確実に鎌倉は下ることがないと思います。
様式としてはおそらく鎌倉期の前半期かと推測されます。
古仏の風格があり、格調があり、
そして風化の途上にある儚さが漂っています。
こちらは向かって左側から撮った画像ですが、
右のお顔には補修らしき跡があり、
水の浸食による痛みと岩の変色も見られます。
入江泰吉先生の昔の写真では、
お顔の傷みはなく、
右手の先の描線も綺麗に残っていましたから、
風化は着実に進んでいるようです。
奈良の摩崖仏の私的ベストスリーは、
この夕日観音と和束弥勒摩崖仏、
そして当尾の大門仏谷摩崖仏ですが、
和束は最近整備されて岩の強度も安定していますし、
大門仏谷はかなり前に岩の上にある桜の巨木を切り倒していて、
岩盤は固く安定しているので、
この両者は長く残ると思うのですが、
この夕日観音に関しては、
彫られた岩自体がそれほど固くはないもので、
仏様のすぐ上に老木があり、
そこからひび割れも生じています。
老木が倒れたり、大雨で岩が浸食したりすれば、
全体が剥落する恐れは極めて大きいと思います。
いつまでこのお姿を拝見することが出来るのかが、
極めて不安でもあり、
そこがまた物の哀れを感じさせて、
心を揺さぶるところでもあります。
今回再訪にして本当に良かったと思いますし、
また折に触れて参拝を続けたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
天乃石立神社と一刀石 [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日は今年のお正月に参拝した、
奈良北方柳生の里にある神社を見て頂きます。
以前2012年の元旦にも参拝して、
その時にも記事にしています。
5年ぶりということになります。
芳徳寺という柳生家の菩提寺の裏手の山を、
少し上ったところにその神社はあります。
辺りは静寂に包まれ、
ほぼ人に出会うということはありません。
天乃石立神社は、
その昔天岩戸の石の扉が宙を飛び、
地面に突き刺さった場所だとされています。
その石の扉とされる巨石がこちらです。
なかなかの迫力で、
この2つの巨石を含む周辺の神秘的な岩が、
この神社の祀るご神体そのものです。
こちらをご覧ください。
神社の拝殿ですが、
参道から鳥居を潜った位置からは反対側にあります。
ちょっと不思議な感じもするのですが、
まず神様の横を通って、
それから裏の拝殿に廻って、
お参りをする、
ということになります。
奥に見えているのもご神体で、
その裏に廻るとこんな感じになります。
周辺はまさにジブリの「もののけ姫」の世界です。
それほどのスケール感はないのですが、
心が洗われる感じがあります。
そして、拝殿から更に奥に進むと、
印象的な巨石があります。
それがこちらです。
一刀石と言って、
その昔剣豪柳生石舟斎が天狗と立ち合いをして、
一刀両断して翌日見たらこの石があった、
ということになっています。
なるほどと思う迫力です。
もう少し近づいてみます。
僕の大好きな場所なのですが、
実は背後の山の向こうはもうゴルフ場になっています。
ちょっと悲しい感じもあるのです。
ただ、この場所自体の迫力と凄みは、
失われてはいない、
という思いがしました。
今日は古代の巨石の神秘を見て頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごしください。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日は今年のお正月に参拝した、
奈良北方柳生の里にある神社を見て頂きます。
以前2012年の元旦にも参拝して、
その時にも記事にしています。
5年ぶりということになります。
芳徳寺という柳生家の菩提寺の裏手の山を、
少し上ったところにその神社はあります。
辺りは静寂に包まれ、
ほぼ人に出会うということはありません。
天乃石立神社は、
その昔天岩戸の石の扉が宙を飛び、
地面に突き刺さった場所だとされています。
その石の扉とされる巨石がこちらです。
なかなかの迫力で、
この2つの巨石を含む周辺の神秘的な岩が、
この神社の祀るご神体そのものです。
こちらをご覧ください。
神社の拝殿ですが、
参道から鳥居を潜った位置からは反対側にあります。
ちょっと不思議な感じもするのですが、
まず神様の横を通って、
それから裏の拝殿に廻って、
お参りをする、
ということになります。
奥に見えているのもご神体で、
その裏に廻るとこんな感じになります。
周辺はまさにジブリの「もののけ姫」の世界です。
それほどのスケール感はないのですが、
心が洗われる感じがあります。
そして、拝殿から更に奥に進むと、
印象的な巨石があります。
それがこちらです。
一刀石と言って、
その昔剣豪柳生石舟斎が天狗と立ち合いをして、
一刀両断して翌日見たらこの石があった、
ということになっています。
なるほどと思う迫力です。
もう少し近づいてみます。
僕の大好きな場所なのですが、
実は背後の山の向こうはもうゴルフ場になっています。
ちょっと悲しい感じもあるのです。
ただ、この場所自体の迫力と凄みは、
失われてはいない、
という思いがしました。
今日は古代の巨石の神秘を見て頂きました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごしください。
石原がお送りしました。
和束弥勒摩崖仏(2017年再撮影) [仏像]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日はまだクリニックは休診ですが、
グループホームの診療などには廻る予定です。
今日はお正月に奈良でお逢いした、
摩崖仏の画像を観て頂きます。
石仏というのは藝術性は高くても、
風雨にさらされるという特性から、
お堂の中などに安置される仏像より、
風化して消滅することが遥かに多い、
極めて儚い藝術です。
その中でも摩崖仏というのは、
崖の岩のそのまま彫り込まれたものなので、
よりその儚さが強いのです。
街道に目印で置くような小さな石仏は、
特に室町時代の後期からは大量に造仏されるようになります。
これは工房で作られるようなものなので、
商品として作られるようになり、
今作られるものとそれほど変わりはありません。
魂の籠ったもの、と言う感じはあまりしないのです。
矢張り石仏が素晴らしいのは、
室町時代の初期より以前、
より狭めれば鎌倉時代までの石仏です。
ただ、はっきりと鎌倉時代以前に造仏された石仏というのは、
そうざらに残っているものではありません。
その中でも素晴らしい仏様の1つが、
今日ご紹介する和束弥勒摩崖仏です。
和束町は京都南方、宇治市に近い位置にある、
川沿いの小さな町で、
お茶の産地として知られているところですが、
川沿いの抜群のロケーションの岩肌に、
見事な石仏が刻まれています。
そのお姿がこちらです。
前回対面したのは2013年のお正月のことでした。
その時は道も整備されておらずに立札などもありませんでした。
それが今回は川沿いの道が整備されていて、
立札も何か所かに設置されていました。
こちらをご覧ください。
のどかなお茶の畑に沿って、
整備された道が続いています。
でも石仏の周囲は簡単な柵があるだけで、
その辺も自然の雰囲気を壊しすぎずに悪くないのです。
僕が考える良いロケーションの摩崖仏というのは、
遠景があって、
それから近接した見上げもある、
ということです。
その両方がここにはあります。
遠景の画像をもう1枚見て頂きます。
こちらです。
遠くから最初に見えるこの風景が感動的です。
自然物と岩と木々の緑と苔むす岩の中に、
仏様のお姿を見つける瞬間が感動なのです。
大きさは画像では分かりにくいと思いますが、
光背などを含めれば⑦メートル近い大きさがあります。
日本の石仏は概ね小さく、
古仏でここまで大きなものは非常にまれです。
そして、少しずつ近づきます。
以前は石仏の彫り込まれた岩の正面に、
足場のようなものが組まれていたのですが、
それが今回は取り外されています。
そのために、柵の内側からだと、
今は横から石仏を拝見するしかないのですが、
正面に廻ることも出来るようにはなっています。
目の前での見上げがこちらです。
これが室町後期以降の石仏にはない、
古仏の大らかな描線です。
見にくいのですが右側に碑文が刻まれています。
こちらです。
ちょっと読めませんが、
1300年に造仏されたことが刻まれています。
このように、鎌倉時代に作られたことが確実、
という摩崖仏は実際にはほとんどありません。
国宝に認定されてもおかしくないと個人的には思いますが、
石仏が重要文化財や国宝になることは、
実際にはほとんどありません。
最後にもう1枚お顔のアップを見て頂きます。
素晴らしいですよね。
最高です。
いつ消え失せるか分からない儚い藝術です。
でもだからこその魅力、
摩耗していつかは自然に帰るという無常感が、
それだけに心を打つのです。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日はまだクリニックは休診ですが、
グループホームの診療などには廻る予定です。
今日はお正月に奈良でお逢いした、
摩崖仏の画像を観て頂きます。
石仏というのは藝術性は高くても、
風雨にさらされるという特性から、
お堂の中などに安置される仏像より、
風化して消滅することが遥かに多い、
極めて儚い藝術です。
その中でも摩崖仏というのは、
崖の岩のそのまま彫り込まれたものなので、
よりその儚さが強いのです。
街道に目印で置くような小さな石仏は、
特に室町時代の後期からは大量に造仏されるようになります。
これは工房で作られるようなものなので、
商品として作られるようになり、
今作られるものとそれほど変わりはありません。
魂の籠ったもの、と言う感じはあまりしないのです。
矢張り石仏が素晴らしいのは、
室町時代の初期より以前、
より狭めれば鎌倉時代までの石仏です。
ただ、はっきりと鎌倉時代以前に造仏された石仏というのは、
そうざらに残っているものではありません。
その中でも素晴らしい仏様の1つが、
今日ご紹介する和束弥勒摩崖仏です。
和束町は京都南方、宇治市に近い位置にある、
川沿いの小さな町で、
お茶の産地として知られているところですが、
川沿いの抜群のロケーションの岩肌に、
見事な石仏が刻まれています。
そのお姿がこちらです。
前回対面したのは2013年のお正月のことでした。
その時は道も整備されておらずに立札などもありませんでした。
それが今回は川沿いの道が整備されていて、
立札も何か所かに設置されていました。
こちらをご覧ください。
のどかなお茶の畑に沿って、
整備された道が続いています。
でも石仏の周囲は簡単な柵があるだけで、
その辺も自然の雰囲気を壊しすぎずに悪くないのです。
僕が考える良いロケーションの摩崖仏というのは、
遠景があって、
それから近接した見上げもある、
ということです。
その両方がここにはあります。
遠景の画像をもう1枚見て頂きます。
こちらです。
遠くから最初に見えるこの風景が感動的です。
自然物と岩と木々の緑と苔むす岩の中に、
仏様のお姿を見つける瞬間が感動なのです。
大きさは画像では分かりにくいと思いますが、
光背などを含めれば⑦メートル近い大きさがあります。
日本の石仏は概ね小さく、
古仏でここまで大きなものは非常にまれです。
そして、少しずつ近づきます。
以前は石仏の彫り込まれた岩の正面に、
足場のようなものが組まれていたのですが、
それが今回は取り外されています。
そのために、柵の内側からだと、
今は横から石仏を拝見するしかないのですが、
正面に廻ることも出来るようにはなっています。
目の前での見上げがこちらです。
これが室町後期以降の石仏にはない、
古仏の大らかな描線です。
見にくいのですが右側に碑文が刻まれています。
こちらです。
ちょっと読めませんが、
1300年に造仏されたことが刻まれています。
このように、鎌倉時代に作られたことが確実、
という摩崖仏は実際にはほとんどありません。
国宝に認定されてもおかしくないと個人的には思いますが、
石仏が重要文化財や国宝になることは、
実際にはほとんどありません。
最後にもう1枚お顔のアップを見て頂きます。
素晴らしいですよね。
最高です。
いつ消え失せるか分からない儚い藝術です。
でもだからこその魅力、
摩耗していつかは自然に帰るという無常感が、
それだけに心を打つのです。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
大原三千院阿弥陀如来石仏(売炭翁石仏) [仏像]
こんばんは。
北品川藤クリニックの石原です。
先刻奈良から戻って来たところです。
今回は暑さがきつすぎて、
ちょっと仏像を拝観するような感じではありませんでした。
今日は京都大原三千院の境内にいらっしゃる、
京都随一と言っても良い、
古仏の石仏を観て頂きます。
それがこちらです。
京都大原の三千院には、
苔の庭にわらべ地蔵という、
愛らしい表情をした地蔵石仏が点在していますが、
あれは勿論新しいものです。
こちらは鎌倉時代中期に作られたことが、
ほぼ確実な石仏で、
大きさも2メートルを超える半丈六と言って良い大きさのものです。
石仏は室町後期以降のものと、
それ以前のもの、特に鎌倉時代までのものとは、
その貴重さと藝術的な価値、
そしてある種の精神性のようなものが、
まるで異なります。
室町後期以降の石仏というのは、
工房の制作するある種の「商品」となってしまうので、
作品の数はぐっと増えるのですが、
唯一無二の仏としての実在感や感銘は、
あまりないものとなってしまうのです。
京都は古都ですが、
鎌倉時代に遡る石仏は殆どありません。
その意味でこの三千院の石仏は、
その完成度の高さと大きさも含めて、
非常に貴重な仏様なのです。
今は簡素な覆い屋に入っていますが、
野ざらしになっていた時期が長かったのでしょうか、
お顔などはかなり摩耗しています。
ただ、そのフォルムの美しさと高い精神性には、
摩耗して尚、唯一無二の風格があります。
もう少し近づきましょう。
石仏というより、木彫に近いような完成度の高いフォルムです。
欲を言えば均整が取れすぎていて、
やや訴える力には弱いような気がしますが、
さすが古仏という素晴らしさが全体に漂っています。
真夏はきついので、
次回は少し気候の良い時に、
もう一度拝観したいと思いました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
先刻奈良から戻って来たところです。
今回は暑さがきつすぎて、
ちょっと仏像を拝観するような感じではありませんでした。
今日は京都大原三千院の境内にいらっしゃる、
京都随一と言っても良い、
古仏の石仏を観て頂きます。
それがこちらです。
京都大原の三千院には、
苔の庭にわらべ地蔵という、
愛らしい表情をした地蔵石仏が点在していますが、
あれは勿論新しいものです。
こちらは鎌倉時代中期に作られたことが、
ほぼ確実な石仏で、
大きさも2メートルを超える半丈六と言って良い大きさのものです。
石仏は室町後期以降のものと、
それ以前のもの、特に鎌倉時代までのものとは、
その貴重さと藝術的な価値、
そしてある種の精神性のようなものが、
まるで異なります。
室町後期以降の石仏というのは、
工房の制作するある種の「商品」となってしまうので、
作品の数はぐっと増えるのですが、
唯一無二の仏としての実在感や感銘は、
あまりないものとなってしまうのです。
京都は古都ですが、
鎌倉時代に遡る石仏は殆どありません。
その意味でこの三千院の石仏は、
その完成度の高さと大きさも含めて、
非常に貴重な仏様なのです。
今は簡素な覆い屋に入っていますが、
野ざらしになっていた時期が長かったのでしょうか、
お顔などはかなり摩耗しています。
ただ、そのフォルムの美しさと高い精神性には、
摩耗して尚、唯一無二の風格があります。
もう少し近づきましょう。
石仏というより、木彫に近いような完成度の高いフォルムです。
欲を言えば均整が取れすぎていて、
やや訴える力には弱いような気がしますが、
さすが古仏という素晴らしさが全体に漂っています。
真夏はきついので、
次回は少し気候の良い時に、
もう一度拝観したいと思いました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。