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遠ざかって見る、ということ [身辺雑記]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は8月15日でクリニックはお盆の休診です。

明日16日からは通常通りの診療に戻ります。

今日は雑談的な話です。

①夕日観音
夕日観音は奈良の柳生街道滝坂道という古道にある石仏です。

僕はこの石仏を偏愛していて、
定期的に訪問してはお逢いしていたのですが、
一度転んで手首を骨折してから少し遠ざかり、
少しして再会はしたのですが、
ここ数年はコロナでまた行く機会は減り、
その後大雨で柳生街道の一部が崩れたりもして、
果たしていつまで石仏がそのままの姿で残っているのだろうかと、
不安にも感じながら、
時々夢に登場するその姿を、
懐かしく思いつつ日々を過ごしていました。

かなり前に撮ったものですが、
そのお姿がこちらです。
夕日観音.jpg

通称仏像岩と呼ばれる岩盤が街道に面していまして、
そのかなり上の方にいらっしゃるのですね。
遠くに目を凝らすと街道からは幽かに見えると言う感じで、
この写真を撮るには、
かなり岩盤をよじ登らないといけないのです。

それが最近では、
大雨などの影響で落石注意のシートが掛けられ、
もう近づけない状態となっています。

先日久しぶりに柳生街道をここまで登りまして、
そのお姿を遠くに見上げました。

以前でしたら、
無理矢理でも岩盤をよじ登って、
仏様の前まで行かないと納得出来ない、
そうしないとお会いしたことにはならない、
という気分であったのですが、
その時は体力的にもきついということもあったのですが、
ああ、こうして遠くから眺めやるのが、
おそらく本来の姿なのだな、
という思いが強くて、
そのまま「遠見」のみでその場を後にしました。

何度も遠ざかりながら、
背後に目をやると、
すぐに仏様の姿は視界から消えるのですが、
その刹那に、
「あれっ?」と思うような瞬間、
何か大切なものを見落としたような思いに、
後ろ髪をひかれるようなところもあるのです。

②遠見ということ
昔は近くで見たかったんですね。
何でも近くで見ることが重要であるように感じていました。

コンサートや演劇もかぶりつきで観たい、聴きたい、
という思いが強くで、
それでないと納得が行かなかったのです。

小学生の時に「ファーブル昆虫記」を買ってもらって、
当時の子供の常で一時期は昆虫に夢中になりました。
土の上や岩の下に目を凝らして、
小さな蟻やその他の虫の姿を、
ともかく近くで近くで見ることが意味のあることのように、
何かをクローズアップして、
そこに焦点を合わせることが重要であるように感じていました。

でもそれが可能なのは若いからですよね。

年を取ると矢張り最初に駄目になるのは目で、
目を凝らしても近くは見えず、
虫の世界を見ることは難しくなりました。

ああ、この世界にはもう入れないのだと、
人生の大切な能力をもう失ってしまったんだと、
気が付いた時には愕然としました。

演劇もコンサートも、
かぶりつきで観ても今は遠いという感じなんですね。
もっと近づきたいのだけれど近づけない感じ、
視力が落ちるとともに視野が狭くなってくるんですね。
前はもっと世界は広がりを持って見えていた筈なのに、
いつの間にか、
世界はシュルシュルと縮んてしまっていたのです。

そうなると、
もう近くを見ることを捨てないといけないのかも知れません。

最近ふとそんなことを考えるようになりました。

石仏や仏像も、
以前ならなるべく近づいて見なければ納得がいかなかったのですが、
今は輪郭が少しぼやけるくらいの距離感の方が、
今の僕にとっては相応しいのではないか、
そうした時期に来ているのではないかと感じるようになったのです。

そうしてみると、
また世界は別の見え方をして来るような気がします。

何処までも近く深くクリアなものを求める世界から、
もっと曖昧で俯瞰的で静かな世界へ。

③時間を遠ざかるということ
年を取るにつれ、
近付くことより遠ざかることの方が自然に思えるのは、
それが一方向性の時の流れに、
合致しているからかも知れません。

そう、遠ざかる距離というのは空間的なものであると同時に、
時間的なものでもあるのです。

僕達は常に、
誰かから遠ざかり続けています。

それに気が付くのは、
矢張り年齢を重ねたからかも知れません。

僕は今あなたの目の前にいて、
そこからゆっくりと遠ざかって行く。
少しずつ少しずつ遠ざかって行くと、
いずれはもう彼方にいるあなたを、
僕の視力は捉えることが出来なくなる。

その瞬間、
僕の視野からはあなたは消えることになるのだけれど、
勿論その瞬間からあなたは存在しなくなる訳ではなくて、
僕の現実を捉える感覚が、
そこで限界を超えたということなのです。

この瞬間を僕は大事にしようと思うようになりました。

視覚という感覚の限界があなたを見失う瞬間、
あなたの存在を確認するのは、
「あなたはそこにいる」という思いだけになります。

見えないものを見ようとする、それが遠見なのです。

④遠くへもっと遠くへ
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は、
形が朧にしか見えない闇の中に、
真の美を見出すという話で、
これは寺山修司の完全暗転にも繋がっているのですが、
視覚を奪う要素は闇以外にもあって、
それが距離なのです。
距離は闇と同じように視覚の限界を示し、
その彼方に見えないものを見せようとするのです。

時間が一方向にしか流れて行かない限り、
人生は全てを彼方に去らせて行くのですが、
それに抗う訳ではなく、
彼方に去るものに目を凝らして、
それが消え去る刹那に、
見えない何かを見たいと思います。

今日は雑談でした。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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