今村夏子「ピクニック」 [小説]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
天才今村夏子さんの処女作品集で、
「こちらあみ子」、「ピクニック」の2つの中編が収められていて、
文庫版にはもう1編ショートショートと言っても良いくらいの、
「チズさん」という短編がおまけについています。
今村さんはこの作品集を出して絶賛された後、
しばらく作品を書かず、
その後再び書いた作品ですぐに芥川賞候補になり、
寡作ながら殆ど全ての作品が文学賞を受賞、
という天才としか言いようのない華々しい経歴の作家です。
「こちらあみ子」と「ピクニック」は、
一途な女性を描いたという点では表裏一体という感じがありますが、
そのタッチはかなり異なっていて、
同じテーマのA面とB面のような感じがあり、
好みは結構別れるのではないかと思います。
僕は両方好きですし、
両方とも傑作だと思いますが、
より技巧的でドライな感じが強い「ピクニック」の方が、
初読から強い印象を受けましたし、
偏愛の対象になっています。
「こちらあみ子」は、
ちょっと西加奈子さんの「さくら」辺りに、
似ている感じがありますよね。
アーヴィング系列の途方もない悲劇が、
いつしか神話的色彩を放ち、ユーモアの輝きを持つ、
というようなお話ですが、
トランシーバーで交信する辺りは、
西加奈子さん過ぎるような気もします。
「ピクニック」は素材としてはよりありがちな感じで、
たとえば星新一さんも、
昔同じようなお話を複数残していますよね。
ただ、星さんが書くと、
ラストには必ずオチが付くので、
作品としての印象はかなり変わってしまうんですね。
今村さんのこの作品は、
オチも何もないのに、
最後に「ピクニック」になってしまう、
という意表を付いたラストが絶妙で、
あのピクニックには、
ちょっと別役実さんの「壊れた風景」を思い浮かべました。
これ、語り口が凄いんですね。
主人公は七瀬さんという孤独な女性なのですが、
それを同じ職場の「ルミたち」という、
数人以上の同僚の集団の視点から描いているんですね。
英語圏の技巧的な小説には、
3人称でこうしたパターンのものが結構あるんですね。
「世間の目」からある人物を描写する、というような方式で、
読者は何となく読んでいるうちに、
その主人公の目線で考えるようになるのですが、
そこが作者の付け目で、
主人公の意外な正体が、
最後に露わになったりするのです。
ただ、こういう技巧は日本語にはあまり向かないので、
あまり日本語の小説で、
こうした技巧を使ったものはなかったんですね。
しかもそれをかなり意識的にやっていて、
途中で「新人」という「ルミたち」に批判的な同僚が出て来るのですが、
ラストになると「仲間のひとり」という表現に、
いつの間にか変わっているのです。
今村さんの「星の子」が映画化されて、
酷い出来だったんですね。
それが同じようなスタッフで、
今度は「こちらあみ子」を映画化するという報道がありました。
絶対面白い映画にはならないので、
止めて欲しいな、と思いますね。
アニメなら場合によりありかと思いますが、
実写は駄目ですよね。
他にも幾らでも映画化に向いた作品はあるのに、
よりによって…と少し憂鬱になってしまいました。
「ピクニック」は、
「花束みたいな恋をした」に出て来るんですね。
この小説を読んで何も感じないような人間は自分達と分かり合えない、
というようなニュアンスの台詞を菅田さんが言うのですが、
これもちょっとどうなのかしら、と思いました。
映画はとても良かったんですよ。
良かったんですけど、
菅田将暉さんにそんなことを言われるとちょっと、
という感じがあるのですね。
あの映画は勿論、
菅田さんと有村さんが、
あまり恵まれているとは言えない若者を演じているのですが、
観客としては、
それは分かっていながらも、
やっぱり、売れっ子の2人のスターの映画として、
観ている部分があるでしょ。
それで「ピクニック」の主人公の絶望的な孤独と、
それを取り巻く「世間の目」の残酷な優しさを、
「分かる」と言われるのは、
どうしても違和感があるのですね。
そういう作り手の趣味を出し過ぎているところが、
あの映画のちょっと鼻につくところです。
人生も仕事も微妙なところに来ていて、
もうこれから何が出来るのかしら、
これから何を読んで何を見るのかしら、
とかと思うとしんどい気分になる今日この頃ですが、
なるべく1日1日を大切にしつつ、
後悔なく過ごしたいとは思っています。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごしください。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
天才今村夏子さんの処女作品集で、
「こちらあみ子」、「ピクニック」の2つの中編が収められていて、
文庫版にはもう1編ショートショートと言っても良いくらいの、
「チズさん」という短編がおまけについています。
今村さんはこの作品集を出して絶賛された後、
しばらく作品を書かず、
その後再び書いた作品ですぐに芥川賞候補になり、
寡作ながら殆ど全ての作品が文学賞を受賞、
という天才としか言いようのない華々しい経歴の作家です。
「こちらあみ子」と「ピクニック」は、
一途な女性を描いたという点では表裏一体という感じがありますが、
そのタッチはかなり異なっていて、
同じテーマのA面とB面のような感じがあり、
好みは結構別れるのではないかと思います。
僕は両方好きですし、
両方とも傑作だと思いますが、
より技巧的でドライな感じが強い「ピクニック」の方が、
初読から強い印象を受けましたし、
偏愛の対象になっています。
「こちらあみ子」は、
ちょっと西加奈子さんの「さくら」辺りに、
似ている感じがありますよね。
アーヴィング系列の途方もない悲劇が、
いつしか神話的色彩を放ち、ユーモアの輝きを持つ、
というようなお話ですが、
トランシーバーで交信する辺りは、
西加奈子さん過ぎるような気もします。
「ピクニック」は素材としてはよりありがちな感じで、
たとえば星新一さんも、
昔同じようなお話を複数残していますよね。
ただ、星さんが書くと、
ラストには必ずオチが付くので、
作品としての印象はかなり変わってしまうんですね。
今村さんのこの作品は、
オチも何もないのに、
最後に「ピクニック」になってしまう、
という意表を付いたラストが絶妙で、
あのピクニックには、
ちょっと別役実さんの「壊れた風景」を思い浮かべました。
これ、語り口が凄いんですね。
主人公は七瀬さんという孤独な女性なのですが、
それを同じ職場の「ルミたち」という、
数人以上の同僚の集団の視点から描いているんですね。
英語圏の技巧的な小説には、
3人称でこうしたパターンのものが結構あるんですね。
「世間の目」からある人物を描写する、というような方式で、
読者は何となく読んでいるうちに、
その主人公の目線で考えるようになるのですが、
そこが作者の付け目で、
主人公の意外な正体が、
最後に露わになったりするのです。
ただ、こういう技巧は日本語にはあまり向かないので、
あまり日本語の小説で、
こうした技巧を使ったものはなかったんですね。
しかもそれをかなり意識的にやっていて、
途中で「新人」という「ルミたち」に批判的な同僚が出て来るのですが、
ラストになると「仲間のひとり」という表現に、
いつの間にか変わっているのです。
今村さんの「星の子」が映画化されて、
酷い出来だったんですね。
それが同じようなスタッフで、
今度は「こちらあみ子」を映画化するという報道がありました。
絶対面白い映画にはならないので、
止めて欲しいな、と思いますね。
アニメなら場合によりありかと思いますが、
実写は駄目ですよね。
他にも幾らでも映画化に向いた作品はあるのに、
よりによって…と少し憂鬱になってしまいました。
「ピクニック」は、
「花束みたいな恋をした」に出て来るんですね。
この小説を読んで何も感じないような人間は自分達と分かり合えない、
というようなニュアンスの台詞を菅田さんが言うのですが、
これもちょっとどうなのかしら、と思いました。
映画はとても良かったんですよ。
良かったんですけど、
菅田将暉さんにそんなことを言われるとちょっと、
という感じがあるのですね。
あの映画は勿論、
菅田さんと有村さんが、
あまり恵まれているとは言えない若者を演じているのですが、
観客としては、
それは分かっていながらも、
やっぱり、売れっ子の2人のスターの映画として、
観ている部分があるでしょ。
それで「ピクニック」の主人公の絶望的な孤独と、
それを取り巻く「世間の目」の残酷な優しさを、
「分かる」と言われるのは、
どうしても違和感があるのですね。
そういう作り手の趣味を出し過ぎているところが、
あの映画のちょっと鼻につくところです。
人生も仕事も微妙なところに来ていて、
もうこれから何が出来るのかしら、
これから何を読んで何を見るのかしら、
とかと思うとしんどい気分になる今日この頃ですが、
なるべく1日1日を大切にしつつ、
後悔なく過ごしたいとは思っています。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごしください。
石原がお送りしました。